八月四週目の木曜日。
夏休みは終盤だというのに、相変わらず猛暑日が続く。
普段学校に通っている時には見れない、朝のニュース番組も天気予報のキャスターが暑そうに汗を拭いながら、今日の天気を指し棒で晴れマークだらけの全国の日本地図を叩いている。
僕は迫り来る二学期の早起きの日々から一日でも逃れたくて、飽きるまで布団に潜り、ソファーに転がりながらニュースをみている。
いつの間にか十一時になり、もうすぐお昼だ。母さんが作ってくれていた冷やし中華を冷蔵庫から出して、ラップを外して食べる。
あれから彼女と会っておらず、連絡もない。
宿題は順調に進み、残すところは数学の問題集だけだが、まだ返せていない彼女の問題集をみるたびに、彼女のことを思い出してはやる気にならない(半ば言い訳だが)。
しかし、彼女はどこに行ってしまったのか。そして、どんな秘密を抱えているのだろうか。
僕は最後の一口になった錦糸卵を口に頬張り、居ても立ってもいられなくて出かける支度をする。
彼女に会えないで、ただただ待っているよりも、彼女を探すヒントを見つけるんだ。
僕は、自転車のペダルに足をかけて思いっきり漕ぎ出した。
―――
路地を駆け抜ける。ふと空を見上げると、大きな入道雲がもくもくと高くなっており、右から左へ横切るように飛行機雲が線をひいている。
前にテレビで入道雲が出た後は雨が雨が降ると言っていた。今日は自転車で来たのはまずかったのかもしれない。
図書館がやっているうちに雨が降れば雨宿りをさせてもらえるが、帰り際だったらどうしよう。そうやって、角を曲がると見慣れた姿にばったり出会った。
「…よーすけ。」
千佳だった。ジャージ姿で半袖のシャツ。
明日が練習試合なのか、普段使っているエナメルバッグとは反対に高校の名前が入った、三個入りのバレーボールバッグを斜めに肩にかけている。
「…おう、千佳。よう。」
「うん…こっからどっかいくの?」
僕は少し驚いた様子で片足を地面におろし、自転車に乗ったまま話し始めた。
「うん、ちょっと図書館に。千佳は?」
「そっか。私は部活帰り。午前中の早い時間だったから。」
風は向かい風で、制汗剤のさわやかな香りがした。
塀のむこうの家にあるのか、風鈴の音がして涼しくなった気がする。
気まずい間が少しあって、彼女が僕の目をそらしながら通り過ぎようとする。
僕は、千佳に伝えなきゃいけないことがある。
僕も目が見れない。
「あのさ、千佳。」
千佳を呼び止めると、スニーカーの歩いていく音が止まる。
「……なに?」
エナメルバッグがキュッと服に擦れて、体ごとこちらへ振り返る音がする。
僕も自転車から降りて、ハンドルをもったまま自転車を大きく旋回させて、千佳の正面を向く。
「……その、この前の、その。返事なんだけれども、」
僕は自転車のギアの数字を見つめたまま話す。
気持ちは決まっていた。それでも、千佳になんて言ったらいいだろうか。
「その、僕は。」
僕はこのときもどんな顔をしていたのだろう。
前にブランコに乗っていたときも、雅也と歩いていたときも。ずっとわからないまま。
自分の表情も、千佳への気持ちも。
もしも、今年も花火を一緒に見に行っていたら。もしも、水族館で魚じゃなくて千佳の横顔を目で追っていたら。
もしも、千佳を恋愛対象として好きになれたのなら。
「…ごめん。」
僕の言葉を聞いて、千佳の素早く息を吸う音がした。そして、その空気をゆっくりと息を吐く音がする。
「うん、そっか。」
千佳を見ると満面の笑みでこちらを見ているが、鼻はだんだんと赤くなり、すすっている。目は線のように閉じたままで、でもその合間から少し潤んでいたのがみえた。
ああ、千佳を強がらせてしまった。僕はなにか言おうとする。だが、間髪入れずに千佳は話し続けた。
「でもね、わかってたよ。そういうことも。そして、誰が好きなのも。」
「昨日、美穂から電話がきたの。『私、陽介ともう会えないかもしれない。そして、千佳とも。』って。だから、私がもらっちゃうよって返信したの。もちろん、美穂のことも大好きだよ。そして、これまでの相談事とか楽しい事とか話してきた、私の親友。だから、ちゃんと真っ向から戦おうって思った。でもね、」
僕は黙って聞いていた。だんだんと、声が震えてきているのがわかる。
「『やっぱり嫌だ。それが、大好きな千佳でも。』って真っ直ぐな声で言ったの。美穂がそんな事言うの初めて聞いた。それ聞いたら、勝てないなって思っちゃった。」
「美穂にちゃんと、よーすけの気持ちを伝えてほしい。」
僕は心臓を掴まれたようで、鳥肌が全身に立つようで、呼吸を忘れるようで、そんな衝撃を感じた。
「…俺も会いたいんだ。でも、もう会えないかもしれないんだ。」
弱音を吐いた僕を見て、千佳は血相を変えて僕の両肩を持った。
「会えないってなに!?よーすけがなにかしたの?私が好きになった男は、そんなことするような男じゃないでしょ!?」
「ああ、何も嫌なことはしていないよ。でも、なにか理由があるみたいだ。人には言えない秘密が。」
「だったら、それを命がけで探してみなさいよ!いつもはこんな助けてだの、怖いだの人に弱音を吐くような子じゃないの。それでも美穂は私に電話をかけてきた。それはSOSなの。」
「だから、私の分まで直接、あの子に好きって伝えてあげてよ。」
いつの間にか、千佳は涙がこぼれていた。感極まって、僕の肩をグーの形をした拳で押し付けてきた。その拳は強くて、優しかった。
そうか、僕にしかできないこと、僕がそうしたいこと、それは彼女を守ることだったんだ。僕も釣られて目を潤ませる。声を震わせながら、答えた。
「……ごめん、千佳。ちゃんと、伝えてくる。教えてくれて、背中を押してくれてありがとう。」
それを聞いて、ぐちゃぐちゃになった涙顔から、千佳は笑顔になった。
「なによお、謝ってばっかりじゃないの!美穂のこと泣かせたら、容赦しないんだからね。」
僕は自転車の向きを戻すと、またがってペダルに片足をかけた。踏み込もうとしたとき、「よーすけ、」と呼ばれ振り返る。
「もし、美穂に振られたら、私が彼女になってあげようか?」
冗談っぽく両手を口の横に当てて楽しそうに叫ぶ千佳をみて、笑いながら僕は返事をすると、図書館へ漕ぎ始めた。
空を見上げると、さっきまで入道雲を分割させていた飛行機雲の横から斜めに、もう一本飛行機雲が出来ていた。
徐々に斜めに引かれたその線は、元々引かれた飛行機雲にいつかどこかで交わるのかもしれない。
―――
この夏休みで何回目だろうか。慣れた手順で自転車を駐輪場に停めて、図書館へ歩き出した。先週まで咲いていたひまわりたちは、すでに時期が過ぎて俯くように花を黒く枯らして下を向いている。もうすぐ夏が終わってしまう。
今日は子供達が多くおり、図書館の入り口にあるアイスの自動販売機には小学生たちが群がっていた。手のひらサイズのマジックテープで止められたサイフをベリベリとめくって小銭を数えている。
その様子を横目に自動ドアを抜けると、坂道を立ち漕ぎで渡りきって火照った体をあっという間に冷やしていく。
ハンカチで汗を拭いながら、地下のコミュニティラウンジに向かう。辞典やら図鑑やら歴史書やら、分厚くて小難しい本が並んでいるせいか、やはり人の気配はほとんどしない。子供たちもここはやってこないのだろう。
年配のおじいさんおばあさんたちも、二階の多目的ホールで囲碁や将棋を楽しんでいるため、地下は穴場なのだ。
相変わらず、防音のための重たい扉を開いて、誰もいない部屋に置かれた席に着く。
さて、まずは彼女とそれに関わるここまでの情報を整理することにした。
