夏のでれすけ

 桜木町に着いたのは、十七時過ぎだった。

 途中のコンビニエンスストアでおにぎりを買って、電車に揺られていた。あの場所から山道を歩いて駅に行ったから、大体五時間くらいかかっただろうか。

 急いで、僕はある場所へ向かう。いつも自転車で向かう道も、いざ歩いてみると随分と遠く重く感じる。

 涼しい電車の中から、蒸し暑い、まだまだ夏らしい気候が汗ばませる。住宅街の路地を曲がっていくと、現れる見慣れた店先。
 歩道ギリギリまで並べていた商品を、ひとつひとつ丁寧に奥にしまっていた緑色のエプロンをつけた店員に声をかけた。

「金ちゃん、美穂さん帰ってきてない?」

 そこは金ちゃんの店だった。声をかけられた金ちゃんは驚いて、落としそうになりながらも手に持った鉢植えを急いで床に置いた。

「おお、ようすけ。戻ったのか!……いや、その顔はもしかして、過去のことを思い出したんですね。」

「ああ。九百年間お待たせ。」

 金ちゃんは背筋を伸ばして、真面目な顔で受け答えをした。

「きっと、雅也くん、いや、ガナリのこともお聞きになったでしょうに。」

「うん。それだけじゃない。あの日起きたことも美穂の正体のことも。」

 金ちゃんは心配そうに僕を見ている。

「だからこそ、僕は今日の花火を彼女と見たいんだ。だから、居場所を教えてくれないか。」

「覚悟を決めたんですね。花火を見るとどうなるかもご存知ですか。」

 僕は無言になった。

「きっと、僕にしかできないことなんだ。だから、教えてくれ。お願いだ。」

 僕は頭を下げた。もみあげのあたり、耳の上から汗が頬を流れる。

「…わかりました。顔を上げてください。私なんかに頭を下げるものではありません。…実は、ちょうど一時間前にここへ帰ってきたんです。私に会うのと、伝言を残しに。」

 僕は思わず驚いて、ゆっくりと顔を上げた。

「…そうなのか?なんて言っていたんだ。」

「私には『今まで本当にありがとう。』と。そして、楽しそうに二階で服を選んでました。結局、白いワンピースで出かけ、最後に振り向いてこう行っていました。」

 伏し目で語る金ちゃんは、一回息を吸ってから話す。

「『もし、陽介がきたら今日、約束した時間に、あなたが言ってた場所で待ってるって伝えておいて。』と楽しそうにいってました。」

 約束のした時間、僕が言ってた場所。どこだろう。
 僕はこれまでの記憶を辿った。きっと、平安時代では場所までは指定していないだろう。

 思い当たるのは一箇所だけだった。

「…今日は花火。一番よく見えるのは、臨港パークだ。」

 そう呟くと、金ちゃんにリュックサックを渡して、慌てて走った。


 金ちゃんの家から臨港パークまで行くには、僕の家の前を通る。
 ちょうど自転車の鍵を持っているから、そこから自転車に乗っていこう。


 僕は、住宅街の中を走り出した。
 時折、浴衣姿のカップルとすれ違った。きっと、花火を見に行くのだろう。
 ぽつりぽつりと街灯の明かりが灯りだす。あたりはだんだんと暗くなっていった。

