あれからどれほど時間がかかっただろう。
ずっとドロドロとした液体の中に浮遊しているようだった。手で掻いても何も掴めず、息を吸っても苦しいわけでもなく、ただただ永遠とゆっくりと体が沈んでいくような感覚。
あたりは匂いも味もしない、真っ白な空間。
何もない、というのはまさにこのことだろう。
すると、視界の先で金平糖ほどの光が見え、声がする。
「…陽介…ようすけ!」
誰かが僕を呼んでいる。
きっとこの透き通った声は美穂さんだ。
「…美穂?美穂なのか?僕は、僕はここだ!!!」
思いっきり叫んで応えても、返事はない。
すると、突然視界が暗くなり沈む速度が早くなった。
まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように加速する。
その先には丸く穴が空いているのが見え、僕はその穴に吸い込まれるように落ちてゆく。
「待ってて、今、会いにいく!!!」
穴を抜けると、急に視界が開ける。
飛び込んできた景色は夜の森の中。
「わっ、ちょっ、ちょっと!!!このまま落ちるの!?止まってくれーー!!!」
落ちていく速度はそのままで、木々にぶつかりながら勢いよく地面に叩きつけられる。
とても痛い。
「…ッ痛ぇ」
尻の右側を打撲した。
痛かったが、あの高さから落ちた割には大怪我にはならなかった。
辺りを見渡すと、街灯ひとつもなく月明かりだけがたよりの生え放題の茂みの中。あの夏祭りのときに彼女がさらわれた、神社の裏にある森に似ている。
「ねぇ、陽介殿も明後日の緑川との争いに守りに来てくれるんじゃろ?」
彼女だ。
こっそり茂みの中から彼女の声のする方へゆっくり歩み寄り、盗み見る。
横たわった大きな丸太の上に、綺麗に膝をそろえて彼女が座っている。
その服装はもちろんいつもの高校の制服ではなく、綺麗や赤や緑を基調としたいくつかの浴衣みたいなものを重ね着した、歴史の教科書なので平安貴族がよく身に纏っている雛人形のような十二単(じゅうにひとえ)とかいうやつよりももっと身軽なバージョンのものを着ている。
丈は大体、正月などで神社の巫女さんが着てるような白い装束くらいだ。それにしても身軽なバージョンに見えるが、こんなに重ね着をしていたなんて、今よりずっと動きづらかったに違いない。
また、膝の上には麦わら帽子のように肌色の木を編んでできたツバの長い頭から被る笠のようなものを持っている。笠からは体を覆い隠すような薄い布が付いていることから、人の目に触れぬようにこっそりやってきたのだろう。
和服の彼女もとても綺麗だ。どこか大人っぽくて、透き通った肌によく似合っている。
いつもよりも笑っていて、隣に座っている男に肩をピッタリとくっつけて、前のめりに話しかけている。隣に目をやると、その顔は僕と瓜二つの男だった。
あれは多分、僕だ。
眉毛を整え、頬を赤らめながら彼女の隣で大きな丸太に男が座っている。視線を合わせられるように前屈みで話をしている。やっぱり僕だ。
服装はひな人形のお内裏様の服装に近くはあるが、布は重ねておらず、身軽なもののようだ。だが、現代の服と比べると全体的に袖や裾はダボッとしていて少し動きにくそうな気がする。
それにしてもなんて楽しそうに話しているのだろう。今の僕と比較しても誠実ですごく頼もしい様子をしているが、その表情は頬が緩んでしまっており、全体的にフニャフニャとしている。普段僕も彼女と話す時にあんなにニコニコしているのだろうか。なんだか恥ずかしい。
この瞬間、僕は僕の関わった過去の出来事を客観的に見ていることを理解した。それでもまだ尻が鈍く痛む。着地方法はなんとかして欲しいと思った。
そんな時間や空間、意識を超えるこのシステムに対するクレームはこの辺りにしておいて、二人の会話に耳を傾ける。
周囲はコオロギのコロコロとした声が響いているが、辺りは静かで4.5メートル離れていても聞き取ることができた。この時期の日本は今よりも涼しくて、夜は半袖では少し寒い。
「なあなあ、聞いておるのか?緑川の争いにお主も来るのかと聞いておる。」
頬を緩ませて、少しボーッとしている僕は彼女に左腕を掴まれ、体全体を揺らされている。
「ああ、ついぼんやりとしてしまっていた。明後日のことか?そのことならもちろん、いくさ。しかも今回は、我が青井軍の副将を初めて務めるんだ。」
「なんと!それなら安心じゃ。お主がいると心強いからな。」
「そんな、すごいことと思わなくて良いよ。天皇に圧をかけ、半強制的に私と母を討伐する命令を出し、身の危険に晒している奴らを懲らしめるだけだ。それに副将としての初陣も楽しみなんだ。」
「これまでそれを目標として努力を積み重ねていたからの。きっと毎日、矢の稽古の様子を、お父上は見ていたのじゃろう。」
「そうだといいんだけどな。それに、今回は青井軍はとっておきの秘密道具を開発し、密かに使用する予定なんだ。その道具の名は銃といって、この時代の日本ではどこにも使われていない代物だ。海外では使われているようだが、技術がないからな。だから陰陽師のちからと掛け合わせることで、銃に近い武器を作ったのだ。このことは内緒だぞ?」
そう伝えると右手の人差し指を彼女の口先にあてる。
僕はあんなにキザな男なのか。なんだか不思議な気持ちだ。
あと、彼女は平安時代の話し方っぽいが、僕の方はあんまり古風な雰囲気はないな、と思った。
もっと平安時代のドラマとかを思い浮かべると、当時の上品な話し方のイメージが強い。想定していたよりも、意外とフランクな感じだ。
「わかった。この争いが終わったら、その、一緒に見たい景色があるんじゃが、その、二人きりで見るのを約束してはくれぬか?」
上目遣いでもじもじしながら、お願いをしている。あれは彼女が恥ずかしがりながら、相談する時の癖だ。やはり、彼女は彼女に違いない。
「ああ、わかった。それまでは、ガナリの手中に渡るんじゃないぞ。」
「それは、陽介様が守ってくださるのではないのですが?」
いたずらっぽくニヤニヤとしながら、彼女はからかっていた。
「ああ、これは一本取られたな。」
彼も楽しそうに高笑いをした。
「でも、なにかあったときのために私の『お札』を渡しておこう。陰陽師でないと、術は使えないがお守りとして持っているといい。」
彼女は、嬉しそうに両手で受け取り、胸元で宝物をもらったときのように抱きしめていた。
夜は更け、虫の声が静かになりだした頃。彼らはその場で分かれ、それぞれの場所へ戻っていった。
状況を整理すると、彼女と僕はこの平安時代に出会っていた。おそらく今日は那須殺生石の乱が起こる二日前の夜。
そしてこの争いは、あの本(現代に置いてきてしまったのだが、)に載っているような、悪を討伐するための正義感あふれる争いではなく、彼女とその母親を危険に晒す争いであることがわかった。
つまり、現実と伝承は大きく異なっているということがわかった。
顎に手を当て、頭の中で状況を整理しながら立ち上がると、突然、地面が揺れ始める。定まらない視点、ふらつく足元。
バランスを崩すと、僕はいつの間にかできていた、ぽっかりと空いた黒く底の見えない穴へと吸い込まれていく。
背中から落ちてしまい、後ろから風を受けながら真っ逆さまに落ちていく。さっきまでいた場所の空は丸いまま遠ざかって、徐々に小さくなっていく。
―――
今度は最初ほど浮遊した感覚の時間は短くなり、あっという間に別の穴が開いた。
穴が開くなり、また突然地面がみえる。ああ、これまた痛くなるやつかもしれない。
そう思っているうちにいつの間にか、またしても地面に叩きつけられた。
「…ッいてえ!やっぱり、これどうにかしてほしいな…」
また同じ右側の尻を打ったため、手で擦りながら立ち上がる。
立ち上がると、そこは先ほどまでいた平原だった。
しかし、あの月の下で風が吹いていた、穏やかな平原ではない。まさに戦場だった。
