「…でれすけ」
え?今、なんて言った?
そう感じたときには扉を開けて、既に廊下に向かって走り出していた。止めようと後を追いかけて出入り口から顔を覗かせるが姿はなく、下の階へパタパタと響く上履きの音が遠ざかっていく。
囁くように透き通る声で一言を残していった彼女は、目を逸らし、顔を赤らめていた。
きっと僕は狐につままれたような顔をしていただろう。
明日のサッカーの練習試合に備え、校庭から聞こえる掛け声とホイッスル。
ポカンと立ち尽くす僕。たった一人きりの廊下に響いていた。
あれは何語なんだろう。方言かな。
なんか、怒っていたけど恥ずかしそうだったな。
聞いてみたいことが山積みだ。
あと、ちょっと可愛かったな。
―――
高校三年生の二〇二五年六月末。
この時期の横浜は、春と呼ぶには暑くて、夏と呼ぶには涼しい。
桜木町駅から真っすぐ伸びる上り坂は、電動ではない自転車で登ると、汗だくになってしまう。
市内でも最も大きな図書館は、隣接する大きな公園に動物園が併設されていることも相まって、週末は親子連れでいっぱいだ。
平日の図書館は自習をする学生ばかりで、入口の書籍紹介コーナーでは『雨』にまつわる特集が組まれていた。傘を持った女の子や紫陽花に囲まれた表紙の恋愛小説、雨を降らせる妖怪、手を繋いだ親子などジャンルは様々で、手作りの装飾が梅雨をまちわびていた。
きっと作ったのは司書の小松さんかな。今日は休みのようだが、いつも仲良く貸出受付で話す笑顔を思い浮かべる。業務の合間の暇な時間に作ったのだろう。
…いや、別に暇な仕事だな、とは誰も言っていない。
ただ、いい機会だから、明日期限の進路希望調査票の第二希望あたりに「図書館司書」と書かせてもらおう。本、好きだし。
進路希望調査票。この紙を前にするといつも思う。
僕ら高校生は一体、何になりたいのだろう。
生まれて十年あまりの学生が、この先の何十年待ち受ける人生を決めろだなんて、難しい話だ。どんなことがあるかわからない。
今ですら中学生より前のことなど忘れてしまっているのに、この先の十年で果たして今のことを覚えていられるだろうか。とりあえず、なりたいものがわかるまでは適当に埋めておこう。
「もういっそのこと、何かを救えたらかっこいいからスーパーヒーローとか書いておこうかな。」
そう呟いて一回は書いてみたものの、先生からの質問に困りそうだったから消しゴムで消した。
そういえば、明日は金曜。
今年度初の図書委員の放課後貸出の当番だった。
確か、同じ当番の生徒は「高久美穂」。なんか、昼休みにみんなとサッカーしてるときに、やたら話題に出す名前だった気がする。
一体、どんなやつだろう。
―――
金曜日の昼。
教室の窓から遠く見える横浜の海も、キラキラと海面を揺らめかせていた。
この時間は最高の時間だ。
弁当を食べ終わり、昼休みになった。
男子高校生の体力は無限である。
今週の残す授業はあと二時間。摂取したエネルギーを燃やさんとする気持ちで、サッカーボールを手にして昇降口へ走り出した。やはり、この体がサッカーを忘れられないのだ。
僕と雅也は同じ中学校出身で、同じサッカー部に所属していた。それぞれポジションは、僕はセンターバックという守備の要で、僕の後ろには残りはゴールキーパーしかいないというポジションだ。
対する雅也はフォワードの中でも、センターフォワードというポジションで、チーム最大の得点源となる攻撃の要である。
僕らは守備と攻撃という、対極のポジションだったが、同じコートで同じ試合で、お互いの強さを信じていたからこそ彼は僕に背中を預け、僕は彼の背中を見届けながら彼に攻撃を任せられた。
なによりも、センターバックのポジションから熱風に煽られ、背番号「9番」のユニフォームを揺らめかせながらシュートを決める雅也の後ろ姿が、相棒として大好きだった。
その後、偶然僕らは同じ高校で、同じクラスになった。しかし、彼はサッカー部に所属したにも関わらず、僕は所属せず帰宅部となった。
サッカーが嫌いになったわけではない。新しいことをしたくなったわけでもない。ただ、正式にサッカー部へ入る前の仮入部期間で、自分の限界を知った。そして、高みを目指せないと感じた。そう、僕は逃げてしまった。
膝を悪くしてからという言い訳をして、部活には所属できていないが、こうしてみんなから昼休みに誘ってもらっている。
教室から全力で校庭へ走り出すと、気持ちが先走ったのかみんな決まって下駄箱でつまずきそうになる。
ふと、隣で靴を履く雅也に、例の図書委員の当番で一緒の彼女のことをきいてみた。
「なあ、『高久美穂』ってどんな人なの?」
「ん?陽介知らねえのか?学年一の美人だろ?いつも航平たちも話してるじゃんか。今年の四月から転校してきたやつだ。誰が来年のバレンタインのチョコをもらうのかとか、修学旅行で告白するかとか、今の段階で話してるよ。…もしかして、お前狙ってんのか!?」
「いや違うよ、今日の委員会で当番一緒なんだよ。接点ないし、何話そうかな。」
砂ぼこりが舞う、暑い日差しの下。僕は頭のてっぺんを爪をたてて掻いた。
「それは羨ましいな〜!ただ、ほとんど話しかけても無視らしいからな。逆に話すことがなくて今年の当番は暇かもなー。千佳だったら楽しかったかもな。ドンマイ。そういえば、千佳と陽介は中学から仲良いけど、お前ら付き合わないの?」
急に変なことを言われ、僕は調子が狂う。
「いやあ、千佳とはどっちかといえば親友に近いところあるからな。なんか、恋愛対象として見れないんだよな。でも、一緒の当番だったら面白いかも。ただ、今年は体育祭盛り上げたそうだったから雅也と一緒に、体育祭実行委員を頑張るってさ。よろしく頼むぜ。」
雅也は胸を張って、ゴリラのように拳で叩きながら、「おう、任せとけ!」といった。
「おい!おまえら、なに守備さぼってんだよー!」
笑いながら駆け寄る航平。いつのまにか点を決められていたようだ。
―――
昼休み終了まであと十分。白熱したサッカーの結果、雅也と僕のチームが逆転し、航平は砂埃にまみれながら悔しさを全面に出して寝転がっていた。
土だらけ、汗だくになった僕らは、授業が始まる前にサッカー部の更衣室で短パンの体操着に着替えた。
僕は所属してないが、いつものボールがサッカー部の練習用ボールであることや、サッカー部全員からなぜか男子更衣室に入ることへ暗黙の了解を得ており、使わせてもらっている。
多分、雅也がいることやその相方である僕は、中学時代にサッカー部で周辺の地域で知らない人はいないほど、ちょっとした有名タッグだったからだろう。おそらくだが。
