プロローグ
急峻な崖を背に深い森があった。天空に延びる崖を見上げると薄暗い空が広がっていた。天空からは大量の水の塊が黒い崖の岩肌を削りながら落ちていた。その巨大な滝は翔燕滝と呼ばれていた。翔燕滝の水の塊は滝つぼで衝撃音となり崖に反響され森に響いていた。
滝つぼを囲う岩場の上に丸太が長方形の箱型に組まれ、中には薪が入れてあった。丸太の箱の上に戸板が被せてあった。火あぶりの処刑台であった。
処刑台の四隅に松明が置かれ処刑台を赤い炎で照らしていた。赤い炎の傍で白の頭巾と長衣をまとった一人の処刑執行人が立っていた。手には火のついた松明を持っていた。処刑台の周囲は竹の柵が張られ集まった多くの民の侵入を阻んでいた。
処刑台の戸板には白い長衣を着た若く美しい娘・翠麗と白い布にくるまれた生まれたばかりの美しいおとこの子・泰燕が横たわり、縄で結わえられていた。
「なんと惨いことを……」「子に罪はないのに」と民の中での声があがっていた。
「だまれ! おまえたちも処刑されたいのか!」剣を持った王宮の役人が集まった民を威圧した。
だが、笑いを浮かべるものがいた。翠麗の継母・冷露と義姉・冷霜の二人であった。
冷露は欲にまみれた顔に薄笑いを浮かべていた。冷霜は妖しい美貌に不敵な笑みを浮かべていた。
民のざわめきが落ち着き、滝の音だけとなったとき、処刑が始まった。
「我が王子・泰明を騙し、不貞を働いた翠麗は、極悪非道の女である、八つ裂きにしても物足りぬ。すぐに殺しはしない。火にあぶられながら、子の泰燕もろともゆっくりと死の苦しみを味あうがよい。処刑を行え!」と王・泰言は処刑台の前に設けられた黄金の玉座の肘あてに手の平を当ててがっしりとした上半身を浮かし大きく見開いた目で翆麗を睨みつけて処刑執行人に命令した。
処刑執行人が処刑台に近づいていった。処刑人は頭巾で覆われた顔を翠麗と泰燕の顔に近づけた。
「あなたは……」翠麗が頭巾の中を覗いて静かに呟いた。処刑人の動きが止まった。
だが、すぐに泰言の怒声が響いた。「早く処刑を行え!」
処刑人が松明の火を処刑台の下に置いた薪にくべた。翠麗と泰燕の命が尽きようとしていた。
第一章 出会い
中国最古の王朝とされる殷の始祖である契が現れるよりはるか昔の話。現在の湖南省あたりの広大な山岳地帯を治める王国・泰が存在した。
歴代の王は知略と人心掌握に長けていた。隣国の脅威が迫る熾烈な状況においても三百年にわたる平和と安定した治世を行ってきた。しかし、現王・泰言は歴代王と比べると心が弱かった。隣国を恐れ、人民を信頼してはならぬという重臣の進言に泰言は心を揺さぶられた。泰言は隣国の敵と泰の国の民が王宮には容易には近づけなくするために急峻な崖の頂上に王宮を造った。泰言は下界の民の生活を顧みなくなった。民の声は泰言に届かなくなった。民の生活は乱れ始めた。
隣国は泰の征服を目論み、王の子・泰明が次の王にふさわしい器を持つか見極めようとした。だが、泰言の子・泰明は非凡であった。知性豊かで情に厚く民を想うこころのやさしい若き王子であった。
一方、泰明は秘かに恐れていた。それは、王・泰言から受け継いだ血だった。王・泰言は知性すぐれるものの、こころが弱い人であった。ゆえに、泰言は重臣の進言に惑わされた。急峻な崖の上への王宮の建設、そして王宮への日常物資の運搬など、民の重苦は意に介さぬ愚行を行ってしまったのだった。
泰明は、己の心優しさが、それは言い換えれば心の弱さであることを理解していた。いつしか臣下に隙を与えて、ひいては隣国に攻められて国を亡ぼすことを恐れていた。
泰明は、臣下の進言にまどわされぬように民の真の声を聞くため行商人に身を変えたびたび村を訪れていた。
泰明は王宮で着用する紫の長衣に替えて、民の作業着である黒の羽織と長襦袢をまとい、黒の頭巾を被って端正で気高い顔を隠していた。
泰明は背負子に塩や野菜など大量の食糧を背負って王宮への急で獣道のような狭くて荒い坂道を一人で登っていた。灰色の空には遠くから黒い雲が近づいていた。雷鳴が響いていた。泰明は道を急いだ。雨が降れば整備されていないこの山道は泥のようになり、歩けなくなるのだ。泰言は王宮建設の資材運搬用のために広くて、石で作った階段を備えた立派な道を造ったのだが、王宮の完成後、石階段をはがし、道を崩した。敵の来襲を恐れたのだ。
頂上の王宮まで五合目あたりに木でつくった小さな小屋があった。粗末だが雨宿りはできた。小屋の軒下では、先客が一人、長椅子に腰かけて俯いて休んでいた。華奢な体つきをしていた。そして長椅子には華奢な体の倍程も大きな荷が置いてあった。
「となりにすわってもいいですか?」泰明は遠慮がちに声を掛けながら近づいた。
「あ、どうぞ」先客は顔を上げて泰明を見て良く通る明るい声で泰明を手招きした。
泰明は先客の顔を見た。若い娘だった。娘の顔は泥で汚れていた。
「雨がふりそうですね」と言いながら泰明は娘の横に座り、荷を下ろした。
娘の着ていた黒の羽織の胸には赤や青などの鮮やかな模様の刺繍が彩られ、襟には一羽の小さな燕の刺繍があった。泰明がふと、娘の羽織の袖に視線を向けると、白い美しい手が見えた。娘の白い手には引っ掻いたような小さな生傷がたくさんあった。娘は泰明の視線に気づいた。
「毎日この荷を王宮まで運んでいるからね。山道は険しくて狭いから道を塞ぐ木の枝を手で払っていたら擦れて傷だらけ。王様はどうしてあんな高いところに王宮をつくっちゃったのかねえ」と娘がにこにこしながら快活な声で話を始めた。
娘は翠麗と名乗った。村の織物屋で働いていた。翠麗の父が遺した店だった。翠麗の父は、翠麗がまだ幼いころに病気で亡くなった。織物屋は継母が継いでいた。翠麗は義母と二人で暮らしていた。義姉は後宮に出仕していた。王宮からの注文を受けて翠麗が織物を王宮に届けていた。
翠麗は身の上話を終えると、静かに山の彼方を見つめた。しばらくすると、翠麗は詩を詠んだ。それは、巣にいるこどもの燕が親鳥を待つ心情を詠んだ詩だった。もの悲しさの中に、穏やかで明るい未来を予感するような詩だった。
「今の詩は翠麗が考えたの?」と泰明が尋ねた。
「うん。あなたを見たら父を思い出したの。そうしたら、詩が勝手に口から出てきたの」と翠麗が遠くの山を見ながら答えた。泰明は、翠麗の瞳から落ちる涙を見た。
「さてと、雨が降る前に織物を届けなきゃ」と翠麗は突然、荷を軽々と背負い、王宮に向かって歩きはじめた。
泰明は、急いで荷を背負い、翠麗を追いかけた。山道は王宮への侵入を拒むかのように、人が一人やっと通れる程に狭くなっていた。油断すると足を滑らせて崖の下に落ちてしまう。
王宮の正門が見えた。そのとき轟音が地面に轟いた。同時に、泰明の傍の木が煙を上げて縦に二つに裂けた。雷が木に落ちたのだ。そして木の根元が崩れた。泰明の足もとが崩れ始めた。泰明は体制を崩した。泰明の背負子が肩から外れ崖の下に落ちて行った。足元の地面が崩れ落ちた。その瞬間、泰明の手を翠麗が掴んだ。翠麗が必死の形相で泰明を引き上げようとする。
「翠麗、だめだ。君も落ちて死んでしまう。手を放せ!」と泰明が叫んだ。
「諦めたらだめ。わたしは絶対に諦めない」と翠麗は残った力を振り絞りながら泰明を叱咤した。
翠麗は両足を地面で踏ん張り、両手で泰明の手を引っ張った。徐々に泰明の身体が上がって来た。
「もう少し。諦めちゃだめ」と翠麗は己を鼓舞するように叫んだ。
翠麗が最後の力で泰明を引き上げることに成功した。
「やったー成功」と翠麗が叫んだ。
「助かった、ありがとう」と泰明が笑顔で礼を言った。
泰明と翠麗はしばし地面に倒れ込んでいた。泰明は翠麗の顔を見ると、翠麗の顔は泥と汗でぐちゃぐちゃになっていた。泰明は立ち上がり、翠麗に手ぬぐいを差し出した。翠麗が顔の汗を拭いた。翠麗の白く美しい顔が現れた。泰明はしばし翠麗の顔を見つめていた。
「あ、ごめん。わたし急ぐから。これ、今度返します」と翠麗は少し顔を赤らめると手ぬぐいを持って王宮に走って行った。
泰明は自分の名を翠麗に伝えられなかったのを後悔した。
泰明はその日から翠麗に出会うことはなかった。
第二章 詩の会
泰明が翠麗と会った日から五年が経った。
泰明は民の声を聞き続けた。民を想う心が良き治世を行い、そして、民を信頼すれば、おのずと民は王を信頼することを、泰明は父・泰言に繰り返し説いた。やがて、泰言の民を恐れる心は氷塊し、泰言は王宮を民の住む下界に遷都した。民は再び良き治世が行われる未来に歓喜した。そしてだれもが、泰明が次の王となることを確信した。
そんな中、泰言は、王宮で詩の会を再開させた。歴代の王が毎年春に王宮に民を招いて詩の会を開いていたが、泰言が山頂に王宮を構えて以降、詩の会は途絶えていたのだ。
春の陽光を浴びながら、急峻な崖の上から降り注ぐ翔燕滝の水しぶきが轟音と共に春の息吹を響かせていた。翔燕滝は、急峻な崖の山頂にかつて泰言が造った王宮を横切る川を源流としていた。
泰言が遷都した王宮はその翔燕滝を見上げる場所に造られていた。広大な王宮内の庭園には臣下とその家族、そして多くの民が集まり陽気な雰囲気に包まれていた。
庭園には翔燕滝の滝つぼから水を引いて幅一間(約1.8メートル)ほどの小川が幾重にも曲がりながらゆっくりと流れていた。小川には朱に塗られた小さな太鼓橋が掛けられ、小川沿いにたくさんの桜の木が並んでいた。
広大な庭園の奥に、庭園を一望できる巨大な正殿があった。正殿は純白の漆喰の外壁で囲まれ、屋根は褐色の瓦で覆われていた。そして鮮やかな朱色の太い柱が正殿を堅固に支えていた。
