八月第二週目の水曜日。
千佳と雅也と僕と、そして美穂さんの四人。僕らは江ノ島で遊ぶことになった。
雅也は高校とは離れたところに住んでいるが、僕と千佳は昔から近所に住んでいる。
今日は午前中、雅也は明日の県大会の準決勝に向けた追い込みの練習で、千佳もバレー部の練習があると言っており現地集合となった。
そんな大切な試合の前日に遊んでいて大丈夫なのかと雅也に聞くと、逆に思い詰めてしまうからむしろ出かけたいと言っている。
横浜駅から電車に乗り、藤沢駅で乗り換える。夏休みということもあり、電車は家族連れで混雑していた。
待ち合わせの駅につくと、千佳に会う。どうやら同じ電車に乗っていたようだ。
「あっ、よーすけ。他のみんなは?」
腰に手を当て、いつもの調子で元気よく聞いてくる。半袖で膝より短めのズボンを履いている。以前、自分では気にしていると怒っていたバレーボール部特有の筋肉質の足が強調されていた。気にしなくなったのか、その健康的なそのスタイルを活かしてスラリと伸びた印象を与えていた。
「まだ会ってない。まあ、集合の十五分前だからな。」
「そっか。江ノ島なんて久しぶりだね!家族と小さい頃来た以来だよ。」
「僕なんか、記憶にないからもしかしたら初めてかもしれない。中学はサッカー部だったから部活で時間がなかったし、母さんも仕事で忙しいからそれどころじゃなくてね。」
「そうだよね。おばさん、元気?」
「ああ、元気だよ。最近、また仕事が忙しそうであまり会えてないけどな。」
千佳と最近の話をしていると、電車が着いたのか急に人が多くなり、その流れに紛れながら彼女がやってきたのが見えた。
「あっ、美穂だ!おーい、こっちこっち!」
「おはよう!おまたせ…!」
彼女は、暑そうな様子で改札を抜けてきた。どうやら混雑した社内で人酔いをしてしまったらしい。苦笑いの表情だが、薄手のサマーカーディガンを羽織り全体的にふわっとした雰囲気の彼女はその場にいるだけで周囲が明るくなった気がした。
すると、雅也から通知が来る。
「なんか、まさやが自転車で来たから、もう先に水族館に着いてるって。それならそうと最初からいえばいいのに。よーすけも美穂も行こ!」
雲一つない夏日。海水浴日和。夏本番の直射日光に焼かれながら、左手に離れた島へまっすぐと伸びる橋を横目に、海岸線沿いを進む。
日本にも関わらず堂々と連なるヤシの木は異国感を漂わせ、すれ違う子供は大きな浮き輪を抱えていた。太陽の光を反射するような白い砂浜には色とりどりのビーチパラソルが突き刺ささっている。
僕らは縦一列で狭い歩道を進む。ビュンビュンと国道を走る車が通り過ぎると、海からの風と相まって涼しい。そんな心地の良い気温に反し、先頭を進む千佳が「あちい〜」とずっと連呼している。なんだかこっちまで暑くなってきた気がした。
それを聞いた彼女は千佳の後ろで「そんなに暑い暑い言ってるとこっちまで暑くなっちゃうよ」と優しく微笑んでいた。どうやら同じことを思っていたらしい。
十五分ほど進むと水族館が見え、その前には青いマウンテンバイクにまたがったまま待ち構えていた雅也が手を振っている。
夏休み真っ只中にも関わらず、意外にも水族館の周辺は人混みはなく空いていて、千佳と彼女が前にいても雅也の姿を目で捕らえられるほど、周囲に遮るものはなかった。
「おう、遅かったな!待ちくたびれたぜ!」
余裕そうな笑顔で雅也は言う。
「遅いもなにも、駅集合だったはずでしょー?」
千佳がすかさず、ツッコミを入れる。
「いやー、こんな暑い日には風を受けたくなるもんだろ?急に自転車で行きたくなったんだよ。電車より自転車のほうが俺ん家から近いし。」
こういう、たまに想像できないような行動をする、気まぐれなところが雅也にはある。楽観的なところが彼の特徴だ。彼らしいとでも言おう。
焼けるような太陽の光から逃れるように、僕らは水族館へと進んでいった。
入口の小さないくつかの水槽は気持ち低い位置に設置されており、顔よりも大きな帽子を被った子どもたちが張り付くように眺めていた。
僕らは、まっすぐと大水槽へ進む。前後二人ずつ、前に千佳と雅也が並びその後ろを僕と彼女が進む。
水槽を眺める彼女。相模湾に生息する魚たちを眺めるその横顔をみてみると、白い肌が揺らめく水槽の青い光を美しく映していた。