さっきまで一緒にサッカーをしていた同級生のサッカー部たちが、隣のクラスの女子生徒の顔面偏差値ランキングで盛り上がっていた隙をみて、僕は靴下の替えを教室へ取りにいく。
すると、階段の踊り場に二人の生徒が立っていた。最初は気が付かず通り過ぎそうになったが、どうやら告白のワンシーンのようだ。女子生徒が冷たく落ち着いた声で言い放つ。
「ごめんなさい。私、あなたが生まれるよりずっと前から好きな人がいるの。あなたみたいな、どこのクラスかわからない人を好きになるための時間が、私にはないの。」
そんな交際の告白を断る際に中々聞かないセリフの場面なんて、興味を持つに決まっているだろう。
僕はそっと、廊下から階段に差し掛かる大きな柱に隠れ、右目だけをのぞかせ様子を眺めた。すると、見始めたと同時に、告白を断ったであろう女子生徒がすれ違うようにして走っていった。
僕は身を隠すため慌てて柱の影に隠れる。その生徒が通り過ぎた導線にはふわっと女子らしい、やさしくてどこか甘い香りが残っていた。なぜ、女子はなんとも言えないいい香りがするのだろうか。
急いで振り向いても、駆けていく左右に揺れる長髪の後ろ姿しか見えず、誰なのかはわからなかった。
諦めて僕はもう一度、踊り場に目をやる。すると、うなだれて階段に座り込む坊主頭の男子生徒。あれは確か男子バスケ部の主将、海野くんだっただろうか。
確か、昨年の学園祭で開催された人気男子学年投票ランキング一位に選ばれた、学年一の伊達男である。そんな彼でさえ、玉砕する女子などいるのだろうか。きっと、彼が一番ショックを受けているに違いない。ちなみに男子ベスト三十まで発表されるのだが、僕は帰宅部の割には、なんと三十位にぎりぎり選ばれる大健闘をした。
ただ、なぜバレンタイン当日は母親からもらった、市販のチョコチップクッキーだけだったのかは未だに謎ではある。
―――
放課後。
教室の掃除がおわり、机を移動する音が静まった廊下を駆け抜け、職員室で鍵をもらう。
僕は、図書室が大好きだ。学校終わりに図書館に行くほど、あの落ち着いた空間がたまらない。早く図書室に行きたい気持ちが先走り、半ば身を乗り出して図書室の扉をスライドした。
すると、室内に閉じ込められた冷気が扉から溢れ出してきた。冷房が今日からはじまることは聞いていたが、まさかこんなに涼しいとは。
僕はまるでまだ誰も踏みしめていない雪原に足跡を残すように、わくわくしながら今年最初の冷房が効いた図書室へ入った。
貸出PCの電源をつけ、返却カウンターの回るタイプの椅子に深く座り、大きく深呼吸をしながら溶けるようにだらだらとしていた。すると突然、がらがらと扉が開いた。
入口に目をむけた途端、女子生徒の姿が映る。
だいたい、身長一五〇センチくらいだろうか。
首元までおろしたウェーブがかった黒髪ロング。その色とは対照的な、透き通る色白肌。
目はぱっちりと開いており、筋がとおった鼻の先の下をキュッと結ばれたくちびるが色づく。
化粧禁止の本校での「美人」は、あまりにも素材が良すぎることを指すのだろう。
可愛らしくも、大人びた横顔。
見ただけで、なぜかどこかで会ったことがあるような、懐かしさを感じる。
なお、この容姿をこれほどまでに言語化できたのは、家で夕食を食べた後、学習机で古典の現代語訳の宿題をしながら思い返したからであり、初めて見たときは暑さも相まって頭の回転が鈍く、ぼんやりと「綺麗な人だな」くらいしか出てこなかった。
僕は我に返って、声をかける。
「あっ、もしかして高久さん?金曜当番の。」
彼女は僕の目をみて、ああ、と気がついたように慌てて貸出カウンターの前に立つ。
「そう。隣のクラスの高久美穂です。今年度から図書委員になったから、いろいろとよろしくね。」
いかにも育ちがよく、こちらを見る北国の狐が見張りをするときのように背筋が伸びる。 成長期の僕よりも二十五センチほど小さい背丈は、自然と上目遣いになっていた。
「ああ、よろしくね。僕は青井陽介。A組の。」
「…うん、知ってるよ。よろしくね。」
彼女はそういってから、カウンター内に並んだ隣の椅子にちょこんと座る。
なんかこう、ちっちゃいなと思った。
あと、僕のことを知ってるんだとも思った。
カウンターにあるPCで、貸出・返却の操作手順のあと、本棚の整理整頓など図書委員会の大まかな仕事を教えた。僕の話を聞いている間は小刻みにうなずき、メモ帳に書いていた。とても真面目な女子だった。
一通り教えた後はやることがなくなり、生徒も来ないのでただただ、カウンターの椅子に座っているだけだった。金曜日の放課後なんて、部活動か、家に早く帰りたいか、友だちと遊ぶかするため、暇なのだ。だから、あえて金曜日を当番の希望にしていた。
話す話題もなく、沈黙が続く。
なんか、しゃべったほうがいいかな。
「あのさ、」
「あのさ、」
重なった。
「あっ、どうぞ。」
申し訳無そうに彼女は僕に発言権を譲った。
「いや、その、冷房涼しいねって言おうとしただけだからさ。」
「あっ、そうだね。…私にはちょっと肌寒いかな。」
ミスをしたかもしれない。僕は気を取り直して話を続ける。
「あっ、そうだよね。後で、先生に言ってみようか。えっと、高久さんはなに言いたかったの?」
「うん、ありがとう。あと、美穂でいいよ。」
なんか緊張してきた。勇気を振り絞って呼んでみよう。
「あ、じゃあ、美穂さん。僕も陽介で大丈夫です。はい。」
「さんもつけなくていいし、同じ学年なんだから敬語じゃなくていいよ。」
優しいな。っていうかこの声、どこかで聞いたことがある。脳内を巡らせて思い出そうとすると、彼女が急に恥ずかしそうに話を続けてきた。
「…あのね、私ね、花火見たことないの。」
「あっ、そうなんだ。この歳まで見たことない人って稀だよね。」
「うん。何色なんだろうね。」
なんだろう、この試されている感じ。やったことはないけれども、恋愛シミュレーションゲームなら選択次第ではゲームオーバーなのかもしれない。だが、うまく行けばこの子と花火大会に行けるイベントに進めるのか?
そんな余計なことを考えてから、とりあえず無難な回答をしてみる。
「えっと、大体は赤とか黄色じゃないかな?」
「…」
彼女はうつむく。あれ?これはミスをしてしまったか?
沈黙が実に気まずい空気で忍びなく、僕は「あのさ」と言おうとする。その時、急に席を立って彼女は透き通る声で言う。
「…でれすけ。」
え?今、なんて言った?