正殿の中央に二つの玉座があった。左の黄金の玉座に王・泰言が座り、右の玉座には后・蘭鈴が座っていた。王・泰言は黄金の長衣を纏い、頭には黒い皮に金の刺繍を施した豪華な冠を被っていた。そして弱々しい顔を隠すかのように口ひげと顎髭を生やしていた。后・蘭鈴は若かりし頃の上品な美貌は健在であった。真っ赤な長衣を纏い、胸には鮮やかな黄金色の刺繍が縫ってあった。黒く光沢のある美しい長い髪は黄金色のかんざしで留めてあった。
王・泰言の左後ろには五人の男の重臣たちが横一列に並んで座っていた。重臣の末席には、かつて泰言に『民を信じてはならぬ』と進言した仰芽もいた。泰言は心を乱す進言をも許す度量の大きさを臣下と民に示すため遷都したのちも仰芽を重用した。仰芽は細い体の背中を丸くして、首をせわしなく揺らして庭園に集う民の動きを追っていた。
后・蘭鈴の右後ろには後宮の一切を取り仕切る古参の女官長・暁花がたえず女官の動きを鋭い視線で追い、指示を飛ばしていた。暁花の正面には小机が置かれ、小さな木箱が置かれていた。
更に、王の玉座を右横から見る位置に泰言の側室・桜鈴が整った面長の顔に笑みを浮かべて座っていた。一方、后の玉座を左横から見る位置に桜鈴の息子の泰周と泰明が並んで座っていた。泰周は、端正な顔立ちに陰を持っていた。悪知恵の働く男であった。側室の子という生い立ちが、泰周を卑屈にした。
「あの木箱はなんだ?」と泰明は暁花の前に置かれた木箱を指さしながら、泰周に聞いた。
「詩の会の『お題』が入っているんだ。いままではお后様がご自分でお題をお持ちになっていたが、今回は、あの木箱の中にお題の書かれた桃色の短冊が入っている」と泰周が答えた。
正殿の正面には、玉座から見下ろす高さに造られた舞台があった。縦横三間(約5.4メートル)程の四角い舞台には堅い木の板が敷かれ、正殿から見て左右に登り階段が設けられていた。
舞台上に五人の黒い長衣をまとった男たちが笛や琵琶などの楽器を手に持って舞台に上がってきた。そして、男たちに続き、赤い長衣をまとった三人の若い娘が舞台に上がった。男たちが雅楽を奏ではじめると、三人の娘たちが春の豊作を感謝する踊りを舞った。
庭園の散策をしていた臣下の家族や招待された民が、雅楽に誘われて舞台に大勢集まった。舞が終わると三人の娘たちと入れ替わりに、色とりどりの長衣をまとった十人の詩の詠み手が舞台にあがった。舞台には、臣下の娘や息子たちに交じって、民の中から選ばれた者も舞台に上がっていた。
王・泰言は玉座から立ち上がり、詩の会の開始を告げた。
女官長・暁花が詩の会の手順を説明し始めた。
「優れた詩を詠んだものは蘭鈴様から褒美の品を賜る。日ごろの鍛錬の成果をお見せするがよい。さて、詩の会の手順を説明する。蘭鈴様から賜ったお題をわたしから皆に伝え、すぐさま庭園の小川に笹舟を流す。笹舟が目印として赤い布の巻かれた桜の木に流れ着くまでに詩を短冊に書くのじゃ。それまでに詩を書けぬ者は失格とする」と暁花が説明を終えた。
「では始める」と暁花が言うと、暁花は正面に置いた木箱の蓋をうやうやしく開けた。中には『お題』が書かれた桃色の短冊が納めてあった。
「蘭鈴様から賜ったお題は『春』じゃ」と暁花が言い、右手をかざして笹舟を流す合図を女官に送った。
暁花の合図を受けて、小川の傍に立つ一人の女官が笹舟を小川に流した。ゆっくりと笹舟が流れはじめた。
「あの桜の木まではいかほどの距離であろうか」と泰周が隣に座る泰明に尋ねた。
「曲がりくねっているから正確にはわからないが、半町(約54メートル)ぐらいだ。水の流れは緩やかだが、詩を考え短冊に書くには、時は十分ではありますまい」と泰明は笹舟が目印のついた桜の木まで流れる時間を見積もった。
泰明の云う通り、笹舟はすぐ赤い布を巻いた桜の木に到着した。そこに立っていた女官が手を振って暁花に合図を送った。
「はい、それまで!」と暁花が詠み手に指示した。
詠み手の内、五人が書き終えることができずに失格となった。残った五名の短冊が暁花に集められた。
「それでは、詠みます」と暁花が高らかに言った。
短冊が四つ詠まれた。
「普通だな。心に強く響く詩ではない」と詠み終わった四つの詩について泰明が批評した。
「詩の会を長い間やっていなかった。詩を詠む力が弱っているようだな」と泰周が泰明に同調しながら頷いた。
最後の詩が詠まれた。皆が一様にその詩に耳を澄ました。
「なんという心地よい詩でしょう。燕の子が親を待つ気持ち、不安と寂しさ、もの悲しさの中にも、巣立ちに心が高ぶる希望が見事に表現されています。まさしく春にふさわしい詩です」と蘭鈴が笑みを浮かべながら言った。
泰明はその詩を聞き覚えていた。五年前に山小屋で翠麗が口ずさんだ詩だった。
翠麗は命の恩人だった。泰明は今すぐに翠麗に会いたいと思った。五年間探したが行方を掴めなかったのだった。
褒美を賜る者は直ぐに決まった。
「冷霜」と暁花が褒美を受ける者の名を呼んだ。
冷霜はうやうやしく后・蘭鈴に近づき褒美の品の黄金のかんざしを受け取った。冷霜の妖しい美貌は、正殿の重臣や庭園にいる男たちの視線を釘付けにした。だが、冷霜は一人の男を除きどの男の視線にも絡もうとしなかった。冷霜が視線を絡めたのは泰明だった。
「あの者を知っておるか?」と泰明が泰周に尋ねた。
「さあ、初めて見る顔だな」と泰周は冷霜の視線の先にある泰明をにがにがしい顔でみながら答えた。
泰明は考えていた。あの詩は翠麗が詠んだ詩だった。翠麗は義姉が王宮に出仕しているといった。冷霜が義姉だろうか。冷霜は翠麗の詩を盗作したのだろうか?泰明の疑念が膨らんでいた。
詩の会から数日後、冷霜からの恋文が重臣を介して泰明に届いた。女官でありながら王子に恋文をよこすなど尋常ではない。冷霜は美貌を武器に重臣を取り込んだのであろう。泰明は冷霜の恐ろしさを感じた。だが、泰明は、詩をだれが作ったのかを確かめるために、冷霜が泰明に近づいてくるのを良い機会と考えた。泰明は冷霜の誘いに乗った。
泰明は冷霜を王宮の執務室に呼び出した。執務室であれば人に見られても怪しまれることはないと判断した。
「どういうつもりだ。わたしに恋文を送るとは」と泰明が冷霜に冷たく言った。
「恋文に書いた通りです。わたしは泰明様を愛しています」と冷霜は甘えた声を出した。
「率直に尋ねる。詩の会で詠んだ詩は君がつくったのか」と泰明が厳しい口調で問いただした。
「え?」と冷霜が口を開けたまま、泰明を見つめた。
「わたしは、正直でない人間には容赦しない」と泰明が強く言った。
「どうしてそんなことをおっしゃるのですか」冷霜の声が震えていた。
「わたしは、五年前にある者が同じ詩を詠むのを聞いた。わたしはその者の真の心が詩になってあらわれたと思った。あの詩は、その者が自然と口ずさんものだった。だからわたしは、感情を揺さぶられた。五年経った今も忘れていない」と泰明が言った。
「ならば、その娘が嘘をついているのよ」と冷霜が声を震わせた。
「では、もう一度、詩を詠んでみろ」と泰明が詰め寄った。
「……」冷霜が言いよどむ。
「どうした、もう忘れてしまったのか。自分で作った詩を詠めないのか。それにその詩を詠んだのが娘であるとなぜ知っているのだ。わたしは、娘とは一言も言っていないぞ」と泰明が追い打ちをかけた。
「あんまりですわ。そもそも詩の会の席で初めて『お題』知ったのです」と冷霜は涙を流し、執務室を出て行った。
冷霜が嘘をついたのは間違いない。だが、確たる証拠がない。
一方、泰明は翠麗の身の上を案じた。冷霜が翠麗の義姉であるのならば、翠麗にひどい仕打ちをしかねないと考えた。泰明は秘かに冷霜の身辺を調べさせた。予想は的中していた。冷霜は翠麗の義姉だった。そして、翠麗は義母の冷露と一緒に住み、冷露からひどい扱いを受けていた。内戦の激しい隣国に織物を密輸させていたのだ。隣国では内戦のため物資が不足していた。兵隊の衣服など必需品が高値で売れたのだ。翠麗は命を危険にさらしていた。隣国との商いは犯罪行為だった。捕まれば、まちがいなく処刑される。泰明は悩んだ。冷露を捉えれば、翠麗も罪を問われることになる。かつて、泰明の命を救った翠麗を放っておいてはいられなかった。
すぐに泰明は紫の長衣をまとい、二人の臣下をお供に着けて翠麗の店を訪れた。翠麗の父が遺した織物屋は雑貨商に名を変えていた。隣国への密輸がばれないように、店の名を変えたのだった。すべて、冷露の仕業だった。
「翠麗、迎えに来た」と泰明が店の前で叫んだ。
冷露が店から慌てて飛び出してきた。真っ赤な長衣を身に着けていた。胸には金糸の豪華な刺繍が施されていた。顔には猜疑心と欲にかられた心が形相に如実に表れていた。
「翠麗はわたしの娘です。どういうことでしょうか」と冷露が泰明に尋ねた。
「翠麗はわたしの命の恩人です。そして、わたしにはなくてはならない人なのです。わたしは、翠麗と結婚したいのです」と泰明が高らかに答えた。
「あいにく、翠麗は商売に出ていてここにおりません」と冷露は目を吊り上げながらそわそわしながら答えた。
「そうか、では日を改めよう。翠麗はわたしの大事な人である。ゆくゆくはわたしの后となる。翠麗の身体になにかあってはいけないのだ。絶対に忘れるでないぞ」と泰明は冷露に命じた。
泰明は引き上げた。これで、翠麗が危険な目にあうことはないであろうと考えた。
冷露は密輸の商売ができなくなり、翠麗はいままでのようなひどい扱いをうけることはなくなった。
それから一年後、翠麗は泰明のやさしい心に魅かれ求婚を受け入れた。そして翠麗はご懐妊した。
第三章 不貞の子
<密通>