あの爽やかな香りを連れてきてくれる優しい風は、双軍の旗を音をたてて揺らめかせるほど強く吹き、鳥肌を立たせるほどの冷たい風となっていた。
辺り一面で薙刀や刀の打ち合い、矢が飛び交うなど起き、青い装束の人もいれば、こどもの日のときに飾る武士の兜のような甲冑(かっちゅう)の鎧を身に着けていた人が男たちが声を荒げて戦っている。
先ほどまで雨が降っていたのか地面はひどくぬかるんでいて、ひづめの足跡をくっきりと残すように、力強く戦場を駆け巡らせる馬に乗った人もいた。
「これが、戦争。」
僕は、記憶にある限りでは、初めて戦争を目の当たりにした。
歴史の教科書や資料集でその様子の絵や写真を見たことがある。また、歴史の出来事を主題にした映画やドラマの戦うシーンを見たこともある。
しかし、いずれも比べ物にならないほど恐ろしく、一人一人がたった一度の失敗やすれ違いでも命を落としてしまうような危険さを知った。
僕は足がすくみ、すぐには動くことができなかった。みんなそれぞれに家族がいるというのに、なぜこんな争いをしてしまうんだろう。
止めに行きたくとも、その規模の巨大さや感情のぶつかり合いに押され、無力であることを感じる。そのために、もう二度と繰り返さぬように歴史は学び、受け継がれるのだろう。
僕はやっと、心を落ち着かせ、矢に当たったり敵だと思われ誤って襲われぬよう、茂みに隠れながらその様子を見ていた。
「しかし、よくもまあ、僕はこの戦いの中で副将を務められたもんだなあ。」
自分の事という実感はわかぬまま、まるで他人事のように感心をしてしまった。
まずは、どちらの軍が青井氏で、どちらが緑川氏なのだろうか。
よくよく戦い方を見てみると、甲冑をつけ刀を振り回している、まさに武士のイメージどおりの男たちが頭や腕にしている鉢巻と揺らめいた旗が同じ緑色だ。
さらに、旗には大きく八枚のヒイラギが真ん中に刺繍されている。おそらく、こっちが緑川氏だろう。
そしてもう一方をみてみると、ほとんど甲冑をつけている様子はなく、青い装束のまま争っていた。
前の場面で平安時代の彼女と丸太に座って話していたときの格好とよく似ている。このことからおそらく、こっちが青井氏だろう。ただ、緑川氏とは戦い方は全く違う。
彼らは、なんと、全員メモ用紙くらいの長方形の紙である。
その表面には筆で呪文のような文字が書かれており、独特のデザインだ。
おそらくこれが出発前に親父が言っていた『お札』なるものだろう。
一見、強度もない紙だけで戦うのは不利なように思える。
しかし、陰陽師である青井軍にとっては最大の武器のようだ。
彼らは左手で祈りを込めるように、念仏のような言葉をひたすら唱え続けていた。
応えるように『お札』は、紫色の炎を纏わせて浮遊し、呪文を唱え終わった途端に勢いよく一枚一枚矢のように飛んでいく。
また、刀で攻撃されたり時には何枚も重なって棒状に変形し、棒のように固くなって攻撃を受けたりするなど自由に変形させてたりもした。
その魔法のような力を目の当たりにして驚いていると、青井軍の後方から放たれる遠距離の攻撃が気になった。
それは「銃」だ。一つ前の場面でキザな僕が説明していたものに違いない。そして、その実物をみたとき、あの夏祭りのときに僕が使ったものと同じだった。
込められているのは弾丸ではなく、どうやら『お札』を変形させているものらしい。狙撃されて倒れる緑川軍の男の腹部からは赤く染まった『お札』が見えた。たしかにあの時も、銃弾ではなく、紙が地面に落ちていた。
この『お札』の攻撃を見ていると、刀や矢との大きな差は、どうやら「次の攻撃が予測できないところ」にあるのかもしれない。
通常、刀は振りかぶったり、矢を向けた先の方向である程度、攻撃が来ることが予測できる。
対して『お札』は、呪文を唱えるだけで攻撃ができる陰陽師は予備動作がないため、相手からすると攻撃の予測ができないらしい。
だが、どうやらデメリットも有るようだ。
攻撃を一度終えると、もとの紙に戻ってしまうこと。そして、水に弱いということだ。
さっきから降る雨で陰陽師は攻撃をしているものの、『お札』はすぐに紙に戻ってしまい、不発に終わる攻撃もあった。
こうしてみると、青井軍のほうが人数が少なくなっており、劣勢のようだ。
このような高等技術が歴史の本や文献に残っていないのかと、疑問に感じたがやはりここも現実と伝承では一部異なっているのだろう。
銃の文化は今いる平安時代から随分と時間の経ったあとの室町時代に海外から伝来したと、学校の授業で学んだ。
僕はしとしとと降り続ける雨の中、前髪がくっつくのが気になって手でかき上げた。
「そういえば、僕や美穂さん、親父はどこにいったんだろう。」
あたりを見回していると、ぬかるむ地面が滑りやすくなっており、走るには危ない。小走りで戦いが行われていない茂みの中を通って探し回った。
これもあの時と似ている。夏祭りも図書館帰りも彼女を探したときのこと。
木々に覆われ、探してきた。そして、そんなときに聞こえてくるのはいつも同じだった。
チリン、チリンチリン
そう、この鈴の音だ。二個くらいの鈴が紐に繋がれ、ぶつかり合い、音色。透き通った、軽くて深い、そんな心地よい音。
僕はその音の方へゆっくりと進んでいく。すると、声が聞こえる。
「彼女から手を離すんだ!!!!」
若い男の声だ。
茂みからゆっくりと見てみると、そこには平安時代の僕がいる。隣には親父も立っていた。
「ガナリ、もう終わりにしよう。美穂ちゃんを離してくれないか。」
親父は両手を広げて、交渉をし始めた。
「ここで戦ってもなにもいいことはないですぞ!」
金ちゃんもいる。いつもよりも頼もしい印象だ。
彼らの視線の先には、彼女が男に口を手で抑えられて捕まっている。捕まえている男は木の陰でここから顔は見えない。
だが、緑川氏の軍の男たちと同じように甲冑をしている。どうやら、あいつが緑川軍の大将で何度も彼女を捕まえようとしていた、ガナリというやつらしい。
雨が葉を打つ音にかき消されないよう、彼は親父の交渉に対して、どすの利いた大きな声で怒りを込めながらも、挑発的に話しはじめた。
「ああ、もちろんだ。もうこんな争いにはうんざりだ。母親のほうは姿が見えないが、ここで終わりにしよう。一体、いつになったらお前らは、俺の邪魔をしなくなるんだ!!!」
どうやら、交渉には応じないらしい。
「箱根仙石原の乱からずっともう数十年も彼女とお母様、二人を捕らえようとしている。彼女たちは悪いことをしていない。ただの二人の女だ。一体、お前らの目的は何だ。」
平安時代の僕も訴えている。一体目的は何なのだろう。
ガナリは突然、高笑いをして滑らかに言葉を連ね始めた。
「ハッハッハッ...!お前らはなにも知らないんだな。まずは教えてやろう。俺の目的は不老不死、そう、『永遠の生命』だ。」
「永遠の生命?そんなもの手に入れてなにになる…!」
「うるさい!!!そんなことはお前にはわからないだろう。俺は、天下がほしいんだ。力も名誉も才能もない俺は、地道に努力と緻密な作戦を立てることで着々と上り詰め、やっと這い上がってきた。そして、この前は平和だの安泰だのをほざく、軟弱なこの軍を仕切っていた将軍を殺し、将軍の座を手に入れた。今は俺は天皇にも気に入られ、その命でここまで来ているのだ。」
「他人を殺したって、虚しさが残るだけだ。もちろん、彼女たちを殺すことだってそうだ。人は死が待っているからこそ、命をかけてなにかを手に入れようとできる。たとえ死んでしまっても、その人が与えたものはいいものも悪いものも残り続ける。だから、ここまでにしよう、ガナリ!!」
「陽介、そのとおりだ。だが、寿命を全うしても最後に残るものがなにもないなら、一度掴んだ天下を離さなければいい。この世から離れなければいい。そう思うようになったんだ。だから、こんなところで終わるわけにはいかないんだよ!!!」
そう、言い放ち、ガナリは刀をぬく。彼女を殺すつもりなのか?
