秋空が広がり、赤とんぼが俺たちの頭上を飛んで行く。
 目の前には大きなキャンパスがあり、説明を受けながら、邪魔にならない程度に広がって歩いていた。
「すごい……」
「朝比奈は大学見学とか行かないのか?」
「逆に、夜野くんってもう行ってるの?」
「そりゃあ、将来を見据えて」
 俺は、大学内に入ったことがないため見るものすべてが目新しく、冒険気分で胸を弾ませていた。それに対し、隣を歩いていた夜野くんは慣れた様子で歩いていた。
 目の前に広がるキャンパスは高校までのザ・学校という感じではなく、複合施設といった感じで、建物の造形から歩いている人まで自由度が高かった。青い芝生や、バリアフリーの多さなんかも目立つ。
 今日は、二年生の大学見学。
 地元の国公立の大学の授業風景や、キャンパスを見て回るという簡易的なツアーで、進路を固めていきましょう的な時間だった。
 俺は文理選択で文系に進んだため、まず理系の大学には行けない。しかも、成績も中の中でいいとも、悪いとも言えない。難関大学を目指せるポテンシャルはあるが今から必死こいてやってどうにかなる……かもしれないみたいな、ぼんやりとしたところにいる。
 将来の夢とかも全然決まっていなくて、数学と理科系科目が苦手だから文系に……と文理選択のときもなあなあで決めた。だから、将来の夢とか、志望大学とか言われてもピンとこない。
「そういえば、夜野くんって頭いいの?」
「だいたいいつも九十点」
「うわっ、めっちゃ頭いいじゃん」
「努力の成果……何で目、逸らすんだよ」
「いや、なんとなく」
 サッと顔を逸らせば、夜野くんは少し寂しそうに眉を下げた。
 イケメンで、スポーツもできて、勉強もできる。三拍子そろってしまい、ここに芸術の才能まであったらひっくり返ってしまっていたところだ。
 勉強も努力と言っているところがかっこいい。何でもできる夜野くんはこのまま頑張り続けたら進路なんて選び放題だろう。
 この国公立の大学だって偏差値はめちゃくちゃ高いし、文系よりも理系のクラスのほうが親身に話を聞いている感じがして、差を感じる。もちろん、俺たちの中ですでに国公立の大学を目指して勉強している人は積極的に話を聞いていた。でも、俺は流されるままキャンパスツアーを楽しんでいる。
 俺がさらに、夜野くんから逃げようとすれば、逃がさないといわんばかりに手を掴まれてしまった。
 誰も見ていない。いや、見ていたとしても、俺たちが恋人だってことは周知の事実なので気にしないだろう。
「や、夜野くん」
「この間の寝落ち電話……」
「寝落ち電話?」
「……あんな夜遅くにかけたから怒ってんのかと思った」
「え?」
 夜野くんはそう言うと、するっと俺の指の間に自信の指を滑り込ませた。いわゆる恋人つなぎというやつだ。
 だが、そんなことを気にする暇もなく夜野くんの顔を見て瞬きする。夜野くんは申し訳なさそうに眉間にしわを寄せていたからだ。
(何でそんな顔……)
 自信のないような顔が、自分と重なった。彼がそんな顔をするのが驚きだ。
「……ううん、怒ってないよ」
「じゃあ、何で今顔逸らしたんだよ」
「えと……普通に夜野くんが頭いいから、俺と違うなーって。俺、文理選択、出来るかできないかみたいな感じで選んじゃったし。夜野くんってそういうビジョンありそう」
 俺が言うと、夜野くんは少し考えるそぶりを見せた後「親がIT系で、兄は外資系」と強つよワードを口に出す。
「俺は、経済とか経営に興味あるから文系選んで、それが強い国公立目指すつもり」
「そ、そっか……てか、やっぱりビジョンあるじゃん」
 それだけ頭がいいなら、そもそも今通っている学校よりもレベルの高いところにも行けただろうに。
 もしかして、交通の便とかの問題で今の高校を選んだのだろうか。
(じゃあ俺たちは大学に行ったら離れ離れ……いや、そもそも、俺たちが恋人でいる期間って高校卒業までだし)
 そこで恋人期間が終了する。その後どうなるかなんてわからない。
