揚揚の懐妊の知らせに、玉蘭は心底驚いていた。
と同時に昨日、「まだ黙っておいたほうがいい」と言った彼女の緊張した声が耳の奥にこだまする。
「揚揚もそうだったのね……」
だからあの時、自分にもそう助言してくれたのだと玉蘭は納得した。
豪商の娘とはいえ貴族ではない。
いつもよく笑っている彼女だが、その笑顔の裏には様々な葛藤があったのだろう。
円卓に桃が置かれているのが目に留まった。
玉蘭が眠っている間に、また皓月が差し入れてくれたのだろう。
皓月は揚揚の懐妊を内々に知っていたのだろうか。この桃も、揚揚に届けた余りものだったのかもしれない。
なぜか気持ちが沈んでいく。
皓月は、さっそく揚揚の宮を訪れているという。
特別扱いされているかもしれないと思ったのは勘違いだった。
胸に渦巻くこの感情の正体だって理解している。
(どうしてわたしは、こんなにも嫉妬深いんだろう)
玉蘭と同等に、いやそれ以上に皓月に大事にされている話を、揚揚から直接聞いてきたではないか。
貴族ではない揚揚が懐妊を隠し、悪阻での体調の悪さも隠しながら普段通りに振る舞ってきたことを見習わなければならない。
次に顔を合わせた時は、笑顔でおめでとうと言おう――玉蘭はそう誓った。
「贈り物をしなくてはならないわね」
気持ちを切り替えた玉蘭は、なにがいいだろうかと思案した。
実家からの援助がなくとも、巫女たちには品位を保つための予算が与えられている。
花や食べ物は、まだ匂いがだめかもしれない。
「蓮の刺繍の入った絹布がいいかしら」
蓮は繁栄の象徴だ。懐妊祝いにちょうどいいだろう。
「いいですね! さっそく手配いたします」
秋香も両手をポンと合わせて賛成してくれた。
毎朝玉蘭がやっていた水汲みは、皓月の指示通り輪番制になった。しかも、どの巫女もおつきの女官にやらせている。
芳夫人は不満を漏らしているようだが、その態度を大っぴらに表明すれば次こそは首が飛ぶとわかっている様子だ。
もとはといえば、自分のままならない体調が招いたことだと思っている玉蘭は、水汲みを休む代わりに舞の練習に励むようになった。
「得意な水汲みを引き受けるから、舞は不得手なままでいいと思っていたのは奢りだったわ」
そう反省して、体調のいい日には宮の中で秋香と見様見真似でうまく踊れるよう研鑽を重ねている。
そんなある日、揚揚が玉蘭の宮を訪ねてきた。
「麗凛ったら、懐妊祝いに大輪の梔子の花を贈ってきたのよ?」
梔子は神聖な美しさを象徴する花だから、懐妊祝いとして贈ったとしても表向きは作法にのっとっている。
しかし問題は、その香りだ。
玉蘭は、梔子の甘ったるい濃厚な香りを思い浮かべただけで、えずきそうになって慌てて深呼吸した。
「嫌がらせってことね?」
玉蘭の言葉に唇を尖らせて頷く揚揚は、顔色が良く元気そうだ。
もともと悪阻が軽い体質なのかもしれない。
麗凛は貴族出身の巫女のひとり。
高位貴族の娘で、いつも豪華な衣と装飾品で着飾っている。
竜気は「治癒」、それもかなり強力なようで、すでに正妃のような振る舞いをすることもある。
揚揚と玉蘭のことなど、まるで視界に入っていないかのように無視をきめこむため、ふたりも麗凛には近寄らないようにしてきた。
そんな麗凛でも、懐妊したとあらば無視しつづけるわけにもいかなかったのだろう。
「贈ってきただけマシだと思って許すことにしたけどね」
そう言いながら寒天を頬張る揚揚の顔には、一番乗りで皇帝の子を身籠った自信と余裕が窺える。
(わたしも皓月様の子を身籠っているとしたら、揚揚のように強くあらねばいけないわ)
揚揚が女官に作らせたという寒天が、よく冷えていて美味しい。
玉蘭も胸に宿った新たな決意を笑顔で隠しながら、寒天を食べた。
「玉蘭の調子はどう?」
「まだ不調が続いているの」
月のものも遅れたままだ。
ただ入内からこの半年間、精神的な負荷が相当なものであったことを考えると、玉蘭の不調は精神的なものが起因している可能性も大いにある。
いつ、どうなれば懐妊が確定するのか、その知識もない。
「まだ黙っておいたほうがいいわね」
「そうする」
玉蘭が頷くと、揚揚は満足げに口角を上げた。
