どうせ誰にも愛されないー喪失令嬢と失恋術師の災婚ー

◇◇◇

「まず、どこから話そうか」

 不月の屋敷の広間にて、延珠が出された緑茶を見つめながら呟く。延珠の隣にはみな子がおり、二人と向かい合うように白蓮と野菊は座っていた。後ろには治郎吉や杏梨が控え、光琉は壁にもたれている。屋敷に帰ってきて杏梨や光琉に突然山の暗雲が消えた理由も含め説明をすると、延珠の事情を聞こうと客間に集まったのだ。

「あんたはぼやっとしてるから、私から話すよ」

 みな子が盛大にため息を吐いて、「私は、こいつのせいで四百年は生きるはめになっちまってるのさ」と苦々しくつぶやいた。野菊がはっとして、口を開く。

「もしかして、不月の恋の話というのは」
「私たちのことさ。馬鹿どもの御伽噺にされるくらいのことをこいつは私にしてるんだよ」

 不月に纏わる竜と人の話は、恋の話として祭が開かれるほど浸透している。この国の中心では三百年に一度妖力を高く持つ神子が生まれ、神子を守るために竜が生まれた。

 そしてこの地は神子の生誕を待つ竜が住まう土地でもあり、人と共存し異種族同士の結婚も盛んに行われていた。しかしある時、竜たちは、己の在り方を考えるようになった。竜たちは人間と結婚する歳、人が己とともに生き、死ぬようその鱗を身体に埋め込む。しかし、竜たちは自分たちの姿を変えて生きられるといえど、人間は老いたまま、寿命だけを伸ばされる形となる。そのことについて人間から訴えられ、竜の寿命を人間に合わせる術を求めた竜がおり、その方法を探そうと旅に出た。

 そして残された竜の妻は、ただただ不月の果てで湖の花を摘み、海へと流す。戻ってきてほしいという気持ちを込めて。

 野菊は、みな子が海に花を流す儀式を、不月の因習に倣ったものだとばかり思っていた。

「では、みな子おばさまは、もう何百年と……」
「ああ、こいつのせいでね。他の竜なんて皆死に絶えていったのに、こいつが馬鹿みたいにしぶといせいで私は何年も待たされてんだよ。挙句帰ってきたのは方法が見つかったからじゃなく、神子が見つかったからって言うんだ。とんでもない話だよ。ったく」

 うんざりした顔でみな子が延珠から視線を外した。その言葉に、白蓮が眉間にしわを寄せた。

「神子が見つかったって……神子は茜ッ様では?」
「いや、帝一族の娘ではない。聖女と言神子に神託を告げるために、竜は永らく存在すると言われているのだ。神子は貴重であるし、聖女は帝一族が管理してもなんら問題はないが、神子の存在は独裁が生まれる。だから丁度良かった」

 一体、何が丁度いいのか。不思議に思った白蓮の前に、延珠の人差し指が向けられた。

「お前が今代の神子だ。まぁその心根は、歴代の神子からはいささか見劣りはするが……な」

 白蓮はすぐに不機嫌な顔をした。「ふざけるのはやめてください。僕は、僕の妖力は……」と奥歯を噛む。しかし続く言葉を見透かすように、延珠は「妖力は少ない、か?」と彼を見据えた。

「人より妖力が劣り、どんなに頑張ってもお前の周りの人間の妖術の威力だけが上がっていく。そう思ったことは?」
「……」
「これのそばで妖術を使ったものはいないか? 不思議とその出力が過大となったのではないか?」

 治郎吉がはっとして、「そういえば、お迎えの時……」と声を漏らした。野菊もすぐに身に覚えがあることに気付く。

「野菊様に、旦那様のもとへ行く妖術をかけて、ふっとばしちゃったことがあるっす!」
「それだ。神子には保身の加護が備わっている。神子にとっては呪いに感じられるかもしれないがな」
「私の力は、もしや、もとより自分の妖力を他人に放出し、譲渡するものであった、ということですか」