「あれ、ようすけじゃん!」

 家への路地を曲がると、突然男の声がした。
 僕は立ち止まる。この声、聞き覚えがある。全身に鳥肌が立つのがわかる。
 僕はその瞬間、どんな顔をしていたのだろう。

「……雅也。」

 振り向くとそこには、雅也がいた。
 蝉の声が大きくなり、彼のいつもの笑顔は街灯に照らされて影を落とし、いつもよりも不気味に見えた。

「おう!そんなに急いでこれからどこ行くんだ?すごい汗だな。まさか、花火大会に行くのか?」

 僕は、湧き上がる感情をなるべく抑えて、冷静なままでいようと努力した。

「ああ、これから花火を見に行くんだ。」

「そうか、もしかして高久美穂も一緒か…?」

「ああ、そうだ。待ち合わせてる。」

 僕の答えを聞いた途端、一瞬彼の表情が曇る。だが、それを隠すようにして、口角を引き上げて無理矢理笑っているように見えた。

「そしたら、連絡よこせって言ったろー。ほら、わかるだろ。俺が会いたがってること。」

 僕はきっと、もう笑えていなかっただろう。彼の笑顔の演技も限界を迎えていた。

「ああ、わかるさ。だから、連絡できなかったんだよ。」

「……どういうことだ、陽介?」

 声のトーンが変わった。
 夕陽が傾いて、彼の影が伸びる。
 彼の影のてっぺんは僕のつま先とぶつかって、僕の影と繋がっていた。

「雅也、お前が彼女を欲しいのは彼女が好きだから…じゃないんだろ?」

「…何を言ってんだよ。俺はあいつが好きだぜ。俺のこれからにはいてもらわなきゃ困るんだよ。」

「そうだろうな。だって、永遠の生命が手に入るのだから。」

 僕は生まれて初めて腹の底から込み上げた怒りを搾り出して、言霊にして飛ばす。

 雅也は笑うのをやめた。そして、いつものヘラヘラとしてる中でも優しい、いつものあの声とは全く別人のガラガラとした声で怒鳴りつけるような声で話し始める。

「てめぇ、知ってたのかよ。てっきりすっかり忘れたもんだと思ってたよ。いつから知ってた?」

「昨日からだよ。過去の記憶を呼び起こして、今朝全てを知った。ガナリ、お前のことはもちろん、那須でのあの日のこと、全てだ。」

 その瞬間、僕が言い終わらないうちに彼は僕に飛びかかってきた。彼はまず、左手で僕の胸ぐらを服ごと掴む。そして、右手で殴りかかる。

 まず一発。僕の左頬の頬骨近くにパンチが入った。そして、二発目が僕の左の側頭部、三発目は僕の右頬の唇の近くを殴った。
 体制が崩れ、僕はコンクリートの地面に打ち付けられた。

「それならなおさら、あの女を俺に渡せよ陽介。てめえにわかるか、この焦ったさを。あんな何も世界を変える妖怪、不老不死の力を持っていても何の意味もねぇんだよ。

「だかな、俺なら変えられる。なぜなら、この人々を従える統率力と、無駄のない弱小種族の根絶を持っているからな。俺が不老不死になったら、この世を最強種族だけにし、全てを統率してみせる。そうすれば、俺が描いた世界を作り放題だ。だから、何も意味もねぇアイツの存在価値を俺なら最大限にまで高められる。」

 彼は、食いしばった歯の隙間から荒く、唸り声のような息を吐いて、胸ぐらを掴んで話す。さっきまでよりも僕を睨みつける目には、憎しみがこもっていた。

「だからあの日、俺は確実にアイツらの肉を食い、永遠の生命をモノにできるはずだったんだ。てめぇらが邪魔しなきゃな。」

 唾がかかりそうなほど近距離で、最大限にまで高められた傲慢さに押されそうになる。
 僕は覆い被さる彼の体重ごと背中から倒れていた。四発目のパンチが飛び始めた時、辛うじて彼の拳は避け、右手首を掴んだ。

 僕は殴り合いの喧嘩など、これまでほとんどしたことはない。そのため、腕前にはもちろん自信はない。それでも、歯を食いしばり、訴える。

「……ただ他人より、特別な力があるだとか、自分の方が優れてるからだとか、そんなもんで存在価値を決めんじゃねぇ。必ず、自分がいることで生きる理由になる誰かがいるはずだ。だから、お前が彼女の方を決めんじゃねぇよ!!!」