青白い月光が後宮の一室の御簾の隙間を通り、冷霜の美しい裸の背を照らしていた。泰周が冷霜の豊かな胸をまさぐっていた。
「泰明様は、詩の会のお題を泰周様が盗んだと疑っておるようです」と冷霜が泰周の耳元で呟いた。
「おまえは翠麗の日記の詩を盗み見た。そして、おれは暁花の部屋に忍び込んでお題を盗み見た。だが見た証拠など存在しない。だまっていればよいのだ」と泰周は強がって言った。
「泰明様は頭の良いお方です。いつかばれると思うと怖いのです」と冷霜が言った。
「おまえは泰明が欲しかったのであろう。詩の会で、おまえが泰明に視線を絡めていたのを忘れてはいないぞ」と泰周が嫉妬まじりのいやみな言い方で冷霜をなじった。
「わたしの心には泰周様しかおりません」と冷霜が甘く囁いた。
「そうかな?泰明が翠麗と結婚し、おまえはさぞかし嫉妬に狂っておるのではないか?」と泰周は意地悪く言った。
「泰明様を失脚させたいのです」と冷霜が泰周に言った。
「良い手があるのか」と泰周が尋ねた。
「翠麗のおなかの子が不貞の子だとしたら……」と冷霜が不気味に笑いながらことばを途中で切った。
「確たる証拠がなければならんが……」と泰周が言いよどんだ。
「策があるのですか?」と冷霜が言った。
「王家には秘密がある。それは王の血を引く疑いようのない証拠となる」と泰周が答えた。
「証拠を消せばよいのですね」と冷霜が言った。
「ここだけの話だ。他言するな」と泰周は言うと、王家の秘密を打ち明けた。
<うわさ>
民の間で、「翠麗のおなかの子は不貞の子だ」とのうわさが流れていた。
王・泰言は正殿の中にある『王の間』にて泰明と二人で話をしていた。
「翠麗のおなかの子についてよからぬ噂が流れておるが、それは真なのか?」と泰言が厳しい口調で泰明に尋ねた。
「根も葉もない噂にございます」と泰明が答えた。
「わしは民を信じて下界に降りて王宮をつくった。そして、民の出身である翠麗を信じた。だから、おまえと翠麗の結婚を許した」と泰言はゆっくりと語った。
「その通りでございます。民を信ずることに決して間違いはございません」と泰明が言った。
「ならば、なぜ民はわしを惑わすような噂を口にしておるのじゃ」と言った泰言の口元が悔しさを表すようにゆがんでいた。
「翠麗の懐妊を快く思わぬ者が噂を広めたのでしょう」と泰明が答えた。
「心あたりがあるのか」と泰言が言った。
「はい。臣下に探らせます」と泰明が言った。
「ならば、仰芽に頼むとよい。仰芽は民を信用しとらん。民のうわさのもとをたどるには仰芽が適任であろう」と泰言が言うと、泰明が頷いた。
「噂は翠麗にも届いているのか?」と泰言が心配しながら言った。
「はい。しかし、翠麗は心の強い女です。そして、決して諦めぬ強さを持っています。嘘の噂に負ける女ではございません」と泰明が強く言いながら泰言の目を見据えた。
「かつて、心の強さがおまえに欠けておった。わしの血を引き継いだ」と泰言が言った。
「翠麗がわたしに心の力を与えたのです。翠麗はわたしになくてはならない存在なのです」と泰明が力強く言った。
「おなかの子がおまえの子であるという確たる証はないものか」と泰言が泰明に尋ねた。
「王家の秘密がその証になります」と泰明が答えた。
「そうか。それは動かぬ証となろう」と泰言が頷いた。
<秘薬>
激しい雨の降る真夜中、村のはずれの小屋にろうそくの赤い火が揺れていた。赤い火が、二つの人影を小屋の内壁に映していた。
「幻幽よ、秘薬はできたかい?」と冷露が妖術師の幻幽に聞いた。
「できているよ。これだ。秘伝のかぎりをつくした。出産までに間にあったぞ」と黒頭巾を被った幻幽は、小さな白い薬包を指さしながら、醜悪な顔に薄笑いを浮かべながら答えた。
「この秘薬を翠麗に飲ませれば、生まれてくる子の瞳を濁らせることが出来るんだね?」と冷露が白い薬包を手に取りながら幻幽に確かめた。
「生まれてくる子が王家の血を引いていれば、左の瞳が王を表す黄金色、右の瞳が民の血を表す赤色が出現するんだったな。その秘薬は、生まれてくる赤ん坊の瞳を濁らせる。だが、その効果は長くは持たないぞ。せいぜい一日だ」と幻幽が念押しした。
「ああ、わかったよ」と冷露が答えた。
「うまくやるんだな。何度もいうが、効果は一日だ」と幻幽が繰り返した。
「もちろんさ。生まれた赤ん坊は、その日の内に死ぬことになる。赤ん坊の瞳が黄金色と赤色に輝く前にね。そして翠麗と一緒に死ぬ」冷露は冷たく笑い、金貨の入った小さな麻の巾着袋を幻幽に手渡すと小屋を出た。
<出産>
翠麗のおなかの子が大きくなってきた。後宮では翠麗の出産に向けた準備が進められていた。そして王家の秘密を守るために、出産に立ち会う女官は特に信頼できる五人が選ばれた。選ばれた女官の中に、冷霜がいた。
五人の女官たちを前にして、暁花が重々しく言った。
「王の血を継ぐものは、生まれて七日間、瞳に高貴な光が宿る。おまえたちはその光を見つめてはならない。そして、決して他言してはならない。他言したものは死罪となる。忘れるでないぞ」
女官たちは翠麗への食事には万全の注意を払った。翠麗に出す食事はすべて女官が毒味していた。二人の女官が見守る中、一人の女官が毒味し、その場で、翠麗に食事を提供した。夕飯の毒味は冷霜がおこなった。冷霜は膳に載った主菜、副菜、汁物などすべての食事を少しずつ口にし、毒が入っていないのを確認して、翠麗に提供した。
翠麗は膳のものを残らずに食べて就寝した。
だが、この日、翠麗は台所から膳を運ぶ途中で、人目がない一瞬の隙を見て、幻幽の秘薬を汁物に入れた。
幻幽の秘薬の効果は、翠麗のおなかの子のみを狙って調合されていた。だから、毒味した冷霜も、食事をした翠麗にも、毒の効き目は表れなかった。だが、毒は翠麗のおなかの子を確実に襲っていた。
翠麗のおなかの子は順調に成長しているかに見えた。出産は目前だった。
第四章 裁きの日
<王の間の決断>
黒い雨雲が王宮の上に立ち込める早朝に翠麗は赤ん坊を産んだ。おとこの子だった。その子の瞳は鈍く灰色に濁っていた。
王・泰言は、すぐさま泰明と泰周、重臣、そして暁花を正殿の王の間に集め、翠麗と生まれた子の処分について話あった。
「翠麗は王様と泰明を騙した重罪人です。死刑しかありえません」と泰周は泰言に強い口調で言った。
「わたしも泰周様の意見に賛成です。王様を騙せばどうなるかを民に知らしめるのです。民の目の前で、翠麗を火あぶりにしましょう」と黒い立派な口ひげを生やした重臣が泰周の意見に賛同した。
「翠麗の不貞の証拠もあるぞ」と泰周は二通の手紙を手に持っていた。
泰周は興奮しながら続けて言った。
「一通は不貞の相手だ。隣国の兵士だ。もう一通は翠麗がその兵士に送ろうとした手紙だ」
「その手紙は誰から受け取ったのだ」と泰言が言った。
「冷霜からだ。翠麗の継母の冷露の家に隠してあった」と泰周が答えた。
泰周は、王の間の外に控えていた冷霜を呼んだ。
「あの手紙は確かに翠麗が書いたものなのだな」と泰周が冷霜に尋ねた。
「間違いありません。あの字は翠麗の字です」と冷霜が答えた。
泰明は泰周の手にある二通の手紙を奪い取ると読み始めた。翠麗が送ろうとしていた手紙の相手の男の名は張李と書いてあった。
手紙には、翠麗が張李に会えない心情を綴ってあった。泰明はこの手紙を読み終えると、しばらく考え込んでから口を開いた。
「冷霜よ、おまえは翠麗の出産に立ち会っておったな。生まれたての赤ん坊の瞳はどうであった?」と泰明が冷霜に聞いた。
「暁花様からは、赤ん坊の瞳を見つめてはならぬと厳しく言われておりました。でも、見えたのです。左右の瞳が黄金色と赤色ではなく、灰色に濁っておりました。間違いありません」と冷霜が答えた。
暁花が頷いていた。
「泰明よ、釈明することはあるか?」と王・泰言は沈痛な表情で泰明に尋ねた。
「ありません。翠麗は重罪人です。即刻火あぶりにしてかまいません。そして、我が子・泰燕は、生きていれば必ず禍根を残すことになります。翠麗と一緒に葬ってください」と泰明は毅然とした態度で答えた。
「子の名を考えておったのだな」と泰言が言った。
「今、考えました」と泰明が言った。
「今?」と泰言がいぶかった。
「翠麗と始めてあった日、翠麗は燕の子どもの心情を詩にしました。そして、翠麗は燕に将来の夢を託していたのです。わたしは、生まれてくる子には燕の一文字を付けることに決めていたのです」と泰言は泰周を睨みながら答えた。
泰周は卑屈な笑いを浮かべながら、処刑は速やかに行うべきと主張した。
翠麗と泰燕の処刑は翌日の早朝と決まった。民にお触れが出された。翠麗と泰燕は牢獄に入れられた。泰明は翠麗と泰燕に会うことを許されなかった。
<火あぶりの刑>
早朝の薄暗い中、翔燕滝の滝つぼの河原に設けられた丸太で組んだ火あぶりの処刑台の上には翠麗と泰燕が縄で縛り着けられていた。処刑台の脇には、白い頭巾を被り、白い長衣を着た処刑執行人が火のついた松明を持っていた。
処刑台のすぐ近くには玉座が一つ設けられ泰明が座っていた。玉座の左横には五人の重臣たちが一列に並んで立っていた。玉座の右横には泰周と女官長・暁花が立っていた。泰明の姿はなかった。そして、暁花の後ろには翠麗の継母・冷露と義姉・冷霜がいた。
また、処刑台を遠巻きに大勢の民が集まっていた。竹で編んだ策が設けられ刀を持った役人たちが民の侵入に備えていた。
王・泰言が処刑執行人に処刑の開始を命令した。
処刑執行人は処刑台に近づくと薪に松明の火を移した。そして翠麗と泰燕の顔を見た。処刑執行人は泰明であった。