 白蓮が思い立った仮説をそのまま口に出すと、延珠は頷いた。

「妖力を膨大に持ち、さらにその効果を上げてしまうため、帝一族に奴隷として扱われたり、隣国に狙われたりすることも多かった。一人で一国滅ぼせる力があるからな。安心しろ、条件を満たせば加護が消えるよう出来ている」
「条件?」
「加護自身が、神子が万物を切り抜けられる感情――怒りや悲しみ、慈愛、その者にとって必要な感情が満たされたとき、神子は思う存分力を振るうことができる。まぁ、私の知っている限り、皆平凡を望み、弱い力を出してひっそりと農作などする者が多かったがな。不月の湖だって、あそこだけ日の通りがやけに良く花が咲くのはそれゆえだ」

 野菊は驚きながら、白蓮に目を向けた。彼は実感が湧かない様子で自分の手のひらを見つめている。

 もしかしたら、彼が帝都に戻ることができるかもしれない。捧生の指輪を外すことだって、出来るかもしれない。そう思い立ち、野菊は「黒竜様……」と声をかけた。

「なんだ。不月の娘よ」
「あの、白蓮様は現在捧生の指輪によって、私に妖力を扱う権利を譲渡している形なのです。どうにかこれを壊すことは出来ませんか?」
「無理だな。神子が己の力を発揮できない限り、壊すことは出来ん。我にも叶わん」
「そんな……」

 野菊の言葉に、白蓮は目を見開いている。その目があまりに悲痛で、彼女は自分の無力さを呪った。

「我がこの地を訪れたのは、神子に相対するだけではない。旅に出て、何の成果も得られぬことが分かったのだ。長らくの間、妻を一人にさせてしまった。だからこれからは共に暮らしていきたいと思ってこの地に戻った」
「冗談じゃない。あんたの住むところなんてないよ」

 延珠の言葉を、みな子は撥ね付けた。

「私の小屋にあんたの寝床なんて無い。とっくに処分しちまったんだからね」
「みな子」
「……そう、言ってやろうと思ったんだけどね。もとは私の言い出したことだ。もう、どう怒っていいか分からなくなっちまったんだよ。私は。一緒に死にたいと言って、この男が姿を眩まして、私の願いのせいで会えなくなっちまった間に、確かに悲しいのに、お前のことをふいに忘れる瞬間が確かにあったりなんてしてね。百年前言いたかった言葉も、思い出せないんだ。薄情なのはどっちだろうってさ……」

 大切な誰かを、ふいに考えなくなってしまう瞬間。野菊はぎりぎりと胸が痛んだ。手のひらを握りしめ、痛みをやり過ごす。

「だから、もう最期までは、もういなくならないでくれないかい。私があんたのこと、忘れちまわないように、さ」
「みな子……」

 二人が見つめあう。周囲がしんみりとした空気に包まれたその瞬間、「それさあ」と間延びした声が響いた。

「白蓮くんはどうするんだ。すげえ妖力があるから、訳を話せば帝都に戻れそうだが、帝一族にばれたら利用される。いっそ復讐でもするか?」
「私はそんなつもりは……」

 白蓮は首を横に振る。自分が五百年に一度の逸材の神子だという実感は、全く湧いていない。

 黒竜を目にするまでは、捧生の指輪の研究をしなければということに頭がいっぱいで、その次は不月の伝説の存在であった竜の存在に驚き、次に神子だと言われ、あまりにめまぐるしく変わる状況についていけないでいた。

 いつもならすぐに自分がいかに有益な存在であるか知らしめることを生きがいとし、人から承認されていることに重きを置く白蓮であったが、神子として扱われ生きることで今まで持ち直し始めてきた生活がすべて壊されてしまったほどの気持ちになっている。