「やめろ!!!お前がその『永遠の生命』とやらを手に入れたとて、周りの人は死んでいく。得られるのは孤独感だけだ。それに彼女たちは関係ないだろう!」
ガナリはまた高笑いをした。
「お前ら、こいつら二人がただの女だと思っているのか?」
突然、彼女がバタバタと暴れ出し、口を抑えていたガナリの手を払って、話し始める。
「…ガナリ!そこまでにするのじゃ!その先を言うでない!」
そういうとまた、ガナリは彼女の口を抑えて、話し始める。
「やっぱり、話していなかったんだな。陽介、よく聞け。」
そう言われて僕まで反応してしまいそうになる。
「美穂とその母さんは、不老不死の妖怪、『九尾狐(きゅうびぎつね)』だ。」
その瞬間、雨がやんで雲間から月明かりが差し込んだ。
明かりに照らされ、彼女の背中には透けて見えるほど白く綺麗な九つの尾が伸びていた。
その姿はまるで孔雀のような、花開く花火のような、可憐で美しい姿だった。
「なんだって…そんな…」
青い装束の僕も、茂みに隠れる僕も同じ言葉を口にする。
その様子を楽しそうに眺めながら、ガナリは続けた。
「俺は『永遠の生命』を得るためにどうすればいいか、昔の文献を読み漁った。すると、不老不死の力をもつ九尾狐の肉を食らうことで、『永遠の生命』を得ることがわかった。だから天皇には人ひとりすら殺してないこの二人の九尾狐をあたかも極悪非道の妖怪とすることで、討伐の命が下された。そのどさくさに紛れて、『永遠の生命』を手に入れようという計画だった。」
一拍おいて、噛み締めるように再度口を開く。
「ここまで、時間と沢山の命を犠牲にしてきた。ようやく、ようやくここで終われそうだ。」
ガナリが右手に刀、左手に彼女を抱えて前へ進む。
木陰に隠れていたガナリの顔が見えそうになる。
その瞬間、僕は顔を見る前に慌てて、リュックサックに入っていた図書館で借りた『日本全国家紋一覧書』のページを広げた。
那須殺生石の乱をもう一度読み直すと、『緑川氏(→八十九ページ)』という箇所を文章の中から見つけた。
八十九ページを開くと、僕が副将であることがわかった青井氏の解説と同じように、緑川氏の解説ページがあった。しまった、そこまで読めていなかった。
どうしても自分の名前があって、気が動転してしまい読み飛ばしてしまっていたようだ。
八十九ページ。そこには緑川氏の家紋である、八枚ヒイラギのマークが大きく描かれており、年代順で出来事が並んでいた。
その中の一一二〇年『那須殺生石の乱』に目をやる。
いつも通り、一文字一文字をしっかりと追えるように人差し指の先で文章をなぞって読む。途中まではこれまで読んでいた那須殺生石の乱に関する解説と同じだった。そして途中から緑川氏の解説に差し掛かる。
「この那須殺生石の乱で勝利を収めた。これまで緑川氏を指揮していた冷静沈着な大将とは異なり、気迫ある大声で軍勢を指揮していた。そのため、栃木県佐野市周辺の方言の『がなる』を由来として、『がなり』と呼ばれている。
将軍になった年の初め、元々あった緑川宗四郎から、周囲から呼ばれていた『がなり』に由来して『が=雅』、『なり=也』と書いて……」
僕は次の文を見た。信じられず、すかさず顔を上げる。その文には、こう書かれていた。
「『 緑川 雅也 』へと名前を変えた。」
そこにいたのは完全に、あの雅也だった。
僕は、呼吸を忘れるほど驚く。
「嘘だろ……?」
高校一年生からの日々はなんだったんだ。
僕は膝から草原に崩れ落ちる。伸びた葉が僕の体重で押し潰される。
休み時間にサッカーをしたことやくだらないおしゃべりをして笑ったこと、江ノ島にみんなで水族館に行ったこと。次から次へと走馬灯のようにこれまでの思い出が蘇ってくる。
何にもないけど、何もかもがあった、今日までの時間は全て演技だったのかよ。
これまでの思い出が裏切られた、そんな気持ちになった。
驚いている暇もなく、ガナリは刀を彼女の首に近づけた。
「陽介、ここまでにしよう。お前らはこの争いに敗北し、俺はこいつの肉を食って不老不死になる。それで丸く収まるじゃねえか。お前ら二人の命を助けてやろう。だからもう、これで終いだ。」
そういって、刀を振り上げる。その瞬間、彼女は手を振り払い陽介や親父のいる方へ走り出した。
「…陽介…ようすけ!」
チリン、チリンチリン
彼女が身につけている二つの鈴が鳴った。そのワンシーンがまるでスローモーションのように感じる。彼女が逃げた瞬間に飛びかかるガナリ。距離を縮め、徐々に近づく刀。
陽介や親父も動き出したが、間に合わない。
その瞬間、茂みから別の影が飛び出した。
影は彼女を突き飛ばし、かばう形でガナリの刀を受けた。刀身はその影を貫き、影は倒れ込んだ。ガナリは親父に突き飛ばされ、木に激突する。脳震盪を起こしているようで、立ち上がれなかった。
突き飛ばされた彼女は起き上がるとすかさず、その影の元へ駆け寄る。
「お母さん…なんで……!!!」
泣きながらぐったりと横たわる母親を膝の上に抱えては、溢れ出す患部に優しく手を置いて話しかける。
「ごめんね、美穂。ずっとそばにいてあげられなくて。こうするしかなかったの。」
「いやだよ、お母さん。だって、私これから先、一人ぼっちになっちゃうんだよ。」
「大丈夫、あなたには彼がいる。それにまだ幼いあなたは『妖狐の呪い』をまだ使いこなせない。だからこれでいいのよ。」
「お母さん…いかないでよ…」
彼女は母を抱きしめ、泣き続けた。
その様子をものともせず、ガナリは横たわったまま話し続ける。
「チッ、欲を言えば九尾狐の肉が欲しかったんだが、九尾狐を殺めたときに発生する『妖狐の呪い』も悪くない。なぜなら、この場にいる全員が今の年齢に加え、1000年の寿命を得られるのだからな…!」
「クソっ、最悪の事態だ。」
親父は悔しがる。
彼女の母は少しずつ吐く息が荒く、弱々しい声になっていく。
「いい?美穂。前にも教えたでしょ。確かにこの呪いをかけられてしまうと、かけられた者は千年の寿命を得てしまう。一緒に翔さんや金さんにも呪いをかけるから、だから彼らの寿命が尽きるまでは彼に守ってもらいなさい。そして、あなたは不老不死の身である九尾狐。その不老不死を解くの。方法は覚えているわね?」
「前に言ってた、『契り(ちぎり)』のこと?」
「そう。あなたは呪いをかけられていない愛する人と『契り(ちぎり)』を結ぶことで不老不死の身から解放される。その瞬間にその身は天へと昇ってしまうけれども、永遠の孤独よりも辛くはないの。だから翔さん、前にお願いしていたこと、できるかしら。」
その言葉を聞くなり、親父は立ち上がり、雨に汚れた青い装束の平安時代の僕に呪文を唱え始めた。
普段攻撃する紫色の炎とは異なり、『お札』は金色に光りだして、身体に張り付いた。すると、全身が光りに包まれる。
「親父、俺になにするんだよ!!!」
「陽介、すまないがお前だけは『妖狐の呪い』にかかるわけにはいかない。美穂ちゃんを救ってほしいからだ。お前は呪いにかからぬよう、九百年ほど眠ってもらう。その時には、これまでの記憶は全て無くなってしまうけれども、必ず思い出せるようこの場所に残しておくから。」
「そんな、俺もガナリと戦わなくちゃ...!親父だけに背負わせるわけには行かない!!!」
訴えるのを横目に、母親は優しく応える。
「陽介さんの記憶は私が責任持ってお預かりいたします。だから、美穂を頼みますね。」
「すまないな、俺達の勝手でお前を巻き込ませてしまって。だから、未来で彼女を笑顔にさせてやってほしい。お前にしかできないことなんだ。」
そういうと、金色の光が彼を浮かせた。
その途端、彼女の母親は赤いオーラを放つ。
金ちゃんや親父、そして横たわっているガナリが赤く光った。
「お母さん...!行っちゃ嫌だよ!一緒にいて。」
彼女は母親の服を握りしめるが、赤いオーラは消えない。母親は最後の力を振り絞って微笑んだ。
「花火、みてみたかったんでしょ?でもね、花火は対妖怪用に作られたものなの。花火を目にすると体が焼けるような苦痛に襲われる。この身は不老不死だから永遠に苦しみ続けてしまう。だけど、これも『契り』を結んだ瞬間から効かなくなるわ。あなたはこれからも一人ぼっちじゃない。きっと、あなたなら大丈夫。」
そう言うと、赤いオーラは消え、母親の身体は大きく丸い石となってしまった。
「お母さん……お母さん……」
泣き続ける彼女。ガナリが遠くから満足そうな声で話しはじめた。
「ついに、ついにやったぞ!!!まだ実感は湧かないが、これからあと千年生きることができるぞ。これですぐに天下を取り、その間にもう一体の九尾狐を食らってやるぞ。」
言い終わらないタイミングで親父が飛び出し、ガナリの喉元に小刀状にさせた『お札』を突きつけていた。
