燿華国は山水世界の中にある。
四方を切り立った岩山と渓谷、天高く青々と伸びる竹に囲まれた小国だ。
国の中心には、白大理石の城壁に抱かれた後宮がある。
部外者は一歩たりとも近づけず、後宮入りした女性たちは生涯そこから出られない。
後宮は、古より竜の血を継ぐ皇帝の妃候補が住まう場所。
彼女たちは、巫女選定と呼ばれる儀式で各地から選ばれた者たちだ。
巫女としての資質だけでなく容姿や才覚も競わされ、皇帝に寵愛された者だけが妃の座と世継ぎを宿す栄誉を得る。
その妃候補の中に、片田舎で生まれ育った元平民がいた。
名を玉蘭という。
南方の農村で、年頃の娘たちが集められて行われた巫女選定の儀で資質があると認められたのだ。
水晶玉が赤く光るのがその証。
玉蘭の順番がやってきて手をかざすと、水晶玉の中に淡い赤が灯った。
「……光ったのか?」
審査役の声にざわめきが広がる。
巫女の資質を持つ者は水晶玉を強く光らせるのが通例で、こんな淡い光はほとんど前例がないという。
しかし形式上、赤く光れば合格だ。
こうして、あれよあれよという間に玉蘭の入内が決まった。
「胸を張って、しっかりお務めを果たしてきなさい」
両親はそう言って送り出してくれたけれど、玉蘭には戸惑いしかない。
齢十八にして初めて都を訪れたものの、見物すら許されぬまま後宮入りを果たした。
「なにかの間違いだったのではないかと思っているの」
玉蘭は専属の女官・秋香に、よくぽつりと漏らす。
巫女の資質さえあれば貴賎は問わない――そう聞かされていたが、それが表向きの話であることに後宮入りしてから気づいた玉蘭だった。
政治的な後ろ盾がなにもない平民、おまけに巫女の資質まで最下位で、誰からも数合わせとしか見られていない。
ただひとり、皇帝・皓月を除いて。
「そんなことはございません。現に、皇帝陛下の寵愛を一身に受けておられるではありませんか」
弱音を吐く玉蘭を秋香が優しく励ます。
ほかの巫女たちは実家から専属の女官を数名連れて入内したようだ。しかし玉蘭は平民のため、後宮の管理部からあてがわれた秋香のみが仕えている。
年齢は十四だという。
年齢の近い女官をという配慮なのか、それとも経験の浅い若い女官ひとりでいいと軽んじられているのかは不明だが、玉蘭は秋香の元気のよさをありがたく感じている。
「ほかの巫女へのお渡りはもっと短時間で、回数も少ないのですよ? 自信をもってください」
自分が仕えている巫女が帝から寵愛されることが、女官たちにとってはなによりの名誉らしい。
そう。それこそが、なにかの間違いだと思っている玉蘭だ。
後宮入りした数日後にあった初の渡り以降、皓月は頻繁に玉蘭の暮らす宮を訪れ一夜を共にする。
「ふたりきりの時は、皓月と呼べ」
閨で甘く囁く皓月は、痩身でありながらしなやかな筋肉を纏う若き皇帝だ。
燃えるような赤い髪と眉目秀麗な整った顔立ちは、まさに竜神の化身を思わせる。
こんなにも高貴で美しい男性が、なぜ巫女の資質が低い自分をこんなにも大切にしてくれるのか、玉蘭にはそれがさっぱりわからない。
それでも皓月の寵愛は心地が良くて困ってしまう。
玉蘭の外見は、黒目がちで大きな目と艶やかな髪が印象的で、高価な衣を纏えば見てくれだけは一人前の巫女のようではある。
しかし、巫女はその竜気で皇帝を公私にわたり支える存在だ。
いま後宮にいる五人の巫女のうち、玉蘭はその竜気が最も少ない。
もともと文字の読み書きすらおぼつかない状態だった玉蘭は、この半年間必死に文字や後宮の作法を勉強してきた。それでもまだほかの巫女たちの足元にも及ばないレベルだ。
だから、皓月から愛されることでほかの巫女たちからやっかまれるのも当然だとさえ思っている。
御簾の隙間から朝陽が差す。
まどろみの中にいた玉蘭は、その明るさでハッと目を覚ました。
「大変。寝坊してしまったわ!」
慌てて寝台から身を起こして立ち上がろうとした玉蘭の腰を、長い腕が引き寄せた。
「……まだ寝ていろ」
褥をともにした皓月だ。
「そのようなわけにはいきません。朝のお清めを行わないと……」
「私がここに居るのにか?」
どこにも隙のない完璧な現人神のように思われている皓月だが、実は朝はめっぽう弱い。
おまけに、なにやら拗ねている。
(こんなにも可愛らしい一面を、この方はほかの巫女たちにも見せているのかしら……?)