 お互いの本気の力が拮抗し、プルプルと小刻みに震えていた。あまりにも込み上げた怒りを抑えきれず、鈍く感じる打撲を痛がるほどの余裕はなかった。 

「そんなの、この世界に何の影響があんだよ。てめぇが寝てる間、こっちは千年近くも待ってたんだ。その間に時代は流れ、人々は争いを繰り返してきた。でも、俺が世界を掴めば戦争のない、平和な世の中が訪れるんだ。一体、何がわりぃんだ?」

「それでも、消えていく人たちがいて、傷つく人たちがいて、それを悲しむ友達や家族、そして大切な人がいる。これまでお前が血を流させた人たちにも、そういう人がいたはずだ。それに気づけない時点で、平和を語るなよ!!!」

 僕は力を振り絞り、彼のみぞおちに蹴りを入れる。
 彼はその勢いで背中を丸めながら後方に飛び、コンクリートの地面に投げ出された。僕はシワになり土埃がついた服をはらいながら、ゆっくりと片膝ずつたてて立ち上がる。

「…っ痛ぇな!やってくれんじゃねぇか。でも何発か入ってふらふらだな。ざまぁねぇな。」
 
 僕はその煽りを無視して、問いかける。

「…お前が中学の時、サッカー部に入って一緒に試合をしたことも、休み時間にくだらない話をしたことも、全部嘘だったのかよ。」

 雅也はゆっくりと立ち上がり、僕のその質問にニヤリと笑って話す。

「ああ、そんなの当たり前じゃねぇか。噂でお前が九百年の眠りから覚め、中学に入学したことを聞いたとき、チャンスだと思った。お前のそばにいれば、あの女にも会えると思ったからだ。そこからはお前と行動を共にしつつも、部下の奴らにあの女の行方を探させる。何度か姿をみつけても、得意の妖術か何かで逃げるらしく、手を焼いたよ。しかし、その結果高校三年生で横浜に来ることを知って、やっと尻尾を掴めたってわけだ。」

 彼は流暢に話を続けた。

「お前と二人きりで会った後には必ず、ヤツは気を抜いているはずだ。だから、そのタイミングを見計らって、襲わせてたんだ。」

「…祭りの時、千佳と一緒だったのも、江ノ島で遊んでいた時もか。」

「ああ。千佳とあの女は仲がいい。だから、仲良くしておくと自然と狙うチャンスが訪れるわけだ。しかも、部下が襲ってる間は俺は千佳と一緒だからな、俺がやってないというアリバイになる。江ノ島の時なんてあの女の弱点である、対妖怪用に古来より使われている花火で弱らせたところを食らう予定だった。だけどその度に天気やお前が邪魔をしてきやがってうんざりしたよ。まったく、ツイてないぜ。」

 僕は全身の力が抜けたように、肩をだらんとさせた。
 雅也とガナリが同一人物であることを、何かの間違いであって欲しい。
 もしそうだとしても、せめて俺といる時は本当に友達として通じ合う、そんな時間であって欲しい。そう願っていた。

 だが、何一つとしてそれは叶わなかった。少しでも彼に期待をしていた僕が悪かった、と思うほどに彼は自分の私利私欲しか頭になかったのだ。

 いつの間にか真っ黒になった空。その動作ひとつひとつの残像がわずかに照らされる光のせいで、遅く見えるほどの明るさの中、僕は決意をする。
 これまでの日々に別れを告げなくてはいけない。彼を友達として、親友として、駆け抜けた日々が偽物だったことを受け入れなくてはいけないかもしれない。

 でも、誰よりも同じサッカーのコートで戦い続けたからこそ、本当の彼がわかるんだ。

「…中学三年夏、サッカー部の引退試合の時、お前は誰よりも涙を流した。何度も何度も『ごめんな』を繰り返し、みんなを抱きしめていた。誰よりも走って、誰よりも声を出してみんなが走り続けられるようにしていたお前が、僕の誇りで憧れだった。あの時の『ごめんな』だけは、嘘じゃないと信じてる。」