僕は群れで泳ぐ魚を目で追うふりをして、彼女を盗み見た。やはり綺麗だ。
周りの人々のざわざわとしたその雑音さえも聞こえなくなるくらい、彼女に見惚れていた。
大水槽の前へたどり着くと、やはり圧巻のスケールである。
まるで大陸棚のそこから水面までを切り取り、野生の様子をそのまま体現しているかのようだった。他の三人も同じように「わあ」と感嘆の声を漏らしていた。
「普段海の近くで過ごしていても、こんなに魚たちを目の当たりにすることってないもんね!」
千佳は楽しそうに三人に話しかける。
「子供の頃にすごいと感じたとは違う、今だからわかる自然の凄さってやつだな。」
「あんたそれ本当にわかってんの?適当に言ってない?」
本音なのか周りに合わしているかわからないようなトーンで雅也が感想を述べると、千佳がすかさずツッコミを入れる。
いつの間にこの二人は仲良くなったのだろう。二人の様子を見てまるで漫才のようだと、彼女と僕は後ろからクスクスと笑う。
小魚たちが群れになり、まるで一匹の大きな魚のように滑らかに泳ぐ。一匹一匹の銀色の体の表面が照明の光を反射する。
小刻みに尾びれを揺らしては、忙しなく水槽の端から端まで縦横無尽に動くのを気にせず、他の魚達は優雅に泳いでいた。
周囲の時間がゆっくり流れていくように感じる。水族館とは不思議な空間だ。
大水槽の横から二階に上がるエスカレーターは、水槽の下をくぐるようにガラスがアーチ状になっていた。
僕ら四人は縦一列に並ぶと、エスカレーターを降りるまでは振り向くこともせず各々、魚たちを眺めていた。
でも、僕はやはり彼女に目がいってしまう。初めて彼女を一段下から後ろ姿をみた。エスカレーターの段差一つ分でも、彼女よりも僕のほうがまだ少し大きい。
おのずといつもより目線が近づく。
不意に僕の盗み見た視線に気がついた彼女はこちらを見て、にっこり微笑んだ。僕の耳元で右手を添えて囁いてくる。
「なんか話したそうな顔してるね。」
ふわっと柔らかい髪の香りがする。僕も同じように、彼女の耳に左手を添えて囁く。
「そんなの、気のせいだよ。」
動揺した僕は足元へ視線を逃し、咄嗟に目を逸らした。彼女からは、くすくす笑う声が聞こえた。
二階へ上がると飼育員が魚たちへ餌をあげるショー時間になったらしく、僕らは人混みへ散り散りになった。周りをキョロキョロしていると、僕はかろうじて千佳を見つける。同じく僕に気がついた千佳は隣へやってきた。そして、スピーカーで魚の解説をする飼育員のお姉さんの声に紛れ込ませながら、僕に囁いてきた。
「なんか、美穂とよーすけ仲良いよね。もしかして、好きなの?」
突然きり込んできた。
「そんな、急になんだよ。」
なんだか、わかりやすく動揺してしまった。
「ふーん、そうなんだ。」
千佳は何か悪いことを企むような顔をして、にやにやとしていた。周りの客は餌に群がる水槽に釘付けである。僕はなぜか感じた動揺を隠すことに精一杯で、それどころではなかった。
そのあとはやっと合流することができ、みんなでイルカショーを見た。最初は子供を喜ばせるものだとたかをくくっていたが、一生懸命に技を披露する姿になぜか感動してしまい、思いの外楽しんでしまった。どれくらい楽しんでいたかと言うと、売店でイルカの絵が入ったボールペンを買ってしまったほどである。
数年ぶりの水族館はとても楽しかった。
その時間はまるで深海に沈んだような、日々の太陽の下で過ごす世界とは違う空間にいるような気がした。
外は夕方で江ノ島と繋がる水平線に半分まで沈む夕日は、焼けるように熱く赤く、震える空気に呼応して揺らいでいた。潮風ならではのベタつく風は、某制汗剤の商品名にもなっている爽やかさとは裏腹に、じんわりと汗を滲ませる。
手のひらをうちわがわりに仰ぎながら斜陽に映し出されるヤシの木が並んだ道を四人で進む。
すると突然、雅也が思いついたように口を開いた。
「なあ、これから花火しねぇか?なんか青春っぽくていいだろ!」
溢れんばかりの笑顔を浮かべながら半周体を回転させて、僕らの方を向きながら後ろ歩きで提案をする。
「賛成!浜辺で線香花火とかやったら雰囲気ありそう!」
千佳は小さくスキップしながら雅也の隣にいく。