 夜野くんの手を握り返せば、彼の指先がピクリと動く。
「夜野くん、寝落ち電話のこと気にしてたんだ。俺、全然大丈夫だったよ。むしろ、電話嬉しかったし」
「嘘じゃない?」
「こんなこと嘘つかなかったって。嫌なら、ブチッて切ってる」
「確かに、朝比奈ってそういう性格だった」
「それ、性格悪い人じゃん。もしかして、俺そんな性格悪い?」
 俺が恐る恐る聞けば「悪くない」と間髪入れずに返ってくる。
「それに、寝る前に夜野くんの声聞けてめっちゃ嬉しかった。寝落ちちゃってごめん」
「寝落ち電話だしな」
「俺もおやすみ言いたかった……うん、これぞ、恋人って感じ」
 俺は思わず夜野くんと手を握っているほうの腕を上げてしまい、彼に恋人つなぎだね♡ とでも見せつけるような形になってしまった。だが、おろして隠す勇気も出ず、固まって笑っていれば「不細工な顔」と言われてしまう。
「恋人だし」
「……こ、恋人。期限付きのだけど」
 ちらりと夜野くんを見れば、また何か考えている様子で俺を見下ろし、それから前方に顔を向け、その後またこちらを見た。
「…………朝比奈、俺ら歩くの遅くて置いてけぼりにされてる」
「え……ああああ! マジだ。夜野くん言ってよ」
 俺は夜野くんの手を引いて歩き出す。目に見えるほど俺たちはおいていかれていた。注意されないのが奇跡だ。
「夜野くん、重たい……走ってよ。あと、なんでそんな嬉しそうなわけ!?」
「ん? まあ、嬉しいから」
「意味わかんないし!!」
 俺に手を引っ張られている夜野くんは何故か嬉しそうだった。その理由が分からなかったが、今は前の人たちに追いつくことで精いっぱいで、彼の腕を引っ張るしかなかった。

◇◇◇

「やっと、自由行動~」
 一通り、大学の説明会を受けキャンパスツアーをした後、自由時間が与えられた。
 俺たちはキャンパス内にあるベンチに座り、先ほどまでの怒涛の説明会を思い出しながら休む。
 目の前には青々とした芝生が広がっており、木漏れ日のカーテンが揺れている。秋の少し寒い風も、たくさん動き回ったのでちょうどよかった。
 夜野くんはもらったパンフレットを読み返し「募集人数思ったより少ないな」と呟いている。
 俺はそんな夜野くんを横目に、秋の雲が広がる空を見上げていた。
(全然、将来のビジョンが浮かばない)
 話を聞けば聞くほどわからなくなる。
 先ほどの話も、大学受験、就職、さらには将来の日本、世界など、どんどんと大きくなっていった。さすがは大学。スケールが大きいなと思うし、同時に専門的な知識を学べるんだと、期待やワクワクはあった。でも、そこに入って自分が学んでいる姿は想像できず途方に暮れる。
 皆が真剣に聞いているのを見ると、不安なのは俺だけなんじゃないだろうか、と胸がいっぱいになっていく。
「――朝比奈」
「うわっ、びっくりした。どうしたの。夜野くん」
「眉間にしわ寄ってて不細工だったから」
「開口一番悪口とんできてびっくりしてるよ!? まあ、ちょっと考え事。夜野くんはこの大学に入るの?」
「いや、入らないし」
「パンフレット真剣に読み込んでたじゃん」
「だからって、入るわけじゃない。俺の志望学部ないし。朝比奈は?」
 俺は首を横に振る。
「……将来のこと。俺、このままでいいのかなって。ちょっと不安になってた」
 夜野くんのように特技・得意なことがあるわけでもない。一芸があればそれを伸ばすでもいいけどそうじゃない。
 人の気持ちを考える……心理学とかかな、とか考えてみるが、そこで学ぶ自分も想像できなかった。
「俺も悩んでるし、そんなもんだろ」
「夜野くんも? でも、君はさっきビジョンあるって」
「……って、思ってたけど、朝比奈とのキャンパスライフ考えたらそれもいいかなーとか」
 夜野くんはそう言って俺のほうを見た。ぱたんとパンフレットを閉じ、じっと真剣な顔で俺を見ている。
「いやいや、大学選びってそんなんじゃなくない? 俺のなあなあに夜野くん付き合わせたくないし」
「けど、一緒にキャンパスライフって楽しそうだろ?」