 これまで威勢よく、意気揚々と話していた様子とは打って変わり、言葉に詰まっていた。
 僕は続ける。

「あれは、その、その場に溶け込むための芝居で、その、」

「俺は、これまでの日々を忘れない。例え、お前が嘘だと言ったとしても、ボールを追いかけた時間は本当だったから。…わかるんだよ、九百年かけた時間よりもお前の心に触れたから。」

 雅也は二歩、後退りをした。声を出そうとしても出ないのか、口を半開きにして吐息だけが漏れる。

「ずっと、孤独だったんだろ。一人で虚勢を張り続けるしかなかったから。一人でこれからも生き続けることしかわからなかったから。」

 なぜか悔しかった。もっとちゃんと気づいていれば。もっと早く向き合っていれば。

 僕は左目からいつの間にか流れた涙に気付かぬまま、彼に向かって走り出す。

 痛む背中。

 垂直に流れず風を受け、真横に流れる一筋の涙。僕はつぶやいて、右手の拳をあげた。

「ごめんな、雅也。」

 僕の拳は雅也の左頬に命中し、彼は右肩から地面に倒れた。

「……ばかやろう。俺だって殴りたくなかったよ。でもな、これまでのことを、これまでいろんな人とのことを、ちゃんと伝えなきゃと思ったんだ。昔の因縁も、中学からの信頼も。」
 
 雅也は黙っていた。さっきまでの彼なら、九百年前の彼なら、威勢よく立ち上がって反撃をしてきただろう。でも、もうきっと立ち上がる気力すら残っていないのだ。

「雅也、もし来世で会えたなら、またお前とサッカーがしたい。」

 僕は、最後まで彼を信じてきて良かったと思いながら、涙を流す。
 雅也の顔は見えなかったが、肩が一定のリズムで震え、泣いていることが伝わった。
 誰よりも近いと思っていた友達が、もう戻れないほど離れていたことに気がついて、でもそれをちゃんと分かり合えた。

 それだけで本当に良かった。もう、会えなくなる前に。
 
 慣れない喧嘩に痛む拳を擦りながら膝から崩れ落ち、泣いていると、突然誰かから優しく背中をさすられる。

 驚いて振り向くと、見上げた先にはゆっくりと瞬きをしていた親父がいた。

「…よく、頑張った。」

 どうやら出るタイミングを伺っていたようで、事の詳細を全て見ていたようだ。
 いるならいると言ってくれればよかったのに。……いや、彼と正面から向き合えたことを考えると、やっぱり良かったのかもしれない。

 親父は気を取り直して話し続ける。

「待たせたな、陽介。足を悪くしてるから随分時間がかかっちまった。」

「ガナリ、もうここまでにしよう。お前のことを見ると、お前から受けた右足の傷を見ると、怒りや憎しみが込み上げてくる。でもな、俺らは十分戦ったんだよ。だからもう、いいだろう。一緒に那須に帰ろう。最後に陽介になにか言い残すことはあるか?」

 雅也は黙っていた。
 親父に立ち上がらせられると、口を開いた。

「……俺はな、陽介、」

 僕は、泣いて少し腫れたまぶたを一度擦ってから、俯く彼を見つめる。

「…高校でもサッカーを続けて欲しかった。中学最後の試合、きっとお前となら勝ててたんだって思った。もっと、お前と試合がしたかった。」

 鼻を啜りながら話す雅也。言葉を言い終えた途端、涙が溢れたようで目を両手で抑えた。それを見て僕は、また涙を流してしまった。
 それでも彼は、泣いてる姿を見せまいと顔を隠す。涙で滲む袖。その涙をこれまで戦って流れた血に対して、向けられたならどれだけ良かったのだろう。