泰明は声を細めて翠麗に言った。
「今から王家の秘密を確かめる」
翠麗がだまって頷いた。
泰明は、松明の火で泰燕の右の二の腕をあぶった。
泰燕の泣き声が上がった。
「やめて」翠麗が叫んだ。
泰明はかまわずに泰燕の二の腕を火であぶり続けていた。
泰燕の白い肌がじりじりと焼けていった。処刑台の薪の火が徐々に広がっていた。
「でたぞ」と泰明が大きな声で叫んだ。
泰明は手に持った松明を投げ捨てると、腰にさした短剣を鞘から抜いて翠麗と泰燕を縛っていた縄を切断した。短剣を腰の鞘にもどした泰明は、右腕の中に泰燕を抱えた。そして、左手で翠麗を処刑台から引っ張り下ろした。
泰明は泰燕を抱き、翠麗の手を引きながら、王・泰言が座る玉座めがけて走り出した。民が歓喜の声を上げて、泰明たちが走るのを見つめていた。
泰明たちが玉座にたどり着いた。
「泰明!どういうことだ!」と泰言が大声で叫んだ。
「泰明、おまえ、何をやっているのかわかっているのか」と泰周は怒りをあらわにして言った。
「これが、王家の証でございます」と泰明は、泰燕の二の腕を見せた。
泰燕の右の二の腕には、王家の紋章である『燕』の模様の痣が赤く浮き上がっていた。
「松明の火を使って王家の紋章を浮かびあがらせたのです」と泰明が言った。
「これは、まさしく王家の証じゃ」と泰言がいった。
「おれはそのような王家の紋章の話は知らないぞ」と泰周が叫んだ。
「王家の紋章の痣は、王家を継ぐ素質のあるものだけにあらわれる。そして、そのものだけがこの秘密を知っておる」と泰言が言った。
「おれには、王家を継ぐ素質がないということか」と泰周が悔しさをにじませていた。
「ちょっと待ってください。王家の瞳はどうなんですか。泰燕には生まれたときに
黄金色と赤色の瞳は現れなかった」と冷霜が泰言に言った。
「冷霜よ、だれがおまえに瞳の色のことを教えたのじゃ?」と暁花が冷霜に尋ねた。
「暁花様からです」と冷霜が不思議そうな顔をして答えた。
「確かにわたしは王家の瞳のことをおまえに教えた。だが、『高貴な光』と言ったはずだ。瞳の色は教えてはいない」と暁花が言った。
「泰周よ、おまえが瞳の色のことを冷霜に教えたんだな。おれは、おまえと冷霜が密通していることを知っているぞ。詩の会でおまえが言ったことばを覚えているか?おれが『お題』を入れた箱のことを尋ねたら、おまえは短冊の色が桃色であることを知っていた。短冊の色は后が一人でお決めになり、だれにも伝えないのが習わしだ。なぜ、おまえは短冊の色が桃色であることを知っていたのか?おまえは詩の会が始まる前に『お題』を盗み見したからだ。そして、冷霜に教えた。しかも、あろうことか冷霜は翠麗の詩を盗用した」と泰明が泰周を問い詰めた。
泰周はだまったままだった。
泰明は仰芽に聞いた。
「不貞の噂を流した者はだれだかわかったか?」
「この者です」と仰芽は、両手首を縄で繋がれた幻幽を泰明の前に引き出した。
「行方を捜しておりました。ここに現れるとはばかな奴だ」と仰芽が言った。
「幻幽よ、おまえはだれに頼まれて嘘の噂を流したのだ」と泰明が問い詰めた。
「冷露だ」と幻幽は冷露を指さして答えた。
「なにを言っているんだ。不貞の証拠の手紙があるじゃないか」と冷露が言った。
「翠麗の筆跡はまねることができても、心の内をまねることはできまい」と泰明が言った。
「泰周よ、不貞の証拠とやらの手紙をよく読んでみろ」と泰明が言った。
「どういうことだ」と泰周が言った。
「その手紙には、『諦めた』と三度使われている」と泰明が言った。
「ああそのとおりだ。張李に会うのを諦めた、と書いてあるな。それがどうした。翠麗は結婚し、隣国に行けなくなって不貞の相手に会えなくなったのだ。当然だろう」と泰周が答えた。
「翠麗は決してあきらめない強い心を持っている。おれは、翠麗の強い心に生かされ、助けられたのだ。翠麗が『諦めた』と言葉にすることはありえない」と泰明が強く言った。
泰言は翠麗を見た。翠麗は、そうだと言わんばかりに強く頷いた。
<王家の血を継ぐ者>
泰周は東の地平線を見た。そして、泰明の腕の中で泣く泰燕の瞳に視線を向けた。
泰周はおもむろに己の腰にさした短剣を抜き取ると、泰明を威嚇し、片方の手で泰明から泰燕を奪い取った。泰周は泰燕を抱え燃え盛る処刑台に走った。
「泰燕を火あぶりにするつもりだ!」と泰明が叫び、泰周を追いかけた。
泰周が泰燕を処刑台にまさに放り投げようとした瞬間、泰明の短剣の切っ先が泰周の背中を切り裂いた。背中の傷は深くはなかったが、泰周はその場で両膝をついてそれ以上動けなくなった。泰明は泰燕を取り戻した。遅れて翠麗がやって来た。
地平線から太陽の光がさした。
泰明と翠麗は泰燕の顔を見た。泰燕の瞳の濁りが消えていた。
「瞳が輝いたぞ!」と泰明が玉座に座る泰言に向かった叫んだ。
泰明と翠麗は、玉座に座る泰言の腕の上に、泰燕をうやうやしく差し出した。
「まさしく、王家の血を引く証だ。黄金と赤の瞳、そして紋章の痣が現れた。泰燕はまぎれもなく王家の血を継いでおる。泰明の子である」と泰言は言うと、泰燕を両手に抱え、高らかと持ち上げた。
重臣、暁花、そして民から歓声が上がった。
<父の遺したもの>
泰周はすべての罪を認めた。不貞の証拠とされた手紙は冷露と泰周が書いた偽物だった。泰周は王宮を追放された。重臣の中には厳罰を処すべきとの意見もでたが、泰明の願いで処刑は免れた。泰明と泰周がこどもの頃、二人は仲が良く、いつも一緒に遊んでいた。だが、側室の子という負い目が徐々に泰周を卑屈にし、やがて宮中の女と遊び惚けるまでに堕落してしまった。泰明は泰周を不憫に感じたのだった。そして、泰明には打算もあった。隣国の脅威に対して泰周の悪知恵の才覚がいつか役に立つと泰明は考えたのだ。
幻幽は瞳を濁らせる秘薬のつくりかたを供述した。幻幽は、処罰を免れた。仰芽が幻幽の秘薬つくりの豊富な知識を利用したいと考えたのだった。
冷露と冷霜の処分については翠麗が下すことになった。
冷露と冷霜の二人が手縄をされて、王の間に連行されてきた。
二人の正面には泰言、泰明、翠麗、五人の重臣、暁花が並んでいた。
翠麗がおもむろに一歩前に出ると、冷露と冷霜に向けてゆっくりと話始めた。
「冷露、冷霜の二人には、わたしから奪った大切なものを返してもらいます」と翠麗が二人にかたりかけるような口調で言うやいなや、二人に命令した。
「冷露!おまえは、わたしの父が遺したものをすべてわたしに返しなさい」と翠麗は冷露に厳しく命令した。
「冷霜!おまえは、わたしの父の大切な思い出を返しなさい」と今度は冷霜に命令した。
「翠麗様。父が遺した大切なものとはなんでございましょうか?」と冷露が翠麗にあいそ笑いをうかべながら尋ねた。
「冷露、冷霜!己の心に問うが良い。三日の猶予をあたえる。すべて返さぬ場合は、火あぶりの刑に処する」と翠麗が告げると、そのまま王の間を出ていった。
冷露と冷霜の二人は厳重に監視されながら、翠麗に返すものを死に物狂いに考え、準備を続けた。三日後、父の遺した店、財産、家財道具、着物などすべてを翠麗に返した。
無一文となった二人は再び王の間に連行された。
「わたしから奪ったものはまだわたしには届いておらぬぞ」と翠麗が冷たく二人を問い詰めた。
「翠麗様。三日間考えましたが思いつきませぬ」と冷霜が震える声で答えた。
「出来ぬなら火あぶりだ」と翠麗が抑揚のない声で言った。
「お許しくださいませ。翠麗様に嫉妬し、悪行を心から悔やんでおります。どうかお許しください」と冷霜が震えながら泣いた。
「翠麗様。わたしも欲にまみれ、翠麗様にひどい扱いをしたことを悔やんでおります。許してください」と冷露が泣き崩れた。
すると翠麗は大きく肩を上下に動かして深呼吸して言った
「ざまぁみろ。ようやく心から悔いたようだな。二人から償いのことばを聞けることを信じていた。すっきりした!」と翠麗が笑いながら二人に向けて言った。
「父の遺した大切なものはわたしの心の中にあったのよ。それは人を信じる気持ち。わたしは心を強くして信じる心を隠してきた。そうしないと生きてこられなかったから」と翠麗は重い荷を下ろしたように軽やかに言った。
「もう一つは、詩よ。わたしの詩。義姉さんが詩の会で詠んだ詩よ。わたしは義母さんに連れられて詩の会を見ていた。義姉さんが得意げにわたしの詩を詠んでいたのいまでもはっきりと覚えているの。とても悔しかった。詩は父のやさしさを詠んだ詩。そして、泰明様との思い出の詩でもあるの。わたしから盗んだ詩を即刻返してね。お后様から賜った黄金のかんざしも返すのよ」と翠麗が一気に畳みかけて言った。
「わかりました。どうぞお許しください」と冷霜が深々と頭を下げた。
翠麗は、冷露には父の遺した店と生きていけるだけの財産を分け与えた。冷霜は女官の役を解かれ後宮を去った。
エピローグ
五年後、冷霜は冷露とともに父の遺した店で商いをしていた。泰周は修行僧となって諸国を巡っていた。幻幽は、仰芽の下で民の病気や傷を癒す秘薬つくりに励んでいた。
王・泰言は、泰明に王位を譲った。玉座には泰明と翠麗が座った
泰燕は、すくすくと育ち、品のある美しい男子に成長しつつあった。そして、わずか五歳にして詩を詠み知性の片鱗がうかがわれた。
泰明と翠麗は、やさしい心と強い心でお互いを補完し高めあい、長きにわたって良き治世を行った。
詩の会は春の行事として続けられていた。正殿の正面の舞台に詠み手がそろい、翠麗が詠む詩を聴くのが恒例となっていた。
その詩は、かつて、翠麗が初めて泰明と出会った山小屋で詠んだ思い出の詩だった。