もしかしたら、玉蘭も帝の子を身籠ったかもしれない――それを知っているのは揚揚だけだ。
皓月からは、不調が長引くようなら侍医に診せると言い渡されている。
揚揚はいつ頃から、どんな段取りを経て懐妊発表に至ったのだろうか。
これまで見事に隠しおおせた秘訣も聞いておきたい玉蘭は、ちょうどいい機会だと思ってその話を切り出そうとした。
「あのね……」
しかしここで、揚揚がおもむろに立ち上がった。
「そろそろお暇するわ。ゆっくり休んでね」
体調を気遣ってくれているのかもしれないと思うと、引き留めるわけにもいかない。
玉蘭はまたの機会にしようとあきらめて、むしろ揚揚の気遣いに感謝する。
「ありがとう」
「あ、そうそう。このお香は、気持ちを落ち着ける効果があるのよ。わたしも気分がすぐれない時に使っていたの。試してみてね」
揚揚が、菓子を包んでいた布からお香を取り出した。
これも彼女の実家から送られてきた物なのだろう。
「ありがとう。さっそく使ってみるわね」
その夜、揚揚からもらったお香を寝台のそばで焚いて、玉蘭は眠りについた。
玉蘭は夢を見た。
皓月がはじめて玉蘭の宮を訪れた日の記憶だ。
あれは入内から三日後の夜のことだった。
お渡りがあると聞いて秋香がきれいに着飾らせてくれたものの、玉蘭はどうしていいかわからないまま緊張していた。
気持ちを落ち着けるため紗窓ごしにぼんやり見える月を眺めていると、皇帝が静かに入ってきた。
(こんなに美しい男性に会ったことなんてない……)
ひと目でその凛々しく美しい姿に、心を奪われた瞬間だった。
恋の経験すらない玉蘭は、ときめいてしまった自分に戸惑いながらドキドキうるさい胸を押さえて頭を下げる。
「なにを見ていた」
問われて顔を上げると、すぐ近くに皇帝の整った顔があった。
「月を……見ておりました」
目を逸らせないままうわごとのように告げると、彼の形のいい唇が弧を描いた。
この夜、玉蘭は皇帝の名が「皓月」であることを本人から教えてもらった。
それから連日、皓月は玉蘭のもとを訪れて一緒に月を眺めながら語らうようになった。
最初はただの話し相手だったのだ。
「まずは話をしたい」
そう提案したのは皓月のほうだった。
緊張がほぐれてくると、玉蘭は自分の生い立ちや村での暮らしを語った。
「こう見えてわたし、弓の心得がありまして狩りが得意なんです。乗馬も好きですよ」
玉蘭が胸を張れば、皓月が甘く微笑む。
「そうか。では秋にはともに狩場へ行こう」
「わたしたちは、後宮から出られないのですよね?」
後宮に入った巫女は、一生この壁の内側で暮らすと聞いている。
「私の許可があれば大丈夫だ。それとも、衛兵にでも化けて出るか?」
いたずらっぽく笑う皓月を見て、こんな冗談も言うのだと玉蘭は目を丸くした。
玉蓮の反応を見た皓月が声を立てて笑う。
こうして皓月は、少しずつ玉蘭に歩み寄ってくれたのだ。
そして玉蘭のもとへ通うようになって五度目の夜。
ふたりは肩を寄せ合って月を見ていた。
「月には薬草を煎じる兎がいるという話は、本当でしょうか?」
「神話だが、信じるのも悪くはない。それを言うなら竜とて神話だ」
皓月が桂花酒の盃を傾けた。
くつろいだ様子の皓月が問うてくる。
「玉蘭は、竜を信じるか?」
「もちろんです!」
身を乗り出して前のめりに言うと、皓月はうれしそうに笑って盃を飲み干した。
こくっと上下する喉ぼとけに目を奪われていた玉蘭の顎を、皓月の長い指がすくう。
「この国をともに支えてほしい」
美しい顔が近づいてきて、玉蘭は瞼を閉じた。
はじめての口づけは、金木犀の香りがした――。
皓月と心を通わせた大事な思い出に触れた玉蘭は、とても幸せな気持ちで眠っていた。
それが一転、まるで墨汁をぶちまけたかのように夢の中が黒い世界に染まってゆく。
手を伸ばしても先ほどまで隣にいた皓月の姿もなく、真っ暗闇に包まれた。
(夢なら目を覚ませばいいだけよ)
玉蘭はどうにか意識を浮上させようとしたが、うまくいかない。
手足も動かせないし声も出ない。
焦れば焦るほど暗闇が重くのしかかってくるような感覚がして、どんどん息苦しくなってきた。
(どうしよう。早く目を覚まさないと……!)