 もっと早く、そばにいてあげたかった。一緒に、戦えばよかった。

 親父は、残念そうな面持ちで彼の両脇から腕を通して立ち上がらせると、胸元から人差し指と中指に挟んで、一枚の紙を取り出す。

 それは陰陽師が使う、あの『お札』だった。

「陽介。本当にありがとう。お前が正面からこいつと向き合えたから、ぶつかったから伝わったんだ。俺はこの札を使って、那須へ戻る。この足じゃもう運べないからな。」

「お札で?どうやって???」

「前にも言ったろ?お札には、3つの使い方があるんだ。一つ目は除霊。二つ目は移動手段。三つ目は戦闘用だ。」

「もう俺たちはお札を作ることはできない。だから、そのうちの移動用として残しておいたんだ。残りの一枚。これから俺たちはガナリと一緒に那須へ戻る。」

「陽介、これからお前はその…行ってしまうんだよな?」

「うん、そのつもり。」

「…そっか。俺はお前の誇りに思う。青井軍の長を務めるものとして、陰陽師の端くれとして、そして一人の男として。俺ができなかったこと、俺がしてあげられなかったこと、全部丸ごと助けてこい。」

「ありがとう、父さん。」

「ようすけ、どこに行こうと俺はお前を忘れない。そして、いつまでも味方だ。」

 そうして、親父と雅也の背後の空間が歪み、黒い穴ができた。

 徐々に広がるその向こうには、あの那須の草原が広がっていた。昨日の夜の景色と同じ、静かなあの草原だ。

 そうして、ゆっくりと後ろ歩きで穴に入り、手を振った。
 徐々に小さくなる穴を最後まで、僕は見つめていた。

 ―――

 涙を拭って、僕は家に帰ると中には入らず、出入り口近くの自転車の鍵を解除して、すぐさま臨港パークへと向かった。

 いつもの図書館を通り過ぎて、下り坂を走る。
 桜木町の交差点につくと、そこは花火の人混みでいっぱいで通行止めになっていた。
 狭い歩道で人がごった返しており、どうやら身動きが取れなくなってしまったらしい。
 さらに、人々が一斉に携帯電話を操作していることで、電波も繋がらず彼女に電話をすることができない。

 どうすればいいのだろうか。

 このままだと、苦しみながら彼女は消えてしまう。九百年前に約束したのに、会えずに消えてしまう。なにか、彼女に会える方法はないだろうか。

 警備員のアナウンスによると、周囲のパニックによって、急遽臨港パークを含む、海沿いエリアへの侵入・通行が禁止となり、全ての交通機関も道も封鎖されており、誰も入ることができない状態となっていた。

 どうにかして、彼女に会える方法はないだろうか。僕は暗くなった空を見上げ、かろうじて都会に見える星を眺めながら考えた。そこには、彼女と話したこぎつね座があった。

 夏祭りの後に星空を二人で眺めたことを思い出す。彼女はあの時、こういった。

「今日は花火は見れなかったけど、あのこぎつね座みたいに私たちを結んだきっかけに慣れた気がする。だから私は、一緒に花火を見たい人に巡り会えたことのほうがうれしい。」


 彼女と僕を結んだ…?
 そのとき、僕は夏休み前最後の図書委員会の当番の最後にしまった本を思い出す。
 彼女がお気に入りだった、『星とおまじない』。

 そうか、そういうことか。
 もしかしたら、あの本が僕らを結んでくれるかもしれない。

 僕は急いで、近くのタクシーを捕まえ、高校まで向かった。

 夜の高校は真っ暗で、重たい校門がガッチリと閉まっていた。
 きっと防犯カメラがあるだろう。でも、そんなことは言ってられない。

 僕は校門をよじ登り乗り越えると、空いている窓から校舎へ入った。そして、図書室のある階へ駆け上がった。
 
 汗だくで真っ暗な校舎を走ると、致命的なミスに気がつく。
 扉の前まで来たのはいいものの、図書室の鍵を職員室から取って来るのを忘れた。

 学校内の警備に僕の侵入に気づかれるのも時間の問題だ。花火が始まるまでのことを考えていると、もう取りに行く時間はない。

 どうにかならないかと一か八か扉に手をかけると、なんと鍵が空いていた。

 そうだ、確か最終日は彼女が鍵を締めたんだっけ。もしかして、あの時締めたふりをしてわざと開けたままにしたのだろうか。

 僕は、誰もいない、月明かりが差し込む図書館へ入った。
 学校に忍び込むなんて、きっと悪いことをしているが止むを得ない。

 僕は夏休み前最後の当番の日のことを思い出して、目的の本がある棚へ進む。
 初めて彼女と出会ったときの横顔。「でれすけ」といって走り去った後ろ姿。夏祭りへ誘ったときの表情。その全てがこの図書室から始まった。