<了>
急峻な崖を背に深い森があった。天空に延びる崖を見上げると薄暗い空が広がっていた。天空からは大量の水の塊が黒い崖の岩肌を削りながら落ちていた。その巨大な滝は翔燕滝と呼ばれていた。翔燕滝の水の塊は滝つぼで衝撃音となり崖に反響され森に響いていた。
滝つぼを囲う岩場の上に丸太が長方形の箱型に組まれ、中には薪が入れてあった。丸太の箱の上に戸板が被せてあった。火あぶりの処刑台であった。
処刑台の四隅に松明が置かれ処刑台を赤い炎で照らしていた。赤い炎の傍で白の頭巾と長衣をまとった一人の処刑執行人が立っていた。手には火のついた松明を持っていた。処刑台の周囲は竹の柵が張られ集まった多くの民の侵入を阻んでいた。
処刑台の戸板には白い長衣を着た若く美しい娘・翠麗と白い布にくるまれた生まれたばかりの美しいおとこの子・泰燕が横たわり、縄で結わえられていた。
「なんと惨いことを……」「子に罪はないのに」と民の中での声があがっていた。
「だまれ! おまえたちも処刑されたいのか!」剣を持った王宮の役人が集まった民を威圧した。
だが、笑いを浮かべるものがいた。翠麗の継母・冷露と義姉・冷霜の二人であった。
冷露は欲にまみれた顔に薄笑いを浮かべていた。冷霜は妖しい美貌に不敵な笑みを浮かべていた。
民のざわめきが落ち着き、滝の音だけとなったとき、処刑が始まった。
「我が王子・泰明を騙し、不貞を働いた翠麗は、極悪非道の女である、八つ裂きにしても物足りぬ。すぐに殺しはしない。火にあぶられながら、子の泰燕もろともゆっくりと死の苦しみを味あうがよい。処刑を行え!」と王・泰言は処刑台の前に設けられた黄金の玉座の肘あてに手の平を当ててがっしりとした上半身を浮かし大きく見開いた目で翆麗を睨みつけて処刑執行人に命令した。
処刑執行人が処刑台に近づいていった。処刑人は頭巾で覆われた顔を翠麗と泰燕の顔に近づけた。
「あなたは……」翠麗が頭巾の中を覗いて静かに呟いた。処刑人の動きが止まった。
だが、すぐに泰言の怒声が響いた。「早く処刑を行え!」
処刑人が松明の火を処刑台の下に置いた薪にくべた。翠麗と泰燕の命が尽きようとしていた。
第一章 出会い
中国最古の王朝とされる殷の始祖である契が現れるよりはるか昔の話。現在の湖南省あたりの広大な山岳地帯を治める王国・泰が存在した。
歴代の王は知略と人心掌握に長けていた。隣国の脅威が迫る熾烈な状況においても三百年にわたる平和と安定した治世を行ってきた。しかし、現王・泰言は歴代王と比べると心が弱かった。隣国を恐れ、人民を信頼してはならぬという重臣の進言に泰言は心を揺さぶられた。泰言は隣国の敵と泰の国の民が王宮には容易には近づけなくするために急峻な崖の頂上に王宮を造った。泰言は下界の民の生活を顧みなくなった。民の声は泰言に届かなくなった。民の生活は乱れ始めた。
隣国は泰の征服を目論み、王の子・泰明が次の王にふさわしい器を持つか見極めようとした。だが、泰言の子・泰明は非凡であった。知性豊かで情に厚く民を想うこころのやさしい若き王子であった。
一方、泰明は秘かに恐れていた。それは、王・泰言から受け継いだ血だった。王・泰言は知性すぐれるものの、こころが弱い人であった。ゆえに、泰言は重臣の進言に惑わされた。急峻な崖の上への王宮の建設、そして王宮への日常物資の運搬など、民の重苦は意に介さぬ愚行を行ってしまったのだった。
泰明は、己の心優しさが、それは言い換えれば心の弱さであることを理解していた。いつしか臣下に隙を与えて、ひいては隣国に攻められて国を亡ぼすことを恐れていた。
泰明は、臣下の進言にまどわされぬように民の真の声を聞くため行商人に身を変えたびたび村を訪れていた。
泰明は王宮で着用する紫の長衣に替えて、民の作業着である黒の羽織と長襦袢をまとい、黒の頭巾を被って端正で気高い顔を隠していた。
泰明は背負子に塩や野菜など大量の食糧を背負って王宮への急で獣道のような狭くて荒い坂道を一人で登っていた。灰色の空には遠くから黒い雲が近づいていた。雷鳴が響いていた。泰明は道を急いだ。雨が降れば整備されていないこの山道は泥のようになり、歩けなくなるのだ。泰言は王宮建設の資材運搬用のために広くて、石で作った階段を備えた立派な道を造ったのだが、王宮の完成後、石階段をはがし、道を崩した。敵の来襲を恐れたのだ。
頂上の王宮まで五合目あたりに木でつくった小さな小屋があった。粗末だが雨宿りはできた。小屋の軒下では、先客が一人、長椅子に腰かけて俯いて休んでいた。華奢な体つきをしていた。そして長椅子には華奢な体の倍程も大きな荷が置いてあった。
「となりにすわってもいいですか?」泰明は遠慮がちに声を掛けながら近づいた。
「あ、どうぞ」先客は顔を上げて泰明を見て良く通る明るい声で泰明を手招きした。
泰明は先客の顔を見た。若い娘だった。娘の顔は泥で汚れていた。
「雨がふりそうですね」と言いながら泰明は娘の横に座り、荷を下ろした。
娘の着ていた黒の羽織の胸には赤や青などの鮮やかな模様の刺繍が彩られ、襟には一羽の小さな燕の刺繍があった。泰明がふと、娘の羽織の袖に視線を向けると、白い美しい手が見えた。娘の白い手には引っ掻いたような小さな生傷がたくさんあった。娘は泰明の視線に気づいた。
「毎日この荷を王宮まで運んでいるからね。山道は険しくて狭いから道を塞ぐ木の枝を手で払っていたら擦れて傷だらけ。王様はどうしてあんな高いところに王宮をつくっちゃったのかねえ」と娘がにこにこしながら快活な声で話を始めた。
娘は翠麗と名乗った。村の織物屋で働いていた。翠麗の父が遺した店だった。翠麗の父は、翠麗がまだ幼いころに病気で亡くなった。織物屋は継母が継いでいた。翠麗は義母と二人で暮らしていた。義姉は後宮に出仕していた。王宮からの注文を受けて翠麗が織物を王宮に届けていた。
翠麗は身の上話を終えると、静かに山の彼方を見つめた。しばらくすると、翠麗は詩を詠んだ。それは、巣にいるこどもの燕が親鳥を待つ心情を詠んだ詩だった。もの悲しさの中に、穏やかで明るい未来を予感するような詩だった。
「今の詩は翠麗が考えたの?」と泰明が尋ねた。
「うん。あなたを見たら父を思い出したの。そうしたら、詩が勝手に口から出てきたの」と翠麗が遠くの山を見ながら答えた。泰明は、翠麗の瞳から落ちる涙を見た。
「さてと、雨が降る前に織物を届けなきゃ」と翠麗は突然、荷を軽々と背負い、王宮に向かって歩きはじめた。
泰明は、急いで荷を背負い、翠麗を追いかけた。山道は王宮への侵入を拒むかのように、人が一人やっと通れる程に狭くなっていた。油断すると足を滑らせて崖の下に落ちてしまう。
王宮の正門が見えた。そのとき轟音が地面に轟いた。同時に、泰明の傍の木が煙を上げて縦に二つに裂けた。雷が木に落ちたのだ。そして木の根元が崩れた。泰明の足もとが崩れ始めた。泰明は体制を崩した。泰明の背負子が肩から外れ崖の下に落ちて行った。足元の地面が崩れ落ちた。その瞬間、泰明の手を翠麗が掴んだ。翠麗が必死の形相で泰明を引き上げようとする。
「翠麗、だめだ。君も落ちて死んでしまう。手を放せ!」と泰明が叫んだ。
「諦めたらだめ。わたしは絶対に諦めない」と翠麗は残った力を振り絞りながら泰明を叱咤した。
翠麗は両足を地面で踏ん張り、両手で泰明の手を引っ張った。徐々に泰明の身体が上がって来た。
「もう少し。諦めちゃだめ」と翠麗は己を鼓舞するように叫んだ。
翠麗が最後の力で泰明を引き上げることに成功した。
「やったー成功」と翠麗が叫んだ。
「助かった、ありがとう」と泰明が笑顔で礼を言った。
泰明と翠麗はしばし地面に倒れ込んでいた。泰明は翠麗の顔を見ると、翠麗の顔は泥と汗でぐちゃぐちゃになっていた。泰明は立ち上がり、翠麗に手ぬぐいを差し出した。翠麗が顔の汗を拭いた。翠麗の白く美しい顔が現れた。泰明はしばし翠麗の顔を見つめていた。
「あ、ごめん。わたし急ぐから。これ、今度返します」と翠麗は少し顔を赤らめると手ぬぐいを持って王宮に走って行った。
泰明は自分の名を翠麗に伝えられなかったのを後悔した。
泰明はその日から翠麗に出会うことはなかった。
第二章 詩の会
泰明が翠麗と会った日から五年が経った。
泰明は民の声を聞き続けた。民を想う心が良き治世を行い、そして、民を信頼すれば、おのずと民は王を信頼することを、泰明は父・泰言に繰り返し説いた。やがて、泰言の民を恐れる心は氷塊し、泰言は王宮を民の住む下界に遷都した。民は再び良き治世が行われる未来に歓喜した。そしてだれもが、泰明が次の王となることを確信した。
そんな中、泰言は、王宮で詩の会を再開させた。歴代の王が毎年春に王宮に民を招いて詩の会を開いていたが、泰言が山頂に王宮を構えて以降、詩の会は途絶えていたのだ。
春の陽光を浴びながら、急峻な崖の上から降り注ぐ翔燕滝の水しぶきが轟音と共に春の息吹を響かせていた。翔燕滝は、急峻な崖の山頂にかつて泰言が造った王宮を横切る川を源流としていた。
泰言が遷都した王宮はその翔燕滝を見上げる場所に造られていた。広大な王宮内の庭園には臣下とその家族、そして多くの民が集まり陽気な雰囲気に包まれていた。
庭園には翔燕滝の滝つぼから水を引いて幅一間(約1.8メートル)ほどの小川が幾重にも曲がりながらゆっくりと流れていた。小川には朱に塗られた小さな太鼓橋が掛けられ、小川沿いにたくさんの桜の木が並んでいた。
広大な庭園の奥に、庭園を一望できる巨大な正殿があった。正殿は純白の漆喰の外壁で囲まれ、屋根は褐色の瓦で覆われていた。そして鮮やかな朱色の太い柱が正殿を堅固に支えていた。