「ちょっと……、考えます。まだ、受け入れられていないので……」

 白蓮はふらりと立ち上がり、そのまま部屋を出ていく。全てが胡乱に感じられ、何も考えることができず、もう今はただ眠りたいと部屋へと歩いたのだった。

◇◇◇

 黒竜と相対した晩のこと、野菊は窓の外を見つめていた。みな子たちは小屋へと戻り、皆元の生活に戻っていった。しかし白蓮は夕食の席に姿を現すことなく、共有している部屋のベッドに、掛け布を深く被る形で横たわっている。

 そっとしておいた方がいいのか、話しかけるべきか分からない。

 野菊は何度か口を開くが、最後の最後で声が出ないことを繰り返し、もう幾分か経つ。

 そうして時間をふいにし続け、とうとう野菊は声をかけることにした。

「あの、白蓮様」
「……なんです」

 無視されることを覚悟していたが、あまりに早く返事が返ってきたことに野菊は驚きながらも、彼のそばに寄り、膝を折った。

「あの、本日は、本当にありがとうございました。一緒に山へ向かっていただいて」
「別に、私が助けに行かずとも、黒竜が助けに行ったと思いますし」

 ふん、と掛け布からくぐもった声が聞こえてくる。野菊は肩の辺りに触れようか迷い、その手を止めた。

「それでも、ありがとうございました。私のことを白蓮様は何度も助けてくださるのに、お力になれず申し訳ございません」

 白蓮からは返事はない。野菊は今夜白蓮は一人で過ごしたほうがいいだろうと、部屋を後にした。最後に温めた香草を混ぜた緑茶を差し入れしようと廊下を進み、大階段を下りていく。すると玄関の大扉を開き、光琉がどこからか帰ってきたところだった。

「お兄様、どちらへ……?」
「革命の準備だ!」
「え……?」
「冗談だ。ほら、帝一族から手紙だぞ」

 渡された真っ赤な封筒に薔薇の封蝋がされた手紙は、野菊の手に渡ると同時にぽんと跳ねて、封筒だけがきれいに散り散りになっていく。浮遊する中身の書状に目を通し、野菊の目は見開かれた。

「どうしたんです。……それは、帝一族の……」

 白蓮が野菊の後を追ってやってくる。大階段を駆け足で降り彼女の隣に立ち、帝一族からの書状を見て言葉を失う。

 帝一族から送られてきた金の書状には、茜と階の婚約式の日取りと、野菊、白蓮を招待する文字が流麗な文字で綴られていたのだった。

◇◇◇


「これ完全に私の幸せ嫌いな男に見せつけて後悔させてやりたい! みたいな感じっすよね?」

 不月の玄関ホールで、届いた書状を指さし治郎吉が吠える。

 帝一族からの書状は、当日までその家の玄関に掲げられるよう浮遊する妖術がかけられている。当日ようやく書状は野菊たちの手に戻り、それを持っていき御所に入る仕組みとなっている。書状を無くすことを防止し、なおかつ書状が来る家であることを知らしめることが出来るが、罰を受けた場合は処罰内容を玄関ホールに飾りだされることとなり、処罰の効果も期待できるとおよそ三十年前からこの妖術がかけられることとなった。

 そして不月の屋敷ではどうかといえば、まるで槍玉にあげるが如く書状について皆好き勝手口に出している。

「そうだな治郎吉くん。相変わらず帝一族は汚いな。わはは! 一緒に革命でも起こしに行くか? 白蓮くんもいることだしな」
「いいっすね。そうしたら俺、俺のこと能無し扱いした軍長を部下にして、あれこれ命令してやりたいっす!」

 わはははは。と光琉と治郎吉の笑い声が木霊するが、野菊は何一つ笑えなかった。白蓮とともに、帝城へ行く。白蓮が茜に会いたいと思っているならば、会わせたいと思う。会いたくないのであれば、自分はすでに変人と呼ばれているし、自分を理由に行かないよう動きたい。しかし肝心の白蓮の気持ちがまったくと言っていいほどわからなかった。

 白蓮とは昨晩、中央にかなりの距離を開けて一緒に寝た。軽く話しかけても答えはするものの心ここにあらずの状態で、とても婚約式に一緒に向かうか聞ける様子ではなかった。それに、神子の力のことだってある。

