八月の最初。夏休み最初の金曜日。
美穂と僕は携帯で連絡を取り始めた。何かあったときに駆けつけられるように、夏祭りの帰り道に互いの連絡先を交換した。
毎日、朝と夕方、寝る前あたりにたまに連絡が来る。通知が来るたびに、既読はせず、しばらく置いてから返信を考えるのが日課だ。
今日は約束通り、市内でも大きな「あの図書館」へ向かった。
横浜では、政令指定都市で人口が多いにも関わらず、図書館の数は限られている。
だからこそ、「あの図書館に十四時に集合ね」といっても伝わるのだ。
駐輪場から入口への通路には、腰ほどの大きさのひまわりが五本ほど植えられており、全部蕾の状態だ。開花するときを太陽の方へ顔を向けて、今か今かと待ちわびている。
自動ドアをくぐり、自由に本を読むことができる長机が並ぶ空間へ入る。
まだ十四時には五分ほど早いようだ。先に宿題を広げて、宿題を始めておこう。
なんて思いながら、机に数学の教科書とノートの新しいページを開く。
ただ、夏バテのせいで全くやる気が起きない。
これはまるで毎回テスト期間は部屋の片付けや、中学の卒業アルバムなんかを見始めて全く勉強が進まないときのようだ。挙句の果てに、前日には昼寝をしてしまい、夜から焦りだすのがいつもの流れだ。
今日もそんな調子で、全く頭に入ってこない説明文をただただ、目で流していると、向かいの席から視線を感じる。
顔を上げると、そこには彼女が両手で頬杖をついてニヤついていた。
「その調子だと、全く捗ってなさそうだね。おまたせ。」
うん、かわいい。私服姿を初めてみた。薄手の水色のシャツを着ており、ゆらゆらと揺れる白地に黒チェックのロングスカートが彼女の雰囲気にぴったりだった。
それにおまたせというなんて、あまりにもズルすぎる。
「ああ、夏バテで全く頭に入ってこないんだ。」
キンキンにクーラーの効いた図書館で呟く。天井から吊り下がる大きめの業務用エアコンからゴーっと音がする。
「こういうときにだけ、夏のせいにするなんて夏がかわいそうだよ。もっと、いいときに使わなきゃ。」
「たとえば?」
「バニラと抹茶、どっちが好き?」
「うーん、強いて言うならバニラだけど?なんで?」
「入口にアイスの自販機があったんだけど、一緒に食べない?勉強も捗ってなさそうだし。」
「それだったら、プリン味のやつがいいな。買っちゃうのもしょうがないよな、夏だし。」
「そうそう、そういうときに夏のせいにするんだよ。行こっ!」
なぜか、満足そうな顔を浮かべる彼女は立ち上がって、入口の方に向かう。
僕も同時に立ち上がって、財布を握りしめて追いかけた。
館内は飲食厳禁だ。
僕らは入口の屋根の下に設置された自販機の前で、回転しながら剥くタイプの棒アイスの包装紙を外した。
あちこちからシャーシャーと鳴き声がする。その声は街全体に降り注ぐ雨のようで、昔の人は蝉時雨とよく言ったものだ。
ふと、携帯の通知音に気がつく。千佳からだった。
メッセージを見ると「ねえ、今度ようすけと雅也と美穂と四人で江ノ島行かない?雅也も部活休みだし、たまには夏らしいことしようよ!」と書いてあった。
美穂に聞くと、少し間が空いて静かに頷く。その様子を見て、「行こう」と返事をした。
「なんだか、この四人で遊ぶの珍しいな。」
「うん、そうだね。江ノ島、いったことないから楽しみ。」
「そっか。美穂は転校してくるまではどこにいたんだっけ?」
「栃木の那須ってところだよ。昔、いや、結構前から住んでて、引っ越してきたの。山間の夏はここよりずっと涼しいんだよ。横浜は海沿いだから涼しいかと思っていたけど、意外と暑いんだね。」
彼女はそう言って、汗をぬぐいながら、残った一口分のバニラアイスをほおばる。
「そうだよね、よく避暑地とか言われているような場所だもんね。方言、たまにでてるし。」
「えっ、ほんと!?できるだけ隠しているつもりなんだけどな。気を抜くと出ちゃうのかもしれない。」
「お母さんもまだ、那須にいるからいずれは戻るかもしれないの。だから金ちゃんのところに仮で住んでる。」