たしかに楽しそうだ。しかも、花火を見たことがない彼女にとっては、きっとこれも花火の一環で彼女も喜ぶだろう。そう思って彼女の方を見ると、どこか不安そうで僕らの方から目を逸らしている。明らかに嫌そうで怖がっている印象だ。
どうしたのだろうか。
しばらく沈黙が続いていたが特に反論意見もなく、なし崩しで花火を買うことになってしまった。この辺りで花火を買うことができる場所はコンビニエンスストアくらいだった。
日は沈み、海岸線沿いには等間隔に並ぶ街灯と浮き上がって見えるほどのコンビニエンスストアの光。
昼間のベタつく潮風はいつの間にか、沖の方から爽やかでさらりとした風を連れてきて、体の表面にかいた汗を夜の彼方へ徐々に飛ばしていく。
某制汗剤はどちらかといえば、こちらの潮風のイメージの方が合っている。
吸い込まれるようにして僕らは、ほとんど空車の併設された平置き駐車場を横断して、店舗に入る。
涼しい外からの温度差を感じるほど店舗はクーラー効いており、少し肌寒いと感じるほどだった。
花火セットは入り口右手側のコピー機の隣に堂々と陳列されていた。在庫は多くあり、選べるほどだった。いつの間にか、ノリノリでライターとろうそくを既に買ってきた雅也は僕に手渡してから、じっくりと花火選びを始めた。
夢中になって花火セットを漁る千佳と雅也を後ろから見ていると、彼女がいないことに気がつく。
「あれ、美穂さんがいない。」
つぶやく僕を見てから、千佳が店内を見渡す。
同時に雅也も探し回り、見つからなかったのか残念そうにしてこちらに戻ってきた。
「あれ?ほんとだ。さっきまでいたのに。」
「なんだよー、せっかく誘ってやったのに。もしかしてアイツ逃げたのかー?」
普段楽天的な雅也が珍しく不機嫌になっている。相当花火をしたかったのだろう。
するとその瞬間、突然雨が降り出す。大粒なのか、店内のBGMをかき消してしまうほど、バチバチと音を立ててガラスに打ち付けていた。
「どっちにしろ、これなら花火も中止ね。美穂は今度誘って、この夏が終わるまでにやろ!」
「なんだよー、どっちにしろ中止か。なんならビニール傘買わなきゃいけないほどの雨だよなあ。」
「もう少しだけ、ここで雨宿りさせてもらおうよ。まだまだ夏休みは始まったばかりなんだし。」
そう言ってみたものの、雅也が残念がるのも無理はない。僕らはもう高校2年生だ。来年の夏はきっと、次の進路へ進む準備が各々あるのだろう。今日もそれぞれ夏期講習の休みのタイミングを見つけて予定調整をしてきた。
きっとその次の夏も新しい環境で、新しいコミュニティで人と出会い、そこでの時間も始まるだろう。
そう考えると僕らの夏は、この夏は一度しかないのだから。
もっと大切に、誰が思い出しても良い夏だったと思えるようにしたいなと、ふと感じた。
雨が止んで、僕らは急いで駅へと戻る。
途中の乗り換えで雅也とは別れ、いつもの最寄り駅まで千佳と二人。夏休みの割にはがらんとした各駅停車。空席ばかりの中、隣に座っていた。
「水族館、楽しかったね。小さい頃に見た時の景色と全然違ってた。」
いつもの元気ハツラツな雰囲気とは一変して、カタンコトンと電車の揺れる音の方が大きく聞こえるほど口先で話し始めた。
「そうだな。少しは大人に近づいたのかもしれないね。」
話す相手のペースに合わせてしまう癖で、いつもの勢いでは話せず、こちらもしっとりとした返事をする。
「花火、私はやりたかったな。せっかくの夏休みだし。」
「そうだね、残念だけど雨も降っちゃったし美穂さんもいなくなっちゃったからね。今度またみんなでやろう。」
電車は少しずつ僕らの住む町に向かって近づいていった。しばらくカタンコトンと線路の段差を一定のリズムで踏み、車体を揺らす音が響いていた。
雨雲のせいで辺りはさっきから暗くなったままで、いつの間にか夜になった、そんな印象だ。
車内は冷房の風が天井から吊らされた広告が暗くなった車窓にゆらめいた姿を映しており、寒いくらいに感じた。雨やら汗やらで湿っていたシャツは乾いてしまった。
隣に座る千佳というと、携帯電話をいじるわけでもなく、ただただ左手の人差し指を右手の人差し指と親指でつまんでは離し、つまんでは離すを繰り返していた。
