最下位の巫女が竜帝の最愛になるまで

 地方視察に出て二日目の夜、皓月は妙な胸騒ぎに襲われていた。
 年に一度の視察は、主に政治的な誇示を目的とした皇帝の重要な仕事のひとつだ。
 しかも即位後初めての巡察を、途中で放棄して都に戻るわけにもいかない。

 月を見上げると、玉蘭の笑顔が浮かんでくる。
 玉蓮の黒目がちで大きな瞳の奥には、本人すら知らぬ力が静かに息づいている。
 皓月はそれを、ひと目で見抜いた。

 竜帝とも呼ばれる燿華国の皇帝の竜気はとても強い。
 古代から皇帝だけに引き継がれてきた秘儀の手順を踏めば、竜神を呼び寄せることができるとも、自らが竜になれるとも言い伝えられている。
 竜は、自然現象や天候を意のままに操れるという。
 その怒りを買った者には、当然死が待ち受けている。
 これこそが、山間の小国である燿華国が、これまで近隣諸国からの侵攻を免れ独立国家を保ってきた大きな理由だ。
 皆、見たこともない竜を恐れているのだ。

 竜は神話の生き物だ、存在するはずがない――そう囁かれているのも知っている。
 皇帝の血筋の正当性を主張するために神話の竜を利用し、竜帝だの現人神だのと崇められているだけだと。
 それは、皓月自身が一番よくわかっている。
 自分はただの人間だと思う一方で、竜の血を引く皇帝として振る舞わなければならない葛藤を常に抱えてきた。

 だからこそ、自分の妻にする女性は慎重に選びたかった。
 弱い部分を見せられる、くつろげる相手でありながら、互いの竜気を高めてしっかり支え合える関係。それを求めて巫女たちと対話を重ねて見極めたいと思っているのに、巫女たちのほうは皓月の子種を欲しがる本性を漂わせている。
 裏の顔がチラリとでも見えるたびに、皓月は冷めてしまう。竜は嘘を嫌うのだ。

 うんざりしていた頃、入内してきたのが玉蘭だ。
 竜気がほとんどないと聞いていたが、実際に会ってみると驚くほど温かく穏やかな竜気に満ちていた。
 竜を信じるかとの問いに、彼女は曇りひとつない目で「もちろんです!」と答えた。
 このやり取りが決め手となった。

 玉蘭にきめた。あとはこの不思議な竜気の正体を突き止めて、子ができれば正妃として迎えようと思っていた。
 段取りとしてなにも問題はなかった。
 それなのに、なぜおかしなことになったのか――。
 
 懐妊をめぐる後宮内の厄介ごとを思い出して、皓月はそっとため息をつく。
 
 突如、懐妊を発表した揚揚の宮をその日のうちに訪れた。
「なぜ、このような小賢しい真似を?」
 円卓を挟み向かい合って腰かける皓月は無表情のまま問うた。
 褥をともにしたこともないのに、なぜ懐妊なのか。

 しかし揚揚はしれっと答えたのだ。
「わたしの竜気は変換です。かつてはこの能力で、気を陛下に移すのではなく胎内に凝縮させて竜を宿した巫女がいたと言い伝えられております」
 それは、この国の始祖の竜を産んだ聖母のことだ。
 たかがその程度の竜気で神にでもなったつもりかと笑いだしたくなる衝動をどうにか押しとどめて問う。
「つまり、純潔のまま身籠ったと?」

 揚揚は神妙な面持ちで頷いた。
「その通りです」
「いいだろう。では十月十日後に見せてみよ。竜の血を引く証を持った赤子であるか否かをな」
 竜の血を引く証は、この燃えるような赤い髪だ。
 立ち上がった皓月は、扉の前で振り返った。
「竜は嘘を嫌う」
 揚揚はなにも答えぬまま、ただ首を垂れたのだった。

 あの日以来、揚揚とは顔も合わせていない。
 一方で、玉蘭はずっと体調不良を訴えている。
 もしやと思うが、揚揚のせいでややこしくなっていることもあり、視察から戻ったタイミングで侍医を呼ぶ予定だった。

 この胸騒ぎに、玉蘭になにか良からぬことが降りかかっているのではないかと不安がよぎる。
 皓月が寝つけぬまま朝を迎えようとしていた時だった。
『皓月様に会いたい……』
 はっきり聞こえた。玉蘭の声だ。

「後宮に戻る。早馬を用意しろ」
 皓月の突然の宣言に、叩き起こされた側近たちが大いに戸惑っている。
 しかし彼は主張を曲げなかった。
 玉蘭になにかが起きている。互いの竜気が共鳴してそれが伝わったのだ。

「先に戻る。おまえらは視察を続けるなりゆっくり戻ってくるなり好きにしろ」
 皓月はそう宣言すると、側近の返事を待たずに馬の腹を蹴ったのだった。