僕は数学のノートを二ページほど破り、自由にシャーペンで書き始めた。
神社での夏祭り、花火が上がる少し前。
鋭い閃光の合間を縫って、突然彼女は男たちにさらわれた。
その男たちは先週も一人になったタイミングを見計らって、公園へさらっていった。
二回の襲撃の共通点はいずれも、彼女は拘束されただけで身体への怪我はなかった。
さらに、男たちは「がなりさま」に指示されてやっているようだった。一体、「がなりさま」とはなんなのか。
そして、彼らが身につけていたはちまきのような布。この前公園にもう一度行くと落ちていたものである。帯にしては短く、タスキにしては長い(まさにことわざのようだが)。おそらく頭に巻く用に作られたものだろう。
布の中心には刺繍が施されている。その絵は4枚ずつ2列の合計8枚、葉のようなものが並べられたデザインだ。その葉は一枚一枚トゲトゲとしており、漫画の吹き出しのような形をしている。
トゲトゲとした葉、といえばアイツらが武器がわりに一人一人持っていた木の棒の葉とよく似ている。実際に叩かれたからこそわかるのだが、表面はツヤツヤしており、触れると肌に刺さりそうなほど鋭利だ。
この共通のトゲトゲした葉はなんだろう。
図書館の地下の階は先ほども伝えたように、辞典やら図鑑やらが陳列されている。植物図鑑を広げてみた。
すると、ある品種が当てはまる。
「ヒイラギ」だ。
聞いたことがある。よくクリスマスツリーやら節分やらで飾りにされているものだ。特徴を見てみると、まさに用途としては装飾がメインらしい。
その中に気になる文言があった。
「…また、棘のある葉は『魔除け』に使われることもあり、鬼や妖怪を退けるという言い伝えがある。そうしたものから一族を守れるよう、家紋に使用することもある。」
そうか。この葉はヒイラギで、布の刺繍は家紋なのだ。
だからこそ、プロサッカーチームのように全員が同じ刺繍をお揃いにしていたのか。
すると、彼女はある一族に狙われており、その一族の下っ端の男たちに捕らえられそうになっていたというわけだ。
では、八枚のヒイラギの家紋がある一族はどこなのか。
これまた都合よく、歴史書もこのフロアにある。なんてタイミングがいいのだろう。早速、歴史書の棚を見ると『日本全国家紋一覧書』という本があった。
取り出すとデザインごとに検索できるようになっていた。その中の植物というカテゴリーからページをめくる。
ざらざらとした表面や埃っぽい匂い、徐々に黄ばみだした紙質から誰も読まれていないことがわかる。よく残ってくれていた。
すると、ヒイラギのページがあった。なるほど、漢字で書くと柊(ヒイラギ)となるのか。
枚数によって異なる中で、一番多い八枚を見るとある一族にたどり着く。
「緑川氏」
この刺繍と全く同じものだ。確実に緑川氏だろう。どうやら、今の北関東にあたる地域で勢力を伸ばしていたらしい。
特に一一二〇年ごろまでは、栃木県の佐野から那須地方周辺で圧倒的な力を持っていたと書いてある。
しかし、ある争いをきっかけに軍の大半を失い、南関東へと逃れたものの、力は失われたようだ。
争いの名は「那須殺生石の乱」。
少しずつ、彼女を襲った奴らの素性が見えてきた。
しかし、彼女となにか関係はあるのだろうか。
強いて言うなら、最初に出会った際に方言で「でれすけ」といっていたが、あれは確か那須弁だったはず。
だが、そんな昔のこととのつながりは未だ見えてこない。
先ほど出てきた、「那須殺生石の乱」の解説が別のページに載っており、その文章を読み始める。
急にエアコンの設定温度が下がったのか、ゴーっと音を立てて冷気を出し始める音がした。普段の歴史の教科書よりも長い文章が書き連なるページを人差し指で一行一行、なぞりながら読み進めていく。
「那須殺生石の乱とは、一一二〇年に天皇勅諭の名で、緑川氏が栃木県那須地方で邪悪な2体の妖怪を討伐すべく、出兵し妖怪を擁護していた陰陽師の青井氏との争いである。」
僕と同じ苗字だ。そう思った。
もし、僕はこの争いに関わっていた青井氏の末裔なのかも知れない。
もしそうなら、彼女を襲ってきたアイツらが俺の苗字を知っていたことにも納得がいく。
自分の知らない自分が、いるのかも知れない。
僕は一口水分をとってから、次の文章を読み進めた。
「争いの末に、青井氏は敗北。緑川氏は妖怪を封印することに成功した。しかし、緑川氏は消息を断ってしまい、その後繁栄することはなかった。」
そこでこのページでは、乱の説明をする文章は終わっていた。だが、僕はその下に資料として書かれた勢力図を見て、息を呑んだ。
その資料は『青井軍の構成員』だった。この争いの青井氏側の軍の所属員の名前が連なっていた。その中で、一番上に目をやる。
「青井軍 大将 青井 翔 」
この名前は、親父の名前だ。漢字も全く同じ。
どういうことだ。何かの偶然か。
しかし、この下の名前を読んで、指を止める。
「青井軍 副将 青井 陽介」
なぜ、僕の名前がここにあるんだ。
冗談だろう。何かの偶然だろう。
まだ僕は疑問を捨てられずにいる。でも、納得せざるを得ない場面はいくつもあった。
夏祭りの襲撃、なぜ、あの日襲ったアイツらは僕の苗字を知っていた。
なぜ、僕は触れた記憶のない、銃を使えたんだ。
なぜ、彼女に初めて会った時、どこかで会ったことがあると思ったのか。
頭が真っ白になっていると、本の僕の名前の下にもう1人、見覚えある名前が書いてあった。
この人は。
僕は急いで走り出した。
この本を借りて、話を聞くんだ。
司書の小松さんに急いで前のめりで伝える。
「この本の貸出をお願いします!!!」
「そんな急がなくても、本は逃げないよお。あと走っちゃだめだよお。」
「いいから!はやく!」
本を受け取るなり、後ろから、「2週間後期限だからね!」と呼びかける声が聞こえる。
自動ドアを抜け、駐輪場へ向かう。もう既に汗がどっと吹き出してきた。
カバンに本を突っ込み、立ちこぎで向かう。
いつもの坂道を越えて、彼女と前に逸れた十字路を抜けて、自転車を店先に乗り捨てる。
水やりをさっきまでしていたからか、道路までコンクリートが濡れていた。
既にホースはしまってあり、店先はがらんとしていた。
一直線に店内へ入り、その男の肩を両手で掴み、僕は揺さぶりながら叫んだ。
「なんで、あなたの名前がここにかいてあるんだよ!!!!!!」
親父のこと、僕のこと、彼女のこと。これから聞きたいことがたくさんあるんだ。
本に書いてあった、見覚えのある名前。それは、
「草加 金太郎」
そう、金ちゃんだ。
―――
「まあ、まあ、落ち着けようすけ!!!急にどうしたんだ!」
「落ち着いていられるかよ!なんで、千年近く前の文献に父さんと僕と、そして金ちゃんの名前があるんだよ!」
金ちゃんは最初は驚いていたが、徐々にその場の空気や僕が突き止めたことを受け入れ始めたのか、深呼吸をして冷静になった。
そして、息を吸ってからまた話し始めた。
「ついにそこまで辿り着いたんですね。さすがは我軍の副将、お若いながらに頭の回転が早うございます。」
「なっ…本当なのか…」
そうして、今までおちゃらけて、お調子者だった金ちゃんからは一度も聞いたことのない、低く尊敬の念を込めた返答だった。
「ここまでのご無礼、お詫び申し上げます。相手を欺くためとして行っていたこと、ご理解いただけますと幸いでございます。」
片膝をたて、もう片膝はコンクリートに接していた。決して頭をあげることなく、忠誠を誓うようにして話し続けた。
「やっぱり、ここに書いていることは本当だったんだね。すると、僕は青井軍の副将で陰陽師ってこと?」