 棚の本の背表紙を、指でなぞりながら探していると、少し出っ張っている一冊の本に気がつく。

「…あった。これだ。『星とおまじない』。」

 そう呟いて、本の上部を人差し指で引き出して、抜いた。
 ページをめくっていくと、栞が挟んであるページが開く。
 そのページには、神話の説明欄が空欄となっている『こぎつね座』について書かれていた。

「…美穂さんらしいや。よっぽど、九百年前のことを思い出してほしかったんだ。」

 僕は、彼女なりのメッセージにふふっと笑う。
 そして、挟まっていた栞を手に取る。
 栞は思った通り、九百年前の『那須殺生石の乱』の二日前のあの日、彼女にお守り代わりに渡したお札だ。

 九百年もの時間が経っているのに、ほとんど傷や劣化の様子はなく、あの頃のままで残っている。相当大切にしていてくれたに違いない。

 僕はなぜこの図書室へ来たのかと言うと、さっきも親父も使っていたがお札の三つの使い道のうち、「移動」がこの栞代わりにしていたお札でできるのではないかと思ったからだ。

 このお札を使えば、直接ここから彼女の元へ移動できるのではないだろうか。
 その可能性にかけてきたのだ。
 

 埃っぽい図書室の中。いつも同じ匂いがする、
 
 遠くでサイレンの音がするのがわかるほど、校舎には誰もいない静けさが、夏休み中の人の温度に使われていない冷たさが、より一層夜を深くさせる。
 
 僕は、栞をはさんだまま、机の上に本を置いた。
 そして、殺生石から記憶の旅へ出るときと同じように、目を閉じながら左手で祈りを込め、右手の人差し指で一筆書きで星を描く。

 すると、星は輝き出した。そして、瞬く間に僕の体を包み込む。僕は反射的にまぶたを閉じた。何が起きるかはわからない。でも、きっと大丈夫。そんな気がしていた。

 ―――

 さっきまでの埃っぽい図書室の匂いから海の香りに変わった。ゆっくりと目を開くと、肌には涼しい夕方の潮風が吹く、そこは海沿いだった。

 あたりは通行止めで誰もおらず、立入禁止であることもあってか、誰もいなかった。
 そこにいる、一人の女性を除いては。

 その人は堤防の上に立って、海を眺めている。

 茶色いサンダルに、風にゆらめく白いワンピース。その後ろ姿ですぐにわかった。気づかないはずがない。
  
「美穂さん。おまたせ。」

 僕は声をかけた。その声を聞いて、長い髪をなびかせながらその女性は振り向く。
 
「…ようすけ?」

 そう、彼女だ。

 いつもの優しい声だ。その顔は驚いてきょとんとしており、慌てて彼女は言葉を紡ぐ。

「……なんで?なんでここにいるの。だって、ここまでは通行止めで、その…」

「この本の栞がわりにしていたお札を使ってきたんだ。大切にとっておいてくれてありがとう。それに、」

「九百年前の約束、やっと果たせるって思ったから。どんな色か教えてやるって。」

 その言葉を聞いて、彼女はぽろぽろと涙が溢れ出す。

「あの頃の記憶、思い出したんだね。逢いに来てくれてありがとう。ずっと待ってた。」

 僕は駆け寄り、軽い身のこなしで堤防にヒョイっと登った。そして、僕は彼女を抱きしめた。

「お待たせ。」

 そういって、彼女も僕の背中に腕を回し、抱きしめ合う。

「ずっと逢いたかった。」

 その瞬間、沖の方から大きな爆発音のようなものがした。
 僕らは驚いて、その音のする方へ視線を向ける。

 それは、大きな大きな花火だった。
 刹那、瞬間的に昼間よりも夜空を明るくさせた。
 弾けた火薬玉はその光を揺らめく海面に映して、空に上がり爆発した光源よりも数倍以上、眩しくさせた。