「そうなんだね。そういえば、なんで横浜に引っ越してきたの?」
「んー…どうしても、会いたい人がいて。でも今年を逃したら、もう会えないかもしれないから。これはみんなに秘密ね。」
少し言いづらそうにしながら、後半につれ声が小さくなっていく。語尾が蝉の声にかき消されそうになるほどで、彼女の表情は曇っていく。
親族などだろうか。聞きたかったが、深入りするのはデリカシーがないと思われてしまうため、僕は思ったことを飲み込んだ。
「そうだったのか。でも、横浜での生活も悪くないでしょ?」
「うん!那須は山だけど、こっちは海だから見たことないものがたくさんあって、楽しいよ!」
彼女は心からの楽しい感情を全面にして、言った。その様子を見てホッとする。
彼女の話に聞き入ってしまい、危うく図書館の入口に敷かれた、レンガ状のコンクリートの地面に垂れてしまいそうだった。
僕は、歯に染みそうなほど冷たいバニラアイスを一口で食べた。
僕の慌てる様子を見て笑って言った。
「そろそろ席に戻ろっか。夏休みの宿題、進めたいもんね。」
棒をゴミ箱に捨て、僕らは小走りで自動ドアをくぐり抜けた。
僕は現代社会が得意で、彼女は古典が得意だった。
彼女は現代社会が苦手で、教科書を読むたびにへえーと感嘆の声を漏らしながら勉強している。
特に江戸時代頃からの内容が全くわからず、質問してくるときには必ず、「那須では教わらなかった」と言い張る。
反対に古典が苦手な僕に、彼女は「ようすけならきっと、楽勝なのにね」と得意げに煽ってきた。
古典の文章なんて読んだ記憶などない。僕はたまらず、「横浜ではきっと習わないんだよ」と言い返してやった。
僕らは周りに配慮し、静かに笑う。
夏休みが始まって一週間。彼女と一緒にいる時間がなによりも楽しかった。
―――
閉館の蛍の光が流れ、時間を忘れて過ごしていた僕達は、慌てて教材をしまい始める。
すると、彼女は思い出したように、手を動かしながら話した。
「そういえば、八月の最後に横浜の海沿いで花火大会があるんだっけ?」
彼女は嬉しそうに尋ねる。
「そうそう。沖の方から打ち上がる、この前よりも大きな花火大会があるんだよ。みんなは横浜中華街の近くにある海沿いの山下公園にいくんだけど、僕は臨港パークから見るのが好きなんだ。」
「へえ〜!ようすけがおすすめの公園からみてみたいな!まだまだ先だけど、待ち合わせの時間、決めようよ。」
「もちろん!そしたら、打ち上がるのが十八時半からだから、その前に臨港パークの入口で集合しよう!」
「わかった!とっても楽しみ。」
そんな会話をしていると、いつの間にか僕らだけになっていた。図書館司書の小松さんが受付カウンターの片付けをしながら、目で「そろそろ出たほうがいいよ」と訴えてきた。
気を遣って声をかけてこないところが優しいなと思う。
図書館から出ると、彼女を送り届ける事となった。なぜなら、彼女が住む金ちゃんの店は僕の家までの通過点だからだ。
日が伸びたとはいえ、あたりはすっかり暗くなった。電柱に斜めに突き刺さるように設置された電灯は、チカチカと点滅しながら光り始める。
通り過ぎた家の窓からは時折カレーのにおいがする。遠くからひぐらしの声が響いては、僕らのコンクリートを踏む音と微妙にリズムがズレていた。
金ちゃんの店の前に到着すると既に閉店しており、シャッターが閉まっていた。二階には明るい白色の電気がついているのがすりガラスの窓からでもわかる。
「…今日はありがとう。とっても楽しかった。また来週の同じ時間、あの図書館で集合ね。」
「うん!あ、その前に来週は江の島だね。」
「そうだった!来月の花火大会の予定を決めてたら、来週のこと忘れてたよ。私、すごく花火が楽しみなんだ。それじゃあ、また来週。またね。」
「うん、また来週!」
彼女は家に入る前にもう一度振り返って、小さく手を振った。家からは金ちゃんの声が聞こえる。ふと、僕は彼女の声を昔聞いたことがある。そう思った。
以前も同じことが脳裏によぎるほど、どこか懐かしさを彼女に感じていた。
早く、来週になればいいのに。