「はい。信じられないでしょうが、おっしゃる通り、悪霊や人間を退治する陰陽師として幕府より指名を受けた青井氏の副将であり、次期当主の青井陽介様でございます。そして私はその家来です。」
「そんな…僕が陰陽師?」
本当は全く信じられない。まるで漫画の中の世界だ。
変な夢を見ているような気持ちになる。
発する言葉に困って、口をぱくぱくしていると金ちゃんは顔を見上げて話し始めた。
「そうです。そして、きっと、急にこんなことを言われても困ってしまうだろうと、そんなあなたを見越して、お父上である翔様はこのような手紙を残されておりました。」
懐から縦長の蛇腹状に折り曲げられた白い手紙を取り出す。
「陽介へ この手紙を読んだということは過去のことが知りたくなった、というところでしょうか。
きっと、少し衝撃的で、空っぽの頭に詰め込むには情報がお多すぎるかもしれません。
だから、直接知ったほうがいいと思う。思い出してほしい。
ここの下に住所を書き連ねました。ここであなたを待っています。ぜひ、来てほしい。
青井 翔 」
手紙の住所に目をやると、なんと栃木県那須郡から始まる場所だった。
「陽介様の記憶がないのも、当時の翔様があなた様のことを思って、命を守るためにやったことです。ですから、陽介様が聞きたいことは全てきっと、ここにあります。」
ここに僕の過去が待っている。行かなきゃ。
金ちゃんは落ち着いて、話し続けた。
「うん、今から行ってみるよ。さっきは声を荒くしてしまってごめんね。」
「いいや、誰しも知らない自分のことに触れたら、落ち着いてなんかいられない気持ちはわかります。今までも、これからも変わらずあなたの味方ですよ。さあ、いってらっしゃい。」
その言葉を聞くなり、僕は無言で頷く。
それを見た金ちゃんは微笑む。その笑顔は普段、花屋の店先でおちゃらけたり、僕の相談事を聞いてくれる時のままだった。きっと過去の金ちゃんも、今日までの金ちゃんもどっちも金ちゃんなんだ。
妙にその顔で納得がいった僕は倒れている自転車を起こして、自分の家へ漕ぎはじめた。
―――
今から出発をするとおそらく夜になり、目的地に着く頃には夜中になってしまう。だから、一泊二日になるだろう。
家に着いたら、でなければ横浜駅からの電車に乗ることができない。まずは荷造りをして折り返し出よう。靴を脱いで手洗いうがいをするなり、自分の部屋へ一直線に駆け込む。
夏は服が少なくてありがたい。リュック一つでいけそうだ。珍しく今日は母さんは1日家にいるようだ。そうだ、母さんにも一泊してくることを伝えなきゃな。
「母さん、今日仕事休み?」
ぼーっとして麦茶を飲んでいた母さんは振り向く。
「ああ、うん。今日は休みにしたの。毎年仕事で忙しくしてるけど、今日は休みたくて。」
「どうして?なんかの日?」
「うーんとね、うまく言えないけど今日はお父さん、帰ってきそうだなって思って。そしたらね、さっき携帯に連絡があったの。」
「えっ、どうして?今まで連絡なんてくれた日なかったよ。」
「そうね。でも今まで秘密にしてたんだけど、毎年この日は必ず連絡くれるの。」
初めて聞いた話だ。リュックサックを背負ったまま、立ち止まる。
「中途半端に父さんのこと話すと、かえって辛いだろうと思ったから言えなかった。ちゃんとあの人は世界のことも私たちのことも大切に想ってるの。」
僕は黙ったまま話を聞いていた。確かに、普通ならこんなに家に帰らない父親のことを、母さんと僕のような子供はどこか恨んでいて、いないものとして、記憶からなくしていただろう。
でも、会った記憶はほとんどないけれども、誇りであり大切な家族だと思っていた。不思議だと思っていたけど、ちゃんと連絡をくれてたんだ。すごく安心した。
「そしたら、いつも最近のこととかやってることとか教えてくれるけど、今年は『陽介に会えたのがとっても嬉しかった』だって。あんた、これから父さんに会いに行くんでしょ。」
そう言われた途端、ドキッとした。やはり母親には敵わない。
「顔見てた時、いつもと全然違ったもの。少し不安そうだったけど、ちゃんと自分に向き合おうとしてる目をしてた。だから、ちゃんとして行ってきな。」
「…うん、ありがとう。」
「ちゃんと水分摂って、ちゃんと伝えたいこと、伝えてくるんだよ。どんな時でもあんたの味方だから。」
「うん、ありがとう。」
僕は気持ちが込み上げて来て、今この状態を維持するので精一杯だった。ちゃんと伝えたい時ほど、言葉の種類が足りないと感じる。
なんで日本語はもっとちゃんと、こう、伝えたい想いを伝えられないんだろう。
それでも頷く母さんを見て、僕の気持ちを汲んでくれた。
「いってきます。」
玄関で靴を履き、扉のドアノブに手をかけて、つま先をトントンとさせた。
「うん、いってらっしゃい。ありがとう。」
母さんは優しい眼差しで、でもどこか寂しい顔で目を潤ませながら小さく手を振った。
いつもより大きく感じる扉の音。僕はもうここには帰ってこれない気がした。
大袈裟かもしれないけれども、得体の知れない自分や過去、そして伝えたい想いを伝える恐怖に押しつぶされそうだ。
大人になればなるほど、人に頼ったり助けてと言えなくなったりすると思春期の日々で感じ始めていた。
だけど、金ちゃんも母さんもみんな味方で、そばに居なくてもそばに居てくれて、独りじゃないことがわかった。
ちゃんと信じられる今を見ることができた。
今日も明日も、自分で決めた事で、進路希望調査よりもこれからの自分と向き合える。そんな気がする。
――――
僕は横浜駅の帰り道に向かう人並みに紛れて、北上する電車に乗った。
平日の各駅電車はスーツや制服の人で溢れて、金曜日の明日に進む。家に帰る。
その中で僕はリュックサックを持って、ちょっとした旅行に行く装いで車内の戸袋に立っている。
寄りかかる扉は暗くなった景色を右から左へ流していく。そこに映る僕の顔はいつもの僕の顔。でもそのいつもが、明日変わるかも知れない。
僕は何者なのか。歳はいくつか。過去からやってきたのか。あの本に書いてあった『那須殺生石の乱』にいたのだろうか。今のこの時代の生活は幻なのか。気になることは山ほどあった。
だから今だけは少し休ませてほしい。僕は目を閉じる。
乗り換えの駅に降りる頃には、車内は思ったよりも人がおらず、いつもより空間が広く感じた。扉が開くと、涼しい風が頬を撫でた。
月の光が注ぐ無人駅。栃木県はもう秋の空気で満たされて、夏の湿っぽさは感じなくなっていた。
携帯の道案内に従って、車も走らない一本道を進む。横浜よりも電線は少なくて、電柱もまばらだ。街灯はまだ白熱電球で、ジーッと音がする。
一本道はやがて、木々が生い茂る山道の入り口に繋がった。案内標識となる看板も目印も街灯もない。地図には道なりとなっているが、果たしてここであっているのだろうか。
しばらくなだらかな坂を登っていると、突然携帯電話の電波は圏外になってしまい、道案内が終わった。
途方に暮れていると、茂みの中から豆電球ほどの光がふわりふわりと飛んできた。
「何だこれ…蛍か?」
蛍は僕の周りを2周ほどして、正しい道へ導くように飛んでいった。
僕は足元に落ちた木の枝やら、石やらを暗い中避けながら必死で走る。ぐんぐんと速度を上げ、意外と速いその光は木々を抜け、蜘蛛の巣を抜け進む。
だんだん息が切れ始めたところで、急に視界が開けた場所にでた。
そこは遮るものがなく、ぼんやりと月を囲む光の明かりが煌々と照らしており、あたり一面草原が広がっていた。森中の空気が注がれていくように、柔らかな風が常に吹いていた。
森の中にぽっかりと円形で空いたこの草原。