息も絶え絶えになろうとした玉蘭だったが、ここで不意に下腹部が熱を帯びはじめた。
その熱が徐々に全身に広がり、暗闇に一筋の光明が差す。
「こっちだよ」
誰の声だろう。幼い子どものように舌足らずで甲高い声だ。
不意に体が動くようになった玉蘭は、必死に光に手を伸ばした。
どこかで女性の悲鳴が聞こえた。ガシャーン!と派手になにかが割れるような音も聞こえる。
ハッと目を覚ました玉蘭は、弾かれたように寝台から体を起こした。
汗をびっしょりかいていて、薄手の寝袍が背中に張り付いている。
(よかった……戻ってこられた)
外はまだ暗い。
「なんだったのかしら……」
ただの悪い夢だったと思えばいいのだろうか。
荒い息を整えて寝台の横に視線を走らせると、揚揚にもらったお香を焚いていた受け皿が割れていた。
さらに不可解なことに、お香の灰が残っていない。
うすら寒いものを感じて秋香を呼ぼうかと迷う玉蘭の耳に、外の喧騒が聞こえてきた。
バタバタと駆け回る足音。大声でなにか叫んでいる人。
後宮は真夜中でも働いている人たちがいると噂には聞いているけれど、それにしても賑やかすぎる。
火事でもあったのだろうか。
玉蓮は寝台から立ち上がり紗窓の外を眺めたが、この位置からはなにも見えない。
汗は引いたが、お腹にだけはまだじんわりと熱が残っている。
玉蘭はそっとそこに手を当てた。
先ほどの夢がなにを暗示していたのかはわからない。しかし、ひとつだけ確信した。
ここに皓月の子を宿しているにちがいない、この子が守ってくれたのだと。
外の騒ぎがなかなか収まらないため、やはり秋香を呼ぼうと思った時だった。
複数の足音が聞こえ不躾に扉が開けられたと思ったら、芳夫人が宦官たちを従えて入ってきた。
「玉蘭、呪いを用いた殺人未遂の嫌疑であなたを拘束します」
怒りに燃える目でこちらを睨む芳夫人を前に、玉蘭は茫然と立ち尽くしたのだった。
と同時に昨日、「まだ黙っておいたほうがいい」と言った彼女の緊張した声が耳の奥にこだまする。
「揚揚もそうだったのね……」
だからあの時、自分にもそう助言してくれたのだと玉蘭は納得した。
豪商の娘とはいえ貴族ではない。
いつもよく笑っている彼女だが、その笑顔の裏には様々な葛藤があったのだろう。
円卓に桃が置かれているのが目に留まった。
玉蘭が眠っている間に、また皓月が差し入れてくれたのだろう。
皓月は揚揚の懐妊を内々に知っていたのだろうか。この桃も、揚揚に届けた余りものだったのかもしれない。
なぜか気持ちが沈んでいく。
皓月は、さっそく揚揚の宮を訪れているという。
特別扱いされているかもしれないと思ったのは勘違いだった。
胸に渦巻くこの感情の正体だって理解している。
(どうしてわたしは、こんなにも嫉妬深いんだろう)
玉蘭と同等に、いやそれ以上に皓月に大事にされている話を、揚揚から直接聞いてきたではないか。
貴族ではない揚揚が懐妊を隠し、悪阻での体調の悪さも隠しながら普段通りに振る舞ってきたことを見習わなければならない。
次に顔を合わせた時は、笑顔でおめでとうと言おう――玉蘭はそう誓った。
「贈り物をしなくてはならないわね」
気持ちを切り替えた玉蘭は、なにがいいだろうかと思案した。
実家からの援助がなくとも、巫女たちには品位を保つための予算が与えられている。
花や食べ物は、まだ匂いがだめかもしれない。
「蓮の刺繍の入った絹布がいいかしら」
蓮は繁栄の象徴だ。懐妊祝いにちょうどいいだろう。
「いいですね! さっそく手配いたします」
秋香も両手をポンと合わせて賛成してくれた。
毎朝玉蘭がやっていた水汲みは、皓月の指示通り輪番制になった。しかも、どの巫女もおつきの女官にやらせている。
芳夫人は不満を漏らしているようだが、その態度を大っぴらに表明すれば次こそは首が飛ぶとわかっている様子だ。
もとはといえば、自分のままならない体調が招いたことだと思っている玉蘭は、水汲みを休む代わりに舞の練習に励むようになった。
「得意な水汲みを引き受けるから、舞は不得手なままでいいと思っていたのは奢りだったわ」