そう感じたときには扉を開けて、既に廊下に向かって走り出していた。止めようと後を追いかけて出入り口から顔を覗かせるが姿はなく、下の階へパタパタと響く上履きの音が遠ざかっていく。
きっと僕は狐につままれたような顔をしていただろう。
明日のサッカーの練習試合に備え、校庭から聞こえる掛け声とホイッスル。
ポカンと立ち尽くす僕。たった一人きりの廊下に響いていた。
あれは何語なんだろう。方言かな。
なんか、怒っていたけど恥ずかしそうだったな。
聞いてみたいことが山積みだ。ああ、本当に女子って難しい。
僕は一人、誰もいない図書室へ戻ると貸出カウンターの席に座り、顔を伏せてしょんぼりしていた。
あと、ちょっと可愛かったな。
―――
「それってお前、多分、振られたんじゃねえか?」
週明けの月曜日。数学の授業が終わり、教室中が騒がしい休み時間。
背もたれを抱きかかえるようにして、前のせきに前のめりで座る雅也は、へらへらした顔で言った。
本人曰く、彼のツーブロックで茶色がかった髪型は、身長一七五センチの日本人男性の平均レベルである、自身のコンプレックスを補うためらしい。
「ま、乙女心ってのは、難しいな。」
「…なんで俺が振られたっていうんだよ。」。
「お前、『でれすけ』ってネットで調べてみ?」
ここでも我が校の厳しい校則である、「携帯電話使用禁止」という張り紙が鼻につく。 僕はクラスの中でも比較的、真面目で成績もいいほうだ。加えて、柔軟性やユーモアもそれなりに兼ね備えているつもりだ。というわけで、周りをキョロキョロしながらこっそり調べた。
検索ページの最上部には、「今あなたに知ってほしい!恋する那須弁」というポップなサイトが出てきた。
そこには、「意味:ばかもの」と書いてある。ますますわけがわからない。
なにか間違ったことを言ったのだろうか?確か、花火を見たことがないと言われて、どんな色かを聞かれて、答えただけだったのに、彼女の逆鱗に触れてしまったのだろうか。
それを雅也に話すと、椅子を二本足にして前後にゆらゆら揺れながら、天井を仰ぎ見て言う。
「花火か〜、まあみてみたいだろうな。」
「え?なんで知ってるの?」
そう言うと、なにも考えていない風に、なんとなく?と言った。
「あと、雅也はなんででれすけの意味、知ってたんだよ」
「ああ、それはなー、その、遠い親戚が昔、栃木に住んでて那須弁を話してたんだよ。だから、それでそんなニュアンスかなと思ってよ。」
その瞬間、急に僕はこれまでの人生ではありえない推理にたどり着く。もしかして、花火の色を教えてほしいのではなく、花火を一緒に見に行きたいのではないのか?
まさか。学年でも人気の高久美穂だぞ?こんな初めて話した帰宅部のやつのことが好きになるのか?
ネットが発達した今の時代、花火を見たことないやつなんているはずがない。わざわざ、口実をつくってくれたのか。
ぐるぐると頭の中で巡らせたまま、チャイムが鳴る。鳴り終わるか終わらないかのうちに、正面を向いていた雅也が振り返って聞いてきた。
「なあ、やっぱ今からサッカー部入らねえか?」
「入らねえよ。ほら、前向けよ!」
いつも通り雅也のしつこい勧誘をさらりとかわす。
どうしても花火のことが気になってしまい、次の古典の授業は、家に教科書を忘れていたことにさえ、しばらく気が付かなかった。
―――
水泳の授業終わりの男子更衣室。爽やかな制汗剤でスースーとした、腕をまくった長袖シャツに、涼しい廊下から通り過ぎる風がなでていく。
あれから、学校で彼女を見かけても、声をかけるには遠い距離にいて、いつまでも真相を明らかにできない。
廊下の向こうの方で、大きく笑っている千佳の横で微笑む姿を見ても、声をかけようとしたときにはそそくさといつの間にか姿を消してしまう。
「よーすけ、なんか用?」
千佳は中学生時代からの幼馴染で近所に住んでいる。母ちゃんとも仲が良い。
陽介には永遠に彼女なんかできやしない、なんて言いがかりをつけてきて、中学時代は一緒に夏祭りに行くのが恒例行事だった。
中でも射的が得意な僕は、欲しい景品をねだられては当てる。千佳にとってはいい金づるだったのかもしれない。
男友達のようだったが、高校生で女子バレー部に入部した。
サバサバした性格で、中学時代から身長が一七八センチあった僕に対し、成長期の彼女は明日にでも抜かしてやると意気込んでいたが、残念ながら一六八センチで止まってしまったようだ。女子にしては高身長で、大健闘だろう。
最近はショートカットをポニーテールに変え、雰囲気が変わった。お互い、年頃ということもありこちら側としては、以前のように話すのは少し気まずい。
「あれ、美穂さんは?」
千佳に尋ねる。
「いや、なんだか日直の仕事を思い出したとかで職員室の方へ慌てていったよ。なんか話したいことでもあったの?」
「いや、別にないけど。」
もう少し、彼女とちゃんと話してみたい。
なにか怒らせたのなら、謝りたい。
もっと、彼女のことを知りたい。
そう感じるようになって、少しずつ彼女のことが気になっている。
そんな考え事をしている僕に、千佳は構わず話しかけてきた。
「そういえば、今年も夏祭り一緒に行かない?」
急に正面の視界にぴょんと跳ねるように入り込み、こちらを覗く。
ふと、僕はあることをひらめく。
そうか、彼女を夏祭りに誘ってみればいいのだ。
「ごめん。今年は行けないかもしれない。」
「なーに?彼女でもできたの?」
「…うるせえ!余計なお世話だよ!」
にたにたと悪い顔を浮かべながら聞いてくる千佳に、早歩きでそそくさと逃げる。
もし、本当に本当に花火を見たことがないのなら、きっと彼女は初めての花火を見たいはずだ。
それが果たして俺と、でもいいのか?というのは、彼女のとりあえず答え次第だ。
考えるより行動に移してみよう。
早く、金曜日にならないかな。
―――
「なあ、金ちゃん。乙女心って難しくないか?」
下校途中、僕はいつも決まって寄り道をして帰る。どうせ、母さんは仕事で家に帰ったって誰もいないのだから。
花屋の店先、ホースの先を潰して広範囲に金ちゃんが、ミスト状の水を植物たちにかける。うっすら浮かぶ虹が自慢の商品たちの上にかかり、晴れ間を見せたアスファルトの歩道の表面をぬらしていく。
じりじりと日照る初夏らしい暑さが、コンクリートのにおいを醸し出しているが、花のかおりで充満する店内には関係ないようだ。
金ちゃん、というのはこの男のことである。彼はこの花屋「金魚鉢」のオーナーであり、本名は草加金太郎だ。実際に年齢は聞いたことがないが、中年太りで肌の表面は赤っぽく、いかにも居酒屋の店主のようだが酒は飲めないらしく、花が大好きな優しい近所のおじさんである。
目尻のシワは笑顔を保っており、常ににこやかなえびす顔をしている。
父親と僕は幼い頃から疎遠だったため、物心がつく前から僕は父の古い友人だという金ちゃんのもとで遊んでは、いろんな相談をしている。
「陽ちゃんも乙女心を語るとは、大きくなったもんだあ。なにか恋の悩み事かい?」
「それがさ、初めて喋った女子に「ばかもの」って感じのことを言われたんだよ。」
「へへへ、こりゃ悪いことをしたなあ。…ちなみに陽ちゃん、それってもしかして、美穂との話か?」
金ちゃんは声を潜め、陽介に近づき、耳のそばでささやく。
「え?金ちゃんどうしてそのこと、知ってるの?」
金ちゃんの滴る汗が、への字に曲がる唇の上を走り、落ちた。
「あー、まあなー。だれにも言わないって約束できるか?もちろん、お前さんがよく遊んどる、雅也ってやつにもだ。」
「ああ、いいよ。」
「実はなー、その…今うちの二階に住んどるんだ。」
「…なんだって!?」
僕は背中から地面に倒れ込んでしまいそうなほど、驚いた。
「声が大きい!今さっき、帰ってきて上で寝てるんだから、静かにしてやってくれ!」
金ちゃんは慌てて、右手の人差し指を自分の口に当てて、警告した。
「なんで、金ちゃんとこに住んでんだよ!まさか、娘?孫?」
「まさかな。うちには娘も孫もいねえよ。昔、美穂のお母さんと知り合いでな。彼女はもう会えないところにいるから、代わりに預かってんだ。そんで、ちょうど先週の金曜日に学校から帰ってくるなり、全く同じ話をしていたからもしかしてって思ってな。」
「それで、なんていってた?」
「なんだかな、嬉しそうだったぞ。なんか、やっと話せたとか言ってたな。」
あれ?怒ってない?一体どういうことだ?