―――
美穂と僕は携帯で連絡を取り始めた。何かあったときに駆けつけられるように、夏祭りの帰り道に互いの連絡先を交換した。
毎日、朝と夕方、寝る前あたりにたまに連絡が来る。通知が来るたびに、既読はせず、しばらく置いてから返信を考えるのが日課だ。
今日は約束通り、市内でも大きな「あの図書館」へ向かった。
横浜では、政令指定都市で人口が多いにも関わらず、図書館の数は限られている。
だからこそ、「あの図書館に十四時に集合ね」といっても伝わるのだ。
駐輪場から入口への通路には、腰ほどの大きさのひまわりが五本ほど植えられており、全部蕾の状態だ。開花するときを太陽の方へ顔を向けて、今か今かと待ちわびている。
自動ドアをくぐり、自由に本を読むことができる長机が並ぶ空間へ入る。
まだ十四時には五分ほど早いようだ。先に宿題を広げて、宿題を始めておこう。
なんて思いながら、机に数学の教科書とノートの新しいページを開く。
ただ、夏バテのせいで全くやる気が起きない。
これはまるで毎回テスト期間は部屋の片付けや、中学の卒業アルバムなんかを見始めて全く勉強が進まないときのようだ。挙句の果てに、前日には昼寝をしてしまい、夜から焦りだすのがいつもの流れだ。
今日もそんな調子で、全く頭に入ってこない説明文をただただ、目で流していると、向かいの席から視線を感じる。
顔を上げると、そこには彼女が両手で頬杖をついてニヤついていた。
「その調子だと、全く捗ってなさそうだね。おまたせ。」
うん、かわいい。私服姿を初めてみた。薄手の水色のシャツを着ており、ゆらゆらと揺れる白地に黒チェックのロングスカートが彼女の雰囲気にぴったりだった。
それにおまたせというなんて、あまりにもズルすぎる。
「ああ、夏バテで全く頭に入ってこないんだ。」
キンキンにクーラーの効いた図書館で呟く。天井から吊り下がる大きめの業務用エアコンからゴーっと音がする。
「こういうときにだけ、夏のせいにするなんて夏がかわいそうだよ。もっと、いいときに使わなきゃ。」
「たとえば?」
「バニラと抹茶、どっちが好き?」
「うーん、強いて言うならバニラだけど?なんで?」
「入口にアイスの自販機があったんだけど、一緒に食べない?勉強も捗ってなさそうだし。」
「それだったら、プリン味のやつがいいな。買っちゃうのもしょうがないよな、夏だし。」
「そうそう、そういうときに夏のせいにするんだよ。行こっ!」
なぜか、満足そうな顔を浮かべる彼女は立ち上がって、入口の方に向かう。
僕も同時に立ち上がって、財布を握りしめて追いかけた。
館内は飲食厳禁だ。
僕らは入口の屋根の下に設置された自販機の前で、回転しながら剥くタイプの棒アイスの包装紙を外した。
あちこちからシャーシャーと鳴き声がする。その声は街全体に降り注ぐ雨のようで、昔の人は蝉時雨とよく言ったものだ。
ふと、携帯の通知音に気がつく。千佳からだった。
メッセージを見ると「ねえ、今度ようすけと雅也と美穂と四人で江ノ島行かない?雅也も部活休みだし、たまには夏らしいことしようよ!」と書いてあった。
美穂に聞くと、少し間が空いて静かに頷く。その様子を見て、「行こう」と返事をした。
「なんだか、この四人で遊ぶの珍しいな。」
「うん、そうだね。江ノ島、いったことないから楽しみ。」
「そっか。美穂は転校してくるまではどこにいたんだっけ?」
「栃木の那須ってところだよ。昔、いや、結構前から住んでて、引っ越してきたの。山間の夏はここよりずっと涼しいんだよ。横浜は海沿いだから涼しいかと思っていたけど、意外と暑いんだね。」
彼女はそう言って、汗をぬぐいながら、残った一口分のバニラアイスをほおばる。
「そうだよね、よく避暑地とか言われているような場所だもんね。方言、たまにでてるし。」
「えっ、ほんと!?できるだけ隠しているつもりなんだけどな。気を抜くと出ちゃうのかもしれない。」
「お母さんもまだ、那須にいるからいずれは戻るかもしれないの。だから金ちゃんのところに仮で住んでる。」
