翌朝。
 玉蘭の胃のむかつきはまだおさまらない……どころか、ますます悪化していた。
 それでもお清めの水汲みにいかねばと、重い体をどうにか持ち上げる。
「早く行かないと……」
 玉蘭は肩で大きく息をして、秋香の手を借りながらどうにか足を進めた。
「玉蘭様、今日はわたしが代わりに水汲みをしましょうか?」
 芳夫人から、竜気を高めるためには本人がやらなければ意味がないと言われている。
「大丈夫よ、わたしがやるわ」
 玉蘭の顔には血の気がなく、声も弱弱しい。

 井戸に到着すると、秋香が率先してつるべの縄を引いて水を汲み上げた。
 そこで鋭い声が上がった。
「なにをしているんです!」
 芳夫人だ。眉を吊り上げて険しい顔で近づいてくる。
「女官にやらせるだなんて、どういうつもりですか」
 玉蘭を叱責する芳夫人を秋香が止める。
「おやめください。玉蘭様は体調がすぐれないのです」
 しかしこれが逆効果だった。
 芳夫人はますます眉を吊り上げて激高し、玉蘭を責め立てた。
「体調管理もできないなんて、巫女失格ですわね。あなたはどこまで後宮を愚弄するつもりかしら!」
 玉蘭は、いま口を開いたら吐いてしまいそうだと思いながら袖で口元を覆った。
 それがさらに芳夫人の気に障ったらしく、金切声の叱責が続く。
 ついに玉蘭は、酷くなった眩暈に耐え切れずその場に頽れた。
 
 巫女たちの教育は、芳夫人が一手に引き受けている状態だ。
 彼女は先代皇帝の子を産むことはなかったものの、貴族出身で竜気も高く重用されていたのだと事あるごとに自慢している。
「私には竜眼があります。ですから、あなたたちの未来も知っているのですよ」
 竜と皇帝、巫女の関係を教わる座学で、彼女はそんな予言めいたことまでまことしやかに言うのだ。

 巫女の持つ竜気は多岐にわたり、その強弱によって効果も様々だ。
 芳夫人の言う「竜眼」は、皇帝にまつわる過去や未来、夢見でのお告げを賜ることのできる能力。
 ほかには、巫女の竜気を帝に渡す「竜気変換」や、帝の体力を回復させたり傷を癒したりする「治癒」の能力などがある。
 
 玉蘭の場合は、竜気が弱すぎてどの能力を持っているのか判別が不可能だと言われた。
 さらには平民であることも相まって、貴族出身の芳夫人から毛嫌いされている。
 しかし揚揚は、芳夫人は嘘つきだと言う。
『巫女の力は、仕えている帝に対してのみ有効なの。先代様はもう身罷っていらっしゃるんだから、わたしたちの未来がわかるはずないじゃない』
 さらに揚揚から聞いた情報によれば、芳夫人の竜気は中の下程度らしい。
 揚揚はなにかと情報通だ。
『竜眼持ちは珍しいから、本来は重用されるんだけどね。運の悪いことに皇太后様も竜眼持ちなのよ。しかも強力な。世が世なら自分が正妃になれていたのにって思ってるんでしょうね』
 皇太后様とは、先代皇帝陛下の正妃であり、皓月の母親だ。
 いまは皓月とともに政務をこなしているという。
 玉蘭は入内の際に御簾越しに挨拶を交わしただけで、直接の面識はない。

 実質、いまの後宮は芳夫人の独壇場といっても過言ではない。
「そんなわざとらしい仮病を使ってまで水汲みが嫌なら、こちらも考えがあります」
「玉蘭様は本当に具合が悪いのです。ここまで来るのだって、とてもお辛そうで……」
「口を慎みなさい!」
 パチンと乾いた音が響いた。
 口答えをする秋香の頬を芳夫人が平手で叩いたのだ。
 
 玉蘭は慌てて立ち上がり、秋香の肩を引き寄せた。
「なんてことを……!」
 玉蘭が抗議するも、女官に手を上げたことを芳夫人はなんとも思っていない様子だ。
 むしろ、やれやれと言わんばかりの顔をされる。