どうやってできたかはわからないが、森と草原の境目が綺麗に区切られている。
周囲を見渡している間にも、蛍はまっすぐ進んでいく。どうやら中心に向かって飛んでいくようだ。
なだらかな上り坂になる草原の丘を歩くと、そこに一人の男が石碑のようなものに手を合わせてしゃがんでいた。その男の肩に蛍が止まると、それに気がついたのか、祈りが終わったのか、立ち上がった。
「おう、お疲れ様。ちゃんと金に渡した手紙、受け取れてよかった。はるばる呼び出して悪いな。」
この声は、前の祭りのときのたこ焼き屋の店主だ。
「あの時はちゃんと挨拶できなくてすまないな。そして、これまで寂しい思いさせたな、陽介。」
月明かりに照らされながら、風に煽られボサボサになった髪の毛が顔にギザギザな影をうつしていたから、最初はわからなかった。
完全に体を向けると、筋の通った鼻は高くて、ぱっちりとした目に見覚えがある。はちまきはしていない。でもわかる。
やっぱり、たこ焼き屋の店主だ。
あの時会ったのが初めてだと思っていた。しかし、やはりそうだ。
この人は、僕の親父だ。
聞きたいこと、言いたいことが山ほどあったはずなのに目の前にすると全く頭に思い浮かばない。これは、あとで思い出して後悔するやつだ。電車でメモなり書き起こしてくるべきだった。
呆然とする僕を見て、親父は話し続ける。
「まだ思い出せないよな。それはそうだ。長い間、眠っていたのだから。」
「いや、思い出したよ。夏祭りの時は助けてくれてありがとう。まさか、親父だと思わなかった。」
「うん、まぁ、そうだよな。まだあの時は気づかれるわけにはいかなかったからな。悪いな。」
「足、大丈夫?」
「ああ、これは前に戦ったときにやられたものでな。多分簡単には治らないんだ。駅まで遠かったが、ある程度なら術で移動できるからな。」
なんか、謝られてばっかりだなと思った。そして、親父と話すって、こんな感じなんだなとも思った。ほとんど親との、男同士の会話ってやつをやったことなかったから新鮮だった。
友達よりも信頼があって、友達よりも心は近くて、でも友達よりも遠くなる感じがする。
親父は呼吸を落ち着かせて、ゆっくりと話し出した。
「あと、『さっき思い出せない』って言ったけど、俺が言ってるのはここ数ヶ月の話ではなくて、」
親父は一拍開けて、また話し始める。僕は呼吸を忘れて聞きづつけた。
「九百年前。そう、『那須殺生石の乱』のことだ。」
「本でその争いのことを読んだよ。僕もその争いにいたの?」
「ああ、居たもなにも、軍の主力として指揮をしていた。」
やっぱり、僕はそこにいたのか。
いまだに信じられない。今は帰宅部で図書委員会で。そんな片鱗なんて感じなかった。
「だからこの『日本全国家紋一覧書』にも、副将で僕の名前が並べられていたんだね。」
僕は図書室で借りてきた本を、リュックサックの背中側のチャックから引っ張り出した。
「おお、それを読んだのか。だったらある程度のことの経緯はわかるな。実はそれ、一部本当のことを書いてないから。」
「えっ、そうなの。どの部分?あとなんで、この本のこと知ってるの?」
「その本当のことを教えるために今日は来てもらったんだ。あとな、その本は俺の話を聞いて、史学研究を専門としてる大学教授のお前の母ちゃんが書いたものだから。」
なんだって。確かに本の出版は母さんの働く大学から出ていたがこの大学は書籍を多く出してる。後ろのページの著者の欄を見ると、複数の人が寄せ集まって作っているが、そこには『青井 美咲』の母さんの名前がある。なんで気がつかなかったんだろう。
「まだ、僕に伝えてないこと、あるんだよね。」
僕のまっすぐな決意を持った眼差しを受けて、親父はその気持ちに応えようと思い、目を逸らさず話し続けた。
「ああ、ある。あの争いの真実とお前のこと、そしてこの前一緒にいた美穂ちゃんのことだ。」
そうか、彼女もやはりこの一連の出来事に関わっているのか。金ちゃんの様子からそんな気はしていた。
「わかった。そしたら、こっちに来い。」
強くなった向かい風を受けながら、なだらかな丘を歩く。
気がつくと月の位置は大きく動いていた。おそらく時間は夜中だろう。それでもこの場所はそれ以外に景色が変わることはなく、なんとなく時間が経つのが早く感じる。まるで異次元の空間にいるようだった。
丘の上には一つ、苔むした机ほどの大きさの石の塊のようなものがあった。
石の横には筆で書かれたような、縦長な木の看板が刺さっていた。
看板には『殺生石』、そう書いてある。
「これって、もしかしてあの、」
「そうだ。これがこの争いを終わらせた『殺生石』だ。この石に触れると、当時のことが全てわかるだろう。」
僕はそう聞くと唾をのみこんだ。僕の、そして彼女の過去がここにある。
「うん。」
「受け止める準備はできたか?多分、結構時間がかかってしまうかも知れない。少なくとも四時間ほど。」
「うん、構わない。もう、覚悟は決めたから。」
「あと、伝えておくとこれから見るのは戦場だ。そこで用いられるのは普通の武器と、陰陽師だけが使える『お札』だ。『お札』には三つの使い方があって、一つ目は除霊。二つ目は移動手段。三つ目は戦闘用だ。今はいろんな技術が発展してるからほとんどないけどな。しかし、当時は何枚も飛び道具としても使っていたから、気をつけるんだぞ。」
「うん、わかった。」
不安に少し震える手を、力強く拳を握ってかき消す。星でいっぱいの暗い夜空を仰いで、深呼吸をした。よしっ、と声を出して親父を見た。
「そしたら、お前も含む陰陽師は古来から魔術を使っていた。その名は陰陽道。手のひらからこの生まれる力を使って、悪い妖気や人間の力を抑えていた。今この石も実は特殊な妖気で封印されている。そのやり方は昔、教えたはずだ。」
「もしかして、一筆書きの星のこと?」
それは数少ない親父から教えてもらった記憶のうち、上手に星を描くコツである。
「ああ、そうだ。この石のてっぺんに刻まれた星を右の人差し指で、左手で祈りを込めながらなぞってごらん。」
「うん、やってみる。」
頷く僕を見て、感極まったのか、これまで冷静に話していた親父が僕の肩を持って、呼びかけた。
「陽介。ここまで来てくれて本当にありがとうな。これから今のお前には理解できない世界が広がっているかもしれない。それでも必ず戻って来れるから。だから、」
ひと息で話すほど、これまで会えなかった時間を埋めるように話している。一回呼吸を整えて、一言放つ。
「きっと大丈夫。お前を信じてるぞ。」
こんなに心強い言葉はない。
きっと将軍という、立場上これほどのことを言うのはどれほど大変なことなのかはわからない。
それは記憶がないからではなく、ちゃんと子供ではなく一人の人として見てくれる親がどれだけ少ないか。わからない。
だからちゃんと応えたい。
だって、僕は独りじゃないから。
「ありがとう。それじゃあ、また後で。」
僕は背筋をピンと伸ばし左手で祈りながら、指紋が潰れそうなほど石に人差し指を押し付ける。
やはり体が覚えているのだろう。前に銃を扱えたのと同じように、自然とその姿勢になることができた。
じんわりと熱くなるような温度を感じながら人差し指が光り出す。最初の直線を描き始めると白く光る線が出てきた。
少し驚いて、石から離れてしまいそうになる。一瞬輝きが弱くなったのを見ると、気持ちをもう一度込め直して描き出した。
また強く光り出すと、そのまま最後まで一気になぞった。
白く綺麗に描かれた五芒星は光を強めて、僕を包み込んだ。
「行ってこい!陽介!ちゃんとここで待ってるからな!」
叫ぶ親父。
答える間もなく、意識が吸い込まれた。