玉蘭は腰に回された大きな手を宥めるように撫で、やんわりと解いて立ち上がる。
早く井戸へ向かわねば、教育係の女官からなにを言われるかわかったものではない。
手櫛で髪を整えた玉蘭は、後宮の東にある井戸へと急いだ。
幸いなことに、口うるさい教育係はまだ来ていないらしい。
「よかった。間に合ったかしら」
木桶に井戸の水を汲むと、取っ手を持ち上げる。
朝のお清めは、東の井戸に朝陽が当たっているうちに水を汲み、その水で竜を清める儀式だ。
しかし、竜の末裔である皇帝に毎朝水をぶっかけるわけにもいかない。
その代わりとして、中央の庭にある翡翠で竜を象ったご神体まで木桶で水を運び、丁寧に水をかけて清める慣わしとなっている。
『私がここに居るのにか?』
先ほど囁かれた言葉が、玉蘭の脳裏によみがえった。
皇帝本人を置いて依り代のもとへ駆けつけるとは、たしかに滑稽だ。
本来ならばこの儀式は、巫女たちの持ち回りで行うのが通例のようなのだが――。
『竜気の弱いおまえがやりなさい』
と、教育係の芳夫人に言われてしまったのだ。
竜気を養うのが目的と聞いているが、この半年間で実際に竜気が増したのか、水晶での確認はさせてもらえていない。
しかし反論は許されない。
後宮の教育係となる年配の夫人たちは、先代皇帝の元巫女だ。
大先輩たちに口答えなど許されるはずもない。
それに、水汲みは生まれ育った村でも毎日やっていたことだ。
ほかの巫女たちにとっては力仕事など未経験であっても、玉蘭はまったく苦にならない。
なんなら、水のたっぷり入った木桶を両手にひとつずつ持って運ぶことだってできる。
玉蘭はむしろ、公の行事で竜を称える舞を優雅に踊ることのほうが苦痛だ。
山野を駆け回って育った彼女には「たおやかな手の動き」だの「艶っぽい流し目」だのといった動きのほうがよくわからない。
翡翠の像の台座まで水を運んだ玉蘭が、取っ手をグイッと持ち上げた時だった。
「ひゃっ!」
驚いたことに取っ手が折れて水がすべてこぼれ、玉蘭の衣を濡らした。
石畳に転がった木桶と、まだ手に握ったままになっている取っ手と、交互に視線を走らせる。
老朽化した木桶には見えない。
ということは――玉蘭は、なにか陰謀めいたものを感じて取っ手をじっと見つめる。
「遅れた罰が当たったようですね」
背後から勝ち誇ったような声が聞こえて、玉蘭は弾かれたように振り返った。
庭を囲む回廊に芳夫人が立ち、口角をにんまりと上げてこちらを見ている。
桶に細工をしたのはあなたかと問いただしたくなる衝動を、拳を強く握ることでどうにか鎮めた。
芳夫人に文句を言っても、いいことはひとつもない。
玉蘭は小走りに井戸へと急いだ。
濡れた長裙が足にまとわりついて動きにくいが、そんなことを気にしている場合ではない。
もたもたしていたら朝陽が当たらなくなってしまう。
玉蘭が井戸に戻ると、そこに巫女のひとり、揚揚がいた。
手に木桶を持っている。
「散歩中に派手な音がしたから庭を見たら、玉蘭が水をかぶっているのが見えたの」
「ありがとう」
玉蘭は笑顔で木桶を受け取った。再び井戸の水を汲んで、木桶を持ち上げる。
五人いる巫女の中で、揚揚とだけは気さくにおしゃべりできる仲だ。
こうして助けてもらえるのも、とてもありがたく思っている。
「ごめんね。手伝っているのがバレると後が怖いから……」
揚揚の言葉が尻すぼみになる。
玉蘭の手助けをしたことが露見すれば、揚揚まで虐めの対象になってしまう。
「いいのよ、わかっているから。ありがとう」
玉蘭は笑顔で手を振って、足早に庭へと向かったのだった。
その日の午後。
玉蘭は揚揚を招いてお茶を飲んでいた。
「朝は災難だったわね」
「仕方ないわ、わたしが寝坊したのがいけなかったんだもの」
この後宮において、玉蘭が心の内を話せるのは秋香と揚揚だけだ。