 野菊は誰にも聞かれないようため息を吐く。こんなときみな子に相談できればいいものの、昨日会いたくて焦がれ続けた夫と再会したばかり、二人の仲を邪魔することはとてもできず、早朝ひっそりと墓参りをして戻ってきた。

 そして朝食を白蓮と取ったが、彼とはそれきり会っていない。刺繍をしているか書庫に籠っているのかもしれない。答えが出るまで待たなければならず、もどかしい気持ちで野菊は書状を見つめる。しかし、皆が自由に過ごす玄関ホールに、ばたばたと足音が階上から響いた。

「ちょっと、だれか旦那様を止めてください」

 杏梨の声とともに、ばっと大階段に繋がる廊下から白蓮らしき人影が現れた。ただ頭はタオルをぐるぐるに巻き付けており、いまいち断定ができない。頭を押さえながら駆け回る彼に、光琉が手をかざした。

「ほれ」

 光琉の指から光が発され、白蓮の足元にあたる。すると白蓮のつま先が石のように固まり、そのまま転倒した。

「あ、妖術道具はあいつが近くにいると誤作動するんだったな、わはは!」

 光琉がけらけら笑う。階段を上がり切った野菊は、倒れる白蓮を見て愕然とした。

「白蓮様?」

 うつぶせに倒れる白蓮の真っ白で雪のような髪は、昨晩までさらさらと流れていたはずなのに、所々焦げ付き歪な曲線を描いていて、何かべったりとした緑色の油までついている。香水を混ぜ、ままごとを終え母に怒られる寸前の子供の匂いが広がっていた。

「白蓮様に、何が……?」
「湯殿が不自然に開いていたので、確認に入ったところ逃走を図られました。この姿で外に出られたらまごうことなき醜聞。止めたのですが……」

 杏梨が白蓮を冷たく見下ろす。

 あまりにも突飛すぎる白蓮の奇行に、野菊は驚く心を落ち着けながら倒れる彼のもとに駆け寄った。

「白蓮様、どうして、こんなこと……」
「……何でもないです。ただ、侍女が騒いで……」
「逃げるっつうことはやましいことがあったってことか?」

 光琉の問いかけに、白蓮は彼を睨んだ。「あなたには分かりませんよ」と威嚇して、立ち上がり、その場から離れようとする。しかし治郎吉の「かっこよくなりたいんすか?」との言葉にぴたりと足を止めた。

「……はあ?」
「だって、俺が十二くらい……丁度帝都の軍人学校通ってた頃と同じことしてるっす! 白蓮様髪いじって香水つけて男の色気演出しようとしてるっすよね?」

 治郎吉に指摘され、白蓮の襟元からのぞく真っ白な細首がみるみるうちに赤く染まり始めた。追い打ちをかけるように、光琉が首を傾げる。

「あれ、もしかして、神子で妖力はあることが分かったし、帝一族の女から言われた野暮ったい男っていうの、あれが気になりだした、とかか?」
「そ、そんなこと! あるわけ! ないじゃないですか!」

 白蓮が怒声を発した。しかし周囲にとってそれは街で飼う愛玩用の犬程度の威嚇にしかならない。生ぬるい空気を感じ取った白蓮は、唯一自分を馬鹿にしなかった存在――ただ唖然とする野菊の手首をつかむと、そのまま強引に引っ張る。

「白蓮様」
「黙ってください。もとはといえば貴女のせいなんですよこれは!」

 白蓮はぐいぐい野菊を引っ張っていく。そしてそのまま、怒りを込めた瞳で睨む。

「あ、あの、白蓮様」
「……ほら浄化の妖術を命じてください!」

 不月の屋敷の暗がりに連れ込まれた野菊に、ずいっと白蓮が迫る。慌ててそう命じると、彼は詠唱を始め、べとべとしていた髪の毛は元通りに変わった。

「あの、白蓮様……何をされていたのですか?」

 野菊が問いかけても、白蓮は答えようとしない。ばつの悪そうな顔をして、地面を睨むばかりだ。先程治郎吉の言っていたことは、野菊も聞いていた。しかし彼女は、今年もう二十五になる人間が、年頃の少年のするような、見目を気にした失敗をするとは思えなかった。白蓮は帝都に住んでいて、不月より、自分が想像するよりずっと煌びやかに生きていたはずで、見目を操る術には長けているに違いない。そう思い込んでいる野菊は、白蓮の行動原理を掴めずにいた。