「それを俺が阻止するっつってんだろ。」
こんな口調になる親父を初めて見た。相当怒りが込み上げているのだろう。
「翔てめえ。お前はさっき右足の神経切ってんだから、もう歩けないはずだろ‥!」
「俺にはまだ左足がある。そして、もしなくなろうとも、
這いつくばってでも、陰陽師としての使命を果たしてみせる……!!!だから安心て眠るんだ、陽介。」
そうしているうちに、平安時代の僕の体の光が強くなった。彼女はすぐにそれに気がつき、光の元へ駆け寄る。
「美穂、僕はしばらく眠るみたいだ。目覚めた時には、君を忘れてしまっているらしい。」
「いやじゃ、陽介まで行かないで!私を一人にしないでくれ!」
「ひとりじゃないさ、親父だって金ちゃんだっている。九百年経ったら、必ず会えるから。」
「それまで待っていろというのか!あんまりじゃないか!あんまりだ…」
ぼくは優しく笑って、問いかける。
「花火、見たいんだろう。花火の色って何色か知ってるか?」
「また次会えたら九百年後の夏、一緒に花火をみよう。」
その意味を察した彼女は、キョトンとした。そして、涙を拭きながら、いう。
「…絶対、絶対じゃぞ?約束じゃからな!」
その声にああ、と言ってうなづき、親父へ話しかけた。
「父さん、あとは僕の体頼みました。」
「おう、安全な場所に運んでおくから、ゆっくり休んでいろよ。また、900年後な。」
そういって、優しく微笑みながら目を閉じると、ふわりふわりと浮いていた青い装束は、ゆっくりと地面に降りて、横になってしまった。
突然、僕の手のひらに水滴が落ちるのを感じた。
空を見上げると、雲一つない。月が横たわる平安時代の僕の寝顔を照らす。
彼女は、金ちゃんに飛びついて泣きじゃくっていた。
「あれ、涙?」
僕はいつの間にか、涙が溢れていたことに気がつく。
自分の両手を見ると、涙の雫がシワの線に沿って広がっている。
雅也が宿敵の大将だったこと。彼女達が九尾狐だったこと。彼女の母が封印されることによって、殺生石ができたこと。僕がそこで眠って、もう九百年は目覚めないこと。
驚いたこと、悲しかったこと、その全てが一気に押し寄せてきた。
そう思うたび、僕の両手は小刻みに震えながら、涙を流している。
そうか、この体は九百年も前に生まれたのか。
でも、ずっと眠っていたから、普通の高校三年生と同じ歳の取り方をして、中身の僕も変わらないのか。
そして、たくさんのものを失って、悲しかったんだよな。
やっと、僕に出会えた。
そう思った途端、後ろから物音がする。
振り向くと足元にさっきも見た黒く丸い穴ができていた。
もう、現実に戻る時間なんだ。
僕は、もう一度、泣きじゃくる彼女の背中を見て心の中でつぶやく。
「これから会いに行くから。」
息を吸い込むと、丸い穴に視線を戻して飛び込んだ。
―――
目を覚ますと、この記憶の旅を始めた場所に戻ってきた。あの、匂いも味もない、真っ白で何もない空間だ。
そこでふわふわと漂っていると、後ろからトントンと肩を叩かれた。
まるで無重力の宇宙船の中で浮遊する宇宙飛行士のように、ゆっくりと体を回転させて振り向くと、そこには僕と同じ顔の男がいた。
「やあ、やっと会えたね。僕。」
服装は青色の装束で、この漂う空間に袖をゆらゆらとゆらめかせながら浮いていた。
「うん、長い間待たせてごめん。」
やっと挨拶できた。こいつは、平安時代の僕だ。
「過去を忘れていたお主には、少々苦しい話だったろう。無理に全てを一度に受け入れる必要はない。少しずつでも構わぬ。」
「いや、今すぐに受け入れなきゃだめなんだ。そうじゃなきゃ、僕は彼女に会えない。」
「彼女とは、美穂のことか?」
「うん、ずっと待っていてくれたんだろ?1人で不老不死を背負わされていたんだろ?」
「ああ、本音を言うと今すぐにでも解放してやって欲しい。」
少し俯いて、彼は言う。
「だがな、お主は今十八歳の男に過ぎない。例え、体は九百年経っていようとこの世で過ごした時間は短く、まだまだ若い。」
「だからな、ちゃんとお主自身と向き合って欲しいんだ。もちろん、私もお主なのだがな。ガナリと決着をつけなくてならない。でも、私は彼がどうしても一人ぼっちで寂しそうに見えてしまう。憎いかもしないが、どうか生かしてはくれぬか。」
なんだ、わかっていたのか。
「ああ、僕も同じことを考えていたんだよ。実は彼は現代では僕の親友なんだ。だからこそ、ちゃんと向き合って本音をぶつけたいと思った。正直、彼女を狙っていたことも許せない。でもただの憎しみじゃなくて、友として、ちゃんとぶつかっておきたいんだ。それが僕のためだと思うから。」
「中学時代、僕はサッカーのディフェンスで、後ろを守っていた。対して彼はチームのエースストライカーで運動神経も抜群。その姿を見ていた時、ずっと彼が点を取れるように僕が後ろで守りたい、見守りたいと思ってた。でもそれは違って、本当はどこかで彼に敵わないと思っていた。だから僕は、高校で避けるように、逃げるように帰宅部を選んだ。」
「諦めてた自分が悔しくて、ちゃんと向き合えてなかった。それに気づかせてくれたのも君だった。努力を重ねて副将まで登り詰めた姿を見て、ちゃんと諦めなきゃよかった、気持ちに素直になればよかったって思ったんだ。もちろん、君も僕だから。」
「だから、ありがとう。」
彼もふふッと青く長い袖で口元を隠して笑い、話し始めた。
「私はそのお主が言う『サッカー』なるものを存ぜぬが、ちゃんと自分が目指したかったものに気がつけたならそれでいい。平安の世も未来の世もどちらもお主が歩んだ人生という道なのだから。」
「今ここは精神と記憶の空間だ。もうすぐ現世に戻ることになり、私もお主の中にとどまり続ける。しかし、こうやって話すことはなくなる。あくまで記憶の集まりだからな。」
「でも、私はこれからもずっとお主であり、お主の理解者であり、お主の1番の味方であり続けたい。だから、きっと大丈夫だ。そして、言い忘れていたが…」
僕はその言葉を聞いて、驚く。でも、決めたことだ。
「そうか、教えてくれてありがとう。ここで君と、ちゃんと話せてよかった。」
「ああ、そして、きっとお主もわかっていることだろうが、ひとつ願いを言わせて欲しい。」
彼、いや、僕は息を吸って言った。
「彼女に、美穂に花火の色を教えてあげてほしい。」
何かと思ったらそんなことか。そう思って、僕は笑った。
「ははっ、そうか。でもあいにく、僕はね」
僕は笑うのをやめて、まっすぐ見つめながら言った。
「初めからそのつもりで、ここに来ていた。」
青い装束は徐々に消えていく、海に溶けてゆく砂の城のように下から段々と。
「うむ、それならよかった。くれぐれも気をつけるんだぞ。」
「ああ、ありがとう。これからもよろしく。」
頷くのを見届けると跡形もなく消えていった。残された僕は急に視界が明るくなり、思わず目をつぶった。
―――
「おっ、やっと目覚めたか。どうだったかい?九百年の記憶の旅は。」
目を覚ますと僕は草原の上に仰向けで寝転んでいて、青い空をバックに親父がこちらを覗き込んでいた。
「ああ、父さん。ずっと彼女を守ってくれて、そして僕を待っててくれてありがとう。」
親父は、ははっと笑って、言う。
「ああ。記憶の旅から帰ってくるのを待つなんて、これまでの900年と比べれば朝飯前だったからな。」
僕は起き上がって、後頭部についた細い草を払った。
いつの間にか後ろには木があり、木陰が夏の日差しから守ってくれていた。親父が運んでくれたのだろうか。
遠くで殺生石が陽の光に照らされていた。
「気持ちは整ったか。」
ぼーっと遠くを見つめていた僕に、両方の腕を腰に手を当てて、様子を見ていた親父が声をかける。
「辛いだろうが、俺たちはアイツに勝たなきゃいけない。」
僕は唾を呑んで、顔を上げた。
「うん、大丈夫。ひとりじゃないから」
これが大人なのだと、知った。
例え、恨んでも悔しくても悲しくても。
それが運命なのだから。
大人は辛いんだと初めて知った。
小さい頃はなんとなく、早く大きくなりたいと感じていた。なんでも買えて、なんでも自分で決められるから。でも、現実はもっと狭くて自分が出来る範囲もさほど変わらない。
ただ、少し長く生きて、身長が大きくなっただけなのだ。
そうやって、僕は深呼吸をする。やっと片足ずつ膝を立てて立ち上がった。
「雅也のことや美穂さんのこと、みんなにかけられた呪いのこと。僕はたくさん感じたこと、言いたいことあるけれど、でも、僕は見なきゃいけないものを見るって決めたから。僕にしかできないことを、やらなきゃいけない。」
「ああ、偉いな。お前はあの頃と根っこの部分は変わらない。でも俺はな、ちゃんと自分のことも大切にしてほしいと思うんだ。青井軍の将軍として、そして、お前の1人の父親として。」