なんなら先週、図書室で立ち去ってから一言も話せてないぞ?
「はっはっは。その鈍感さも、親父さんそっくりだな。」
狭い店内の植物たちに大きな笑い声が反響して、いつもより倍以上大きな声に感じる。
先程からしおれた花の選定をする手を止めて話を聞いてくれていた金ちゃんは、作業を再開した。
明日は金曜日。直接話してみよう。うん、きっとそれがいい。
大通りに立ち並ぶ木の幹から、アブラゼミの鳴き声が聞こえた。
―――
放課後。待ちに待った金曜日。
掃除終わりに職員室へ図書室の鍵をもらいに向かうと、我らが担任教師の荒ちゃん先生はもう渡したよと言う。
図書室の扉をスライドすると、窓際の席に一人。高久美穂が座っていた。
なにか考え事をしているように、頬杖をつき、校庭を見下ろしていた。
今日は図書室のエアコンが故障しており、窓を開けることで涼しさを部屋に取り込んでいる。本が日光に焼けぬよう取り付けられた、きつね色のカーテンが風に煽られ、まるで砂浜の波打ち際のように寄せては返し、揺らめいていた。
彼女はこちらに気がつくと、僕の目の前にやってきて言った。
「遅かったね。」
僕はこれから、彼女を花火デートに誘う。なんだか緊張してきた。
この時期にはまだ早いセミの鳴き声が聞こえ、じんわりと手のひらの手のシワに沿うようにして汗を握る。
時折風で動くカーテンの布切れ音。自分にしか聞こえないはずの心拍。カウンターの隣の席で首をかしげる、彼女の横顔。
僕は息を吸った。
「あのさ、その、先週のことなんだけど、」
途中で遮るように、彼女は話し始める。
「…ごめんね!先週はその、急に飛び出していって。そのあとも、今日までずっと話せなくて。なんかこう、うまく話せそうもなくて。」
急に慌てだす姿を見て、僕はどこか安心感を覚えた。
「ううん、大丈夫。それよりさ、」
僕は顔を上げ、もう一度呼吸を整えてから彼女の目を見て言う。
「美穂さん、その、もしよかったらなんだけどさ、もう、予定とか入っていたらアレなんだけどさ、夏休み前最後の金曜日、当番終わりに近くの神社で夏祭りがあるんだ。だからその、一緒に花火、見に行きませんか。」
無意識に下の名前を呼んでいた。千佳の他に初めて、女子の下の名前を呼んだ。
彼女は驚き、呼吸をすることも忘れた様子で、勢いよく顔を上げ、丸い目をして言う。
「いいの?…ほんとに?」
彼女は嬉しそうだった。同時に、急に恥ずかしさが込み上げたようで、背筋を伸ばして改まり、目を泳がせながら「…お願いします」と呟いていた。そして、笑顔で僕を見つめる。
「その時は花火の色、教えてね。」
そのあとは、本棚に返却済みの本を戻す、図書館の当番の作業をしながら、図書室に配置された、大きな本棚の向こうにいる彼女に届くよう、声を張って話しかける。
声色から、彼女が跳ねるような、嬉しそうな感情が伝わる。
来週の金曜日。僕らは夏祭りへいくこととなった。誘ってよかった。
祭りは十八時スタート。当番の終わりに直接向かっても間に合う時間だ。更に花火は十九時からあげられるという。
初めて、女子を夏祭りへ誘った(千佳を除いて)。しかも、二人きりで花火をみることができるなんて。
お祭り当日は街中にポスターが貼られていたこともあり、多くの人で賑わうこととなるだろう。周囲に見られる多少の照れくささは、きっと人混みがかき消してくれるだろう。
夕焼けに染まる空を反射した赤い窓が、校庭を囲うように照らし、懸命に走り続ける一人ひとりの練習着にスポットライトを当てていた。
最終下校時間を告げるチャイムの音。空っぽの校舎に震える空気。夕方の涼しげな風が、ヒグラシの鳴き声とともに半袖を撫でていく。
来週の予定の他にも、お互いの好きな歌手、いつも行く近所の中華料理屋、好きな本など、今日は彼女と少しは話せるようになった。
帰り際、下駄箱を出た昇降口で、数歩先を歩いていた彼女は振り返りいう。
「それじゃあまたね、ようすけ。」
「ああ、またね。はじめて、下の名前で呼ばれたな。あと、今日は『でれすけ』じゃないんだね。」
「あっ、それは忘れて…」
彼女は頬を赤らめ、申し訳なさそうに目を細めながら、気まずそうに言った。
「いやいや、冗談冗談!!!意地悪してごめん。また、来週。」
そういって、校門を出た僕らは、それぞれの帰り道に曲がる。
今日はなんだか、こう、ガッツポーズをしたくなるような気分だった。(誰もいない路上でこっそりやった)
―――
家に帰り、ただいまと叫ぶと、キッチンから母さんが「おかえりー」と、夕飯の支度をしながら応えてきた。
金曜日ということもあり、早めに仕事を終わらせて帰ってきていたようだ。母さんは大学の先生で、日本の歴史について研究をしているらしい。夜の遅い授業や研究発表の前には、帰りが朝になることもよくある。真面目で、一生懸命で、それでいて愛情を僕に注ぐ姿を息子として誇らしかった。
エプロンで水気を拭きながら玄関に顔を出すと、なにかに気がついた様子でニヤニヤしながらこちらを見て言う。
「あれえ、なんかいつもと雰囲気が違うな〜?さては、好きな子でもできたか〜?」
「なっ…違うよ!明日から週末だから喜んでるだけ。手を洗ってくる。」
そんなことはない。なのに、変なリアクションをしてしまった。
僕は母さんと二人暮らしだ。親父は昔、大切な仕事のためだ、と言って家族をおき、遠くに出て行ったらしい。顔も覚えておらず、一度も会っていない。
どこで何をしているのか、そもそも生きているのかも知らない。
小さい頃は金ちゃんが遊び相手になってくれていたこともあり、楽しい日々を暮らしていたが、時折、親父との話が出てくると心細さと、気まずさがよぎることはあるが、別に生活に支障をきたしていない。
だが、母さんは親父のことを「人々を救い、日本を救うヒーローなんだよ」なんて大それたことを言っていた。
親父から教わったもので覚えているのは、「綺麗な星の一筆書きの方法」と「射的のやり方」だ。
僕の最も古い記憶は幼い頃、親父は僕の後ろから僕の右腕を掴み、優しく、深く、低い声で地面に星の描き方を教えた。
「いいか、陽介。星はどこからでも見ることができて、夜には星と星を結ぶことで星座となり、いろんな形になることができる。だから、きっと陽介を素敵な出会いと結びつけてくれるはずだ。」
どれほど昔のことだったかはわからない。きっとあの頃の僕には、少し難しい話だったにも関わらず、鮮明に今も覚えている。一言一句も間違えないほどに。
「まずは一番左から書き始めるんだ、そして一番右、左下、一番上、右下、そして一番左。そうすればうまく描けるんだ。どうしても伝えたくて、届けたい想いがあるときは、願いを込めてこの書き順で描くといい。きっと、心と心が通じるはずだから。」
きっと、今もどこかで誰かを助けているのだろう。いつか会える日まで、僕は親父に誇れる自分になりたいと決めているのだ。そう思って、僕はいつの間にか眠りについていた。
―――
え?今、なんて言った?