「そうなんだね。そういえば、なんで横浜に引っ越してきたの?」
「んー…どうしても、会いたい人がいて。でも今年を逃したら、もう会えないかもしれないから。これはみんなに秘密ね。」
少し言いづらそうにしながら、後半につれ声が小さくなっていく。語尾が蝉の声にかき消されそうになるほどで、彼女の表情は曇っていく。
親族などだろうか。聞きたかったが、深入りするのはデリカシーがないと思われてしまうため、僕は思ったことを飲み込んだ。
「そうだったのか。でも、横浜での生活も悪くないでしょ?」
「うん!那須は山だけど、こっちは海だから見たことないものがたくさんあって、楽しいよ!」
彼女は心からの楽しい感情を全面にして、言った。その様子を見てホッとする。
彼女の話に聞き入ってしまい、危うく図書館の入口に敷かれた、レンガ状のコンクリートの地面に垂れてしまいそうだった。
僕は、歯に染みそうなほど冷たいバニラアイスを一口で食べた。
僕の慌てる様子を見て笑って言った。
「そろそろ席に戻ろっか。夏休みの宿題、進めたいもんね。」
棒をゴミ箱に捨て、僕らは小走りで自動ドアをくぐり抜けた。
僕は現代社会が得意で、彼女は古典が得意だった。
彼女は現代社会が苦手で、教科書を読むたびにへえーと感嘆の声を漏らしながら勉強している。
特に江戸時代頃からの内容が全くわからず、質問してくるときには必ず、「那須では教わらなかった」と言い張る。
反対に古典が苦手な僕に、彼女は「ようすけならきっと、楽勝なのにね」と得意げに煽ってきた。
古典の文章なんて読んだ記憶などない。僕はたまらず、「横浜ではきっと習わないんだよ」と言い返してやった。
僕らは周りに配慮し、静かに笑う。
夏休みが始まって一週間。彼女と一緒にいる時間がなによりも楽しかった。
―――
閉館の蛍の光が流れ、時間を忘れて過ごしていた僕達は、慌てて教材をしまい始める。
すると、彼女は思い出したように、手を動かしながら話した。
「そういえば、八月の最後に横浜の海沿いで花火大会があるんだっけ?」
彼女は嬉しそうに尋ねる。
「そうそう。沖の方から打ち上がる、この前よりも大きな花火大会があるんだよ。みんなは横浜中華街の近くにある海沿いの山下公園にいくんだけど、僕は臨港パークから見るのが好きなんだ。」
「へえ〜!ようすけがおすすめの公園からみてみたいな!まだまだ先だけど、待ち合わせの時間、決めようよ。」
「もちろん!そしたら、打ち上がるのが十八時半からだから、その前に臨港パークの入口で集合しよう!」
「わかった!とっても楽しみ。」
そんな会話をしていると、いつの間にか僕らだけになっていた。図書館司書の小松さんが受付カウンターの片付けをしながら、目で「そろそろ出たほうがいいよ」と訴えてきた。
気を遣って声をかけてこないところが優しいなと思う。
図書館から出ると、彼女を送り届ける事となった。なぜなら、彼女が住む金ちゃんの店は僕の家までの通過点だからだ。
日が伸びたとはいえ、あたりはすっかり暗くなった。電柱に斜めに突き刺さるように設置された電灯は、チカチカと点滅しながら光り始める。
通り過ぎた家の窓からは時折カレーのにおいがする。遠くからひぐらしの声が響いては、僕らのコンクリートを踏む音と微妙にリズムがズレていた。
金ちゃんの店の前に到着すると既に閉店しており、シャッターが閉まっていた。二階には明るい白色の電気がついているのがすりガラスの窓からでもわかる。
「…今日はありがとう。とっても楽しかった。また来週の同じ時間、あの図書館で集合ね。」
「うん!あ、その前に来週は江の島だね。」
「そうだった!来月の花火大会の予定を決めてたら、来週のこと忘れてたよ。私、すごく花火が楽しみなんだ。それじゃあ、また来週。またね。」
「うん、また来週!」
彼女は家に入る前にもう一度振り返って、小さく手を振った。家からは金ちゃんの声が聞こえる。ふと、僕は彼女の声を昔聞いたことがある。そう思った。
以前も同じことが脳裏によぎるほど、どこか懐かしさを彼女に感じていた。
早く、来週になればいいのに。
―――