正殿の中央に二つの玉座があった。左の黄金の玉座に王・泰言が座り、右の玉座には后・蘭鈴が座っていた。王・泰言は黄金の長衣を纏い、頭には黒い皮に金の刺繍を施した豪華な冠を被っていた。そして弱々しい顔を隠すかのように口ひげと顎髭を生やしていた。后・蘭鈴は若かりし頃の上品な美貌は健在であった。真っ赤な長衣を纏い、胸には鮮やかな黄金色の刺繍が縫ってあった。黒く光沢のある美しい長い髪は黄金色のかんざしで留めてあった。
王・泰言の左後ろには五人の男の重臣たちが横一列に並んで座っていた。重臣の末席には、かつて泰言に『民を信じてはならぬ』と進言した仰芽もいた。泰言は心を乱す進言をも許す度量の大きさを臣下と民に示すため遷都したのちも仰芽を重用した。仰芽は細い体の背中を丸くして、首をせわしなく揺らして庭園に集う民の動きを追っていた。
后・蘭鈴の右後ろには後宮の一切を取り仕切る古参の女官長・暁花がたえず女官の動きを鋭い視線で追い、指示を飛ばしていた。暁花の正面には小机が置かれ、小さな木箱が置かれていた。
更に、王の玉座を右横から見る位置に泰言の側室・桜鈴が整った面長の顔に笑みを浮かべて座っていた。一方、后の玉座を左横から見る位置に桜鈴の息子の泰周と泰明が並んで座っていた。泰周は、端正な顔立ちに陰を持っていた。悪知恵の働く男であった。側室の子という生い立ちが、泰周を卑屈にした。
「あの木箱はなんだ?」と泰明は暁花の前に置かれた木箱を指さしながら、泰周に聞いた。
「詩の会の『お題』が入っているんだ。いままではお后様がご自分でお題をお持ちになっていたが、今回は、あの木箱の中にお題の書かれた桃色の短冊が入っている」と泰周が答えた。
正殿の正面には、玉座から見下ろす高さに造られた舞台があった。縦横三間(約5.4メートル)程の四角い舞台には堅い木の板が敷かれ、正殿から見て左右に登り階段が設けられていた。
舞台上に五人の黒い長衣をまとった男たちが笛や琵琶などの楽器を手に持って舞台に上がってきた。そして、男たちに続き、赤い長衣をまとった三人の若い娘が舞台に上がった。男たちが雅楽を奏ではじめると、三人の娘たちが春の豊作を感謝する踊りを舞った。
庭園の散策をしていた臣下の家族や招待された民が、雅楽に誘われて舞台に大勢集まった。舞が終わると三人の娘たちと入れ替わりに、色とりどりの長衣をまとった十人の詩の詠み手が舞台にあがった。舞台には、臣下の娘や息子たちに交じって、民の中から選ばれた者も舞台に上がっていた。
王・泰言は玉座から立ち上がり、詩の会の開始を告げた。
女官長・暁花が詩の会の手順を説明し始めた。
「優れた詩を詠んだものは蘭鈴様から褒美の品を賜る。日ごろの鍛錬の成果をお見せするがよい。さて、詩の会の手順を説明する。蘭鈴様から賜ったお題をわたしから皆に伝え、すぐさま庭園の小川に笹舟を流す。笹舟が目印として赤い布の巻かれた桜の木に流れ着くまでに詩を短冊に書くのじゃ。それまでに詩を書けぬ者は失格とする」と暁花が説明を終えた。
「では始める」と暁花が言うと、暁花は正面に置いた木箱の蓋をうやうやしく開けた。中には『お題』が書かれた桃色の短冊が納めてあった。
「蘭鈴様から賜ったお題は『春』じゃ」と暁花が言い、右手をかざして笹舟を流す合図を女官に送った。
暁花の合図を受けて、小川の傍に立つ一人の女官が笹舟を小川に流した。ゆっくりと笹舟が流れはじめた。
「あの桜の木まではいかほどの距離であろうか」と泰周が隣に座る泰明に尋ねた。
「曲がりくねっているから正確にはわからないが、半町(約54メートル)ぐらいだ。水の流れは緩やかだが、詩を考え短冊に書くには、時は十分ではありますまい」と泰明は笹舟が目印のついた桜の木まで流れる時間を見積もった。
泰明の云う通り、笹舟はすぐ赤い布を巻いた桜の木に到着した。そこに立っていた女官が手を振って暁花に合図を送った。
「はい、それまで!」と暁花が詠み手に指示した。
詠み手の内、五人が書き終えることができずに失格となった。残った五名の短冊が暁花に集められた。
「それでは、詠みます」と暁花が高らかに言った。
短冊が四つ詠まれた。
「普通だな。心に強く響く詩ではない」と詠み終わった四つの詩について泰明が批評した。
「詩の会を長い間やっていなかった。詩を詠む力が弱っているようだな」と泰周が泰明に同調しながら頷いた。
最後の詩が詠まれた。皆が一様にその詩に耳を澄ました。
「なんという心地よい詩でしょう。燕の子が親を待つ気持ち、不安と寂しさ、もの悲しさの中にも、巣立ちに心が高ぶる希望が見事に表現されています。まさしく春にふさわしい詩です」と蘭鈴が笑みを浮かべながら言った。
泰明はその詩を聞き覚えていた。五年前に山小屋で翠麗が口ずさんだ詩だった。
翠麗は命の恩人だった。泰明は今すぐに翠麗に会いたいと思った。五年間探したが行方を掴めなかったのだった。
褒美を賜る者は直ぐに決まった。
「冷霜」と暁花が褒美を受ける者の名を呼んだ。
冷霜はうやうやしく后・蘭鈴に近づき褒美の品の黄金のかんざしを受け取った。冷霜の妖しい美貌は、正殿の重臣や庭園にいる男たちの視線を釘付けにした。だが、冷霜は一人の男を除きどの男の視線にも絡もうとしなかった。冷霜が視線を絡めたのは泰明だった。
「あの者を知っておるか?」と泰明が泰周に尋ねた。
「さあ、初めて見る顔だな」と泰周は冷霜の視線の先にある泰明をにがにがしい顔でみながら答えた。
泰明は考えていた。あの詩は翠麗が詠んだ詩だった。翠麗は義姉が王宮に出仕しているといった。冷霜が義姉だろうか。冷霜は翠麗の詩を盗作したのだろうか?泰明の疑念が膨らんでいた。
詩の会から数日後、冷霜からの恋文が重臣を介して泰明に届いた。女官でありながら王子に恋文をよこすなど尋常ではない。冷霜は美貌を武器に重臣を取り込んだのであろう。泰明は冷霜の恐ろしさを感じた。だが、泰明は、詩をだれが作ったのかを確かめるために、冷霜が泰明に近づいてくるのを良い機会と考えた。泰明は冷霜の誘いに乗った。
泰明は冷霜を王宮の執務室に呼び出した。執務室であれば人に見られても怪しまれることはないと判断した。
「どういうつもりだ。わたしに恋文を送るとは」と泰明が冷霜に冷たく言った。
「恋文に書いた通りです。わたしは泰明様を愛しています」と冷霜は甘えた声を出した。
「率直に尋ねる。詩の会で詠んだ詩は君がつくったのか」と泰明が厳しい口調で問いただした。
「え?」と冷霜が口を開けたまま、泰明を見つめた。
「わたしは、正直でない人間には容赦しない」と泰明が強く言った。
「どうしてそんなことをおっしゃるのですか」冷霜の声が震えていた。
「わたしは、五年前にある者が同じ詩を詠むのを聞いた。わたしはその者の真の心が詩になってあらわれたと思った。あの詩は、その者が自然と口ずさんものだった。だからわたしは、感情を揺さぶられた。五年経った今も忘れていない」と泰明が言った。
「ならば、その娘が嘘をついているのよ」と冷霜が声を震わせた。
「では、もう一度、詩を詠んでみろ」と泰明が詰め寄った。
「……」冷霜が言いよどむ。
「どうした、もう忘れてしまったのか。自分で作った詩を詠めないのか。それにその詩を詠んだのが娘であるとなぜ知っているのだ。わたしは、娘とは一言も言っていないぞ」と泰明が追い打ちをかけた。
「あんまりですわ。そもそも詩の会の席で初めて『お題』知ったのです」と冷霜は涙を流し、執務室を出て行った。
冷霜が嘘をついたのは間違いない。だが、確たる証拠がない。
一方、泰明は翠麗の身の上を案じた。冷霜が翠麗の義姉であるのならば、翠麗にひどい仕打ちをしかねないと考えた。泰明は秘かに冷霜の身辺を調べさせた。予想は的中していた。冷霜は翠麗の義姉だった。そして、翠麗は義母の冷露と一緒に住み、冷露からひどい扱いを受けていた。内戦の激しい隣国に織物を密輸させていたのだ。隣国では内戦のため物資が不足していた。兵隊の衣服など必需品が高値で売れたのだ。翠麗は命を危険にさらしていた。隣国との商いは犯罪行為だった。捕まれば、まちがいなく処刑される。泰明は悩んだ。冷露を捉えれば、翠麗も罪を問われることになる。かつて、泰明の命を救った翠麗を放っておいてはいられなかった。
すぐに泰明は紫の長衣をまとい、二人の臣下をお供に着けて翠麗の店を訪れた。翠麗の父が遺した織物屋は雑貨商に名を変えていた。隣国への密輸がばれないように、店の名を変えたのだった。すべて、冷露の仕業だった。
「翠麗、迎えに来た」と泰明が店の前で叫んだ。
冷露が店から慌てて飛び出してきた。真っ赤な長衣を身に着けていた。胸には金糸の豪華な刺繍が施されていた。顔には猜疑心と欲にかられた心が形相に如実に表れていた。
「翠麗はわたしの娘です。どういうことでしょうか」と冷露が泰明に尋ねた。
「翠麗はわたしの命の恩人です。そして、わたしにはなくてはならない人なのです。わたしは、翠麗と結婚したいのです」と泰明が高らかに答えた。
「あいにく、翠麗は商売に出ていてここにおりません」と冷露は目を吊り上げながらそわそわしながら答えた。
「そうか、では日を改めよう。翠麗はわたしの大事な人である。ゆくゆくはわたしの后となる。翠麗の身体になにかあってはいけないのだ。絶対に忘れるでないぞ」と泰明は冷露に命じた。
泰明は引き上げた。これで、翠麗が危険な目にあうことはないであろうと考えた。
冷露は密輸の商売ができなくなり、翠麗はいままでのようなひどい扱いをうけることはなくなった。
それから一年後、翠麗は泰明のやさしい心に魅かれ求婚を受け入れた。そして翠麗はご懐妊した。
第三章 不貞の子
<密通>