「もしかして、神子についての研究、ですか……?」

 彼女の問いかけに、白蓮は驚きの顔をした後、すぐに小刻みに頷いた。

「ええ、そうですよ。その通りです」

 白蓮は愛想笑いを浮かべた。実際のところ、治郎吉と光琉の言葉は完全に白蓮の心中を言い当てていた。彼の鬱屈の要因である、妖力がない自分は神子であるという事実によって緩和された。いまだ心の整理はつかないものの、人生での唯一の汚点と感じていたものがなくなり、歪められた形で高くなった自尊心が次に標的にしたのは、自身の外見だった。

「実は、こう、神子の条件を満たすために、己の感情を極限まで高めると聞いて、今まで条件を満たせなかったのならば、今までしてこなかったことを試してみようと思いまして……」

 いままで、白蓮は自分の見目をいじろうとしたことはない。顔立ちが整っていることは自覚しており、あれこれ手をかける人間を見下して過ごしていたからだ。髪型もその場に合わせ整える程度で、美しくあることに情熱をかけることはしなかった。

 しかし、煌びやかに、派手に着飾る光琉や、「わりと地味で親しみやすいっすよね。庶民的というか、白蓮様って」と半笑いで自分に接してくる治郎吉に、ひそかに白蓮の美意識は刺激され続けた。そして、婚約式の祝い会場で、どうにかいいところを見せたいという気持ちになったのだ。

 主に、野菊に対して。

「なるほど……」

 そして、当事者である野菊は白蓮の苦し紛れの言い訳に納得している。

 白蓮は、野菊にかっこつけたいと思っていた。彼は今まで野菊からの好意をひしひしと感じ、自分を優位であると考えていたが、最近はどうも野菊が優位に感じ、自分を好きなくせに、自分の部屋に光琉を招こうとしたことを、彼は忘れていない。捧生の指輪をすぐに手放そうとしたことも引き金となり、彼は少し見目を磨き、野菊に優位に立とうとしていた。

「この間のこともありますし、辺境の地に住む以上捧生の印は枷になってしまうと思うんです。いざとなった時、いつもお世話になっている皆様を……野菊様を守ることができない。出来れば神子の能力を得たいと思っているんです」
「……白蓮様……」

 帝都にいるときは魔術の研究やその訓練に明け暮れ、偏屈な人間として名を馳せていた彼は、着飾ることを最低限しか知らない。無礼にあたらないよう計算された装いしか知らず、自分を磨くことを知らなかった。よってなんとなく湯殿にあるものや、古書にのっていた古来の華族の用法を試し、大惨事を引き起こしたのである。

「私に出来ることがあれば、なんでもおっしゃってください」
「では、野菊様。私の研究に協力してくださいますか?」
「はい。なんでも!」

 自分が白蓮の役に立てると思っただけで、心が喜びでいっぱいになってしまう野菊は目を輝かせた。白蓮は彼女に気付かれないようほくそ笑む。

「では、まず手始めに野菊様とともに祝いに着ていく服を決めましょうか」
「え?」
「髪を整えることも、してみたいですね」
「え……?」

 野菊は目を瞬く。首を傾げる彼女を見て、白蓮が「勿論私の持参金でお支払いしますよ?」と満足げに笑う。

「えっと、違うのです。身なりを整えることが、神子の研究につながるのですか?」
「そうですよ。私はしばらくの間妖魔対峙で着飾ることからしばらく離れていましたからね、そういったことから始めてみようと思いまして」
「あれ、でも今までしたことがないことから始めるのでは……?」
「……あ、あまり突然環境を変化させるのも、逆効果だと思うのですが」