下唇を軽く噛んで、何かを言いたげにしていた。話す話題を思いついたように千佳が口を開いたその瞬間、僕らは同時に声をあげた。
「わっ」
さっきまで明るく車内を照らしていた電気が一斉に消えたのだ。真っ暗で外からの灯りでかろうじて車内は見えるが、お互いの表情はわからない。
ガサガサと電波の悪いトランシーバーのように慌てた様子で車掌からアナウンスが流れた。どうやら、電気系統の接続不良のようで、足元の安全を促していた。だが、非常電源で走行は継続できるらしい。
窓枠から取り込まれたビルや街灯の灯りが車内の床を照らしては、一瞬で進行方向から後方へ流れていく。
二人きり。きっと、冷たく暗い宇宙を漂う宇宙船に乗ったらこんな感じなのだろうと思った。
向かい側の窓から外を見ていると、彼女が話しかけてきた。
「ねぇ、携帯電話の充電切れたから話し相手になってよ。」
「あぁ、いいよ。」
そう答えると、心なしか嬉しそうだった。
「ありがとう。…えっと、今日花火できなくて残念だったね。」
それは今さっき話した。と、思ったがとりあえずそのまま惰性で話を続けてみた。
「ああ、そうだね。今日買ったライター、雅也が僕に渡してきたから僕が持ってるけど、今度やる時はまだ使えるだろうから持ってくるね。」
千佳は小声でうん、という。
そのあとは話が続く様子もなく、また指先をいじり出した。誰もいない空間で電車のカタンコトンとした音だけが響く。カーブに差し掛かって車体が少しずれた時に、隣の車両と繋ぐ扉から別の車内の様子が見えたが、誰も乗っていない。まさに貸切状態だ。
千佳は、また思い出したように話した。毎回話題をわざわざ考えているようだ。
「ねぇ、よーすけは小さい頃、どんな子供だったの?」
僕は、またやる気なく答えようとする。しかし、頭の中には中学の入学式より前のことは思い出せなかった。
「うーん、なんか昔のことあまり覚えてないんだよね。少しずつ忘れていくのかな。」
「そーなんだ。でも、少しくらい覚えてるでしょ?小学生の頃がどうとか。サッカーは昔からやってたの?」
「うーん、それも覚えてないんだ。ただ、サッカーはやってなかったと思う。千佳は覚えてる?小学生の頃や小さい頃の記憶。」
「うん。割とね。昔はいろんな人を助けるお医者さんになりたかった。いわゆる女医ってやつ。かっこいいでしょ?でもね、自分には学力が足りないこととドラマの手術シーンとか見ると血の気が引いちゃってダメなんだよね。だから、諦めちゃった。」
そうして、少し寂しそうに俯く。
「大人になるたびに、自分が本当になりたいものってわからなくなっちゃうよね。」
「そうだね。実際僕もやりたいこと、今ないし。」
「でも私は、その中でやっぱり誰かを助けたいって思いだけはあるの。だから、警察官になりたいって思ってて、進路希望調査にもそうやって書いた。自分ができることからやっていきたいなって。」
「千佳はすごいね。ちゃんと自分がやりたいこととできることが見えてる。僕はまだ、見えてない。」
「そんな、急に褒められると照れるよ。まだ何も出来てないし。ようすけはそういうのないの?なんとなく小さい頃から思ってることとか。」
「うーん、本当に思い出せないんだよね。そういう夢とか考えてたこととか。ただ、」
僕はふと、ひとつやりたいこと、いや、やらなきゃいけないことを思い出す。
「誰かと何か大切な約束をした、ってことだけは覚えてる。」
「なにそれ。まぁ、でもそうやってちゃんと大切にしたいことを大切にしたいよね。きっと大人って素直じゃないし、思ってるほど大人じゃないから。」
「ああ、そうだね。」
次が最寄駅だ。車内アナウンスはいつもの案内をしている。
こうやって言葉にしてみて、初めて昔に約束をしていたことを思い出す。
でもどんな約束だったのだろうか。
雲はどこかへ行ってしまって、車窓からは星が見えた。この前彼女と夏祭りの後に見たよりも遠く、少なかったが、彼女と話したこぎつね座が見えそうなほど綺麗だった。
さっきまでどこか寂しさと怖さを感じる宇宙のような暗い車内はまるで、プラネタリウムくらいに感じた。
星の中を走る列車に乗る、こんな貴重な体験を有名なアニメや小説を書いた偉人たちに教えてやりたい、とまで思えるそんな余裕が出てきた。
―――