 夜野くんにそう言われ、俺は少しだけ彼との大学生活を想像してしまった。
(夜野くんが、毎日私服で……)
 制服姿もかっこいいけど、夜野くんの私服も見て見たい。もっと夜遅くまで遊びに行ったり、一緒にレポートをしたりするのも楽しそうだ。
 あとは、お互いの家に泊まるとか――
「恋人期間は高校までじゃないの?」
 俺が聞くと「そーだけど」と、夜野くんは言いながら俺の顔に張り付いた髪をサッと指で退ける。
「俺、朝比奈と一緒にいるの楽しいから」
「夜野、くん」
「悩むことって別に恥ずかしいことじゃないだろ。いっぱい、悩めばいいと思うし。自信ないんだったら、俺がまた朝比奈のいいとこいってやるから、それで自己肯定感あげろよ」
 ちょっと上から目線だけど温かい言葉だった。
 俺の髪の毛をちょんちょんと触ってから、眉の上をサラッと撫でる。
「あ、ありがと。夜野くん……でも、何で俺に優しくしてくれんの?」
「朝比奈が俺に優しいから。あと、一緒にいて楽しいから」
「俺、夜野くんだけに優しくしたっけ?」
「責任取るって言ってくれただろ。あんな状況で追いかけて、自分のことより、俺に謝んなきゃって思うの朝比奈くらいしかいないって」
 言われてみれば、少し特殊な状況だった気もする。でも、俺はそうしなきゃいけない気がして教室を飛び出した。
「他のやつだったらちゃかしたり、バカにしたりしただろうし。女子だったら、あのジンクスみたいなので盛り上がって彼女面してきたかもしれないし」
「さ、さすがにそんなことないでしょ。でも、バカにする、とかは、うん」
 容易に想像できてしまって辛かった。俺はそういうノリはあまり好きじゃない。
「朝比奈はそうじゃなかっただろ? それが俺にとってすげえ嬉しかった」
「なんか、惚れた理由言われたみたい」
「……かもな」
「え?」
 その瞬間、また風が吹いて結局髪の毛がぼさぼさになってしまった。
「最悪だ」
「いつも寝癖ついてるだろ」
「それとこれは違うの。夜野くんだって頭に葉っぱついてるし」
 ほら、と俺が手を伸ばしとってあげると夜野くんは目を丸くした。それから、もう葉っぱはついていないのに頭をさわさわと触る。何だか顔と行動が一致していない感じだ。
「朝比奈、ありがと」
「ん? どういたしまして」
「……朝比奈が俺だけに優しかったらいいのに」
「夜野くん?」
 また、黙ってしまった夜野くんの顔を覗こうとすると、何を思ったのか俺の頭をいきなりわしゃわしゃとし始めた。先ほどの強風のときよりも、髪の毛がひどいことになる。
「ちょ、止めてってば」
「どーせさっきからぐちゃぐちゃだろ」
「酷くない!? 夜野くん酷いって」
 「酷くない」となんだか怒ったような口調で頭を撫で続けた。でも、撫でられ揺さぶられる視界の中見えた夜野くんの頬は少し赤かったような気がしたのは気のせいじゃないだろう。

◇◇◇

 自由時間中に昼ご飯も済ませておくようにとのことで、大学内の食堂へとやってきた。
 大学内の食堂は広いが、人の数も多く常に人の入れ替わりが起きていた。
 俺たちは格安すぎるメニュー表を見て驚き、カレーとカツ定食を選んで席を探す。すると、ちょうど大人数のグループが移動し、一列分人がいなくなったのでそこに腰を下ろす。
 夜野くんはカツ定食を置いて俺の前に座る。ちなみに夜野くんのカツ定食は和風で、大根おろしとポン酢がかかっている。
「人多いね。俺たちの学校、学食はないからこういうの新鮮でいいかも」
「フードコートと変わらないだろ」
「ふはっ、フードコートって。確かにそうかも」
 俺が笑うと、夜野くんの少しだけ恥ずかしそうに「笑うなよ」と小さな声が返ってくる。
「だって夜野くんが面白いこと言うんだもん」
「朝比奈だってフードコート行くだろ」
「うん、行くよ。でも、夜野くんがフードコートいっているイメージないっていうか……あ、ごめん」
 すごい形相で睨まれてしまい、口を噤む。
 そういえば、夜野くんとはフードコートのあるショッピングモールに出かけたことがなかったなと思ったのだ。