―――
夏休みは終盤だというのに、相変わらず猛暑日が続く。
普段学校に通っている時には見れない、朝のニュース番組も天気予報のキャスターが暑そうに汗を拭いながら、今日の天気を指し棒で晴れマークだらけの全国の日本地図を叩いている。
僕は迫り来る二学期の早起きの日々から一日でも逃れたくて、飽きるまで布団に潜り、ソファーに転がりながらニュースをみている。
いつの間にか十一時になり、もうすぐお昼だ。母さんが作ってくれていた冷やし中華を冷蔵庫から出して、ラップを外して食べる。
あれから彼女と会っておらず、連絡もない。
宿題は順調に進み、残すところは数学の問題集だけだが、まだ返せていない彼女の問題集をみるたびに、彼女のことを思い出してはやる気にならない(半ば言い訳だが)。
しかし、彼女はどこに行ってしまったのか。そして、どんな秘密を抱えているのだろうか。
僕は最後の一口になった錦糸卵を口に頬張り、居ても立ってもいられなくて出かける支度をする。
彼女に会えないで、ただただ待っているよりも、彼女を探すヒントを見つけるんだ。
僕は、自転車のペダルに足をかけて思いっきり漕ぎ出した。
―――
路地を駆け抜ける。ふと空を見上げると、大きな入道雲がもくもくと高くなっており、右から左へ横切るように飛行機雲が線をひいている。
前にテレビで入道雲が出た後は雨が雨が降ると言っていた。今日は自転車で来たのはまずかったのかもしれない。
図書館がやっているうちに雨が降れば雨宿りをさせてもらえるが、帰り際だったらどうしよう。そうやって、角を曲がると見慣れた姿にばったり出会った。
「…よーすけ。」
千佳だった。ジャージ姿で半袖のシャツ。
明日が練習試合なのか、普段使っているエナメルバッグとは反対に高校の名前が入った、三個入りのバレーボールバッグを斜めに肩にかけている。
「…おう、千佳。よう。」
「うん…こっからどっかいくの?」
僕は少し驚いた様子で片足を地面におろし、自転車に乗ったまま話し始めた。
「うん、ちょっと図書館に。千佳は?」
「そっか。私は部活帰り。午前中の早い時間だったから。」
風は向かい風で、制汗剤のさわやかな香りがした。
塀のむこうの家にあるのか、風鈴の音がして涼しくなった気がする。
気まずい間が少しあって、彼女が僕の目をそらしながら通り過ぎようとする。
僕は、千佳に伝えなきゃいけないことがある。
僕も目が見れない。
「あのさ、千佳。」
千佳を呼び止めると、スニーカーの歩いていく音が止まる。
「……なに?」
エナメルバッグがキュッと服に擦れて、体ごとこちらへ振り返る音がする。
僕も自転車から降りて、ハンドルをもったまま自転車を大きく旋回させて、千佳の正面を向く。
「……その、この前の、その。返事なんだけれども、」
僕は自転車のギアの数字を見つめたまま話す。
気持ちは決まっていた。それでも、千佳になんて言ったらいいだろうか。
「その、僕は。」
僕はこのときもどんな顔をしていたのだろう。
前にブランコに乗っていたときも、雅也と歩いていたときも。ずっとわからないまま。
自分の表情も、千佳への気持ちも。
もしも、今年も花火を一緒に見に行っていたら。もしも、水族館で魚じゃなくて千佳の横顔を目で追っていたら。
もしも、千佳を恋愛対象として好きになれたのなら。
「…ごめん。」
僕の言葉を聞いて、千佳の素早く息を吸う音がした。そして、その空気をゆっくりと息を吐く音がする。
「うん、そっか。」
千佳を見ると満面の笑みでこちらを見ているが、鼻はだんだんと赤くなり、すすっている。目は線のように閉じたままで、でもその合間から少し潤んでいたのがみえた。
ああ、千佳を強がらせてしまった。僕はなにか言おうとする。だが、間髪入れずに千佳は話し続けた。
「でもね、わかってたよ。そういうことも。そして、誰が好きなのも。」
「昨日、美穂から電話がきたの。『私、陽介ともう会えないかもしれない。そして、千佳とも。』って。だから、私がもらっちゃうよって返信したの。もちろん、美穂のことも大好きだよ。そして、これまでの相談事とか楽しい事とか話してきた、私の親友。だから、ちゃんと真っ向から戦おうって思った。でもね、」
僕は黙って聞いていた。だんだんと、声が震えてきているのがわかる。
「『やっぱり嫌だ。それが、大好きな千佳でも。』って真っ直ぐな声で言ったの。美穂がそんな事言うの初めて聞いた。それ聞いたら、勝てないなって思っちゃった。」
「美穂にちゃんと、よーすけの気持ちを伝えてほしい。」
僕は心臓を掴まれたようで、鳥肌が全身に立つようで、呼吸を忘れるようで、そんな衝撃を感じた。
「…俺も会いたいんだ。でも、もう会えないかもしれないんだ。」
弱音を吐いた僕を見て、千佳は血相を変えて僕の両肩を持った。
「会えないってなに!?よーすけがなにかしたの?私が好きになった男は、そんなことするような男じゃないでしょ!?」
「ああ、何も嫌なことはしていないよ。でも、なにか理由があるみたいだ。人には言えない秘密が。」
「だったら、それを命がけで探してみなさいよ!いつもはこんな助けてだの、怖いだの人に弱音を吐くような子じゃないの。それでも美穂は私に電話をかけてきた。それはSOSなの。」
「だから、私の分まで直接、あの子に好きって伝えてあげてよ。」
いつの間にか、千佳は涙がこぼれていた。感極まって、僕の肩をグーの形をした拳で押し付けてきた。その拳は強くて、優しかった。
そうか、僕にしかできないこと、僕がそうしたいこと、それは彼女を守ることだったんだ。僕も釣られて目を潤ませる。声を震わせながら、答えた。
「……ごめん、千佳。ちゃんと、伝えてくる。教えてくれて、背中を押してくれてありがとう。」
それを聞いて、ぐちゃぐちゃになった涙顔から、千佳は笑顔になった。
「なによお、謝ってばっかりじゃないの!美穂のこと泣かせたら、容赦しないんだからね。」
僕は自転車の向きを戻すと、またがってペダルに片足をかけた。踏み込もうとしたとき、「よーすけ、」と呼ばれ振り返る。
「もし、美穂に振られたら、私が彼女になってあげようか?」
冗談っぽく両手を口の横に当てて楽しそうに叫ぶ千佳をみて、笑いながら僕は返事をすると、図書館へ漕ぎ始めた。
空を見上げると、さっきまで入道雲を分割させていた飛行機雲の横から斜めに、もう一本飛行機雲が出来ていた。
徐々に斜めに引かれたその線は、元々引かれた飛行機雲にいつかどこかで交わるのかもしれない。
―――
この夏休みで何回目だろうか。慣れた手順で自転車を駐輪場に停めて、図書館へ歩き出した。先週まで咲いていたひまわりたちは、すでに時期が過ぎて俯くように花を黒く枯らして下を向いている。もうすぐ夏が終わってしまう。
今日は子供達が多くおり、図書館の入り口にあるアイスの自動販売機には小学生たちが群がっていた。手のひらサイズのマジックテープで止められたサイフをベリベリとめくって小銭を数えている。
その様子を横目に自動ドアを抜けると、坂道を立ち漕ぎで渡りきって火照った体をあっという間に冷やしていく。
ハンカチで汗を拭いながら、地下のコミュニティラウンジに向かう。辞典やら図鑑やら歴史書やら、分厚くて小難しい本が並んでいるせいか、やはり人の気配はほとんどしない。子供たちもここはやってこないのだろう。
年配のおじいさんおばあさんたちも、二階の多目的ホールで囲碁や将棋を楽しんでいるため、地下は穴場なのだ。
相変わらず、防音のための重たい扉を開いて、誰もいない部屋に置かれた席に着く。
さて、まずは彼女とそれに関わるここまでの情報を整理することにした。