そう感じたときには扉を開けて、既に廊下に向かって走り出していた。止めようと後を追いかけて出入り口から顔を覗かせるが姿はなく、下の階へパタパタと響く上履きの音が遠ざかっていく。
囁くように透き通る声で一言を残していった彼女は、目を逸らし、顔を赤らめていた。
きっと僕は狐につままれたような顔をしていただろう。
明日のサッカーの練習試合に備え、校庭から聞こえる掛け声とホイッスル。
ポカンと立ち尽くす僕。たった一人きりの廊下に響いていた。
あれは何語なんだろう。方言かな。
なんか、怒っていたけど恥ずかしそうだったな。
聞いてみたいことが山積みだ。
あと、ちょっと可愛かったな。
―――
高校三年生の二〇二五年六月末。
この時期の横浜は、春と呼ぶには暑くて、夏と呼ぶには涼しい。
桜木町駅から真っすぐ伸びる上り坂は、電動ではない自転車で登ると、汗だくになってしまう。
市内でも最も大きな図書館は、隣接する大きな公園に動物園が併設されていることも相まって、週末は親子連れでいっぱいだ。
平日の図書館は自習をする学生ばかりで、入口の書籍紹介コーナーでは『雨』にまつわる特集が組まれていた。傘を持った女の子や紫陽花に囲まれた表紙の恋愛小説、雨を降らせる妖怪、手を繋いだ親子などジャンルは様々で、手作りの装飾が梅雨をまちわびていた。
きっと作ったのは司書の小松さんかな。今日は休みのようだが、いつも仲良く貸出受付で話す笑顔を思い浮かべる。業務の合間の暇な時間に作ったのだろう。
…いや、別に暇な仕事だな、とは誰も言っていない。
ただ、いい機会だから、明日期限の進路希望調査票の第二希望あたりに「図書館司書」と書かせてもらおう。本、好きだし。
進路希望調査票。この紙を前にするといつも思う。
僕ら高校生は一体、何になりたいのだろう。
生まれて十年あまりの学生が、この先の何十年待ち受ける人生を決めろだなんて、難しい話だ。どんなことがあるかわからない。
今ですら中学生より前のことなど忘れてしまっているのに、この先の十年で果たして今のことを覚えていられるだろうか。とりあえず、なりたいものがわかるまでは適当に埋めておこう。
「もういっそのこと、何かを救えたらかっこいいからスーパーヒーローとか書いておこうかな。」
そう呟いて一回は書いてみたものの、先生からの質問に困りそうだったから消しゴムで消した。
そういえば、明日は金曜。
今年度初の図書委員の放課後貸出の当番だった。
確か、同じ当番の生徒は「高久美穂」。なんか、昼休みにみんなとサッカーしてるときに、やたら話題に出す名前だった気がする。
一体、どんなやつだろう。
―――
金曜日の昼。
教室の窓から遠く見える横浜の海も、キラキラと海面を揺らめかせていた。
この時間は最高の時間だ。
弁当を食べ終わり、昼休みになった。
男子高校生の体力は無限である。
今週の残す授業はあと二時間。摂取したエネルギーを燃やさんとする気持ちで、サッカーボールを手にして昇降口へ走り出した。やはり、この体がサッカーを忘れられないのだ。
僕と雅也は同じ中学校出身で、同じサッカー部に所属していた。それぞれポジションは、僕はセンターバックという守備の要で、僕の後ろには残りはゴールキーパーしかいないというポジションだ。
対する雅也はフォワードの中でも、センターフォワードというポジションで、チーム最大の得点源となる攻撃の要である。
僕らは守備と攻撃という、対極のポジションだったが、同じコートで同じ試合で、お互いの強さを信じていたからこそ彼は僕に背中を預け、僕は彼の背中を見届けながら彼に攻撃を任せられた。
なによりも、センターバックのポジションから熱風に煽られ、背番号「9番」のユニフォームを揺らめかせながらシュートを決める雅也の後ろ姿が、相棒として大好きだった。
その後、偶然僕らは同じ高校で、同じクラスになった。しかし、彼はサッカー部に所属したにも関わらず、僕は所属せず帰宅部となった。
サッカーが嫌いになったわけではない。新しいことをしたくなったわけでもない。ただ、正式にサッカー部へ入る前の仮入部期間で、自分の限界を知った。そして、高みを目指せないと感じた。そう、僕は逃げてしまった。
膝を悪くしてからという言い訳をして、部活には所属できていないが、こうしてみんなから昼休みに誘ってもらっている。
教室から全力で校庭へ走り出すと、気持ちが先走ったのかみんな決まって下駄箱でつまずきそうになる。
ふと、隣で靴を履く雅也に、例の図書委員の当番で一緒の彼女のことをきいてみた。
「なあ、『高久美穂』ってどんな人なの?」
「ん?陽介知らねえのか?学年一の美人だろ?いつも航平たちも話してるじゃんか。今年の四月から転校してきたやつだ。誰が来年のバレンタインのチョコをもらうのかとか、修学旅行で告白するかとか、今の段階で話してるよ。…もしかして、お前狙ってんのか!?」
「いや違うよ、今日の委員会で当番一緒なんだよ。接点ないし、何話そうかな。」
砂ぼこりが舞う、暑い日差しの下。僕は頭のてっぺんを爪をたてて掻いた。
「それは羨ましいな〜!ただ、ほとんど話しかけても無視らしいからな。逆に話すことがなくて今年の当番は暇かもなー。千佳だったら楽しかったかもな。ドンマイ。そういえば、千佳と陽介は中学から仲良いけど、お前ら付き合わないの?」
急に変なことを言われ、僕は調子が狂う。
「いやあ、千佳とはどっちかといえば親友に近いところあるからな。なんか、恋愛対象として見れないんだよな。でも、一緒の当番だったら面白いかも。ただ、今年は体育祭盛り上げたそうだったから雅也と一緒に、体育祭実行委員を頑張るってさ。よろしく頼むぜ。」
雅也は胸を張って、ゴリラのように拳で叩きながら、「おう、任せとけ!」といった。
「おい!おまえら、なに守備さぼってんだよー!」
笑いながら駆け寄る航平。いつのまにか点を決められていたようだ。
―――
昼休み終了まであと十分。白熱したサッカーの結果、雅也と僕のチームが逆転し、航平は砂埃にまみれながら悔しさを全面に出して寝転がっていた。
土だらけ、汗だくになった僕らは、授業が始まる前にサッカー部の更衣室で短パンの体操着に着替えた。
僕は所属してないが、いつものボールがサッカー部の練習用ボールであることや、サッカー部全員からなぜか男子更衣室に入ることへ暗黙の了解を得ており、使わせてもらっている。
多分、雅也がいることやその相方である僕は、中学時代にサッカー部で周辺の地域で知らない人はいないほど、ちょっとした有名タッグだったからだろう。おそらくだが。