そう反省して、体調のいい日には宮の中で秋香と見様見真似でうまく踊れるよう研鑽を重ねている。
そんなある日、揚揚が玉蘭の宮を訪ねてきた。
「麗凛ったら、懐妊祝いに大輪の梔子の花を贈ってきたのよ?」
梔子は神聖な美しさを象徴する花だから、懐妊祝いとして贈ったとしても表向きは作法にのっとっている。
しかし問題は、その香りだ。
玉蘭は、梔子の甘ったるい濃厚な香りを思い浮かべただけで、えずきそうになって慌てて深呼吸した。
「嫌がらせってことね?」
玉蘭の言葉に唇を尖らせて頷く揚揚は、顔色が良く元気そうだ。
もともと悪阻が軽い体質なのかもしれない。
麗凛は貴族出身の巫女のひとり。
高位貴族の娘で、いつも豪華な衣と装飾品で着飾っている。
竜気は「治癒」、それもかなり強力なようで、すでに正妃のような振る舞いをすることもある。
揚揚と玉蘭のことなど、まるで視界に入っていないかのように無視をきめこむため、ふたりも麗凛には近寄らないようにしてきた。
そんな麗凛でも、懐妊したとあらば無視しつづけるわけにもいかなかったのだろう。
「贈ってきただけマシだと思って許すことにしたけどね」
そう言いながら寒天を頬張る揚揚の顔には、一番乗りで皇帝の子を身籠った自信と余裕が窺える。
(わたしも皓月様の子を身籠っているとしたら、揚揚のように強くあらねばいけないわ)
揚揚が女官に作らせたという寒天が、よく冷えていて美味しい。
玉蘭も胸に宿った新たな決意を笑顔で隠しながら、寒天を食べた。
「玉蘭の調子はどう?」
「まだ不調が続いているの」
月のものも遅れたままだ。
ただ入内からこの半年間、精神的な負荷が相当なものであったことを考えると、玉蘭の不調は精神的なものが起因している可能性も大いにある。
いつ、どうなれば懐妊が確定するのか、その知識もない。
「まだ黙っておいたほうがいいわね」
「そうする」
玉蘭が頷くと、揚揚は満足げに口角を上げた。
もしかしたら、玉蘭も帝の子を身籠ったかもしれない――それを知っているのは揚揚だけだ。
皓月からは、不調が長引くようなら侍医に診せると言い渡されている。
揚揚はいつ頃から、どんな段取りを経て懐妊発表に至ったのだろうか。
これまで見事に隠しおおせた秘訣も聞いておきたい玉蘭は、ちょうどいい機会だと思ってその話を切り出そうとした。
「あのね……」
しかしここで、揚揚がおもむろに立ち上がった。
「そろそろお暇するわ。ゆっくり休んでね」
体調を気遣ってくれているのかもしれないと思うと、引き留めるわけにもいかない。
玉蘭はまたの機会にしようとあきらめて、むしろ揚揚の気遣いに感謝する。
「ありがとう」
「あ、そうそう。このお香は、気持ちを落ち着ける効果があるのよ。わたしも気分がすぐれない時に使っていたの。試してみてね」
揚揚が、菓子を包んでいた布からお香を取り出した。
これも彼女の実家から送られてきた物なのだろう。
「ありがとう。さっそく使ってみるわね」
その夜、揚揚からもらったお香を寝台のそばで焚いて、玉蘭は眠りについた。
玉蘭は夢を見た。
皓月がはじめて玉蘭の宮を訪れた日の記憶だ。
あれは入内から三日後の夜のことだった。
お渡りがあると聞いて秋香がきれいに着飾らせてくれたものの、玉蘭はどうしていいかわからないまま緊張していた。
気持ちを落ち着けるため紗窓ごしにぼんやり見える月を眺めていると、皇帝が静かに入ってきた。
(こんなに美しい男性に会ったことなんてない……)
ひと目でその凛々しく美しい姿に、心を奪われた瞬間だった。
恋の経験すらない玉蘭は、ときめいてしまった自分に戸惑いながらドキドキうるさい胸を押さえて頭を下げる。
「なにを見ていた」
問われて顔を上げると、すぐ近くに皇帝の整った顔があった。
「月を……見ておりました」
目を逸らせないままうわごとのように告げると、彼の形のいい唇が弧を描いた。
この夜、玉蘭は皇帝の名が「皓月」であることを本人から教えてもらった。
それから連日、皓月は玉蘭のもとを訪れて一緒に月を眺めながら語らうようになった。