千佳と雅也と僕と、そして美穂さんの四人。僕らは江ノ島で遊ぶことになった。
雅也は高校とは離れたところに住んでいるが、僕と千佳は昔から近所に住んでいる。
今日は午前中、雅也は明日の県大会の準決勝に向けた追い込みの練習で、千佳もバレー部の練習があると言っており現地集合となった。
そんな大切な試合の前日に遊んでいて大丈夫なのかと雅也に聞くと、逆に思い詰めてしまうからむしろ出かけたいと言っている。
横浜駅から電車に乗り、藤沢駅で乗り換える。夏休みということもあり、電車は家族連れで混雑していた。
待ち合わせの駅につくと、千佳に会う。どうやら同じ電車に乗っていたようだ。
「あっ、よーすけ。他のみんなは?」
腰に手を当て、いつもの調子で元気よく聞いてくる。半袖で膝より短めのズボンを履いている。以前、自分では気にしていると怒っていたバレーボール部特有の筋肉質の足が強調されていた。気にしなくなったのか、その健康的なそのスタイルを活かしてスラリと伸びた印象を与えていた。
「まだ会ってない。まあ、集合の十五分前だからな。」
「そっか。江ノ島なんて久しぶりだね!家族と小さい頃来た以来だよ。」
「僕なんか、記憶にないからもしかしたら初めてかもしれない。中学はサッカー部だったから部活で時間がなかったし、母さんも仕事で忙しいからそれどころじゃなくてね。」
「そうだよね。おばさん、元気?」
「ああ、元気だよ。最近、また仕事が忙しそうであまり会えてないけどな。」
千佳と最近の話をしていると、電車が着いたのか急に人が多くなり、その流れに紛れながら彼女がやってきたのが見えた。
「あっ、美穂だ!おーい、こっちこっち!」
「おはよう!おまたせ…!」
彼女は、暑そうな様子で改札を抜けてきた。どうやら混雑した社内で人酔いをしてしまったらしい。苦笑いの表情だが、薄手のサマーカーディガンを羽織り全体的にふわっとした雰囲気の彼女はその場にいるだけで周囲が明るくなった気がした。
すると、雅也から通知が来る。
「なんか、まさやが自転車で来たから、もう先に水族館に着いてるって。それならそうと最初からいえばいいのに。よーすけも美穂も行こ!」
雲一つない夏日。海水浴日和。夏本番の直射日光に焼かれながら、左手に離れた島へまっすぐと伸びる橋を横目に、海岸線沿いを進む。
日本にも関わらず堂々と連なるヤシの木は異国感を漂わせ、すれ違う子供は大きな浮き輪を抱えていた。太陽の光を反射するような白い砂浜には色とりどりのビーチパラソルが突き刺ささっている。
僕らは縦一列で狭い歩道を進む。ビュンビュンと国道を走る車が通り過ぎると、海からの風と相まって涼しい。そんな心地の良い気温に反し、先頭を進む千佳が「あちい〜」とずっと連呼している。なんだかこっちまで暑くなってきた気がした。
それを聞いた彼女は千佳の後ろで「そんなに暑い暑い言ってるとこっちまで暑くなっちゃうよ」と優しく微笑んでいた。どうやら同じことを思っていたらしい。
十五分ほど進むと水族館が見え、その前には青いマウンテンバイクにまたがったまま待ち構えていた雅也が手を振っている。
夏休み真っ只中にも関わらず、意外にも水族館の周辺は人混みはなく空いていて、千佳と彼女が前にいても雅也の姿を目で捕らえられるほど、周囲に遮るものはなかった。
「おう、遅かったな!待ちくたびれたぜ!」
余裕そうな笑顔で雅也は言う。
「遅いもなにも、駅集合だったはずでしょー?」
千佳がすかさず、ツッコミを入れる。
「いやー、こんな暑い日には風を受けたくなるもんだろ?急に自転車で行きたくなったんだよ。電車より自転車のほうが俺ん家から近いし。」
こういう、たまに想像できないような行動をする、気まぐれなところが雅也にはある。楽観的なところが彼の特徴だ。彼らしいとでも言おう。
焼けるような太陽の光から逃れるように、僕らは水族館へと進んでいった。
入口の小さないくつかの水槽は気持ち低い位置に設置されており、顔よりも大きな帽子を被った子どもたちが張り付くように眺めていた。
僕らは、まっすぐと大水槽へ進む。前後二人ずつ、前に千佳と雅也が並びその後ろを僕と彼女が進む。
水槽を眺める彼女。相模湾に生息する魚たちを眺めるその横顔をみてみると、白い肌が揺らめく水槽の青い光を美しく映していた。