青白い月光が後宮の一室の御簾の隙間を通り、冷霜の美しい裸の背を照らしていた。泰周が冷霜の豊かな胸をまさぐっていた。
「泰明様は、詩の会のお題を泰周様が盗んだと疑っておるようです」と冷霜が泰周の耳元で呟いた。
「おまえは翠麗の日記の詩を盗み見た。そして、おれは暁花の部屋に忍び込んでお題を盗み見た。だが見た証拠など存在しない。だまっていればよいのだ」と泰周は強がって言った。
「泰明様は頭の良いお方です。いつかばれると思うと怖いのです」と冷霜が言った。
「おまえは泰明が欲しかったのであろう。詩の会で、おまえが泰明に視線を絡めていたのを忘れてはいないぞ」と泰周が嫉妬まじりのいやみな言い方で冷霜をなじった。
「わたしの心には泰周様しかおりません」と冷霜が甘く囁いた。
「そうかな?泰明が翠麗と結婚し、おまえはさぞかし嫉妬に狂っておるのではないか?」と泰周は意地悪く言った。
「泰明様を失脚させたいのです」と冷霜が泰周に言った。
「良い手があるのか」と泰周が尋ねた。
「翠麗のおなかの子が不貞の子だとしたら……」と冷霜が不気味に笑いながらことばを途中で切った。
「確たる証拠がなければならんが……」と泰周が言いよどんだ。
「策があるのですか?」と冷霜が言った。
「王家には秘密がある。それは王の血を引く疑いようのない証拠となる」と泰周が答えた。
「証拠を消せばよいのですね」と冷霜が言った。
「ここだけの話だ。他言するな」と泰周は言うと、王家の秘密を打ち明けた。
<うわさ>
民の間で、「翠麗のおなかの子は不貞の子だ」とのうわさが流れていた。
王・泰言は正殿の中にある『王の間』にて泰明と二人で話をしていた。
「翠麗のおなかの子についてよからぬ噂が流れておるが、それは真なのか?」と泰言が厳しい口調で泰明に尋ねた。
「根も葉もない噂にございます」と泰明が答えた。
「わしは民を信じて下界に降りて王宮をつくった。そして、民の出身である翠麗を信じた。だから、おまえと翠麗の結婚を許した」と泰言はゆっくりと語った。
「その通りでございます。民を信ずることに決して間違いはございません」と泰明が言った。
「ならば、なぜ民はわしを惑わすような噂を口にしておるのじゃ」と言った泰言の口元が悔しさを表すようにゆがんでいた。
「翠麗の懐妊を快く思わぬ者が噂を広めたのでしょう」と泰明が答えた。
「心あたりがあるのか」と泰言が言った。
「はい。臣下に探らせます」と泰明が言った。
「ならば、仰芽に頼むとよい。仰芽は民を信用しとらん。民のうわさのもとをたどるには仰芽が適任であろう」と泰言が言うと、泰明が頷いた。
「噂は翠麗にも届いているのか?」と泰言が心配しながら言った。
「はい。しかし、翠麗は心の強い女です。そして、決して諦めぬ強さを持っています。嘘の噂に負ける女ではございません」と泰明が強く言いながら泰言の目を見据えた。
「かつて、心の強さがおまえに欠けておった。わしの血を引き継いだ」と泰言が言った。
「翠麗がわたしに心の力を与えたのです。翠麗はわたしになくてはならない存在なのです」と泰明が力強く言った。
「おなかの子がおまえの子であるという確たる証はないものか」と泰言が泰明に尋ねた。
「王家の秘密がその証になります」と泰明が答えた。
「そうか。それは動かぬ証となろう」と泰言が頷いた。
<秘薬>
激しい雨の降る真夜中、村のはずれの小屋にろうそくの赤い火が揺れていた。赤い火が、二つの人影を小屋の内壁に映していた。
「幻幽よ、秘薬はできたかい?」と冷露が妖術師の幻幽に聞いた。
「できているよ。これだ。秘伝のかぎりをつくした。出産までに間にあったぞ」と黒頭巾を被った幻幽は、小さな白い薬包を指さしながら、醜悪な顔に薄笑いを浮かべながら答えた。
「この秘薬を翠麗に飲ませれば、生まれてくる子の瞳を濁らせることが出来るんだね?」と冷露が白い薬包を手に取りながら幻幽に確かめた。
「生まれてくる子が王家の血を引いていれば、左の瞳が王を表す黄金色、右の瞳が民の血を表す赤色が出現するんだったな。その秘薬は、生まれてくる赤ん坊の瞳を濁らせる。だが、その効果は長くは持たないぞ。せいぜい一日だ」と幻幽が念押しした。
「ああ、わかったよ」と冷露が答えた。
「うまくやるんだな。何度もいうが、効果は一日だ」と幻幽が繰り返した。
「もちろんさ。生まれた赤ん坊は、その日の内に死ぬことになる。赤ん坊の瞳が黄金色と赤色に輝く前にね。そして翠麗と一緒に死ぬ」冷露は冷たく笑い、金貨の入った小さな麻の巾着袋を幻幽に手渡すと小屋を出た。
<出産>
翠麗のおなかの子が大きくなってきた。後宮では翠麗の出産に向けた準備が進められていた。そして王家の秘密を守るために、出産に立ち会う女官は特に信頼できる五人が選ばれた。選ばれた女官の中に、冷霜がいた。
五人の女官たちを前にして、暁花が重々しく言った。
「王の血を継ぐものは、生まれて七日間、瞳に高貴な光が宿る。おまえたちはその光を見つめてはならない。そして、決して他言してはならない。他言したものは死罪となる。忘れるでないぞ」
女官たちは翠麗への食事には万全の注意を払った。翠麗に出す食事はすべて女官が毒味していた。二人の女官が見守る中、一人の女官が毒味し、その場で、翠麗に食事を提供した。夕飯の毒味は冷霜がおこなった。冷霜は膳に載った主菜、副菜、汁物などすべての食事を少しずつ口にし、毒が入っていないのを確認して、翠麗に提供した。
翠麗は膳のものを残らずに食べて就寝した。
だが、この日、翠麗は台所から膳を運ぶ途中で、人目がない一瞬の隙を見て、幻幽の秘薬を汁物に入れた。
幻幽の秘薬の効果は、翠麗のおなかの子のみを狙って調合されていた。だから、毒味した冷霜も、食事をした翠麗にも、毒の効き目は表れなかった。だが、毒は翠麗のおなかの子を確実に襲っていた。
翠麗のおなかの子は順調に成長しているかに見えた。出産は目前だった。
第四章 裁きの日
<王の間の決断>
黒い雨雲が王宮の上に立ち込める早朝に翠麗は赤ん坊を産んだ。おとこの子だった。その子の瞳は鈍く灰色に濁っていた。
王・泰言は、すぐさま泰明と泰周、重臣、そして暁花を正殿の王の間に集め、翠麗と生まれた子の処分について話あった。
「翠麗は王様と泰明を騙した重罪人です。死刑しかありえません」と泰周は泰言に強い口調で言った。
「わたしも泰周様の意見に賛成です。王様を騙せばどうなるかを民に知らしめるのです。民の目の前で、翠麗を火あぶりにしましょう」と黒い立派な口ひげを生やした重臣が泰周の意見に賛同した。
「翠麗の不貞の証拠もあるぞ」と泰周は二通の手紙を手に持っていた。
泰周は興奮しながら続けて言った。
「一通は不貞の相手だ。隣国の兵士だ。もう一通は翠麗がその兵士に送ろうとした手紙だ」
「その手紙は誰から受け取ったのだ」と泰言が言った。
「冷霜からだ。翠麗の継母の冷露の家に隠してあった」と泰周が答えた。
泰周は、王の間の外に控えていた冷霜を呼んだ。
「あの手紙は確かに翠麗が書いたものなのだな」と泰周が冷霜に尋ねた。
「間違いありません。あの字は翠麗の字です」と冷霜が答えた。
泰明は泰周の手にある二通の手紙を奪い取ると読み始めた。翠麗が送ろうとしていた手紙の相手の男の名は張李と書いてあった。
手紙には、翠麗が張李に会えない心情を綴ってあった。泰明はこの手紙を読み終えると、しばらく考え込んでから口を開いた。
「冷霜よ、おまえは翠麗の出産に立ち会っておったな。生まれたての赤ん坊の瞳はどうであった?」と泰明が冷霜に聞いた。
「暁花様からは、赤ん坊の瞳を見つめてはならぬと厳しく言われておりました。でも、見えたのです。左右の瞳が黄金色と赤色ではなく、灰色に濁っておりました。間違いありません」と冷霜が答えた。
暁花が頷いていた。
「泰明よ、釈明することはあるか?」と王・泰言は沈痛な表情で泰明に尋ねた。
「ありません。翠麗は重罪人です。即刻火あぶりにしてかまいません。そして、我が子・泰燕は、生きていれば必ず禍根を残すことになります。翠麗と一緒に葬ってください」と泰明は毅然とした態度で答えた。
「子の名を考えておったのだな」と泰言が言った。
「今、考えました」と泰明が言った。
「今?」と泰言がいぶかった。
「翠麗と始めてあった日、翠麗は燕の子どもの心情を詩にしました。そして、翠麗は燕に将来の夢を託していたのです。わたしは、生まれてくる子には燕の一文字を付けることに決めていたのです」と泰言は泰周を睨みながら答えた。
泰周は卑屈な笑いを浮かべながら、処刑は速やかに行うべきと主張した。
翠麗と泰燕の処刑は翌日の早朝と決まった。民にお触れが出された。翠麗と泰燕は牢獄に入れられた。泰明は翠麗と泰燕に会うことを許されなかった。
<火あぶりの刑>
早朝の薄暗い中、翔燕滝の滝つぼの河原に設けられた丸太で組んだ火あぶりの処刑台の上には翠麗と泰燕が縄で縛り着けられていた。処刑台の脇には、白い頭巾を被り、白い長衣を着た処刑執行人が火のついた松明を持っていた。
処刑台のすぐ近くには玉座が一つ設けられ泰明が座っていた。玉座の左横には五人の重臣たちが一列に並んで立っていた。玉座の右横には泰周と女官長・暁花が立っていた。泰明の姿はなかった。そして、暁花の後ろには翠麗の継母・冷露と義姉・冷霜がいた。
また、処刑台を遠巻きに大勢の民が集まっていた。竹で編んだ策が設けられ刀を持った役人たちが民の侵入に備えていた。
王・泰言が処刑執行人に処刑の開始を命令した。
処刑執行人は処刑台に近づくと薪に松明の火を移した。そして翠麗と泰燕の顔を見た。処刑執行人は泰明であった。
泰明は声を細めて翠麗に言った。