(今度一緒に行きたいな)
 朝から晩まで二人で、デート――これまた思い出してみれば、一緒に出掛けるのに夜野くんは"デート"と明言してくれないなと思った。俺から「デートだね」と言ってみてもいいが少し恥ずかしい気もする。
 今更だが、夜野くんと恋人になって二人の時間が増えた。
 俺は大人数でいるのも楽しいと思っていたが、こうして二人きりで過ごす時間のほうが好きかもしれないと思い始めていた。やっぱり、少し人に合せすぎていたような気もする。
(夜野くんとの時間好きだな)
「好き……」
「何、朝比奈」
「へ?」
「今、好きって言った?」
「嘘、俺が!?」
 訊ね返せば、こくりと頷かれてしまう。
 よりにもよって"好き"の部分が口に出ていたなんて……
 夜野くんを見れば、何やら真剣な目つきで俺を見ている。ここでごまかすのもいけないと、深呼吸したのち彼を見た。
「夜野くんとの時間が好きって言った」
「やっぱ、好きじゃん」
「いや、夜野くんとの時間が好きって言った」
「俺のこと好きじゃない?」
「……嫌いじゃない」
 「そ」と短く返して頬杖をつく。お気に召す回答じゃなかったのかもしれない。
(嫌いじゃないのは事実だし。好きかって言われたら……)
 俺はそんな夜野くんを見ながら手を合わせて食べ始める。このカレーが三百円なんて信じられない。
 スパイシーなカレーの臭いを鼻腔いっぱいに吸い込むと、先ほどの将来に対する不安がほんのちょっと消えていくようだ。
 夜野くんも長い指をピタッと合わせて合掌し、黒い箸を持ち上げる。すると直後に「夜野朝比奈カップルじゃん」と聞き慣れた声が上から降ってきた。
「夕田……」
 そこにいたのは夕田と、良くしゃべる友だちだった。彼らは、俺たちの席の周りが空席なのをいいことにご飯ののったトレーを置いて陣取り、椅子をガタガタと後ろに下げる。あ、という間もなく、彼らは俺の周りに座ってしまった。
 空気を読まないというか、少し図々しい夕田のほうを見れば、ちょっと睨んでしまったような形になっていたのか「あ、わりぃ」と謝られる。
 それからほどなくして、女子たちもやってきて「夜野くんの隣空いてるじゃん」と言って誰が彼の隣に座るかもめ始める。幸いにも、夜野くんは端に座っているので、隣に座れるのは一人だ。だが、せっかく二人で食べていたのに邪魔されたような気分になる。
 今までは同じようなことがあってもなんとも思わなかったのに、もやもやとした気持ちが広がっていく。少し空気を読んでくれてもいいのに、と文句を言いたくなる。
 こう思っているのは俺だけだろうか。そう思って夜野くんのほうを見て見る。
「や、夜野くん」
「……はあ」
 大きなため息とともに箸をおき、また頬杖をつく。
 夜野くんはまた、俺と恋人になる前のような面倒くさそうな顔をして、顔すら合わせてくれなかった。

◇◇◇

 大学見学は無事終わり、俺たちは帰りのバスに乗っていた。
 俺の隣には夜野くんが乗っていて、ずっと窓の外を見ている。
(昼ご飯を食べてからずっとこうなんだよな……)
 あの後も校内を一緒に回ったが、何故か夕田たちもついてきて大変だった。いつものように、夜野くんは女子に囲まれていたし、俺たちは離れ離れになってしまった。最初こそ、二人で一緒に回っていたのに、夕田たちが来たことで女子たちも隙ができたと思ったのか、夜野くんをかっさらっていって。俺もはっきりと嫌だといえたらよかったのに、言えずに終わってしまった。
 幸い、帰りのバスで隣同士なのでまたふたいつものように戻れたが、今度は夜野くんが全くこっちを見てくれなくて気まずかった。
 後ろでは夕田や友だちが爆睡しているいびきが聞こえる。
 バスは高速道路に入りぐんぐんと進んでいく。景色なんてすぐに変わっていって酔いそうだ。
「夜野くん」
「……何、朝比奈」
 勇気を振り絞って話しかけてみれば、予想とは異なり彼が返事をした。でも、まだこちらを見てくれない。