僕は群れで泳ぐ魚を目で追うふりをして、彼女を盗み見た。やはり綺麗だ。
周りの人々のざわざわとしたその雑音さえも聞こえなくなるくらい、彼女に見惚れていた。
大水槽の前へたどり着くと、やはり圧巻のスケールである。
まるで大陸棚のそこから水面までを切り取り、野生の様子をそのまま体現しているかのようだった。他の三人も同じように「わあ」と感嘆の声を漏らしていた。
「普段海の近くで過ごしていても、こんなに魚たちを目の当たりにすることってないもんね!」
千佳は楽しそうに三人に話しかける。
「子供の頃にすごいと感じたとは違う、今だからわかる自然の凄さってやつだな。」
「あんたそれ本当にわかってんの?適当に言ってない?」
本音なのか周りに合わしているかわからないようなトーンで雅也が感想を述べると、千佳がすかさずツッコミを入れる。
いつの間にこの二人は仲良くなったのだろう。二人の様子を見てまるで漫才のようだと、彼女と僕は後ろからクスクスと笑う。
小魚たちが群れになり、まるで一匹の大きな魚のように滑らかに泳ぐ。一匹一匹の銀色の体の表面が照明の光を反射する。
小刻みに尾びれを揺らしては、忙しなく水槽の端から端まで縦横無尽に動くのを気にせず、他の魚達は優雅に泳いでいた。
周囲の時間がゆっくり流れていくように感じる。水族館とは不思議な空間だ。
大水槽の横から二階に上がるエスカレーターは、水槽の下をくぐるようにガラスがアーチ状になっていた。
僕ら四人は縦一列に並ぶと、エスカレーターを降りるまでは振り向くこともせず各々、魚たちを眺めていた。
でも、僕はやはり彼女に目がいってしまう。初めて彼女を一段下から後ろ姿をみた。エスカレーターの段差一つ分でも、彼女よりも僕のほうがまだ少し大きい。
おのずといつもより目線が近づく。
不意に僕の盗み見た視線に気がついた彼女はこちらを見て、にっこり微笑んだ。僕の耳元で右手を添えて囁いてくる。
「なんか話したそうな顔してるね。」
ふわっと柔らかい髪の香りがする。僕も同じように、彼女の耳に左手を添えて囁く。
「そんなの、気のせいだよ。」
動揺した僕は足元へ視線を逃し、咄嗟に目を逸らした。彼女からは、くすくす笑う声が聞こえた。
二階へ上がると飼育員が魚たちへ餌をあげるショー時間になったらしく、僕らは人混みへ散り散りになった。周りをキョロキョロしていると、僕はかろうじて千佳を見つける。同じく僕に気がついた千佳は隣へやってきた。そして、スピーカーで魚の解説をする飼育員のお姉さんの声に紛れ込ませながら、僕に囁いてきた。
「なんか、美穂とよーすけ仲良いよね。もしかして、好きなの?」
突然きり込んできた。
「そんな、急になんだよ。」
なんだか、わかりやすく動揺してしまった。
「ふーん、そうなんだ。」
千佳は何か悪いことを企むような顔をして、にやにやとしていた。周りの客は餌に群がる水槽に釘付けである。僕はなぜか感じた動揺を隠すことに精一杯で、それどころではなかった。
そのあとはやっと合流することができ、みんなでイルカショーを見た。最初は子供を喜ばせるものだとたかをくくっていたが、一生懸命に技を披露する姿になぜか感動してしまい、思いの外楽しんでしまった。どれくらい楽しんでいたかと言うと、売店でイルカの絵が入ったボールペンを買ってしまったほどである。
数年ぶりの水族館はとても楽しかった。
その時間はまるで深海に沈んだような、日々の太陽の下で過ごす世界とは違う空間にいるような気がした。
外は夕方で江ノ島と繋がる水平線に半分まで沈む夕日は、焼けるように熱く赤く、震える空気に呼応して揺らいでいた。潮風ならではのベタつく風は、某制汗剤の商品名にもなっている爽やかさとは裏腹に、じんわりと汗を滲ませる。
手のひらをうちわがわりに仰ぎながら斜陽に映し出されるヤシの木が並んだ道を四人で進む。
すると突然、雅也が思いついたように口を開いた。
「なあ、これから花火しねぇか?なんか青春っぽくていいだろ!」
溢れんばかりの笑顔を浮かべながら半周体を回転させて、僕らの方を向きながら後ろ歩きで提案をする。
「賛成!浜辺で線香花火とかやったら雰囲気ありそう!」
千佳は小さくスキップしながら雅也の隣にいく。