揚揚は豪商の娘で、玉蘭よりも三カ月早く入内した。年齢は同じ十八歳。
ほかの三人の巫女たちはみな貴族の娘で、揚揚よりもさらに三カ月早く入内したと聞いている。
巫女選定の儀は、身分の高い者から順に行われる。だから、田舎の農村出身の玉蘭は一番最後になったのだ。
選定はまだ続いているため、これからも巫女が増える可能性がある。
作法もなにもわからないまま後宮へやってきた玉蘭に、気さくに声をかけてあれこれ教えてくれたのが揚揚だった。
「昨日はお渡りがあったんでしょう?」
揚揚の問いに玉蘭は頬を赤らめながら頷いた。
「愛されてるわねえ」
揚揚がにんまり笑って首を傾げると、赤い簪が揺れた。
人懐っこい丸顔によく似合っている。
「その簪、初めて見るわ。素敵ね。ご実家から?」
豪商の娘なだけあって、揚揚のもとには実家から定期的に装飾品やお菓子が届く。
しかし、簪は実家から届けられたものではなかったようだ。
「ええっと……これは」
簪に指をあてながら揚揚が口ごもる。
ここでようやく玉蘭もピンときた。
「もしかして、陛下から!?」
今度は揚揚がうれしそうに微笑んで頷いた。
「揚揚こそ陛下に愛されているじゃないの」
笑いながらも、玉蘭の胸がツキンと痛む。
(皓月様はやっぱり、平等にわたしたちを扱っていらっしゃるのだわ)
そうでなければ、竜気の薄い自分のもとへなど足しげく通ってくるはずがない。
朝から水汲みでバタバタしたせいか、どうも今日は食欲がない玉蘭だった。
揚揚が差し入れてくれた青団子も、妙に香りを強く感じて食べにくい。
「どうかした?」
揚揚が窺うように問うてくる。
「もしかすると体調が悪いのかもしれないわ。胸がむかむかする感じがして……」
玉蘭はそう言いながら、もしや……と気づいた。
そういえば月のものが遅れているし、どこか熱っぽい。
揚揚も気づいた様子だった。
「ねえ、もしかして……?」
「そうかもしれない」
動揺のあまり、玉蘭の声が震える。
頻繁に皓月とそういう行為をしているのだから、いつ懐妊したっておかしくはない。
しかし、後宮が新たな巫女たちを受け入れ始めて一年経つが、これまで懐妊した巫女はひとりもいなかった。
うまく考えがまとまらずに戸惑う玉蘭の白い手を、揚揚がそっと握る。
「まだ黙っておいたほうがいいわ」
潜めた声に緊張感がこめられている。
最下位の巫女が真っ先に帝の子を身籠ったとなれば、どうなるかわからない。
玉蘭も顔をこわばらせながら無言で頷いた。
夕方、今夜も皓月の渡りがあると聞いた玉蘭は、断りを入れるよう秋香に言づけた。
「体調がすぐれないの。暑気あたりかもしれないわ」
「まあ、それは大変です!」
玉蘭は、心配する秋香に本当のことを告げようかと迷ったが、まだ早いと決断した。
月のものが遅れていて胸がむかむかする――それだけで懐妊と決めつけるのは早計だ。
秋香は若さゆえか少々口が軽いため、その可能性があると話しただけで外部に漏らす恐れがある。
ほどなくして、秋香の元気な声が響いた。
「皇帝陛下からお見舞いの桃が届きましたよ!」
紅く色づいた立派な桃だ。
食欲がなかったはずなのに、桃のすっきりとした酸味と甘さがとても美味しくて全部食べられた。
玉蘭は、皓月の心遣いに感謝しながら眠りについた。
四方を切り立った岩山と渓谷、天高く青々と伸びる竹に囲まれた小国だ。
国の中心には、白大理石の城壁に抱かれた後宮がある。
部外者は一歩たりとも近づけず、後宮入りした女性たちは生涯そこから出られない。
後宮は、古より竜の血を継ぐ皇帝の妃候補が住まう場所。
彼女たちは、巫女選定と呼ばれる儀式で各地から選ばれた者たちだ。
巫女としての資質だけでなく容姿や才覚も競わされ、皇帝に寵愛された者だけが妃の座と世継ぎを宿す栄誉を得る。