さっきまで一緒にサッカーをしていた同級生のサッカー部たちが、隣のクラスの女子生徒の顔面偏差値ランキングで盛り上がっていた隙をみて、僕は靴下の替えを教室へ取りにいく。
すると、階段の踊り場に二人の生徒が立っていた。最初は気が付かず通り過ぎそうになったが、どうやら告白のワンシーンのようだ。女子生徒が冷たく落ち着いた声で言い放つ。
「ごめんなさい。私、あなたが生まれるよりずっと前から好きな人がいるの。あなたみたいな、どこのクラスかわからない人を好きになるための時間が、私にはないの。」
そんな交際の告白を断る際に中々聞かないセリフの場面なんて、興味を持つに決まっているだろう。
僕はそっと、廊下から階段に差し掛かる大きな柱に隠れ、右目だけをのぞかせ様子を眺めた。すると、見始めたと同時に、告白を断ったであろう女子生徒がすれ違うようにして走っていった。
僕は身を隠すため慌てて柱の影に隠れる。その生徒が通り過ぎた導線にはふわっと女子らしい、やさしくてどこか甘い香りが残っていた。なぜ、女子はなんとも言えないいい香りがするのだろうか。
急いで振り向いても、駆けていく左右に揺れる長髪の後ろ姿しか見えず、誰なのかはわからなかった。
諦めて僕はもう一度、踊り場に目をやる。すると、うなだれて階段に座り込む坊主頭の男子生徒。あれは確か男子バスケ部の主将、海野くんだっただろうか。
確か、昨年の学園祭で開催された人気男子学年投票ランキング一位に選ばれた、学年一の伊達男である。そんな彼でさえ、玉砕する女子などいるのだろうか。きっと、彼が一番ショックを受けているに違いない。ちなみに男子ベスト三十まで発表されるのだが、僕は帰宅部の割には、なんと三十位にぎりぎり選ばれる大健闘をした。
ただ、なぜバレンタイン当日は母親からもらった、市販のチョコチップクッキーだけだったのかは未だに謎ではある。
―――
放課後。
教室の掃除がおわり、机を移動する音が静まった廊下を駆け抜け、職員室で鍵をもらう。
僕は、図書室が大好きだ。学校終わりに図書館に行くほど、あの落ち着いた空間がたまらない。早く図書室に行きたい気持ちが先走り、半ば身を乗り出して図書室の扉をスライドした。
すると、室内に閉じ込められた冷気が扉から溢れ出してきた。冷房が今日からはじまることは聞いていたが、まさかこんなに涼しいとは。
僕はまるでまだ誰も踏みしめていない雪原に足跡を残すように、わくわくしながら今年最初の冷房が効いた図書室へ入った。
貸出PCの電源をつけ、返却カウンターの回るタイプの椅子に深く座り、大きく深呼吸をしながら溶けるようにだらだらとしていた。すると突然、がらがらと扉が開いた。
入口に目をむけた途端、女子生徒の姿が映る。
だいたい、身長一五〇センチくらいだろうか。
首元までおろしたウェーブがかった黒髪ロング。その色とは対照的な、透き通る色白肌。
目はぱっちりと開いており、筋がとおった鼻の先の下をキュッと結ばれたくちびるが色づく。
化粧禁止の本校での「美人」は、あまりにも素材が良すぎることを指すのだろう。
可愛らしくも、大人びた横顔。
見ただけで、なぜかどこかで会ったことがあるような、懐かしさを感じる。
なお、この容姿をこれほどまでに言語化できたのは、家で夕食を食べた後、学習机で古典の現代語訳の宿題をしながら思い返したからであり、初めて見たときは暑さも相まって頭の回転が鈍く、ぼんやりと「綺麗な人だな」くらいしか出てこなかった。
僕は我に返って、声をかける。
「あっ、もしかして高久さん?金曜当番の。」
彼女は僕の目をみて、ああ、と気がついたように慌てて貸出カウンターの前に立つ。
「そう。隣のクラスの高久美穂です。今年度から図書委員になったから、いろいろとよろしくね。」
いかにも育ちがよく、こちらを見る北国の狐が見張りをするときのように背筋が伸びる。 成長期の僕よりも二十五センチほど小さい背丈は、自然と上目遣いになっていた。
「ああ、よろしくね。僕は青井陽介。A組の。」
「…うん、知ってるよ。よろしくね。」
彼女はそういってから、カウンター内に並んだ隣の椅子にちょこんと座る。
なんかこう、ちっちゃいなと思った。
あと、僕のことを知ってるんだとも思った。
カウンターにあるPCで、貸出・返却の操作手順のあと、本棚の整理整頓など図書委員会の大まかな仕事を教えた。僕の話を聞いている間は小刻みにうなずき、メモ帳に書いていた。とても真面目な女子だった。
一通り教えた後はやることがなくなり、生徒も来ないのでただただ、カウンターの椅子に座っているだけだった。金曜日の放課後なんて、部活動か、家に早く帰りたいか、友だちと遊ぶかするため、暇なのだ。だから、あえて金曜日を当番の希望にしていた。
話す話題もなく、沈黙が続く。
なんか、しゃべったほうがいいかな。
「あのさ、」
「あのさ、」
重なった。
「あっ、どうぞ。」
申し訳無そうに彼女は僕に発言権を譲った。
「いや、その、冷房涼しいねって言おうとしただけだからさ。」
「あっ、そうだね。…私にはちょっと肌寒いかな。」
ミスをしたかもしれない。僕は気を取り直して話を続ける。
「あっ、そうだよね。後で、先生に言ってみようか。えっと、高久さんはなに言いたかったの?」
「うん、ありがとう。あと、美穂でいいよ。」
なんか緊張してきた。勇気を振り絞って呼んでみよう。
「あ、じゃあ、美穂さん。僕も陽介で大丈夫です。はい。」
「さんもつけなくていいし、同じ学年なんだから敬語じゃなくていいよ。」
優しいな。っていうかこの声、どこかで聞いたことがある。脳内を巡らせて思い出そうとすると、彼女が急に恥ずかしそうに話を続けてきた。
「…あのね、私ね、花火見たことないの。」
「あっ、そうなんだ。この歳まで見たことない人って稀だよね。」
「うん。何色なんだろうね。」
なんだろう、この試されている感じ。やったことはないけれども、恋愛シミュレーションゲームなら選択次第ではゲームオーバーなのかもしれない。だが、うまく行けばこの子と花火大会に行けるイベントに進めるのか?
そんな余計なことを考えてから、とりあえず無難な回答をしてみる。
「えっと、大体は赤とか黄色じゃないかな?」
「…」
彼女はうつむく。あれ?これはミスをしてしまったか?
沈黙が実に気まずい空気で忍びなく、僕は「あのさ」と言おうとする。その時、急に席を立って彼女は透き通る声で言う。
「…でれすけ。」
え?今、なんて言った?