 白蓮がやり込めるように強めにいうと、野菊ははっとして「なるほど!」と頷いた。ほっと胸を撫で下ろす白蓮は「まずは……」と顎に人差し指をあてる。

「やはり、まずは髪を少し切ってみましょうか」
「分かりました。えっと、それでは私が手配をして……」
「それには及びませんよ、野菊様」

 杏梨がすっと野菊の背後から現れる。そして呆れ目を白蓮に向けた。

「帝都からの招待は明らかにこちらを愚弄するもの、代々国を守るこの不月への明らかな挑発行為です。しばらく戦がないことで、敬意を忘れているのです。ですので仕立て屋の手配は昨晩に済ませました。さらに本日から、僭越ながら私から野菊様、白蓮様のご予定を組ませていただきました」
「あ、杏梨? 怒って……」
「当然です野菊様。これは、帝都が不月に決闘を申し込んだのと同義、野菊様、そして旦那様は勝利しなければならないのです。他ならぬ、不月の為に」
「えっと……、が、頑張ります。えっと、大丈夫ですよ、ね? 白蓮様」

 杏梨の計画は、聞く限りでは白蓮の意向と同じはずだ。恐る恐る野菊は白蓮を見る。白蓮は眉を寄せながらも、背に腹は代えられないと頷いたのだった。

◇◇◇

 帝都から招待状が届き、七日が経った頃。とうとう茜と階の婚約祝いの日が訪れた。

野菊と白蓮は、杏梨と治郎吉を連れ、光琉に屋敷を守ってもらう形で帝都にやってきている。

 移動には丸一日かかる為、前日に帝都入りし、宿に泊まった。持参した服への身支度を手伝ってもらう為、野菊は杏梨と、白蓮は治郎吉とそれぞれ二手に分かれている。

「野菊様、とてもお綺麗です」
「そ、そうですか……」

 鏡を前に杏梨がうっとりと微笑む。杏梨はまず初めに、野菊の髪を丁寧に手入れをすることから始めた。野菊は、あまり着飾ることに興味がない。

 黒い服を身に纏っていることが良くないことを自分でも理解している彼女は、その一点以外は後ろ指を差されることがないよう、清潔さには気を使っている。

 しかし、一定以上、自らをより美しくすることは避ける節すら見せ、百合を失ってからはその傾向がより強くなった。

 だから杏梨は、白蓮の為だと方便を言い、初夜の時と同じく彼女の髪をいたわり、毎夜湯あみの時にはしっかりと蜜と柑橘、香草をこした特性の香油を塗り込んではすすぎ、肌はきちんと野菊にあったものを滑らせ、徹底的に野菊を美しく磨き上げた。

 そして最終仕上げとして、自分でするという野菊を説き伏せ杏梨が化粧を施していた。まつげはくるりと上を向き、瞼には光が散っている。唇は薄紅が引かれ、さらに艶めくよう香油を塗り込めたことで濡れた唇に仕上がっていた。

「きっと、百合様もお喜びになっているに違いありません」

 杏梨が野菊の髪を撫でる。普段野菊は髪をまっすぐ垂らしているかだ。しかし今日は毛先をゆるく巻いて、耳の横からまとめ上げ、蝶を模した深紅の髪飾りをつけている。

 着物は野菊の意思通り黒一色ではあるが、繊細なレースが重なり、所々に深海色の宝石が瞬いている。人魚のシルエットと見間違いそうなそれは、裾が歩くたびにふわふわと揺れ、水中を縦横無尽に泳ぐ魚の尾ひれを意識したデザインだ。