その妃候補の中に、片田舎で生まれ育った元平民がいた。
名を玉蘭という。
南方の農村で、年頃の娘たちが集められて行われた巫女選定の儀で資質があると認められたのだ。
水晶玉が赤く光るのがその証。
玉蘭の順番がやってきて手をかざすと、水晶玉の中に淡い赤が灯った。
「……光ったのか?」
審査役の声にざわめきが広がる。
巫女の資質を持つ者は水晶玉を強く光らせるのが通例で、こんな淡い光はほとんど前例がないという。
しかし形式上、赤く光れば合格だ。
こうして、あれよあれよという間に玉蘭の入内が決まった。
「胸を張って、しっかりお務めを果たしてきなさい」
両親はそう言って送り出してくれたけれど、玉蘭には戸惑いしかない。
齢十八にして初めて都を訪れたものの、見物すら許されぬまま後宮入りを果たした。
「なにかの間違いだったのではないかと思っているの」
玉蘭は専属の女官・秋香に、よくぽつりと漏らす。
巫女の資質さえあれば貴賎は問わない――そう聞かされていたが、それが表向きの話であることに後宮入りしてから気づいた玉蘭だった。
政治的な後ろ盾がなにもない平民、おまけに巫女の資質まで最下位で、誰からも数合わせとしか見られていない。
ただひとり、皇帝・皓月を除いて。
「そんなことはございません。現に、皇帝陛下の寵愛を一身に受けておられるではありませんか」
弱音を吐く玉蘭を秋香が優しく励ます。
ほかの巫女たちは実家から専属の女官を数名連れて入内したようだ。しかし玉蘭は平民のため、後宮の管理部からあてがわれた秋香のみが仕えている。
年齢は十四だという。
年齢の近い女官をという配慮なのか、それとも経験の浅い若い女官ひとりでいいと軽んじられているのかは不明だが、玉蘭は秋香の元気のよさをありがたく感じている。
「ほかの巫女へのお渡りはもっと短時間で、回数も少ないのですよ? 自信をもってください」
自分が仕えている巫女が帝から寵愛されることが、女官たちにとってはなによりの名誉らしい。
そう。それこそが、なにかの間違いだと思っている玉蘭だ。
後宮入りした数日後にあった初の渡り以降、皓月は頻繁に玉蘭の暮らす宮を訪れ一夜を共にする。
「ふたりきりの時は、皓月と呼べ」
閨で甘く囁く皓月は、痩身でありながらしなやかな筋肉を纏う若き皇帝だ。
燃えるような赤い髪と眉目秀麗な整った顔立ちは、まさに竜神の化身を思わせる。
こんなにも高貴で美しい男性が、なぜ巫女の資質が低い自分をこんなにも大切にしてくれるのか、玉蘭にはそれがさっぱりわからない。
それでも皓月の寵愛は心地が良くて困ってしまう。
玉蘭の外見は、黒目がちで大きな目と艶やかな髪が印象的で、高価な衣を纏えば見てくれだけは一人前の巫女のようではある。
しかし、巫女はその竜気で皇帝を公私にわたり支える存在だ。
いま後宮にいる五人の巫女のうち、玉蘭はその竜気が最も少ない。
もともと文字の読み書きすらおぼつかない状態だった玉蘭は、この半年間必死に文字や後宮の作法を勉強してきた。それでもまだほかの巫女たちの足元にも及ばないレベルだ。
だから、皓月から愛されることでほかの巫女たちからやっかまれるのも当然だとさえ思っている。
御簾の隙間から朝陽が差す。
まどろみの中にいた玉蘭は、その明るさでハッと目を覚ました。
「大変。寝坊してしまったわ!」
慌てて寝台から身を起こして立ち上がろうとした玉蘭の腰を、長い腕が引き寄せた。
「……まだ寝ていろ」
褥をともにした皓月だ。
「そのようなわけにはいきません。朝のお清めを行わないと……」
「私がここに居るのにか?」
どこにも隙のない完璧な現人神のように思われている皓月だが、実は朝はめっぽう弱い。
おまけに、なにやら拗ねている。
(こんなにも可愛らしい一面を、この方はほかの巫女たちにも見せているのかしら……?)