そう感じたときには扉を開けて、既に廊下に向かって走り出していた。止めようと後を追いかけて出入り口から顔を覗かせるが姿はなく、下の階へパタパタと響く上履きの音が遠ざかっていく。
きっと僕は狐につままれたような顔をしていただろう。
明日のサッカーの練習試合に備え、校庭から聞こえる掛け声とホイッスル。
ポカンと立ち尽くす僕。たった一人きりの廊下に響いていた。
あれは何語なんだろう。方言かな。
なんか、怒っていたけど恥ずかしそうだったな。
聞いてみたいことが山積みだ。ああ、本当に女子って難しい。
僕は一人、誰もいない図書室へ戻ると貸出カウンターの席に座り、顔を伏せてしょんぼりしていた。
あと、ちょっと可愛かったな。
―――
「それってお前、多分、振られたんじゃねえか?」
週明けの月曜日。数学の授業が終わり、教室中が騒がしい休み時間。
背もたれを抱きかかえるようにして、前のせきに前のめりで座る雅也は、へらへらした顔で言った。
本人曰く、彼のツーブロックで茶色がかった髪型は、身長一七五センチの日本人男性の平均レベルである、自身のコンプレックスを補うためらしい。
「ま、乙女心ってのは、難しいな。」
「…なんで俺が振られたっていうんだよ。」。
「お前、『でれすけ』ってネットで調べてみ?」
ここでも我が校の厳しい校則である、「携帯電話使用禁止」という張り紙が鼻につく。 僕はクラスの中でも比較的、真面目で成績もいいほうだ。加えて、柔軟性やユーモアもそれなりに兼ね備えているつもりだ。というわけで、周りをキョロキョロしながらこっそり調べた。
検索ページの最上部には、「今あなたに知ってほしい!恋する那須弁」というポップなサイトが出てきた。
そこには、「意味:ばかもの」と書いてある。ますますわけがわからない。
なにか間違ったことを言ったのだろうか?確か、花火を見たことがないと言われて、どんな色かを聞かれて、答えただけだったのに、彼女の逆鱗に触れてしまったのだろうか。
それを雅也に話すと、椅子を二本足にして前後にゆらゆら揺れながら、天井を仰ぎ見て言う。
「花火か〜、まあみてみたいだろうな。」
「え?なんで知ってるの?」
そう言うと、なにも考えていない風に、なんとなく?と言った。
「あと、雅也はなんででれすけの意味、知ってたんだよ」
「ああ、それはなー、その、遠い親戚が昔、栃木に住んでて那須弁を話してたんだよ。だから、それでそんなニュアンスかなと思ってよ。」
その瞬間、急に僕はこれまでの人生ではありえない推理にたどり着く。もしかして、花火の色を教えてほしいのではなく、花火を一緒に見に行きたいのではないのか?
まさか。学年でも人気の高久美穂だぞ?こんな初めて話した帰宅部のやつのことが好きになるのか?
ネットが発達した今の時代、花火を見たことないやつなんているはずがない。わざわざ、口実をつくってくれたのか。
ぐるぐると頭の中で巡らせたまま、チャイムが鳴る。鳴り終わるか終わらないかのうちに、正面を向いていた雅也が振り返って聞いてきた。
「なあ、やっぱ今からサッカー部入らねえか?」
「入らねえよ。ほら、前向けよ!」
いつも通り雅也のしつこい勧誘をさらりとかわす。
どうしても花火のことが気になってしまい、次の古典の授業は、家に教科書を忘れていたことにさえ、しばらく気が付かなかった。
―――
水泳の授業終わりの男子更衣室。爽やかな制汗剤でスースーとした、腕をまくった長袖シャツに、涼しい廊下から通り過ぎる風がなでていく。
あれから、学校で彼女を見かけても、声をかけるには遠い距離にいて、いつまでも真相を明らかにできない。
廊下の向こうの方で、大きく笑っている千佳の横で微笑む姿を見ても、声をかけようとしたときにはそそくさといつの間にか姿を消してしまう。
「よーすけ、なんか用?」
千佳は中学生時代からの幼馴染で近所に住んでいる。母ちゃんとも仲が良い。
陽介には永遠に彼女なんかできやしない、なんて言いがかりをつけてきて、中学時代は一緒に夏祭りに行くのが恒例行事だった。
中でも射的が得意な僕は、欲しい景品をねだられては当てる。千佳にとってはいい金づるだったのかもしれない。
男友達のようだったが、高校生で女子バレー部に入部した。
サバサバした性格で、中学時代から身長が一七八センチあった僕に対し、成長期の彼女は明日にでも抜かしてやると意気込んでいたが、残念ながら一六八センチで止まってしまったようだ。女子にしては高身長で、大健闘だろう。
最近はショートカットをポニーテールに変え、雰囲気が変わった。お互い、年頃ということもありこちら側としては、以前のように話すのは少し気まずい。
「あれ、美穂さんは?」
千佳に尋ねる。
「いや、なんだか日直の仕事を思い出したとかで職員室の方へ慌てていったよ。なんか話したいことでもあったの?」
「いや、別にないけど。」
もう少し、彼女とちゃんと話してみたい。
なにか怒らせたのなら、謝りたい。
もっと、彼女のことを知りたい。
そう感じるようになって、少しずつ彼女のことが気になっている。
そんな考え事をしている僕に、千佳は構わず話しかけてきた。
「そういえば、今年も夏祭り一緒に行かない?」
急に正面の視界にぴょんと跳ねるように入り込み、こちらを覗く。
ふと、僕はあることをひらめく。
そうか、彼女を夏祭りに誘ってみればいいのだ。
「ごめん。今年は行けないかもしれない。」
「なーに?彼女でもできたの?」
「…うるせえ!余計なお世話だよ!」
にたにたと悪い顔を浮かべながら聞いてくる千佳に、早歩きでそそくさと逃げる。
もし、本当に本当に花火を見たことがないのなら、きっと彼女は初めての花火を見たいはずだ。
それが果たして俺と、でもいいのか?というのは、彼女のとりあえず答え次第だ。
考えるより行動に移してみよう。
早く、金曜日にならないかな。
―――
「なあ、金ちゃん。乙女心って難しくないか?」
下校途中、僕はいつも決まって寄り道をして帰る。どうせ、母さんは仕事で家に帰ったって誰もいないのだから。
花屋の店先、ホースの先を潰して広範囲に金ちゃんが、ミスト状の水を植物たちにかける。うっすら浮かぶ虹が自慢の商品たちの上にかかり、晴れ間を見せたアスファルトの歩道の表面をぬらしていく。
じりじりと日照る初夏らしい暑さが、コンクリートのにおいを醸し出しているが、花のかおりで充満する店内には関係ないようだ。
金ちゃん、というのはこの男のことである。彼はこの花屋「金魚鉢」のオーナーであり、本名は草加金太郎だ。実際に年齢は聞いたことがないが、中年太りで肌の表面は赤っぽく、いかにも居酒屋の店主のようだが酒は飲めないらしく、花が大好きな優しい近所のおじさんである。
目尻のシワは笑顔を保っており、常ににこやかなえびす顔をしている。
父親と僕は幼い頃から疎遠だったため、物心がつく前から僕は父の古い友人だという金ちゃんのもとで遊んでは、いろんな相談をしている。
「陽ちゃんも乙女心を語るとは、大きくなったもんだあ。なにか恋の悩み事かい?」
「それがさ、初めて喋った女子に「ばかもの」って感じのことを言われたんだよ。」
「へへへ、こりゃ悪いことをしたなあ。…ちなみに陽ちゃん、それってもしかして、美穂との話か?」
金ちゃんは声を潜め、陽介に近づき、耳のそばでささやく。
「え?金ちゃんどうしてそのこと、知ってるの?」
金ちゃんの滴る汗が、への字に曲がる唇の上を走り、落ちた。
「あー、まあなー。だれにも言わないって約束できるか?もちろん、お前さんがよく遊んどる、雅也ってやつにもだ。」
「ああ、いいよ。」
「実はなー、その…今うちの二階に住んどるんだ。」
「…なんだって!?」
僕は背中から地面に倒れ込んでしまいそうなほど、驚いた。
「声が大きい!今さっき、帰ってきて上で寝てるんだから、静かにしてやってくれ!」
金ちゃんは慌てて、右手の人差し指を自分の口に当てて、警告した。
「なんで、金ちゃんとこに住んでんだよ!まさか、娘?孫?」
「まさかな。うちには娘も孫もいねえよ。昔、美穂のお母さんと知り合いでな。彼女はもう会えないところにいるから、代わりに預かってんだ。そんで、ちょうど先週の金曜日に学校から帰ってくるなり、全く同じ話をしていたからもしかしてって思ってな。」
「それで、なんていってた?」
「なんだかな、嬉しそうだったぞ。なんか、やっと話せたとか言ってたな。」
あれ?怒ってない?一体どういうことだ?