「水をかぶれば目が覚めるのではないかしら?」
「あっ!」
 意地悪く笑った芳夫人が、秋香から水の入った木桶をひったくる。
 玉蘭は咄嗟に秋香を守るように抱き込み、水をかぶる覚悟をして目を瞑った。
 バシャッと水の音がするのと、玉蘭の前に大きな影が立ちはだかったのは同時だった。

「ひ……っ!」
 芳夫人が驚いて空になった木桶を落とした。
 彼女の目の前には、水をかぶった皓月が立っている。
 上等な絹織りの衣に水のシミが広がっていくのを見て、さすがの芳夫人も(こうべ)を垂れた。
「失礼いたしました」

「気が済んだか。依り代ではなく帝自らが水をかぶったのだ、今朝の水汲みの儀はこれで終了だ」
 冷ややかに言われて、芳夫人の顔が気色ばむ。
「恐れながら申し上げます。これは巫女教育の一環でございます。水汲みが嫌だからと仮病を使い女官にやらせるなど、後宮を愚弄する行為です」
 抗議のこもった強い語気で言い返す芳夫人に、皓月がすうっと目を細める。
「帝本人が水をかぶったのだからよいと、この場を収めてやろうとしたのに納得せぬとはな。では問おう。私に水をかけた無礼な行為の責任を、おまえはどう取るつもりだ?」
 芳夫人はハッと息を呑んで口を噤んだ。
 いくら先代の巫女とはいえ現皇帝に水をかけたのだ、本来ならば「失礼いたしました」の謝罪だけで済まされるはずがない。
 
「これ以上、己の立場を理解せぬようなら次はない」
 勘違いするなと芳夫人に釘を刺した皓月が、濡れた衣を脱ぎ捨てて玉蘭を抱き上げた。
 皓月に横抱きにされた驚きのあまり、玉蘭は声も出ない。
 そのまま宮へ戻ろうとした皓月が、なにかを思い出したように不意に足を止めて振り返った。
「母上に確認したところ、先代の巫女たちは水汲みを女官に任せていたというではないか。明日からはそうするがよい」
「承知いたしました」
 芳夫人は拳を震わせながらも頷いた。
 
「見舞いに訪れたら、水汲みに行ったと言われて追いかけた。無理をするな。顔色が悪い」
「申し訳ございません……」
 血の気を失った酷い顔を見られてしまった恥ずかしさと、(べに)ぐらい塗っておくべきだったと己の至らなさへの後悔が募る。
 下ろしてほしいとお願いしても、皓月は聞く耳を持たず軽々と玉蘭を運んでいく。
「頬が赤い。早く冷やせ」
 と、芳夫人に叩かれた秋月への配慮も欠かさない。
 玉蘭は、胸がじんわりと温かくなるのを感じながら身を任せた。

 優しく丁寧に玉蘭を寝台に寝かせた皓月は、彼女の額や頬に手を当てる。
「少し熱いな」
「暑気あたりのようです。ゆっくり休めば大丈夫です」
 心配そうに眉根を寄せる皓月を安心させようと、玉蘭は口角を上げて微笑んだ。
 横抱きにされた驚きと気恥ずかしさが勝ったのか、不思議と眩暈が引いている。
 温かい大きな手に安心して、玉蘭は目を閉じるとすぐに眠りに落ちていった。
 
 目を覚ますと、すでに昼を回っていた。
 朝、あれほど悪かった気分もすっきりしている。

「どうしたのかしら……」
 後宮がなにか浮足立っているような、そんな気配を感じて玉蘭が寝台から体を起こした時だった。

「玉蘭様、起きていらしたのですね」
 バタバタと騒がしい足音が聞こえたと思ったら、秋香が入ってきた。
 火急の知らせでもあるのだろうかと、玉蘭が小首を傾げる。

「揚揚様がご懐妊です!」
 紅潮した顔で告げる秋香を、大きな目を見開いて見つめる玉蘭がいた。