「ありがとう。ちゃんと伝えたい想い、遂げたいこと、全部自分のために大切にしたいと思うんだ。」
親父は話が終わると小さく頷いて、微笑む。
僕はこの人の息子でよかった。
この場所は昼にもかかわらず、蝉の鳴き声もしない、静かな場所だ。
時間の経過がわからないほどに。
ん?時間の経過がわからないほどに?待てよ。
「父さん、今日って何月何日で今は何時?」
「ん?今日は八月二十二日で、今は十一時半だ。お前はちょうど半日も記憶の旅に出てたんだぞ。思ったよりも時間がかかってな。」
「父さん。今日、横浜の花火大会の日だ。」
僕は横浜に戻らなくてはいけない。
あの約束した、花火大会が今日だったなんて。
ガナリが、雅也が彼女を捕らえてしまうかもしれない。
「花火って、あの美穂ちゃんと約束してた、あれか?」
「そう、九百年後って今日なんだよ。花火は十八時半からで、ここから大体五時間はかかるから…もう行かなきゃ!」
慌てる僕を見て、父さんはびっくりしていた。
「もう行っちゃうのか。終わったら、ご飯でも行こう。九百年ぶりに話せてよかった。応援してるからな。」
「うん、ありがとう。父さんにまた会えてよかった。」
僕はそう言って、緩やかな丘を小走りで下り始めた。
振り向いて手を振る。
だんだんと小さくなる親父は、片手で大きく手を振り返した。その姿の向こうには、綿菓子のような入道雲が山の頭から顔を出していた。
僕は風を切って、昨日の夜来た森の道を駆け抜けた。
木漏れ日が僕の視界を明るく、暗くしてくる。だんだんと蝉の声が大きくなる。なんだか、日常に戻ってきたみたいだ。
でも、来る時よりも大股で胸を張って進んでいる。そんな気がする。
汗を拭きながら、僕は横浜へ帰る電車に乗った。
―――
ずっとドロドロとした液体の中に浮遊しているようだった。手で掻いても何も掴めず、息を吸っても苦しいわけでもなく、ただただ永遠とゆっくりと体が沈んでいくような感覚。
あたりは匂いも味もしない、真っ白な空間。
何もない、というのはまさにこのことだろう。
すると、視界の先で金平糖ほどの光が見え、声がする。
「…陽介…ようすけ!」
誰かが僕を呼んでいる。
きっとこの透き通った声は美穂さんだ。
「…美穂?美穂なのか?僕は、僕はここだ!!!」
思いっきり叫んで応えても、返事はない。
すると、突然視界が暗くなり沈む速度が早くなった。
まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように加速する。
その先には丸く穴が空いているのが見え、僕はその穴に吸い込まれるように落ちてゆく。
「待ってて、今、会いにいく!!!」
穴を抜けると、急に視界が開ける。
飛び込んできた景色は夜の森の中。
「わっ、ちょっ、ちょっと!!!このまま落ちるの!?止まってくれーー!!!」
落ちていく速度はそのままで、木々にぶつかりながら勢いよく地面に叩きつけられる。
とても痛い。
「…ッ痛ぇ」
尻の右側を打撲した。
痛かったが、あの高さから落ちた割には大怪我にはならなかった。
辺りを見渡すと、街灯ひとつもなく月明かりだけがたよりの生え放題の茂みの中。あの夏祭りのときに彼女がさらわれた、神社の裏にある森に似ている。
「ねぇ、陽介殿も明後日の緑川との争いに守りに来てくれるんじゃろ?」
彼女だ。
こっそり茂みの中から彼女の声のする方へゆっくり歩み寄り、盗み見る。
横たわった大きな丸太の上に、綺麗に膝をそろえて彼女が座っている。
その服装はもちろんいつもの高校の制服ではなく、綺麗や赤や緑を基調としたいくつかの浴衣みたいなものを重ね着した、歴史の教科書なので平安貴族がよく身に纏っている雛人形のような十二単(じゅうにひとえ)とかいうやつよりももっと身軽なバージョンのものを着ている。
丈は大体、正月などで神社の巫女さんが着てるような白い装束くらいだ。それにしても身軽なバージョンに見えるが、こんなに重ね着をしていたなんて、今よりずっと動きづらかったに違いない。
また、膝の上には麦わら帽子のように肌色の木を編んでできたツバの長い頭から被る笠のようなものを持っている。笠からは体を覆い隠すような薄い布が付いていることから、人の目に触れぬようにこっそりやってきたのだろう。
和服の彼女もとても綺麗だ。どこか大人っぽくて、透き通った肌によく似合っている。
いつもよりも笑っていて、隣に座っている男に肩をピッタリとくっつけて、前のめりに話しかけている。隣に目をやると、その顔は僕と瓜二つの男だった。
あれは多分、僕だ。
眉毛を整え、頬を赤らめながら彼女の隣で大きな丸太に男が座っている。視線を合わせられるように前屈みで話をしている。やっぱり僕だ。
服装はひな人形のお内裏様の服装に近くはあるが、布は重ねておらず、身軽なもののようだ。だが、現代の服と比べると全体的に袖や裾はダボッとしていて少し動きにくそうな気がする。
それにしてもなんて楽しそうに話しているのだろう。今の僕と比較しても誠実ですごく頼もしい様子をしているが、その表情は頬が緩んでしまっており、全体的にフニャフニャとしている。普段僕も彼女と話す時にあんなにニコニコしているのだろうか。なんだか恥ずかしい。
この瞬間、僕は僕の関わった過去の出来事を客観的に見ていることを理解した。それでもまだ尻が鈍く痛む。着地方法はなんとかして欲しいと思った。
そんな時間や空間、意識を超えるこのシステムに対するクレームはこの辺りにしておいて、二人の会話に耳を傾ける。
周囲はコオロギのコロコロとした声が響いているが、辺りは静かで4.5メートル離れていても聞き取ることができた。この時期の日本は今よりも涼しくて、夜は半袖では少し寒い。
「なあなあ、聞いておるのか?緑川の争いにお主も来るのかと聞いておる。」
頬を緩ませて、少しボーッとしている僕は彼女に左腕を掴まれ、体全体を揺らされている。
「ああ、ついぼんやりとしてしまっていた。明後日のことか?そのことならもちろん、いくさ。しかも今回は、我が青井軍の副将を初めて務めるんだ。」
「なんと!それなら安心じゃ。お主がいると心強いからな。」
「そんな、すごいことと思わなくて良いよ。天皇に圧をかけ、半強制的に私と母を討伐する命令を出し、身の危険に晒している奴らを懲らしめるだけだ。それに副将としての初陣も楽しみなんだ。」
「これまでそれを目標として努力を積み重ねていたからの。きっと毎日、矢の稽古の様子を、お父上は見ていたのじゃろう。」
「そうだといいんだけどな。それに、今回は青井軍はとっておきの秘密道具を開発し、密かに使用する予定なんだ。その道具の名は銃といって、この時代の日本ではどこにも使われていない代物だ。海外では使われているようだが、技術がないからな。だから陰陽師のちからと掛け合わせることで、銃に近い武器を作ったのだ。このことは内緒だぞ?」
そう伝えると右手の人差し指を彼女の口先にあてる。
僕はあんなにキザな男なのか。なんだか不思議な気持ちだ。
あと、彼女は平安時代の話し方っぽいが、僕の方はあんまり古風な雰囲気はないな、と思った。
もっと平安時代のドラマとかを思い浮かべると、当時の上品な話し方のイメージが強い。想定していたよりも、意外とフランクな感じだ。
「わかった。この争いが終わったら、その、一緒に見たい景色があるんじゃが、その、二人きりで見るのを約束してはくれぬか?」
上目遣いでもじもじしながら、お願いをしている。あれは彼女が恥ずかしがりながら、相談する時の癖だ。やはり、彼女は彼女に違いない。
「ああ、わかった。それまでは、ガナリの手中に渡るんじゃないぞ。」
「それは、陽介様が守ってくださるのではないのですが?」
いたずらっぽくニヤニヤとしながら、彼女はからかっていた。
「ああ、これは一本取られたな。」
彼も楽しそうに高笑いをした。
「でも、なにかあったときのために私の『お札』を渡しておこう。陰陽師でないと、術は使えないがお守りとして持っているといい。」
彼女は、嬉しそうに両手で受け取り、胸元で宝物をもらったときのように抱きしめていた。
夜は更け、虫の声が静かになりだした頃。彼らはその場で分かれ、それぞれの場所へ戻っていった。
状況を整理すると、彼女と僕はこの平安時代に出会っていた。おそらく今日は那須殺生石の乱が起こる二日前の夜。
そしてこの争いは、あの本(現代に置いてきてしまったのだが、)に載っているような、悪を討伐するための正義感あふれる争いではなく、彼女とその母親を危険に晒す争いであることがわかった。
つまり、現実と伝承は大きく異なっているということがわかった。
顎に手を当て、頭の中で状況を整理しながら立ち上がると、突然、地面が揺れ始める。定まらない視点、ふらつく足元。