「こういうのは、お姉様のほうが似合うのではないかしら……」
「そんなことありません。とても素敵ですよ。そろそろお時間ですから行きましょうね」

 うっとりとした顔で杏梨は微笑む。

 野菊は落ち着かない気持ちで部屋を出て、下に停めていた馬車へと向かう。もう既に白蓮は待っており、野菊と同じ黒であるものの、やや柔らかな灰を帯びた色の上掛けを着て佇んでいた。普段ただ流しているだけの髪は、左右に分けながら前髪を上げている。束ねられた白銀の髪は落ち着いた色味の装いによく映え、深海色の宝石をあしらった装飾が夕日を受け輝いていた。

「きれい……」

 ぽつりと零した野菊の言葉に、白蓮が振り返る。白蓮も着飾った野菊を見て感嘆の息を漏らした後、はっとして手を差し伸べた。

「行きましょう。野菊様」
「はっはい」

 恐る恐る野菊が手を取る。白蓮は一瞬だけ顔を歪めたもののすぐに笑みを浮かべ、馬車の中へエスコートした。

「では、私たちはこれで」
「楽しんできてくださいっす!」

 治郎吉が窓越しに手を振る。杏梨はそんな治郎吉をみっともないと窘めながらも、野菊たちに笑みを浮かべた。野菊が応えるように手を振るうちに、馬車はゆっくりと走り出していく。

「本当に、招待状が届いてから今日に至るまで、あっという間でしたね」
「そうですね……」

 杏梨の手入れにより野菊の湯あみの時間が増える一方で、白蓮は杏梨の組んだ予定に倣い、治郎吉と光琉から筋力をつける訓練を受けていた。筋肉は、そう短期間でつくものではない。知識として知っている白蓮は渋ったが、妖力により負荷を上げ行う軍式の訓練に晒され、よく言えば儚げ、悪く言えばただただ細く骨のようだった白蓮は、平均からはやや痩せ気味程度にまで筋力をつけることに成功した。

「あの、白蓮様。私、変じゃないですか……?」
「そんなことありませんよ?」

 白蓮が上機嫌に首を横に振る。筋力をつけ髪も整えた白蓮だったが、本当に今が正しい状態なのかと半信半疑の気持ちもあった。なぜなら訓練をしている間も当然白蓮は野菊と同じ部屋に寝ていて、彼の変化に気付きはすれど、顔をぱっとそむけるばかりで、前のように頬を赤らめたり取り乱すそぶりは見せなかったからだ。

 しかし、先程自分の顔を見たときは、きれい。と言った。それだけで白蓮は、もう帰っていいくらいの気持ちだった。

「そうだ、白蓮様、これ……もしよければ」

 野菊が懐からブローチを取り出した。金細工にタッセルがつけられ、白蓮の瞳の色と同じ濃い青色の宝石がはめ込まれている。華奢なチェーンには雫型の鉱石があしらわれていて、よく見るとひと針ひと針丁寧に縫った刺繍だった。

「これは……」
「何か、白蓮様に出来ないかと思いまして……。私に役立つことがあるならと言ったにもかかわらず、実際白蓮様のお役に立てたのは杏梨ですから。せめてと」
「ありがとう……ございます」

 白蓮は野菊からブローチを受け取り、自分の胸元に身に着けた。不思議と温かい感じがして、壊れないようそっとブローチをなぞる。

「いえ。それに、以前ハンカチをいただいたお礼です。今日も実は持ってて」

 野菊がハンカチを出して、大切そうにきゅっと握り微笑む。白蓮はふいに自分の心臓が強く跳ねたことで、慌てて咳払いをした。

「白蓮様?」
「何でもないですよ。ほら、もう会場に着きそうです」

 やがて、馬車は白蓮の思いに反し御所の前に止まった。

「野菊様、白蓮様、お待たせ致しました」

 御者が馬車の扉を開く。まず白蓮が降り、エスコートされた野菊がゆっくり降り立つと、周囲で招待状を持ち御所に入ろうとしていた華族たちはほぉっと息を漏らし足を止めた。

「あれは、不月の……」
「そうよ。確か死神令嬢と呼ばれている……」

 周囲の声を聞いて、野菊は一歩後ずさった。普段言われることに慣れているが、白蓮も悪く言われるのではないかと身構えた。すると野菊の手がそっと引かれた。

「あっ……」
「置いていかないでください野菊様」

 白蓮が優美な笑みを浮かべる。帝都にいた頃は顔立ちは整っているものの、どちらかというと病弱で神経質そうな印象が先行し、近寄りがたさが勝っていた。しかし今の白蓮は眼差しこそ怜悧ながら色香を纏い、貧弱な印象は薄れ、御伽噺に出てくる氷の帝子様と称されかねないほどに美しい。そして何より卑屈そうにも見えた顔立ちは堂々としている。