たしかに楽しそうだ。しかも、花火を見たことがない彼女にとっては、きっとこれも花火の一環で彼女も喜ぶだろう。そう思って彼女の方を見ると、どこか不安そうで僕らの方から目を逸らしている。明らかに嫌そうで怖がっている印象だ。
どうしたのだろうか。
しばらく沈黙が続いていたが特に反論意見もなく、なし崩しで花火を買うことになってしまった。この辺りで花火を買うことができる場所はコンビニエンスストアくらいだった。
日は沈み、海岸線沿いには等間隔に並ぶ街灯と浮き上がって見えるほどのコンビニエンスストアの光。
昼間のベタつく潮風はいつの間にか、沖の方から爽やかでさらりとした風を連れてきて、体の表面にかいた汗を夜の彼方へ徐々に飛ばしていく。
某制汗剤はどちらかといえば、こちらの潮風のイメージの方が合っている。
吸い込まれるようにして僕らは、ほとんど空車の併設された平置き駐車場を横断して、店舗に入る。
涼しい外からの温度差を感じるほど店舗はクーラー効いており、少し肌寒いと感じるほどだった。
花火セットは入り口右手側のコピー機の隣に堂々と陳列されていた。在庫は多くあり、選べるほどだった。いつの間にか、ノリノリでライターとろうそくを既に買ってきた雅也は僕に手渡してから、じっくりと花火選びを始めた。
夢中になって花火セットを漁る千佳と雅也を後ろから見ていると、彼女がいないことに気がつく。
「あれ、美穂さんがいない。」
つぶやく僕を見てから、千佳が店内を見渡す。
同時に雅也も探し回り、見つからなかったのか残念そうにしてこちらに戻ってきた。
「あれ?ほんとだ。さっきまでいたのに。」
「なんだよー、せっかく誘ってやったのに。もしかしてアイツ逃げたのかー?」
普段楽天的な雅也が珍しく不機嫌になっている。相当花火をしたかったのだろう。
するとその瞬間、突然雨が降り出す。大粒なのか、店内のBGMをかき消してしまうほど、バチバチと音を立ててガラスに打ち付けていた。
「どっちにしろ、これなら花火も中止ね。美穂は今度誘って、この夏が終わるまでにやろ!」
「なんだよー、どっちにしろ中止か。なんならビニール傘買わなきゃいけないほどの雨だよなあ。」
「もう少しだけ、ここで雨宿りさせてもらおうよ。まだまだ夏休みは始まったばかりなんだし。」
そう言ってみたものの、雅也が残念がるのも無理はない。僕らはもう高校2年生だ。来年の夏はきっと、次の進路へ進む準備が各々あるのだろう。今日もそれぞれ夏期講習の休みのタイミングを見つけて予定調整をしてきた。
きっとその次の夏も新しい環境で、新しいコミュニティで人と出会い、そこでの時間も始まるだろう。
そう考えると僕らの夏は、この夏は一度しかないのだから。
もっと大切に、誰が思い出しても良い夏だったと思えるようにしたいなと、ふと感じた。
雨が止んで、僕らは急いで駅へと戻る。
途中の乗り換えで雅也とは別れ、いつもの最寄り駅まで千佳と二人。夏休みの割にはがらんとした各駅停車。空席ばかりの中、隣に座っていた。
「水族館、楽しかったね。小さい頃に見た時の景色と全然違ってた。」
いつもの元気ハツラツな雰囲気とは一変して、カタンコトンと電車の揺れる音の方が大きく聞こえるほど口先で話し始めた。
「そうだな。少しは大人に近づいたのかもしれないね。」
話す相手のペースに合わせてしまう癖で、いつもの勢いでは話せず、こちらもしっとりとした返事をする。
「花火、私はやりたかったな。せっかくの夏休みだし。」
「そうだね、残念だけど雨も降っちゃったし美穂さんもいなくなっちゃったからね。今度またみんなでやろう。」
電車は少しずつ僕らの住む町に向かって近づいていった。しばらくカタンコトンと線路の段差を一定のリズムで踏み、車体を揺らす音が響いていた。
雨雲のせいで辺りはさっきから暗くなったままで、いつの間にか夜になった、そんな印象だ。
車内は冷房の風が天井から吊らされた広告が暗くなった車窓にゆらめいた姿を映しており、寒いくらいに感じた。雨やら汗やらで湿っていたシャツは乾いてしまった。
隣に座る千佳というと、携帯電話をいじるわけでもなく、ただただ左手の人差し指を右手の人差し指と親指でつまんでは離し、つまんでは離すを繰り返していた。
下唇を軽く噛んで、何かを言いたげにしていた。話す話題を思いついたように千佳が口を開いたその瞬間、僕らは同時に声をあげた。