玉蘭は腰に回された大きな手を宥めるように撫で、やんわりと解いて立ち上がる。
早く井戸へ向かわねば、教育係の女官からなにを言われるかわかったものではない。
手櫛で髪を整えた玉蘭は、後宮の東にある井戸へと急いだ。
幸いなことに、口うるさい教育係はまだ来ていないらしい。
「よかった。間に合ったかしら」
木桶に井戸の水を汲むと、取っ手を持ち上げる。
朝のお清めは、東の井戸に朝陽が当たっているうちに水を汲み、その水で竜を清める儀式だ。
しかし、竜の末裔である皇帝に毎朝水をぶっかけるわけにもいかない。
その代わりとして、中央の庭にある翡翠で竜を象ったご神体まで木桶で水を運び、丁寧に水をかけて清める慣わしとなっている。
『私がここに居るのにか?』
先ほど囁かれた言葉が、玉蘭の脳裏によみがえった。
皇帝本人を置いて依り代のもとへ駆けつけるとは、たしかに滑稽だ。
本来ならばこの儀式は、巫女たちの持ち回りで行うのが通例のようなのだが――。
『竜気の弱いおまえがやりなさい』
と、教育係の芳夫人に言われてしまったのだ。
竜気を養うのが目的と聞いているが、この半年間で実際に竜気が増したのか、水晶での確認はさせてもらえていない。
しかし反論は許されない。
後宮の教育係となる年配の夫人たちは、先代皇帝の元巫女だ。
大先輩たちに口答えなど許されるはずもない。
それに、水汲みは生まれ育った村でも毎日やっていたことだ。
ほかの巫女たちにとっては力仕事など未経験であっても、玉蘭はまったく苦にならない。
なんなら、水のたっぷり入った木桶を両手にひとつずつ持って運ぶことだってできる。
玉蘭はむしろ、公の行事で竜を称える舞を優雅に踊ることのほうが苦痛だ。
山野を駆け回って育った彼女には「たおやかな手の動き」だの「艶っぽい流し目」だのといった動きのほうがよくわからない。
翡翠の像の台座まで水を運んだ玉蘭が、取っ手をグイッと持ち上げた時だった。
「ひゃっ!」
驚いたことに取っ手が折れて水がすべてこぼれ、玉蘭の衣を濡らした。
石畳に転がった木桶と、まだ手に握ったままになっている取っ手と、交互に視線を走らせる。
老朽化した木桶には見えない。
ということは――玉蘭は、なにか陰謀めいたものを感じて取っ手をじっと見つめる。
「遅れた罰が当たったようですね」
背後から勝ち誇ったような声が聞こえて、玉蘭は弾かれたように振り返った。
庭を囲む回廊に芳夫人が立ち、口角をにんまりと上げてこちらを見ている。
桶に細工をしたのはあなたかと問いただしたくなる衝動を、拳を強く握ることでどうにか鎮めた。
芳夫人に文句を言っても、いいことはひとつもない。
玉蘭は小走りに井戸へと急いだ。
濡れた長裙が足にまとわりついて動きにくいが、そんなことを気にしている場合ではない。
もたもたしていたら朝陽が当たらなくなってしまう。
玉蘭が井戸に戻ると、そこに巫女のひとり、揚揚がいた。
手に木桶を持っている。
「散歩中に派手な音がしたから庭を見たら、玉蘭が水をかぶっているのが見えたの」
「ありがとう」
玉蘭は笑顔で木桶を受け取った。再び井戸の水を汲んで、木桶を持ち上げる。
五人いる巫女の中で、揚揚とだけは気さくにおしゃべりできる仲だ。
こうして助けてもらえるのも、とてもありがたく思っている。
「ごめんね。手伝っているのがバレると後が怖いから……」
揚揚の言葉が尻すぼみになる。
玉蘭の手助けをしたことが露見すれば、揚揚まで虐めの対象になってしまう。
「いいのよ、わかっているから。ありがとう」