バランスを崩すと、僕はいつの間にかできていた、ぽっかりと空いた黒く底の見えない穴へと吸い込まれていく。
背中から落ちてしまい、後ろから風を受けながら真っ逆さまに落ちていく。さっきまでいた場所の空は丸いまま遠ざかって、徐々に小さくなっていく。
―――
今度は最初ほど浮遊した感覚の時間は短くなり、あっという間に別の穴が開いた。
穴が開くなり、また突然地面がみえる。ああ、これまた痛くなるやつかもしれない。
そう思っているうちにいつの間にか、またしても地面に叩きつけられた。
「…ッいてえ!やっぱり、これどうにかしてほしいな…」
また同じ右側の尻を打ったため、手で擦りながら立ち上がる。
立ち上がると、そこは先ほどまでいた平原だった。
しかし、あの月の下で風が吹いていた、穏やかな平原ではない。まさに戦場だった。
あの爽やかな香りを連れてきてくれる優しい風は、双軍の旗を音をたてて揺らめかせるほど強く吹き、鳥肌を立たせるほどの冷たい風となっていた。
辺り一面で薙刀や刀の打ち合い、矢が飛び交うなど起き、青い装束の人もいれば、こどもの日のときに飾る武士の兜のような甲冑(かっちゅう)の鎧を身に着けていた人が男たちが声を荒げて戦っている。
先ほどまで雨が降っていたのか地面はひどくぬかるんでいて、ひづめの足跡をくっきりと残すように、力強く戦場を駆け巡らせる馬に乗った人もいた。
「これが、戦争。」
僕は、記憶にある限りでは、初めて戦争を目の当たりにした。
歴史の教科書や資料集でその様子の絵や写真を見たことがある。また、歴史の出来事を主題にした映画やドラマの戦うシーンを見たこともある。
しかし、いずれも比べ物にならないほど恐ろしく、一人一人がたった一度の失敗やすれ違いでも命を落としてしまうような危険さを知った。
僕は足がすくみ、すぐには動くことができなかった。みんなそれぞれに家族がいるというのに、なぜこんな争いをしてしまうんだろう。
止めに行きたくとも、その規模の巨大さや感情のぶつかり合いに押され、無力であることを感じる。そのために、もう二度と繰り返さぬように歴史は学び、受け継がれるのだろう。
僕はやっと、心を落ち着かせ、矢に当たったり敵だと思われ誤って襲われぬよう、茂みに隠れながらその様子を見ていた。
「しかし、よくもまあ、僕はこの戦いの中で副将を務められたもんだなあ。」
自分の事という実感はわかぬまま、まるで他人事のように感心をしてしまった。
まずは、どちらの軍が青井氏で、どちらが緑川氏なのだろうか。
よくよく戦い方を見てみると、甲冑をつけ刀を振り回している、まさに武士のイメージどおりの男たちが頭や腕にしている鉢巻と揺らめいた旗が同じ緑色だ。
さらに、旗には大きく八枚のヒイラギが真ん中に刺繍されている。おそらく、こっちが緑川氏だろう。
そしてもう一方をみてみると、ほとんど甲冑をつけている様子はなく、青い装束のまま争っていた。
前の場面で平安時代の彼女と丸太に座って話していたときの格好とよく似ている。このことからおそらく、こっちが青井氏だろう。ただ、緑川氏とは戦い方は全く違う。
彼らは、なんと、全員メモ用紙くらいの長方形の紙である。
その表面には筆で呪文のような文字が書かれており、独特のデザインだ。
おそらくこれが出発前に親父が言っていた『お札』なるものだろう。
一見、強度もない紙だけで戦うのは不利なように思える。
しかし、陰陽師である青井軍にとっては最大の武器のようだ。
彼らは左手で祈りを込めるように、念仏のような言葉をひたすら唱え続けていた。
応えるように『お札』は、紫色の炎を纏わせて浮遊し、呪文を唱え終わった途端に勢いよく一枚一枚矢のように飛んでいく。
また、刀で攻撃されたり時には何枚も重なって棒状に変形し、棒のように固くなって攻撃を受けたりするなど自由に変形させてたりもした。
その魔法のような力を目の当たりにして驚いていると、青井軍の後方から放たれる遠距離の攻撃が気になった。
それは「銃」だ。一つ前の場面でキザな僕が説明していたものに違いない。そして、その実物をみたとき、あの夏祭りのときに僕が使ったものと同じだった。
込められているのは弾丸ではなく、どうやら『お札』を変形させているものらしい。狙撃されて倒れる緑川軍の男の腹部からは赤く染まった『お札』が見えた。たしかにあの時も、銃弾ではなく、紙が地面に落ちていた。
この『お札』の攻撃を見ていると、刀や矢との大きな差は、どうやら「次の攻撃が予測できないところ」にあるのかもしれない。
通常、刀は振りかぶったり、矢を向けた先の方向である程度、攻撃が来ることが予測できる。
対して『お札』は、呪文を唱えるだけで攻撃ができる陰陽師は予備動作がないため、相手からすると攻撃の予測ができないらしい。
だが、どうやらデメリットも有るようだ。
攻撃を一度終えると、もとの紙に戻ってしまうこと。そして、水に弱いということだ。
さっきから降る雨で陰陽師は攻撃をしているものの、『お札』はすぐに紙に戻ってしまい、不発に終わる攻撃もあった。
こうしてみると、青井軍のほうが人数が少なくなっており、劣勢のようだ。
このような高等技術が歴史の本や文献に残っていないのかと、疑問に感じたがやはりここも現実と伝承では一部異なっているのだろう。
銃の文化は今いる平安時代から随分と時間の経ったあとの室町時代に海外から伝来したと、学校の授業で学んだ。
僕はしとしとと降り続ける雨の中、前髪がくっつくのが気になって手でかき上げた。
「そういえば、僕や美穂さん、親父はどこにいったんだろう。」
あたりを見回していると、ぬかるむ地面が滑りやすくなっており、走るには危ない。小走りで戦いが行われていない茂みの中を通って探し回った。
これもあの時と似ている。夏祭りも図書館帰りも彼女を探したときのこと。
木々に覆われ、探してきた。そして、そんなときに聞こえてくるのはいつも同じだった。
チリン、チリンチリン
そう、この鈴の音だ。二個くらいの鈴が紐に繋がれ、ぶつかり合い、音色。透き通った、軽くて深い、そんな心地よい音。
僕はその音の方へゆっくりと進んでいく。すると、声が聞こえる。
「彼女から手を離すんだ!!!!」
若い男の声だ。
茂みからゆっくりと見てみると、そこには平安時代の僕がいる。隣には親父も立っていた。
「ガナリ、もう終わりにしよう。美穂ちゃんを離してくれないか。」
親父は両手を広げて、交渉をし始めた。
「ここで戦ってもなにもいいことはないですぞ!」
金ちゃんもいる。いつもよりも頼もしい印象だ。
彼らの視線の先には、彼女が男に口を手で抑えられて捕まっている。捕まえている男は木の陰でここから顔は見えない。
だが、緑川氏の軍の男たちと同じように甲冑をしている。どうやら、あいつが緑川軍の大将で何度も彼女を捕まえようとしていた、ガナリというやつらしい。
雨が葉を打つ音にかき消されないよう、彼は親父の交渉に対して、どすの利いた大きな声で怒りを込めながらも、挑発的に話しはじめた。
「ああ、もちろんだ。もうこんな争いにはうんざりだ。母親のほうは姿が見えないが、ここで終わりにしよう。一体、いつになったらお前らは、俺の邪魔をしなくなるんだ!!!」
どうやら、交渉には応じないらしい。
「箱根仙石原の乱からずっともう数十年も彼女とお母様、二人を捕らえようとしている。彼女たちは悪いことをしていない。ただの二人の女だ。一体、お前らの目的は何だ。」
平安時代の僕も訴えている。一体目的は何なのだろう。
ガナリは突然、高笑いをして滑らかに言葉を連ね始めた。
「ハッハッハッ...!お前らはなにも知らないんだな。まずは教えてやろう。俺の目的は不老不死、そう、『永遠の生命』だ。」
「永遠の生命?そんなもの手に入れてなにになる…!」
「うるさい!!!そんなことはお前にはわからないだろう。俺は、天下がほしいんだ。力も名誉も才能もない俺は、地道に努力と緻密な作戦を立てることで着々と上り詰め、やっと這い上がってきた。そして、この前は平和だの安泰だのをほざく、軟弱なこの軍を仕切っていた将軍を殺し、将軍の座を手に入れた。今は俺は天皇にも気に入られ、その命でここまで来ているのだ。」
「他人を殺したって、虚しさが残るだけだ。もちろん、彼女たちを殺すことだってそうだ。人は死が待っているからこそ、命をかけてなにかを手に入れようとできる。たとえ死んでしまっても、その人が与えたものはいいものも悪いものも残り続ける。だから、ここまでにしよう、ガナリ!!」
「陽介、そのとおりだ。だが、寿命を全うしても最後に残るものがなにもないなら、一度掴んだ天下を離さなければいい。この世から離れなければいい。そう思うようになったんだ。だから、こんなところで終わるわけにはいかないんだよ!!!」
そう、言い放ち、ガナリは刀をぬく。彼女を殺すつもりなのか?