「わっ」
さっきまで明るく車内を照らしていた電気が一斉に消えたのだ。真っ暗で外からの灯りでかろうじて車内は見えるが、お互いの表情はわからない。
ガサガサと電波の悪いトランシーバーのように慌てた様子で車掌からアナウンスが流れた。どうやら、電気系統の接続不良のようで、足元の安全を促していた。だが、非常電源で走行は継続できるらしい。
窓枠から取り込まれたビルや街灯の灯りが車内の床を照らしては、一瞬で進行方向から後方へ流れていく。
二人きり。きっと、冷たく暗い宇宙を漂う宇宙船に乗ったらこんな感じなのだろうと思った。
向かい側の窓から外を見ていると、彼女が話しかけてきた。
「ねぇ、携帯電話の充電切れたから話し相手になってよ。」
「あぁ、いいよ。」
そう答えると、心なしか嬉しそうだった。
「ありがとう。…えっと、今日花火できなくて残念だったね。」
それは今さっき話した。と、思ったがとりあえずそのまま惰性で話を続けてみた。
「ああ、そうだね。今日買ったライター、雅也が僕に渡してきたから僕が持ってるけど、今度やる時はまだ使えるだろうから持ってくるね。」
千佳は小声でうん、という。
そのあとは話が続く様子もなく、また指先をいじり出した。誰もいない空間で電車のカタンコトンとした音だけが響く。カーブに差し掛かって車体が少しずれた時に、隣の車両と繋ぐ扉から別の車内の様子が見えたが、誰も乗っていない。まさに貸切状態だ。
千佳は、また思い出したように話した。毎回話題をわざわざ考えているようだ。
「ねぇ、よーすけは小さい頃、どんな子供だったの?」
僕は、またやる気なく答えようとする。しかし、頭の中には中学の入学式より前のことは思い出せなかった。
「うーん、なんか昔のことあまり覚えてないんだよね。少しずつ忘れていくのかな。」
「そーなんだ。でも、少しくらい覚えてるでしょ?小学生の頃がどうとか。サッカーは昔からやってたの?」
「うーん、それも覚えてないんだ。ただ、サッカーはやってなかったと思う。千佳は覚えてる?小学生の頃や小さい頃の記憶。」
「うん。割とね。昔はいろんな人を助けるお医者さんになりたかった。いわゆる女医ってやつ。かっこいいでしょ?でもね、自分には学力が足りないこととドラマの手術シーンとか見ると血の気が引いちゃってダメなんだよね。だから、諦めちゃった。」
そうして、少し寂しそうに俯く。
「大人になるたびに、自分が本当になりたいものってわからなくなっちゃうよね。」
「そうだね。実際僕もやりたいこと、今ないし。」
「でも私は、その中でやっぱり誰かを助けたいって思いだけはあるの。だから、警察官になりたいって思ってて、進路希望調査にもそうやって書いた。自分ができることからやっていきたいなって。」
「千佳はすごいね。ちゃんと自分がやりたいこととできることが見えてる。僕はまだ、見えてない。」
「そんな、急に褒められると照れるよ。まだ何も出来てないし。ようすけはそういうのないの?なんとなく小さい頃から思ってることとか。」
「うーん、本当に思い出せないんだよね。そういう夢とか考えてたこととか。ただ、」
僕はふと、ひとつやりたいこと、いや、やらなきゃいけないことを思い出す。
「誰かと何か大切な約束をした、ってことだけは覚えてる。」
「なにそれ。まぁ、でもそうやってちゃんと大切にしたいことを大切にしたいよね。きっと大人って素直じゃないし、思ってるほど大人じゃないから。」
「ああ、そうだね。」
次が最寄駅だ。車内アナウンスはいつもの案内をしている。
こうやって言葉にしてみて、初めて昔に約束をしていたことを思い出す。
でもどんな約束だったのだろうか。
雲はどこかへ行ってしまって、車窓からは星が見えた。この前彼女と夏祭りの後に見たよりも遠く、少なかったが、彼女と話したこぎつね座が見えそうなほど綺麗だった。
さっきまでどこか寂しさと怖さを感じる宇宙のような暗い車内はまるで、プラネタリウムくらいに感じた。
星の中を走る列車に乗る、こんな貴重な体験を有名なアニメや小説を書いた偉人たちに教えてやりたい、とまで思えるそんな余裕が出てきた。
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