玉蘭は笑顔で手を振って、足早に庭へと向かったのだった。
その日の午後。
玉蘭は揚揚を招いてお茶を飲んでいた。
「朝は災難だったわね」
「仕方ないわ、わたしが寝坊したのがいけなかったんだもの」
この後宮において、玉蘭が心の内を話せるのは秋香と揚揚だけだ。
揚揚は豪商の娘で、玉蘭よりも三カ月早く入内した。年齢は同じ十八歳。
ほかの三人の巫女たちはみな貴族の娘で、揚揚よりもさらに三カ月早く入内したと聞いている。
巫女選定の儀は、身分の高い者から順に行われる。だから、田舎の農村出身の玉蘭は一番最後になったのだ。
選定はまだ続いているため、これからも巫女が増える可能性がある。
作法もなにもわからないまま後宮へやってきた玉蘭に、気さくに声をかけてあれこれ教えてくれたのが揚揚だった。
「昨日はお渡りがあったんでしょう?」
揚揚の問いに玉蘭は頬を赤らめながら頷いた。
「愛されてるわねえ」
揚揚がにんまり笑って首を傾げると、赤い簪が揺れた。
人懐っこい丸顔によく似合っている。
「その簪、初めて見るわ。素敵ね。ご実家から?」
豪商の娘なだけあって、揚揚のもとには実家から定期的に装飾品やお菓子が届く。
しかし、簪は実家から届けられたものではなかったようだ。
「ええっと……これは」
簪に指をあてながら揚揚が口ごもる。
ここでようやく玉蘭もピンときた。
「もしかして、陛下から!?」
今度は揚揚がうれしそうに微笑んで頷いた。
「揚揚こそ陛下に愛されているじゃないの」
笑いながらも、玉蘭の胸がツキンと痛む。
(皓月様はやっぱり、平等にわたしたちを扱っていらっしゃるのだわ)
そうでなければ、竜気の薄い自分のもとへなど足しげく通ってくるはずがない。
朝から水汲みでバタバタしたせいか、どうも今日は食欲がない玉蘭だった。
揚揚が差し入れてくれた青団子も、妙に香りを強く感じて食べにくい。
「どうかした?」
揚揚が窺うように問うてくる。
「もしかすると体調が悪いのかもしれないわ。胸がむかむかする感じがして……」
玉蘭はそう言いながら、もしや……と気づいた。
そういえば月のものが遅れているし、どこか熱っぽい。
揚揚も気づいた様子だった。
「ねえ、もしかして……?」
「そうかもしれない」
動揺のあまり、玉蘭の声が震える。
頻繁に皓月とそういう行為をしているのだから、いつ懐妊したっておかしくはない。
しかし、後宮が新たな巫女たちを受け入れ始めて一年経つが、これまで懐妊した巫女はひとりもいなかった。
うまく考えがまとまらずに戸惑う玉蘭の白い手を、揚揚がそっと握る。
「まだ黙っておいたほうがいいわ」
潜めた声に緊張感がこめられている。
最下位の巫女が真っ先に帝の子を身籠ったとなれば、どうなるかわからない。
玉蘭も顔をこわばらせながら無言で頷いた。
夕方、今夜も皓月の渡りがあると聞いた玉蘭は、断りを入れるよう秋香に言づけた。
「体調がすぐれないの。暑気あたりかもしれないわ」
「まあ、それは大変です!」
玉蘭は、心配する秋香に本当のことを告げようかと迷ったが、まだ早いと決断した。
月のものが遅れていて胸がむかむかする――それだけで懐妊と決めつけるのは早計だ。
秋香は若さゆえか少々口が軽いため、その可能性があると話しただけで外部に漏らす恐れがある。
ほどなくして、秋香の元気な声が響いた。
「皇帝陛下からお見舞いの桃が届きましたよ!」
紅く色づいた立派な桃だ。
食欲がなかったはずなのに、桃のすっきりとした酸味と甘さがとても美味しくて全部食べられた。
玉蘭は、皓月の心遣いに感謝しながら眠りについた。