なんなら先週、図書室で立ち去ってから一言も話せてないぞ?
「はっはっは。その鈍感さも、親父さんそっくりだな。」
狭い店内の植物たちに大きな笑い声が反響して、いつもより倍以上大きな声に感じる。
先程からしおれた花の選定をする手を止めて話を聞いてくれていた金ちゃんは、作業を再開した。
明日は金曜日。直接話してみよう。うん、きっとそれがいい。
大通りに立ち並ぶ木の幹から、アブラゼミの鳴き声が聞こえた。
―――
放課後。待ちに待った金曜日。
掃除終わりに職員室へ図書室の鍵をもらいに向かうと、我らが担任教師の荒ちゃん先生はもう渡したよと言う。
図書室の扉をスライドすると、窓際の席に一人。高久美穂が座っていた。
なにか考え事をしているように、頬杖をつき、校庭を見下ろしていた。
今日は図書室のエアコンが故障しており、窓を開けることで涼しさを部屋に取り込んでいる。本が日光に焼けぬよう取り付けられた、きつね色のカーテンが風に煽られ、まるで砂浜の波打ち際のように寄せては返し、揺らめいていた。
彼女はこちらに気がつくと、僕の目の前にやってきて言った。
「遅かったね。」
僕はこれから、彼女を花火デートに誘う。なんだか緊張してきた。
この時期にはまだ早いセミの鳴き声が聞こえ、じんわりと手のひらの手のシワに沿うようにして汗を握る。
時折風で動くカーテンの布切れ音。自分にしか聞こえないはずの心拍。カウンターの隣の席で首をかしげる、彼女の横顔。
僕は息を吸った。
「あのさ、その、先週のことなんだけど、」
途中で遮るように、彼女は話し始める。
「…ごめんね!先週はその、急に飛び出していって。そのあとも、今日までずっと話せなくて。なんかこう、うまく話せそうもなくて。」
急に慌てだす姿を見て、僕はどこか安心感を覚えた。
「ううん、大丈夫。それよりさ、」
僕は顔を上げ、もう一度呼吸を整えてから彼女の目を見て言う。
「美穂さん、その、もしよかったらなんだけどさ、もう、予定とか入っていたらアレなんだけどさ、夏休み前最後の金曜日、当番終わりに近くの神社で夏祭りがあるんだ。だからその、一緒に花火、見に行きませんか。」
無意識に下の名前を呼んでいた。千佳の他に初めて、女子の下の名前を呼んだ。
彼女は驚き、呼吸をすることも忘れた様子で、勢いよく顔を上げ、丸い目をして言う。
「いいの?…ほんとに?」
彼女は嬉しそうだった。同時に、急に恥ずかしさが込み上げたようで、背筋を伸ばして改まり、目を泳がせながら「…お願いします」と呟いていた。そして、笑顔で僕を見つめる。
「その時は花火の色、教えてね。」
そのあとは、本棚に返却済みの本を戻す、図書館の当番の作業をしながら、図書室に配置された、大きな本棚の向こうにいる彼女に届くよう、声を張って話しかける。
声色から、彼女が跳ねるような、嬉しそうな感情が伝わる。
来週の金曜日。僕らは夏祭りへいくこととなった。誘ってよかった。
祭りは十八時スタート。当番の終わりに直接向かっても間に合う時間だ。更に花火は十九時からあげられるという。
初めて、女子を夏祭りへ誘った(千佳を除いて)。しかも、二人きりで花火をみることができるなんて。
お祭り当日は街中にポスターが貼られていたこともあり、多くの人で賑わうこととなるだろう。周囲に見られる多少の照れくささは、きっと人混みがかき消してくれるだろう。
夕焼けに染まる空を反射した赤い窓が、校庭を囲うように照らし、懸命に走り続ける一人ひとりの練習着にスポットライトを当てていた。
最終下校時間を告げるチャイムの音。空っぽの校舎に震える空気。夕方の涼しげな風が、ヒグラシの鳴き声とともに半袖を撫でていく。
来週の予定の他にも、お互いの好きな歌手、いつも行く近所の中華料理屋、好きな本など、今日は彼女と少しは話せるようになった。
帰り際、下駄箱を出た昇降口で、数歩先を歩いていた彼女は振り返りいう。
「それじゃあまたね、ようすけ。」
「ああ、またね。はじめて、下の名前で呼ばれたな。あと、今日は『でれすけ』じゃないんだね。」
「あっ、それは忘れて…」
彼女は頬を赤らめ、申し訳なさそうに目を細めながら、気まずそうに言った。
「いやいや、冗談冗談!!!意地悪してごめん。また、来週。」
そういって、校門を出た僕らは、それぞれの帰り道に曲がる。
今日はなんだか、こう、ガッツポーズをしたくなるような気分だった。(誰もいない路上でこっそりやった)
―――
家に帰り、ただいまと叫ぶと、キッチンから母さんが「おかえりー」と、夕飯の支度をしながら応えてきた。
金曜日ということもあり、早めに仕事を終わらせて帰ってきていたようだ。母さんは大学の先生で、日本の歴史について研究をしているらしい。夜の遅い授業や研究発表の前には、帰りが朝になることもよくある。真面目で、一生懸命で、それでいて愛情を僕に注ぐ姿を息子として誇らしかった。
エプロンで水気を拭きながら玄関に顔を出すと、なにかに気がついた様子でニヤニヤしながらこちらを見て言う。
「あれえ、なんかいつもと雰囲気が違うな〜?さては、好きな子でもできたか〜?」
「なっ…違うよ!明日から週末だから喜んでるだけ。手を洗ってくる。」
そんなことはない。なのに、変なリアクションをしてしまった。
僕は母さんと二人暮らしだ。親父は昔、大切な仕事のためだ、と言って家族をおき、遠くに出て行ったらしい。顔も覚えておらず、一度も会っていない。
どこで何をしているのか、そもそも生きているのかも知らない。
小さい頃は金ちゃんが遊び相手になってくれていたこともあり、楽しい日々を暮らしていたが、時折、親父との話が出てくると心細さと、気まずさがよぎることはあるが、別に生活に支障をきたしていない。
だが、母さんは親父のことを「人々を救い、日本を救うヒーローなんだよ」なんて大それたことを言っていた。
親父から教わったもので覚えているのは、「綺麗な星の一筆書きの方法」と「射的のやり方」だ。
僕の最も古い記憶は幼い頃、親父は僕の後ろから僕の右腕を掴み、優しく、深く、低い声で地面に星の描き方を教えた。
「いいか、陽介。星はどこからでも見ることができて、夜には星と星を結ぶことで星座となり、いろんな形になることができる。だから、きっと陽介を素敵な出会いと結びつけてくれるはずだ。」
どれほど昔のことだったかはわからない。きっとあの頃の僕には、少し難しい話だったにも関わらず、鮮明に今も覚えている。一言一句も間違えないほどに。
「まずは一番左から書き始めるんだ、そして一番右、左下、一番上、右下、そして一番左。そうすればうまく描けるんだ。どうしても伝えたくて、届けたい想いがあるときは、願いを込めてこの書き順で描くといい。きっと、心と心が通じるはずだから。」
きっと、今もどこかで誰かを助けているのだろう。いつか会える日まで、僕は親父に誇れる自分になりたいと決めているのだ。そう思って、僕はいつの間にか眠りについていた。
―――