(怒ってる、のかな)
 不機嫌なのは見てわかる。しかし、理由がどこにあるのか皆目見当がつかない。
 昼ご飯の二人きりの時間を邪魔されたから、女子に絡まれたから、俺も男子としゃべっちゃって夜野くんを助けられなかったから。考えれば考えるほどあれこれと原因が浮かんできて、全部俺が悪い気がしてきた。
 さっきみたいなとき、どうするのが正解だったのだろうか。
 夜野くんよりも、周りに合せてしまった気がする。一人と大勢。
 今の俺は、夜野くんの恋人で、夜野くんが特別なのに。
「ごめん、夜野くん」
「何に対して謝ってんだよ」
(この質問、あの日も――)
「全部」
「全部?」
「夜野くんが嫌がってたのに助けられなかった。俺、夜野くんの恋人だったのに、君が嫌がってたことわかってたのに。助け舟出せなくてごめん。あと、一緒に回りたかったのに回れなくてごめん。全部ごめん」
「めちゃくちゃ謝るな」
 夜野くんはそう言うとようやく俺のほうを見た。その顔はなんだか寂しそうで、少しだけ傷付いたような顔をしていた。
(違う、その顔って)
 バスはトンネルの中へと入る。一気に車内が暗くなり、そしてしばらくして電気がついた。
 窓は暗くなって、そこに俺の顔が映る。
「俺、怒ってない。拗ねてんだよ」
 トンと、俺の肩に頭を乗せ、俺の右手に左手を重ねて呼吸するように自然に恋人つなぎをする。
 俺は待たば気をすることしかできず、半開きになった口を閉じることも、何かを言うこともできなかった。
「だから、朝比奈機嫌とって」
「機嫌とるって」
「俺、寝るから、起きるまでこのまま。俺の手ぇつないで、俺専用の枕になってくれたら、機嫌治る」
「え、でも」
 きゅっと俺の手を優しく握る夜野くんに、また心臓が跳ねる。
 俺よりも大きな手に包まれる感覚、体格もよくて、いつも不機嫌なのに、そんな夜野くんが俺にだけ甘えてきている。
(やっぱり、怒ってたんじゃなくて、拗ねてたんだ)
 わかりにくい。でも、分かってしまえばすごくかわいくて、どうしようもなく胸がいっぱいになる。
 絶対に他の人には見せない表情だったと思う。恋人の俺だけが見える表情。そう思うと、特別に感じて悪くないと思ってしまった。俺自身、罪悪感でいっぱいだったのに、夜野くんのその一言で救われたような気がしたのだ。
「夜野く……」
 俺が声をかけたときにはすでに目を閉じた後だった。意外とまつ毛が長くて、笑ったときよりも幼く見える。さらりと耳から黒髪が落ち、ちょっとだけ眉間にしわが寄る。
 これは起こしちゃまずいなと俺は顔を前に向けた。それでも落ち着かなくて、下に視線を落とす。すると、視界に恋人つなぎをした俺たちの手が見える。
(そうだ、ちゃんと恋人なんだ)
 期限付きとはいえ、夜野くんがここまで俺に甘えてくれるのは恋人だからだ。寝落ち電話をかけてくれるのも、恋人だから。
 "恋人"という甘美な響きに胸が高鳴る。聞き慣れたはずの言葉なのに、とても特別に感じる。
 その点、俺は夜野くんに何かしてあげられただろうか。受け身になりすぎていないだろうか。責任をとるといったのは俺なのに。
 夜野くんの頭が少し重い。また、俺の肩に擦り付けるように頭を動かす。ふわりと、彼のシャンプーの匂いが漂ってくる。
 バスはトンネルを抜け夕日の眩しい光が車内に差し込んできた。
「千桜……」
「え?」
 その時、むにゃりと彼の口元が動く。もにょもにょとした声で、彼が俺の下の名前を呼んだ気がした。寝言にしては少しはっきりとしていた気がした。
「……よ、四葉」
 名前を呼んだ瞬間ブワッと体温が上昇し、バクバクと心臓を鳴らしている。ポポポポ、と赤くなった顔は火傷したみたいに熱い。
 でも、その瞬間握っている彼の指先がピクリと動いた気がした。
 もう片方の手で自分の心臓に手を当てる。まだ鳴り止まない鼓動に、上がっていく体温。
 俺は起こさないように慎重に、もう一度、汗でべたべたになってしまったつながれている手を見て、にぎにぎと指をかすかに動かしてみた。