「やめろ!!!お前がその『永遠の生命』とやらを手に入れたとて、周りの人は死んでいく。得られるのは孤独感だけだ。それに彼女たちは関係ないだろう!」
ガナリはまた高笑いをした。
「お前ら、こいつら二人がただの女だと思っているのか?」
突然、彼女がバタバタと暴れ出し、口を抑えていたガナリの手を払って、話し始める。
「…ガナリ!そこまでにするのじゃ!その先を言うでない!」
そういうとまた、ガナリは彼女の口を抑えて、話し始める。
「やっぱり、話していなかったんだな。陽介、よく聞け。」
そう言われて僕まで反応してしまいそうになる。
「美穂とその母さんは、不老不死の妖怪、『九尾狐(きゅうびぎつね)』だ。」
その瞬間、雨がやんで雲間から月明かりが差し込んだ。
明かりに照らされ、彼女の背中には透けて見えるほど白く綺麗な九つの尾が伸びていた。
その姿はまるで孔雀のような、花開く花火のような、可憐で美しい姿だった。
「なんだって…そんな…」
青い装束の僕も、茂みに隠れる僕も同じ言葉を口にする。
その様子を楽しそうに眺めながら、ガナリは続けた。
「俺は『永遠の生命』を得るためにどうすればいいか、昔の文献を読み漁った。すると、不老不死の力をもつ九尾狐の肉を食らうことで、『永遠の生命』を得ることがわかった。だから天皇には人ひとりすら殺してないこの二人の九尾狐をあたかも極悪非道の妖怪とすることで、討伐の命が下された。そのどさくさに紛れて、『永遠の生命』を手に入れようという計画だった。」
一拍おいて、噛み締めるように再度口を開く。
「ここまで、時間と沢山の命を犠牲にしてきた。ようやく、ようやくここで終われそうだ。」
ガナリが右手に刀、左手に彼女を抱えて前へ進む。
木陰に隠れていたガナリの顔が見えそうになる。
その瞬間、僕は顔を見る前に慌てて、リュックサックに入っていた図書館で借りた『日本全国家紋一覧書』のページを広げた。
那須殺生石の乱をもう一度読み直すと、『緑川氏(→八十九ページ)』という箇所を文章の中から見つけた。
八十九ページを開くと、僕が副将であることがわかった青井氏の解説と同じように、緑川氏の解説ページがあった。しまった、そこまで読めていなかった。
どうしても自分の名前があって、気が動転してしまい読み飛ばしてしまっていたようだ。
八十九ページ。そこには緑川氏の家紋である、八枚ヒイラギのマークが大きく描かれており、年代順で出来事が並んでいた。
その中の一一二〇年『那須殺生石の乱』に目をやる。
いつも通り、一文字一文字をしっかりと追えるように人差し指の先で文章をなぞって読む。途中まではこれまで読んでいた那須殺生石の乱に関する解説と同じだった。そして途中から緑川氏の解説に差し掛かる。
「この那須殺生石の乱で勝利を収めた。これまで緑川氏を指揮していた冷静沈着な大将とは異なり、気迫ある大声で軍勢を指揮していた。そのため、栃木県佐野市周辺の方言の『がなる』を由来として、『がなり』と呼ばれている。
将軍になった年の初め、元々あった緑川宗四郎から、周囲から呼ばれていた『がなり』に由来して『が=雅』、『なり=也』と書いて……」
僕は次の文を見た。信じられず、すかさず顔を上げる。その文には、こう書かれていた。
「『 緑川 雅也 』へと名前を変えた。」
そこにいたのは完全に、あの雅也だった。
僕は、呼吸を忘れるほど驚く。
「嘘だろ……?」
高校一年生からの日々はなんだったんだ。
僕は膝から草原に崩れ落ちる。伸びた葉が僕の体重で押し潰される。
休み時間にサッカーをしたことやくだらないおしゃべりをして笑ったこと、江ノ島にみんなで水族館に行ったこと。次から次へと走馬灯のようにこれまでの思い出が蘇ってくる。
何にもないけど、何もかもがあった、今日までの時間は全て演技だったのかよ。
これまでの思い出が裏切られた、そんな気持ちになった。
驚いている暇もなく、ガナリは刀を彼女の首に近づけた。
「陽介、ここまでにしよう。お前らはこの争いに敗北し、俺はこいつの肉を食って不老不死になる。それで丸く収まるじゃねえか。お前ら二人の命を助けてやろう。だからもう、これで終いだ。」
そういって、刀を振り上げる。その瞬間、彼女は手を振り払い陽介や親父のいる方へ走り出した。
「…陽介…ようすけ!」
チリン、チリンチリン
彼女が身につけている二つの鈴が鳴った。そのワンシーンがまるでスローモーションのように感じる。彼女が逃げた瞬間に飛びかかるガナリ。距離を縮め、徐々に近づく刀。
陽介や親父も動き出したが、間に合わない。
その瞬間、茂みから別の影が飛び出した。
影は彼女を突き飛ばし、かばう形でガナリの刀を受けた。刀身はその影を貫き、影は倒れ込んだ。ガナリは親父に突き飛ばされ、木に激突する。脳震盪を起こしているようで、立ち上がれなかった。
突き飛ばされた彼女は起き上がるとすかさず、その影の元へ駆け寄る。
「お母さん…なんで……!!!」
泣きながらぐったりと横たわる母親を膝の上に抱えては、溢れ出す患部に優しく手を置いて話しかける。
「ごめんね、美穂。ずっとそばにいてあげられなくて。こうするしかなかったの。」
「いやだよ、お母さん。だって、私これから先、一人ぼっちになっちゃうんだよ。」
「大丈夫、あなたには彼がいる。それにまだ幼いあなたは『妖狐の呪い』をまだ使いこなせない。だからこれでいいのよ。」
「お母さん…いかないでよ…」
彼女は母を抱きしめ、泣き続けた。
その様子をものともせず、ガナリは横たわったまま話し続ける。
「チッ、欲を言えば九尾狐の肉が欲しかったんだが、九尾狐を殺めたときに発生する『妖狐の呪い』も悪くない。なぜなら、この場にいる全員が今の年齢に加え、1000年の寿命を得られるのだからな…!」
「クソっ、最悪の事態だ。」
親父は悔しがる。
彼女の母は少しずつ吐く息が荒く、弱々しい声になっていく。
「いい?美穂。前にも教えたでしょ。確かにこの呪いをかけられてしまうと、かけられた者は千年の寿命を得てしまう。一緒に翔さんや金さんにも呪いをかけるから、だから彼らの寿命が尽きるまでは彼に守ってもらいなさい。そして、あなたは不老不死の身である九尾狐。その不老不死を解くの。方法は覚えているわね?」
「前に言ってた、『契り(ちぎり)』のこと?」
「そう。あなたは呪いをかけられていない愛する人と『契り(ちぎり)』を結ぶことで不老不死の身から解放される。その瞬間にその身は天へと昇ってしまうけれども、永遠の孤独よりも辛くはないの。だから翔さん、前にお願いしていたこと、できるかしら。」
その言葉を聞くなり、親父は立ち上がり、雨に汚れた青い装束の平安時代の僕に呪文を唱え始めた。
普段攻撃する紫色の炎とは異なり、『お札』は金色に光りだして、身体に張り付いた。すると、全身が光りに包まれる。
「親父、俺になにするんだよ!!!」
「陽介、すまないがお前だけは『妖狐の呪い』にかかるわけにはいかない。美穂ちゃんを救ってほしいからだ。お前は呪いにかからぬよう、九百年ほど眠ってもらう。その時には、これまでの記憶は全て無くなってしまうけれども、必ず思い出せるようこの場所に残しておくから。」
「そんな、俺もガナリと戦わなくちゃ...!親父だけに背負わせるわけには行かない!!!」
訴えるのを横目に、母親は優しく応える。
「陽介さんの記憶は私が責任持ってお預かりいたします。だから、美穂を頼みますね。」
「すまないな、俺達の勝手でお前を巻き込ませてしまって。だから、未来で彼女を笑顔にさせてやってほしい。お前にしかできないことなんだ。」
そういうと、金色の光が彼を浮かせた。
その途端、彼女の母親は赤いオーラを放つ。
金ちゃんや親父、そして横たわっているガナリが赤く光った。
「お母さん...!行っちゃ嫌だよ!一緒にいて。」
彼女は母親の服を握りしめるが、赤いオーラは消えない。母親は最後の力を振り絞って微笑んだ。
「花火、みてみたかったんでしょ?でもね、花火は対妖怪用に作られたものなの。花火を目にすると体が焼けるような苦痛に襲われる。この身は不老不死だから永遠に苦しみ続けてしまう。だけど、これも『契り』を結んだ瞬間から効かなくなるわ。あなたはこれからも一人ぼっちじゃない。きっと、あなたなら大丈夫。」
そう言うと、赤いオーラは消え、母親の身体は大きく丸い石となってしまった。
「お母さん……お母さん……」
泣き続ける彼女。ガナリが遠くから満足そうな声で話しはじめた。
「ついに、ついにやったぞ!!!まだ実感は湧かないが、これからあと千年生きることができるぞ。これですぐに天下を取り、その間にもう一体の九尾狐を食らってやるぞ。」
言い終わらないタイミングで親父が飛び出し、ガナリの喉元に小刀状にさせた『お札』を突きつけていた。
「それを俺が阻止するっつってんだろ。」
こんな口調になる親父を初めて見た。相当怒りが込み上げているのだろう。
「翔てめえ。お前はさっき右足の神経切ってんだから、もう歩けないはずだろ‥!」
「俺にはまだ左足がある。そして、もしなくなろうとも、
這いつくばってでも、陰陽師としての使命を果たしてみせる……!!!だから安心て眠るんだ、陽介。」
そうしているうちに、平安時代の僕の体の光が強くなった。彼女はすぐにそれに気がつき、光の元へ駆け寄る。
「美穂、僕はしばらく眠るみたいだ。目覚めた時には、君を忘れてしまっているらしい。」
「いやじゃ、陽介まで行かないで!私を一人にしないでくれ!」
「ひとりじゃないさ、親父だって金ちゃんだっている。九百年経ったら、必ず会えるから。」
「それまで待っていろというのか!あんまりじゃないか!あんまりだ…」