「今から王家の秘密を確かめる」
翠麗がだまって頷いた。
泰明は、松明の火で泰燕の右の二の腕をあぶった。
泰燕の泣き声が上がった。
「やめて」翠麗が叫んだ。
泰明はかまわずに泰燕の二の腕を火であぶり続けていた。
泰燕の白い肌がじりじりと焼けていった。処刑台の薪の火が徐々に広がっていた。
「でたぞ」と泰明が大きな声で叫んだ。
泰明は手に持った松明を投げ捨てると、腰にさした短剣を鞘から抜いて翠麗と泰燕を縛っていた縄を切断した。短剣を腰の鞘にもどした泰明は、右腕の中に泰燕を抱えた。そして、左手で翠麗を処刑台から引っ張り下ろした。
泰明は泰燕を抱き、翠麗の手を引きながら、王・泰言が座る玉座めがけて走り出した。民が歓喜の声を上げて、泰明たちが走るのを見つめていた。
泰明たちが玉座にたどり着いた。
「泰明!どういうことだ!」と泰言が大声で叫んだ。
「泰明、おまえ、何をやっているのかわかっているのか」と泰周は怒りをあらわにして言った。
「これが、王家の証でございます」と泰明は、泰燕の二の腕を見せた。
泰燕の右の二の腕には、王家の紋章である『燕』の模様の痣が赤く浮き上がっていた。
「松明の火を使って王家の紋章を浮かびあがらせたのです」と泰明が言った。
「これは、まさしく王家の証じゃ」と泰言がいった。
「おれはそのような王家の紋章の話は知らないぞ」と泰周が叫んだ。
「王家の紋章の痣は、王家を継ぐ素質のあるものだけにあらわれる。そして、そのものだけがこの秘密を知っておる」と泰言が言った。
「おれには、王家を継ぐ素質がないということか」と泰周が悔しさをにじませていた。
「ちょっと待ってください。王家の瞳はどうなんですか。泰燕には生まれたときに
黄金色と赤色の瞳は現れなかった」と冷霜が泰言に言った。
「冷霜よ、だれがおまえに瞳の色のことを教えたのじゃ?」と暁花が冷霜に尋ねた。
「暁花様からです」と冷霜が不思議そうな顔をして答えた。
「確かにわたしは王家の瞳のことをおまえに教えた。だが、『高貴な光』と言ったはずだ。瞳の色は教えてはいない」と暁花が言った。
「泰周よ、おまえが瞳の色のことを冷霜に教えたんだな。おれは、おまえと冷霜が密通していることを知っているぞ。詩の会でおまえが言ったことばを覚えているか?おれが『お題』を入れた箱のことを尋ねたら、おまえは短冊の色が桃色であることを知っていた。短冊の色は后が一人でお決めになり、だれにも伝えないのが習わしだ。なぜ、おまえは短冊の色が桃色であることを知っていたのか?おまえは詩の会が始まる前に『お題』を盗み見したからだ。そして、冷霜に教えた。しかも、あろうことか冷霜は翠麗の詩を盗用した」と泰明が泰周を問い詰めた。
泰周はだまったままだった。
泰明は仰芽に聞いた。
「不貞の噂を流した者はだれだかわかったか?」
「この者です」と仰芽は、両手首を縄で繋がれた幻幽を泰明の前に引き出した。
「行方を捜しておりました。ここに現れるとはばかな奴だ」と仰芽が言った。
「幻幽よ、おまえはだれに頼まれて嘘の噂を流したのだ」と泰明が問い詰めた。
「冷露だ」と幻幽は冷露を指さして答えた。
「なにを言っているんだ。不貞の証拠の手紙があるじゃないか」と冷露が言った。
「翠麗の筆跡はまねることができても、心の内をまねることはできまい」と泰明が言った。
「泰周よ、不貞の証拠とやらの手紙をよく読んでみろ」と泰明が言った。
「どういうことだ」と泰周が言った。
「その手紙には、『諦めた』と三度使われている」と泰明が言った。
「ああそのとおりだ。張李に会うのを諦めた、と書いてあるな。それがどうした。翠麗は結婚し、隣国に行けなくなって不貞の相手に会えなくなったのだ。当然だろう」と泰周が答えた。
「翠麗は決してあきらめない強い心を持っている。おれは、翠麗の強い心に生かされ、助けられたのだ。翠麗が『諦めた』と言葉にすることはありえない」と泰明が強く言った。
泰言は翠麗を見た。翠麗は、そうだと言わんばかりに強く頷いた。
<王家の血を継ぐ者>
泰周は東の地平線を見た。そして、泰明の腕の中で泣く泰燕の瞳に視線を向けた。
泰周はおもむろに己の腰にさした短剣を抜き取ると、泰明を威嚇し、片方の手で泰明から泰燕を奪い取った。泰周は泰燕を抱え燃え盛る処刑台に走った。
「泰燕を火あぶりにするつもりだ!」と泰明が叫び、泰周を追いかけた。
泰周が泰燕を処刑台にまさに放り投げようとした瞬間、泰明の短剣の切っ先が泰周の背中を切り裂いた。背中の傷は深くはなかったが、泰周はその場で両膝をついてそれ以上動けなくなった。泰明は泰燕を取り戻した。遅れて翠麗がやって来た。
地平線から太陽の光がさした。
泰明と翠麗は泰燕の顔を見た。泰燕の瞳の濁りが消えていた。
「瞳が輝いたぞ!」と泰明が玉座に座る泰言に向かった叫んだ。
泰明と翠麗は、玉座に座る泰言の腕の上に、泰燕をうやうやしく差し出した。
「まさしく、王家の血を引く証だ。黄金と赤の瞳、そして紋章の痣が現れた。泰燕はまぎれもなく王家の血を継いでおる。泰明の子である」と泰言は言うと、泰燕を両手に抱え、高らかと持ち上げた。
重臣、暁花、そして民から歓声が上がった。
<父の遺したもの>
泰周はすべての罪を認めた。不貞の証拠とされた手紙は冷露と泰周が書いた偽物だった。泰周は王宮を追放された。重臣の中には厳罰を処すべきとの意見もでたが、泰明の願いで処刑は免れた。泰明と泰周がこどもの頃、二人は仲が良く、いつも一緒に遊んでいた。だが、側室の子という負い目が徐々に泰周を卑屈にし、やがて宮中の女と遊び惚けるまでに堕落してしまった。泰明は泰周を不憫に感じたのだった。そして、泰明には打算もあった。隣国の脅威に対して泰周の悪知恵の才覚がいつか役に立つと泰明は考えたのだ。
幻幽は瞳を濁らせる秘薬のつくりかたを供述した。幻幽は、処罰を免れた。仰芽が幻幽の秘薬つくりの豊富な知識を利用したいと考えたのだった。
冷露と冷霜の処分については翠麗が下すことになった。
冷露と冷霜の二人が手縄をされて、王の間に連行されてきた。
二人の正面には泰言、泰明、翠麗、五人の重臣、暁花が並んでいた。
翠麗がおもむろに一歩前に出ると、冷露と冷霜に向けてゆっくりと話始めた。
「冷露、冷霜の二人には、わたしから奪った大切なものを返してもらいます」と翠麗が二人にかたりかけるような口調で言うやいなや、二人に命令した。
「冷露!おまえは、わたしの父が遺したものをすべてわたしに返しなさい」と翠麗は冷露に厳しく命令した。
「冷霜!おまえは、わたしの父の大切な思い出を返しなさい」と今度は冷霜に命令した。
「翠麗様。父が遺した大切なものとはなんでございましょうか?」と冷露が翠麗にあいそ笑いをうかべながら尋ねた。
「冷露、冷霜!己の心に問うが良い。三日の猶予をあたえる。すべて返さぬ場合は、火あぶりの刑に処する」と翠麗が告げると、そのまま王の間を出ていった。
冷露と冷霜の二人は厳重に監視されながら、翠麗に返すものを死に物狂いに考え、準備を続けた。三日後、父の遺した店、財産、家財道具、着物などすべてを翠麗に返した。
無一文となった二人は再び王の間に連行された。
「わたしから奪ったものはまだわたしには届いておらぬぞ」と翠麗が冷たく二人を問い詰めた。
「翠麗様。三日間考えましたが思いつきませぬ」と冷霜が震える声で答えた。
「出来ぬなら火あぶりだ」と翠麗が抑揚のない声で言った。
「お許しくださいませ。翠麗様に嫉妬し、悪行を心から悔やんでおります。どうかお許しください」と冷霜が震えながら泣いた。
「翠麗様。わたしも欲にまみれ、翠麗様にひどい扱いをしたことを悔やんでおります。許してください」と冷露が泣き崩れた。
すると翠麗は大きく肩を上下に動かして深呼吸して言った
「ざまぁみろ。ようやく心から悔いたようだな。二人から償いのことばを聞けることを信じていた。すっきりした!」と翠麗が笑いながら二人に向けて言った。
「父の遺した大切なものはわたしの心の中にあったのよ。それは人を信じる気持ち。わたしは心を強くして信じる心を隠してきた。そうしないと生きてこられなかったから」と翠麗は重い荷を下ろしたように軽やかに言った。
「もう一つは、詩よ。わたしの詩。義姉さんが詩の会で詠んだ詩よ。わたしは義母さんに連れられて詩の会を見ていた。義姉さんが得意げにわたしの詩を詠んでいたのいまでもはっきりと覚えているの。とても悔しかった。詩は父のやさしさを詠んだ詩。そして、泰明様との思い出の詩でもあるの。わたしから盗んだ詩を即刻返してね。お后様から賜った黄金のかんざしも返すのよ」と翠麗が一気に畳みかけて言った。
「わかりました。どうぞお許しください」と冷霜が深々と頭を下げた。
翠麗は、冷露には父の遺した店と生きていけるだけの財産を分け与えた。冷霜は女官の役を解かれ後宮を去った。
エピローグ
五年後、冷霜は冷露とともに父の遺した店で商いをしていた。泰周は修行僧となって諸国を巡っていた。幻幽は、仰芽の下で民の病気や傷を癒す秘薬つくりに励んでいた。
王・泰言は、泰明に王位を譲った。玉座には泰明と翠麗が座った
泰燕は、すくすくと育ち、品のある美しい男子に成長しつつあった。そして、わずか五歳にして詩を詠み知性の片鱗がうかがわれた。
泰明と翠麗は、やさしい心と強い心でお互いを補完し高めあい、長きにわたって良き治世を行った。
詩の会は春の行事として続けられていた。正殿の正面の舞台に詠み手がそろい、翠麗が詠む詩を聴くのが恒例となっていた。
その詩は、かつて、翠麗が初めて泰明と出会った山小屋で詠んだ思い出の詩だった。
<了>