最初はただの話し相手だったのだ。
「まずは話をしたい」
そう提案したのは皓月のほうだった。
緊張がほぐれてくると、玉蘭は自分の生い立ちや村での暮らしを語った。
「こう見えてわたし、弓の心得がありまして狩りが得意なんです。乗馬も好きですよ」
玉蘭が胸を張れば、皓月が甘く微笑む。
「そうか。では秋にはともに狩場へ行こう」
「わたしたちは、後宮から出られないのですよね?」
後宮に入った巫女は、一生この壁の内側で暮らすと聞いている。
「私の許可があれば大丈夫だ。それとも、衛兵にでも化けて出るか?」
いたずらっぽく笑う皓月を見て、こんな冗談も言うのだと玉蘭は目を丸くした。
玉蓮の反応を見た皓月が声を立てて笑う。
こうして皓月は、少しずつ玉蘭に歩み寄ってくれたのだ。
そして玉蘭のもとへ通うようになって五度目の夜。
ふたりは肩を寄せ合って月を見ていた。
「月には薬草を煎じる兎がいるという話は、本当でしょうか?」
「神話だが、信じるのも悪くはない。それを言うなら竜とて神話だ」
皓月が桂花酒の盃を傾けた。
くつろいだ様子の皓月が問うてくる。
「玉蘭は、竜を信じるか?」
「もちろんです!」
身を乗り出して前のめりに言うと、皓月はうれしそうに笑って盃を飲み干した。
こくっと上下する喉ぼとけに目を奪われていた玉蘭の顎を、皓月の長い指がすくう。
「この国をともに支えてほしい」
美しい顔が近づいてきて、玉蘭は瞼を閉じた。
はじめての口づけは、金木犀の香りがした――。
皓月と心を通わせた大事な思い出に触れた玉蘭は、とても幸せな気持ちで眠っていた。
それが一転、まるで墨汁をぶちまけたかのように夢の中が黒い世界に染まってゆく。
手を伸ばしても先ほどまで隣にいた皓月の姿もなく、真っ暗闇に包まれた。
(夢なら目を覚ませばいいだけよ)
玉蘭はどうにか意識を浮上させようとしたが、うまくいかない。
手足も動かせないし声も出ない。
焦れば焦るほど暗闇が重くのしかかってくるような感覚がして、どんどん息苦しくなってきた。
(どうしよう。早く目を覚まさないと……!)
息も絶え絶えになろうとした玉蘭だったが、ここで不意に下腹部が熱を帯びはじめた。
その熱が徐々に全身に広がり、暗闇に一筋の光明が差す。
「こっちだよ」
誰の声だろう。幼い子どものように舌足らずで甲高い声だ。
不意に体が動くようになった玉蘭は、必死に光に手を伸ばした。
どこかで女性の悲鳴が聞こえた。ガシャーン!と派手になにかが割れるような音も聞こえる。
ハッと目を覚ました玉蘭は、弾かれたように寝台から体を起こした。
汗をびっしょりかいていて、薄手の寝袍が背中に張り付いている。
(よかった……戻ってこられた)
外はまだ暗い。
「なんだったのかしら……」
ただの悪い夢だったと思えばいいのだろうか。
荒い息を整えて寝台の横に視線を走らせると、揚揚にもらったお香を焚いていた受け皿が割れていた。
さらに不可解なことに、お香の灰が残っていない。
うすら寒いものを感じて秋香を呼ぼうかと迷う玉蘭の耳に、外の喧騒が聞こえてきた。
バタバタと駆け回る足音。大声でなにか叫んでいる人。
後宮は真夜中でも働いている人たちがいると噂には聞いているけれど、それにしても賑やかすぎる。
火事でもあったのだろうか。
玉蓮は寝台から立ち上がり紗窓の外を眺めたが、この位置からはなにも見えない。
汗は引いたが、お腹にだけはまだじんわりと熱が残っている。
玉蘭はそっとそこに手を当てた。
先ほどの夢がなにを暗示していたのかはわからない。しかし、ひとつだけ確信した。
ここに皓月の子を宿しているにちがいない、この子が守ってくれたのだと。
外の騒ぎがなかなか収まらないため、やはり秋香を呼ぼうと思った時だった。
複数の足音が聞こえ不躾に扉が開けられたと思ったら、芳夫人が宦官たちを従えて入ってきた。
「玉蘭、呪いを用いた殺人未遂の嫌疑であなたを拘束します」
怒りに燃える目でこちらを睨む芳夫人を前に、玉蘭は茫然と立ち尽くしたのだった。