僕は数学のノートを二ページほど破り、自由にシャーペンで書き始めた。
神社での夏祭り、花火が上がる少し前。
鋭い閃光の合間を縫って、突然彼女は男たちにさらわれた。
その男たちは先週も一人になったタイミングを見計らって、公園へさらっていった。
二回の襲撃の共通点はいずれも、彼女は拘束されただけで身体への怪我はなかった。
さらに、男たちは「がなりさま」に指示されてやっているようだった。一体、「がなりさま」とはなんなのか。
そして、彼らが身につけていたはちまきのような布。この前公園にもう一度行くと落ちていたものである。帯にしては短く、タスキにしては長い(まさにことわざのようだが)。おそらく頭に巻く用に作られたものだろう。
布の中心には刺繍が施されている。その絵は4枚ずつ2列の合計8枚、葉のようなものが並べられたデザインだ。その葉は一枚一枚トゲトゲとしており、漫画の吹き出しのような形をしている。
トゲトゲとした葉、といえばアイツらが武器がわりに一人一人持っていた木の棒の葉とよく似ている。実際に叩かれたからこそわかるのだが、表面はツヤツヤしており、触れると肌に刺さりそうなほど鋭利だ。
この共通のトゲトゲした葉はなんだろう。
図書館の地下の階は先ほども伝えたように、辞典やら図鑑やらが陳列されている。植物図鑑を広げてみた。
すると、ある品種が当てはまる。
「ヒイラギ」だ。
聞いたことがある。よくクリスマスツリーやら節分やらで飾りにされているものだ。特徴を見てみると、まさに用途としては装飾がメインらしい。
その中に気になる文言があった。
「…また、棘のある葉は『魔除け』に使われることもあり、鬼や妖怪を退けるという言い伝えがある。そうしたものから一族を守れるよう、家紋に使用することもある。」
そうか。この葉はヒイラギで、布の刺繍は家紋なのだ。
だからこそ、プロサッカーチームのように全員が同じ刺繍をお揃いにしていたのか。
すると、彼女はある一族に狙われており、その一族の下っ端の男たちに捕らえられそうになっていたというわけだ。
では、八枚のヒイラギの家紋がある一族はどこなのか。
これまた都合よく、歴史書もこのフロアにある。なんてタイミングがいいのだろう。早速、歴史書の棚を見ると『日本全国家紋一覧書』という本があった。
取り出すとデザインごとに検索できるようになっていた。その中の植物というカテゴリーからページをめくる。
ざらざらとした表面や埃っぽい匂い、徐々に黄ばみだした紙質から誰も読まれていないことがわかる。よく残ってくれていた。
すると、ヒイラギのページがあった。なるほど、漢字で書くと柊(ヒイラギ)となるのか。
枚数によって異なる中で、一番多い八枚を見るとある一族にたどり着く。
「緑川氏」
この刺繍と全く同じものだ。確実に緑川氏だろう。どうやら、今の北関東にあたる地域で勢力を伸ばしていたらしい。
特に一一二〇年ごろまでは、栃木県の佐野から那須地方周辺で圧倒的な力を持っていたと書いてある。
しかし、ある争いをきっかけに軍の大半を失い、南関東へと逃れたものの、力は失われたようだ。
争いの名は「那須殺生石の乱」。
少しずつ、彼女を襲った奴らの素性が見えてきた。
しかし、彼女となにか関係はあるのだろうか。
強いて言うなら、最初に出会った際に方言で「でれすけ」といっていたが、あれは確か那須弁だったはず。
だが、そんな昔のこととのつながりは未だ見えてこない。
先ほど出てきた、「那須殺生石の乱」の解説が別のページに載っており、その文章を読み始める。
急にエアコンの設定温度が下がったのか、ゴーっと音を立てて冷気を出し始める音がした。普段の歴史の教科書よりも長い文章が書き連なるページを人差し指で一行一行、なぞりながら読み進めていく。
「那須殺生石の乱とは、一一二〇年に天皇勅諭の名で、緑川氏が栃木県那須地方で邪悪な2体の妖怪を討伐すべく、出兵し妖怪を擁護していた陰陽師の青井氏との争いである。」
僕と同じ苗字だ。そう思った。
もし、僕はこの争いに関わっていた青井氏の末裔なのかも知れない。
もしそうなら、彼女を襲ってきたアイツらが俺の苗字を知っていたことにも納得がいく。
自分の知らない自分が、いるのかも知れない。
僕は一口水分をとってから、次の文章を読み進めた。
「争いの末に、青井氏は敗北。緑川氏は妖怪を封印することに成功した。しかし、緑川氏は消息を断ってしまい、その後繁栄することはなかった。」
そこでこのページでは、乱の説明をする文章は終わっていた。だが、僕はその下に資料として書かれた勢力図を見て、息を呑んだ。
その資料は『青井軍の構成員』だった。この争いの青井氏側の軍の所属員の名前が連なっていた。その中で、一番上に目をやる。
「青井軍 大将 青井 翔 」
この名前は、親父の名前だ。漢字も全く同じ。
どういうことだ。何かの偶然か。
しかし、この下の名前を読んで、指を止める。
「青井軍 副将 青井 陽介」
なぜ、僕の名前がここにあるんだ。
冗談だろう。何かの偶然だろう。
まだ僕は疑問を捨てられずにいる。でも、納得せざるを得ない場面はいくつもあった。
夏祭りの襲撃、なぜ、あの日襲ったアイツらは僕の苗字を知っていた。
なぜ、僕は触れた記憶のない、銃を使えたんだ。
なぜ、彼女に初めて会った時、どこかで会ったことがあると思ったのか。
頭が真っ白になっていると、本の僕の名前の下にもう1人、見覚えある名前が書いてあった。
この人は。
僕は急いで走り出した。
この本を借りて、話を聞くんだ。
司書の小松さんに急いで前のめりで伝える。
「この本の貸出をお願いします!!!」
「そんな急がなくても、本は逃げないよお。あと走っちゃだめだよお。」
「いいから!はやく!」
本を受け取るなり、後ろから、「2週間後期限だからね!」と呼びかける声が聞こえる。
自動ドアを抜け、駐輪場へ向かう。もう既に汗がどっと吹き出してきた。
カバンに本を突っ込み、立ちこぎで向かう。
いつもの坂道を越えて、彼女と前に逸れた十字路を抜けて、自転車を店先に乗り捨てる。
水やりをさっきまでしていたからか、道路までコンクリートが濡れていた。
既にホースはしまってあり、店先はがらんとしていた。
一直線に店内へ入り、その男の肩を両手で掴み、僕は揺さぶりながら叫んだ。
「なんで、あなたの名前がここにかいてあるんだよ!!!!!!」
親父のこと、僕のこと、彼女のこと。これから聞きたいことがたくさんあるんだ。
本に書いてあった、見覚えのある名前。それは、
「草加 金太郎」
そう、金ちゃんだ。
―――
「まあ、まあ、落ち着けようすけ!!!急にどうしたんだ!」
「落ち着いていられるかよ!なんで、千年近く前の文献に父さんと僕と、そして金ちゃんの名前があるんだよ!」
金ちゃんは最初は驚いていたが、徐々にその場の空気や僕が突き止めたことを受け入れ始めたのか、深呼吸をして冷静になった。
そして、息を吸ってからまた話し始めた。
「ついにそこまで辿り着いたんですね。さすがは我軍の副将、お若いながらに頭の回転が早うございます。」
「なっ…本当なのか…」
そうして、今までおちゃらけて、お調子者だった金ちゃんからは一度も聞いたことのない、低く尊敬の念を込めた返答だった。
「ここまでのご無礼、お詫び申し上げます。相手を欺くためとして行っていたこと、ご理解いただけますと幸いでございます。」
片膝をたて、もう片膝はコンクリートに接していた。決して頭をあげることなく、忠誠を誓うようにして話し続けた。
「やっぱり、ここに書いていることは本当だったんだね。すると、僕は青井軍の副将で陰陽師ってこと?」