 彼女とまた出逢えたことが夢なんじゃないか。
 そう思っていたけれども、彼女のじんわりと感じる肌の温度が腕に伝わる。いつもの優しい香りが海の風にほのかに感じた。これはちゃんと、現実なんだと気づかせてくれた。

 花火大会の開幕を告げる花火は金色の線を描き、大きな花を開かせ、とても綺麗だった。
 花びらのように広がる線の先端は緑やピンクの光を放ち、色とりどりの炎の破片が煌めかせて、闇夜へ消えていく。


 彼女と僕は抱きしめあったままため息のような声を漏らして、その輝きを目に焼き付けていた。

「すごくきれい。花火って、こんな色なんだね。」

 この花火を見にきた人たちは今頃、通行止めになってしまっているだろう。きっと、あの高く伸びた建物や扇形のビル、観覧車の合間からかろうじて見える花火を楽しんでいるに違いない。

 花火が見られない人たちにとっては少しズルいと思われてしまうだろうが、今だけは許して欲しい。

 これまでの辛かったことや寂しかったこと、約九百年分の想いをここで抱きしめられたのだから。

「ようすけ、少し暑い。体が焼けるようで、燃えていく感じ。多分、花火のせいだと思うの。」

 息を苦しくさせながらいうと、抱きしめていた腕をゆっくりと離した。
 見ると、あの九百年前の争いと同じように体の後方から白い毛並みの九本の尾が出ていた。しかし、その先端からまるで紙が燃えるかのように少しずつ黒く焼け、消えていた。
 その熱に抗うように、一本一本の尾がもがくようにゆらゆらと揺らめかせている。

 ふと、意識の中の平安時代の僕から最後に教えてもらった、彼女の秘密を思い出す。

「そういえば、彼女のことなんだが……実は花火というのは対妖怪用に作られた兵器で、美穂のような九尾狐が目にしてしまうと、焼けるように体が熱くなり、苦しんでしまうと彼女の母上から聞いている。しかも、彼女たちは不老不死。そのため、生命を断つこともできない生き地獄となるそうだ。だから、彼女はこれまで花火を見ることができなかった。」

 そして、彼は気持ちを固めてから、話した。

「だが、一つだけ方法がある。それは『契り』を結ぶこと。それは九尾狐の呪いを受けていないもので、かつ愛し合う二人にしかできないことだ。『契り』を結ぶと、彼女の苦しみは消える。その代償として…」

 花火が一発、また一発打ち上がるたびにその威力が波打っていくようにダメージを受けている。その力は顔をあげずにはいられないほどだった。
 僕は、花火のせいで炎に体を蝕まれ出す彼女の名前を呼んだ。

「美穂、」

 名前を呼ばれて、ゆっくりと力を振り絞って顔を上げる。同時にふらつき、僕の方へ体重を預けてきた。

「僕は九百年前、戦っていた。これから先、花火を見られないことや不老不死などの君を縛るものがなくなって、君が君らしくいられるように。でも、その時は僕は眠りについてしまって叶わなかった。」