ぼくは優しく笑って、問いかける。
「花火、見たいんだろう。花火の色って何色か知ってるか?」
「また次会えたら九百年後の夏、一緒に花火をみよう。」
その意味を察した彼女は、キョトンとした。そして、涙を拭きながら、いう。
「…絶対、絶対じゃぞ?約束じゃからな!」
その声にああ、と言ってうなづき、親父へ話しかけた。
「父さん、あとは僕の体頼みました。」
「おう、安全な場所に運んでおくから、ゆっくり休んでいろよ。また、900年後な。」
そういって、優しく微笑みながら目を閉じると、ふわりふわりと浮いていた青い装束は、ゆっくりと地面に降りて、横になってしまった。
突然、僕の手のひらに水滴が落ちるのを感じた。
空を見上げると、雲一つない。月が横たわる平安時代の僕の寝顔を照らす。
彼女は、金ちゃんに飛びついて泣きじゃくっていた。
「あれ、涙?」
僕はいつの間にか、涙が溢れていたことに気がつく。
自分の両手を見ると、涙の雫がシワの線に沿って広がっている。
雅也が宿敵の大将だったこと。彼女達が九尾狐だったこと。彼女の母が封印されることによって、殺生石ができたこと。僕がそこで眠って、もう九百年は目覚めないこと。
驚いたこと、悲しかったこと、その全てが一気に押し寄せてきた。
そう思うたび、僕の両手は小刻みに震えながら、涙を流している。
そうか、この体は九百年も前に生まれたのか。
でも、ずっと眠っていたから、普通の高校三年生と同じ歳の取り方をして、中身の僕も変わらないのか。
そして、たくさんのものを失って、悲しかったんだよな。
やっと、僕に出会えた。
そう思った途端、後ろから物音がする。
振り向くと足元にさっきも見た黒く丸い穴ができていた。
もう、現実に戻る時間なんだ。
僕は、もう一度、泣きじゃくる彼女の背中を見て心の中でつぶやく。
「これから会いに行くから。」
息を吸い込むと、丸い穴に視線を戻して飛び込んだ。
―――
目を覚ますと、この記憶の旅を始めた場所に戻ってきた。あの、匂いも味もない、真っ白で何もない空間だ。
そこでふわふわと漂っていると、後ろからトントンと肩を叩かれた。
まるで無重力の宇宙船の中で浮遊する宇宙飛行士のように、ゆっくりと体を回転させて振り向くと、そこには僕と同じ顔の男がいた。
「やあ、やっと会えたね。僕。」
服装は青色の装束で、この漂う空間に袖をゆらゆらとゆらめかせながら浮いていた。
「うん、長い間待たせてごめん。」
やっと挨拶できた。こいつは、平安時代の僕だ。
「過去を忘れていたお主には、少々苦しい話だったろう。無理に全てを一度に受け入れる必要はない。少しずつでも構わぬ。」
「いや、今すぐに受け入れなきゃだめなんだ。そうじゃなきゃ、僕は彼女に会えない。」
「彼女とは、美穂のことか?」
「うん、ずっと待っていてくれたんだろ?1人で不老不死を背負わされていたんだろ?」
「ああ、本音を言うと今すぐにでも解放してやって欲しい。」
少し俯いて、彼は言う。
「だがな、お主は今十八歳の男に過ぎない。例え、体は九百年経っていようとこの世で過ごした時間は短く、まだまだ若い。」
「だからな、ちゃんとお主自身と向き合って欲しいんだ。もちろん、私もお主なのだがな。ガナリと決着をつけなくてならない。でも、私は彼がどうしても一人ぼっちで寂しそうに見えてしまう。憎いかもしないが、どうか生かしてはくれぬか。」
なんだ、わかっていたのか。
「ああ、僕も同じことを考えていたんだよ。実は彼は現代では僕の親友なんだ。だからこそ、ちゃんと向き合って本音をぶつけたいと思った。正直、彼女を狙っていたことも許せない。でもただの憎しみじゃなくて、友として、ちゃんとぶつかっておきたいんだ。それが僕のためだと思うから。」
「中学時代、僕はサッカーのディフェンスで、後ろを守っていた。対して彼はチームのエースストライカーで運動神経も抜群。その姿を見ていた時、ずっと彼が点を取れるように僕が後ろで守りたい、見守りたいと思ってた。でもそれは違って、本当はどこかで彼に敵わないと思っていた。だから僕は、高校で避けるように、逃げるように帰宅部を選んだ。」
「諦めてた自分が悔しくて、ちゃんと向き合えてなかった。それに気づかせてくれたのも君だった。努力を重ねて副将まで登り詰めた姿を見て、ちゃんと諦めなきゃよかった、気持ちに素直になればよかったって思ったんだ。もちろん、君も僕だから。」
「だから、ありがとう。」
彼もふふッと青く長い袖で口元を隠して笑い、話し始めた。
「私はそのお主が言う『サッカー』なるものを存ぜぬが、ちゃんと自分が目指したかったものに気がつけたならそれでいい。平安の世も未来の世もどちらもお主が歩んだ人生という道なのだから。」
「今ここは精神と記憶の空間だ。もうすぐ現世に戻ることになり、私もお主の中にとどまり続ける。しかし、こうやって話すことはなくなる。あくまで記憶の集まりだからな。」
「でも、私はこれからもずっとお主であり、お主の理解者であり、お主の1番の味方であり続けたい。だから、きっと大丈夫だ。そして、言い忘れていたが…」
僕はその言葉を聞いて、驚く。でも、決めたことだ。
「そうか、教えてくれてありがとう。ここで君と、ちゃんと話せてよかった。」
「ああ、そして、きっとお主もわかっていることだろうが、ひとつ願いを言わせて欲しい。」
彼、いや、僕は息を吸って言った。
「彼女に、美穂に花火の色を教えてあげてほしい。」
何かと思ったらそんなことか。そう思って、僕は笑った。
「ははっ、そうか。でもあいにく、僕はね」
僕は笑うのをやめて、まっすぐ見つめながら言った。
「初めからそのつもりで、ここに来ていた。」
青い装束は徐々に消えていく、海に溶けてゆく砂の城のように下から段々と。
「うむ、それならよかった。くれぐれも気をつけるんだぞ。」
「ああ、ありがとう。これからもよろしく。」
頷くのを見届けると跡形もなく消えていった。残された僕は急に視界が明るくなり、思わず目をつぶった。
―――
「おっ、やっと目覚めたか。どうだったかい?九百年の記憶の旅は。」
目を覚ますと僕は草原の上に仰向けで寝転んでいて、青い空をバックに親父がこちらを覗き込んでいた。
「ああ、父さん。ずっと彼女を守ってくれて、そして僕を待っててくれてありがとう。」
親父は、ははっと笑って、言う。
「ああ。記憶の旅から帰ってくるのを待つなんて、これまでの900年と比べれば朝飯前だったからな。」
僕は起き上がって、後頭部についた細い草を払った。
いつの間にか後ろには木があり、木陰が夏の日差しから守ってくれていた。親父が運んでくれたのだろうか。
遠くで殺生石が陽の光に照らされていた。
「気持ちは整ったか。」
ぼーっと遠くを見つめていた僕に、両方の腕を腰に手を当てて、様子を見ていた親父が声をかける。
「辛いだろうが、俺たちはアイツに勝たなきゃいけない。」
僕は唾を呑んで、顔を上げた。
「うん、大丈夫。ひとりじゃないから」
これが大人なのだと、知った。
例え、恨んでも悔しくても悲しくても。
それが運命なのだから。
大人は辛いんだと初めて知った。
小さい頃はなんとなく、早く大きくなりたいと感じていた。なんでも買えて、なんでも自分で決められるから。でも、現実はもっと狭くて自分が出来る範囲もさほど変わらない。
ただ、少し長く生きて、身長が大きくなっただけなのだ。
そうやって、僕は深呼吸をする。やっと片足ずつ膝を立てて立ち上がった。
「雅也のことや美穂さんのこと、みんなにかけられた呪いのこと。僕はたくさん感じたこと、言いたいことあるけれど、でも、僕は見なきゃいけないものを見るって決めたから。僕にしかできないことを、やらなきゃいけない。」
「ああ、偉いな。お前はあの頃と根っこの部分は変わらない。でも俺はな、ちゃんと自分のことも大切にしてほしいと思うんだ。青井軍の将軍として、そして、お前の1人の父親として。」
「ありがとう。ちゃんと伝えたい想い、遂げたいこと、全部自分のために大切にしたいと思うんだ。」
親父は話が終わると小さく頷いて、微笑む。
僕はこの人の息子でよかった。
この場所は昼にもかかわらず、蝉の鳴き声もしない、静かな場所だ。
時間の経過がわからないほどに。
ん?時間の経過がわからないほどに?待てよ。
「父さん、今日って何月何日で今は何時?」
「ん?今日は八月二十二日で、今は十一時半だ。お前はちょうど半日も記憶の旅に出てたんだぞ。思ったよりも時間がかかってな。」
「父さん。今日、横浜の花火大会の日だ。」
僕は横浜に戻らなくてはいけない。
あの約束した、花火大会が今日だったなんて。
ガナリが、雅也が彼女を捕らえてしまうかもしれない。
「花火って、あの美穂ちゃんと約束してた、あれか?」
「そう、九百年後って今日なんだよ。花火は十八時半からで、ここから大体五時間はかかるから…もう行かなきゃ!」
慌てる僕を見て、父さんはびっくりしていた。
「もう行っちゃうのか。終わったら、ご飯でも行こう。九百年ぶりに話せてよかった。応援してるからな。」
「うん、ありがとう。父さんにまた会えてよかった。」
僕はそう言って、緩やかな丘を小走りで下り始めた。
振り向いて手を振る。
だんだんと小さくなる親父は、片手で大きく手を振り返した。その姿の向こうには、綿菓子のような入道雲が山の頭から顔を出していた。
僕は風を切って、昨日の夜来た森の道を駆け抜けた。
木漏れ日が僕の視界を明るく、暗くしてくる。だんだんと蝉の声が大きくなる。なんだか、日常に戻ってきたみたいだ。
でも、来る時よりも大股で胸を張って進んでいる。そんな気がする。
汗を拭きながら、僕は横浜へ帰る電車に乗った。
―――