「はい。信じられないでしょうが、おっしゃる通り、悪霊や人間を退治する陰陽師として幕府より指名を受けた青井氏の副将であり、次期当主の青井陽介様でございます。そして私はその家来です。」
「そんな…僕が陰陽師?」
本当は全く信じられない。まるで漫画の中の世界だ。
変な夢を見ているような気持ちになる。
発する言葉に困って、口をぱくぱくしていると金ちゃんは顔を見上げて話し始めた。
「そうです。そして、きっと、急にこんなことを言われても困ってしまうだろうと、そんなあなたを見越して、お父上である翔様はこのような手紙を残されておりました。」
懐から縦長の蛇腹状に折り曲げられた白い手紙を取り出す。
「陽介へ この手紙を読んだということは過去のことが知りたくなった、というところでしょうか。
きっと、少し衝撃的で、空っぽの頭に詰め込むには情報がお多すぎるかもしれません。
だから、直接知ったほうがいいと思う。思い出してほしい。
ここの下に住所を書き連ねました。ここであなたを待っています。ぜひ、来てほしい。
青井 翔 」
手紙の住所に目をやると、なんと栃木県那須郡から始まる場所だった。
「陽介様の記憶がないのも、当時の翔様があなた様のことを思って、命を守るためにやったことです。ですから、陽介様が聞きたいことは全てきっと、ここにあります。」
ここに僕の過去が待っている。行かなきゃ。
金ちゃんは落ち着いて、話し続けた。
「うん、今から行ってみるよ。さっきは声を荒くしてしまってごめんね。」
「いいや、誰しも知らない自分のことに触れたら、落ち着いてなんかいられない気持ちはわかります。今までも、これからも変わらずあなたの味方ですよ。さあ、いってらっしゃい。」
その言葉を聞くなり、僕は無言で頷く。
それを見た金ちゃんは微笑む。その笑顔は普段、花屋の店先でおちゃらけたり、僕の相談事を聞いてくれる時のままだった。きっと過去の金ちゃんも、今日までの金ちゃんもどっちも金ちゃんなんだ。
妙にその顔で納得がいった僕は倒れている自転車を起こして、自分の家へ漕ぎはじめた。
―――
今から出発をするとおそらく夜になり、目的地に着く頃には夜中になってしまう。だから、一泊二日になるだろう。
家に着いたら、でなければ横浜駅からの電車に乗ることができない。まずは荷造りをして折り返し出よう。靴を脱いで手洗いうがいをするなり、自分の部屋へ一直線に駆け込む。
夏は服が少なくてありがたい。リュック一つでいけそうだ。珍しく今日は母さんは1日家にいるようだ。そうだ、母さんにも一泊してくることを伝えなきゃな。
「母さん、今日仕事休み?」
ぼーっとして麦茶を飲んでいた母さんは振り向く。
「ああ、うん。今日は休みにしたの。毎年仕事で忙しくしてるけど、今日は休みたくて。」
「どうして?なんかの日?」
「うーんとね、うまく言えないけど今日はお父さん、帰ってきそうだなって思って。そしたらね、さっき携帯に連絡があったの。」
「えっ、どうして?今まで連絡なんてくれた日なかったよ。」
「そうね。でも今まで秘密にしてたんだけど、毎年この日は必ず連絡くれるの。」
初めて聞いた話だ。リュックサックを背負ったまま、立ち止まる。
「中途半端に父さんのこと話すと、かえって辛いだろうと思ったから言えなかった。ちゃんとあの人は世界のことも私たちのことも大切に想ってるの。」
僕は黙ったまま話を聞いていた。確かに、普通ならこんなに家に帰らない父親のことを、母さんと僕のような子供はどこか恨んでいて、いないものとして、記憶からなくしていただろう。
でも、会った記憶はほとんどないけれども、誇りであり大切な家族だと思っていた。不思議だと思っていたけど、ちゃんと連絡をくれてたんだ。すごく安心した。
「そしたら、いつも最近のこととかやってることとか教えてくれるけど、今年は『陽介に会えたのがとっても嬉しかった』だって。あんた、これから父さんに会いに行くんでしょ。」
そう言われた途端、ドキッとした。やはり母親には敵わない。
「顔見てた時、いつもと全然違ったもの。少し不安そうだったけど、ちゃんと自分に向き合おうとしてる目をしてた。だから、ちゃんとして行ってきな。」
「…うん、ありがとう。」
「ちゃんと水分摂って、ちゃんと伝えたいこと、伝えてくるんだよ。どんな時でもあんたの味方だから。」
「うん、ありがとう。」
僕は気持ちが込み上げて来て、今この状態を維持するので精一杯だった。ちゃんと伝えたい時ほど、言葉の種類が足りないと感じる。
なんで日本語はもっとちゃんと、こう、伝えたい想いを伝えられないんだろう。
それでも頷く母さんを見て、僕の気持ちを汲んでくれた。
「いってきます。」
玄関で靴を履き、扉のドアノブに手をかけて、つま先をトントンとさせた。
「うん、いってらっしゃい。ありがとう。」
母さんは優しい眼差しで、でもどこか寂しい顔で目を潤ませながら小さく手を振った。
いつもより大きく感じる扉の音。僕はもうここには帰ってこれない気がした。
大袈裟かもしれないけれども、得体の知れない自分や過去、そして伝えたい想いを伝える恐怖に押しつぶされそうだ。
大人になればなるほど、人に頼ったり助けてと言えなくなったりすると思春期の日々で感じ始めていた。
だけど、金ちゃんも母さんもみんな味方で、そばに居なくてもそばに居てくれて、独りじゃないことがわかった。
ちゃんと信じられる今を見ることができた。
今日も明日も、自分で決めた事で、進路希望調査よりもこれからの自分と向き合える。そんな気がする。
――――
僕は横浜駅の帰り道に向かう人並みに紛れて、北上する電車に乗った。
平日の各駅電車はスーツや制服の人で溢れて、金曜日の明日に進む。家に帰る。
その中で僕はリュックサックを持って、ちょっとした旅行に行く装いで車内の戸袋に立っている。
寄りかかる扉は暗くなった景色を右から左へ流していく。そこに映る僕の顔はいつもの僕の顔。でもそのいつもが、明日変わるかも知れない。
僕は何者なのか。歳はいくつか。過去からやってきたのか。あの本に書いてあった『那須殺生石の乱』にいたのだろうか。今のこの時代の生活は幻なのか。気になることは山ほどあった。
だから今だけは少し休ませてほしい。僕は目を閉じる。
乗り換えの駅に降りる頃には、車内は思ったよりも人がおらず、いつもより空間が広く感じた。扉が開くと、涼しい風が頬を撫でた。
月の光が注ぐ無人駅。栃木県はもう秋の空気で満たされて、夏の湿っぽさは感じなくなっていた。
携帯の道案内に従って、車も走らない一本道を進む。横浜よりも電線は少なくて、電柱もまばらだ。街灯はまだ白熱電球で、ジーッと音がする。
一本道はやがて、木々が生い茂る山道の入り口に繋がった。案内標識となる看板も目印も街灯もない。地図には道なりとなっているが、果たしてここであっているのだろうか。
しばらくなだらかな坂を登っていると、突然携帯電話の電波は圏外になってしまい、道案内が終わった。
途方に暮れていると、茂みの中から豆電球ほどの光がふわりふわりと飛んできた。
「何だこれ…蛍か?」
蛍は僕の周りを2周ほどして、正しい道へ導くように飛んでいった。
僕は足元に落ちた木の枝やら、石やらを暗い中避けながら必死で走る。ぐんぐんと速度を上げ、意外と速いその光は木々を抜け、蜘蛛の巣を抜け進む。
だんだん息が切れ始めたところで、急に視界が開けた場所にでた。
そこは遮るものがなく、ぼんやりと月を囲む光の明かりが煌々と照らしており、あたり一面草原が広がっていた。森中の空気が注がれていくように、柔らかな風が常に吹いていた。
森の中にぽっかりと円形で空いたこの草原。