 彼女は黙って聞いていた。

「記憶をなくして目覚めても僕はまた君と出会って、こうして昔と同じことをしている。そして今、やっと叶えられる。」

「美穂、僕と永遠になろう。」

 彼女は右目から涙を流した。九百年前に母を失った時のボロボロとこぼした大粒の涙ではなく、一筋の流れ星のような、綺麗な涙。

「ありがとう。でも、そうしたら、」

「ああ、わかってる。君は『契り』を結ぶと、花火を見られるがその代わりに体が消えてしまう。そして、」

 意識の世界で心配そうに見つめる青い装束の僕が最後に言ったことと同じことを言った。

「『もし、君が彼女と契りを結べば、一緒に体が消えてしまう。』」

 そう、『契り』の代償として僕もこの世から消えてしまうのだ。
 彼女の両方の目から涙が流れる。今度はとめどなく流れる川のように、溢れ出すように。

「わかってるなら、ようすけは生きるべきだよ。まだまだやることだってあるはず。私のためにそんな、」

 彼女が言い終わらないうちに、僕は話し始める。

「ううん。僕はそのことを聞いた時から、ずっと決めてたんだ。これは君のため。そしてそれは、僕のため。いちばん大切なものに気がついたのだから。」

 彼女は話すのをやめた。

「美穂、あなたのそばに居させて欲しい。」

 そう言って僕は口づけを交わす。
 すると、彼女の体に起きていた花火の反応はとまる。焼け始めていた箇所も元に戻った。

「…うん、私もあなたにそばにいてほしい。前に話した星座みたいに、もう離れないように。私を見つけてくれてありがとう。」

 
―――
 

 僕らはしばらく花火を一緒に楽しんだ。

 しばらく黙って花火を見ていた。海のさざめく音と、花火が打ち上がる音だけが二人の時間を繋いでいた。

 二人は互いに、『契り』を交わした代償として、生命を失うことを選ぶこととなる。

 残された時間は、花火が終わるまでだった。


 僕らは堤防に腰掛け、裸足を投げ出して花火の方を向いて座っていた。脱いだ靴やサンダルはそれぞれ横に並べ、右側にいる彼女の左手は、僕の右手と指と指を絡ませて手を握っていた。

 彼女は嬉しそうに足をぶらぶらとバタつかせている。

 そして、その足先から徐々に消えていった。体を構成している光の粒のようなものが、一粒一粒崩れていくように空へ昇っていく。

 僕らはそれに気がついていた。全てが消える前にきっと、最後まで花火を見られるだろうと思った。
 
 彼女は不老不死を失っても、それでよかった。かれこれ九百年以上も彼を待っていたのだから。この先、彼のいない孤独の不死よりも、彼と永遠に寄り添う死を選べたのだから。

 そういった呪いすらも、少しずつ空へ昇る光の粒になっていった気がする。ずっとこうしたかった。いつまでもいつまでも、こうしていたい。

 残りおよそ一分くらいだろう。花火の連発が止み、区切りがついたようだ。おそらく次の花火がフィナーレだろう。

 その頃には、既に二人の姿は透けてしまっており、輪郭もぼやけていた。
 少しでも彼女とそばにいたい。少しでも話していたい。
 僕はおもむろに、思ったことを話し始めた。

「そういえば数学の問題集、まだ僕が持ったままだったわ。いつか、返すね。いつか。」

「ああ、あれね。わざと。会えなくなる前に、もう一度ようすけに会えるかなって。でも、もう会えちゃっていらないからあげる。」

「いや問題集、二個もいらない。」

 真面目なトーンでつぶやく僕を見て、ふふっと微笑んだ。僕は少しやり返そうと思って、たずねた。
 
「…あと、昔みたいに『〇〇じゃ』とかいわないんだね。」

 僕が茶化していうと、彼女は少し怒りながら。

「…あれいうと、おばあちゃんみたいって思われそうだし、いやなの!実際、今のようすけからみればおばあちゃんだし。ってか、ようすけも、もしずっと生きてたらおじいちゃんなんだからね!」

 冗談を真に受けてしまうそのまっすぐさに、思わず笑ってしまった、

「はっはっは、からかってごめんよ。」

「もお、最後の最後までからかうなんて!」

 頬を膨らませ、怒る顔もかわいい。

 少し早い秋の涼しい風が、二人の間を抜けていった。



 最後に彼女は、顔を赤くしながらもいつもの笑った顔で僕にいう。

「ようすけの、でれすけ。」