どうやってできたかはわからないが、森と草原の境目が綺麗に区切られている。
周囲を見渡している間にも、蛍はまっすぐ進んでいく。どうやら中心に向かって飛んでいくようだ。
なだらかな上り坂になる草原の丘を歩くと、そこに一人の男が石碑のようなものに手を合わせてしゃがんでいた。その男の肩に蛍が止まると、それに気がついたのか、祈りが終わったのか、立ち上がった。
「おう、お疲れ様。ちゃんと金に渡した手紙、受け取れてよかった。はるばる呼び出して悪いな。」
この声は、前の祭りのときのたこ焼き屋の店主だ。
「あの時はちゃんと挨拶できなくてすまないな。そして、これまで寂しい思いさせたな、陽介。」
月明かりに照らされながら、風に煽られボサボサになった髪の毛が顔にギザギザな影をうつしていたから、最初はわからなかった。
完全に体を向けると、筋の通った鼻は高くて、ぱっちりとした目に見覚えがある。はちまきはしていない。でもわかる。
やっぱり、たこ焼き屋の店主だ。
あの時会ったのが初めてだと思っていた。しかし、やはりそうだ。
この人は、僕の親父だ。
聞きたいこと、言いたいことが山ほどあったはずなのに目の前にすると全く頭に思い浮かばない。これは、あとで思い出して後悔するやつだ。電車でメモなり書き起こしてくるべきだった。
呆然とする僕を見て、親父は話し続ける。
「まだ思い出せないよな。それはそうだ。長い間、眠っていたのだから。」
「いや、思い出したよ。夏祭りの時は助けてくれてありがとう。まさか、親父だと思わなかった。」
「うん、まぁ、そうだよな。まだあの時は気づかれるわけにはいかなかったからな。悪いな。」
「足、大丈夫?」
「ああ、これは前に戦ったときにやられたものでな。多分簡単には治らないんだ。駅まで遠かったが、ある程度なら術で移動できるからな。」
なんか、謝られてばっかりだなと思った。そして、親父と話すって、こんな感じなんだなとも思った。ほとんど親との、男同士の会話ってやつをやったことなかったから新鮮だった。
友達よりも信頼があって、友達よりも心は近くて、でも友達よりも遠くなる感じがする。
親父は呼吸を落ち着かせて、ゆっくりと話し出した。
「あと、『さっき思い出せない』って言ったけど、俺が言ってるのはここ数ヶ月の話ではなくて、」
親父は一拍開けて、また話し始める。僕は呼吸を忘れて聞きづつけた。
「九百年前。そう、『那須殺生石の乱』のことだ。」
「本でその争いのことを読んだよ。僕もその争いにいたの?」
「ああ、居たもなにも、軍の主力として指揮をしていた。」
やっぱり、僕はそこにいたのか。
いまだに信じられない。今は帰宅部で図書委員会で。そんな片鱗なんて感じなかった。
「だからこの『日本全国家紋一覧書』にも、副将で僕の名前が並べられていたんだね。」
僕は図書室で借りてきた本を、リュックサックの背中側のチャックから引っ張り出した。
「おお、それを読んだのか。だったらある程度のことの経緯はわかるな。実はそれ、一部本当のことを書いてないから。」
「えっ、そうなの。どの部分?あとなんで、この本のこと知ってるの?」
「その本当のことを教えるために今日は来てもらったんだ。あとな、その本は俺の話を聞いて、史学研究を専門としてる大学教授のお前の母ちゃんが書いたものだから。」
なんだって。確かに本の出版は母さんの働く大学から出ていたがこの大学は書籍を多く出してる。後ろのページの著者の欄を見ると、複数の人が寄せ集まって作っているが、そこには『青井 美咲』の母さんの名前がある。なんで気がつかなかったんだろう。
「まだ、僕に伝えてないこと、あるんだよね。」
僕のまっすぐな決意を持った眼差しを受けて、親父はその気持ちに応えようと思い、目を逸らさず話し続けた。
「ああ、ある。あの争いの真実とお前のこと、そしてこの前一緒にいた美穂ちゃんのことだ。」
そうか、彼女もやはりこの一連の出来事に関わっているのか。金ちゃんの様子からそんな気はしていた。
「わかった。そしたら、こっちに来い。」
強くなった向かい風を受けながら、なだらかな丘を歩く。
気がつくと月の位置は大きく動いていた。おそらく時間は夜中だろう。それでもこの場所はそれ以外に景色が変わることはなく、なんとなく時間が経つのが早く感じる。まるで異次元の空間にいるようだった。
丘の上には一つ、苔むした机ほどの大きさの石の塊のようなものがあった。
石の横には筆で書かれたような、縦長な木の看板が刺さっていた。
看板には『殺生石』、そう書いてある。
「これって、もしかしてあの、」
「そうだ。これがこの争いを終わらせた『殺生石』だ。この石に触れると、当時のことが全てわかるだろう。」
僕はそう聞くと唾をのみこんだ。僕の、そして彼女の過去がここにある。
「うん。」
「受け止める準備はできたか?多分、結構時間がかかってしまうかも知れない。少なくとも四時間ほど。」
「うん、構わない。もう、覚悟は決めたから。」
「あと、伝えておくとこれから見るのは戦場だ。そこで用いられるのは普通の武器と、陰陽師だけが使える『お札』だ。『お札』には三つの使い方があって、一つ目は除霊。二つ目は移動手段。三つ目は戦闘用だ。今はいろんな技術が発展してるからほとんどないけどな。しかし、当時は何枚も飛び道具としても使っていたから、気をつけるんだぞ。」
「うん、わかった。」
不安に少し震える手を、力強く拳を握ってかき消す。星でいっぱいの暗い夜空を仰いで、深呼吸をした。よしっ、と声を出して親父を見た。
「そしたら、お前も含む陰陽師は古来から魔術を使っていた。その名は陰陽道。手のひらからこの生まれる力を使って、悪い妖気や人間の力を抑えていた。今この石も実は特殊な妖気で封印されている。そのやり方は昔、教えたはずだ。」
「もしかして、一筆書きの星のこと?」
それは数少ない親父から教えてもらった記憶のうち、上手に星を描くコツである。
「ああ、そうだ。この石のてっぺんに刻まれた星を右の人差し指で、左手で祈りを込めながらなぞってごらん。」
「うん、やってみる。」
頷く僕を見て、感極まったのか、これまで冷静に話していた親父が僕の肩を持って、呼びかけた。
「陽介。ここまで来てくれて本当にありがとうな。これから今のお前には理解できない世界が広がっているかもしれない。それでも必ず戻って来れるから。だから、」
ひと息で話すほど、これまで会えなかった時間を埋めるように話している。一回呼吸を整えて、一言放つ。
「きっと大丈夫。お前を信じてるぞ。」
こんなに心強い言葉はない。
きっと将軍という、立場上これほどのことを言うのはどれほど大変なことなのかはわからない。
それは記憶がないからではなく、ちゃんと子供ではなく一人の人として見てくれる親がどれだけ少ないか。わからない。
だからちゃんと応えたい。
だって、僕は独りじゃないから。
「ありがとう。それじゃあ、また後で。」
僕は背筋をピンと伸ばし左手で祈りながら、指紋が潰れそうなほど石に人差し指を押し付ける。
やはり体が覚えているのだろう。前に銃を扱えたのと同じように、自然とその姿勢になることができた。
じんわりと熱くなるような温度を感じながら人差し指が光り出す。最初の直線を描き始めると白く光る線が出てきた。
少し驚いて、石から離れてしまいそうになる。一瞬輝きが弱くなったのを見ると、気持ちをもう一度込め直して描き出した。
また強く光り出すと、そのまま最後まで一気になぞった。
白く綺麗に描かれた五芒星は光を強めて、僕を包み込んだ。
「行ってこい!陽介!ちゃんとここで待ってるからな!」
叫ぶ親父。
答える間もなく、意識が吸い込まれた。
―――