 人々は野菊と白蓮、どちらも印象が変わり美しく生まれ変わった二人を見て、ただただ言葉を失った。野菊は白蓮にエスコートされ、会場の中に入った。

◇◇◇

「こちらですよ」

 帝のダンスホールは、各地の公爵から子爵までを招待したことで、人でひしめきあっている。テーブルには各地の名産を新鮮なまま取り寄せた料理が並び、天井から吊るされたシャンデリアは全て水晶と宝石で作られ、国で最も知名度があり実力もある管弦楽団が会を盛り上げる演奏をしていた。

 会場の一番高い位には玉座が並び、中央には帝、隣には帝妃、その下段には帝子が並んでいる。皆配偶者や婚約者を隣に置き見下ろしているが、野菊と白蓮が会場に入ると皆が注目した。

「帝が……」
「ええ。見ていますが、しかし今日の祝いは諸外国の帝一族も来ています。彼らを押しのけて挨拶するわけにはいきません。礼程度におさめておきましょう」
「はいっ」

 白蓮は堂々としている。酒を飲みたがらない野菊の為に素早く果実水を手配して渡し、自分は葡萄酒を嗜み始めた。

「酒を飲むのは久しぶりです。といっても、口をつけてるだけですけどね」

 普段、白蓮も食事の際酒を飲むことはしない。眠れない日に甘酒程度は飲むものの、きちんとした酒を飲んだのは不月に来た当日だけだった。

「白蓮様はあまりお好きではないのですか?」
「はい。宴会の席が好きではないので、その延長ですね。なので野菊様が飲まないと知って、初日に飲む必要もなかったと思いました」

 はは、とくだけたように白蓮が笑う。やがて、管弦楽団が演奏していた曲を緩やかなクラシックからファーストワルツの曲に変えた。白蓮は野菊から果実水を取り去ると、自分のグラスとともに給仕に預ける。

「野菊様、ダンスはお好きですか?」
「えっと、た、たくさん練習したので、できます」

 野菊の返事に白蓮は微笑み、彼女の手を引いた。人々がホールの中央へ集まっていき、ゆっくりと踊り始める。野菊たちも周囲の流れに沿うように入り、そっとステップを踏み始めた。

「たくさん練習したというのは、今日の為に?」
「あっ、いえ、不月に来た時に」

 野菊の返事に、白蓮はやや落胆した。野菊は付け焼刃の技術ではないと伝え安心してほしかった為に、彼の反応に戸惑ってしまう。

「え、えっと、私は、何か失礼を……」
「いえ。まぁ別にいいんですけどね」

 白蓮は、自分に芽生えた感情を、例え僅かであっても頑なに認めない。野菊が白蓮を好きであるならば自分も別に答えてやらんでもないという立ち位置は、絶対に崩したくなかった。

「でも、白蓮様……」
「ほら、回りますよ」

 白蓮は野菊にターンをさせる。野菊が、帝都の祝いで踊っていた記憶はない。壁の花となっているのが彼女であった。が、華族令嬢ではあるのだから、ダンスは出来るはず。苦手ではあるだろう。だから自分がエスコートしてやらねばと思っていた白蓮だったが、すぐさま対応し、くるりと回った野菊に驚いた。

「白蓮様?」
「なんでもないです」

 白蓮は急に、自分は何をやっているんだという気持ちになった。本当に最近、自分の気持ちがままならない。以前は突拍子もない行動は絶対に起こさなかったし、むしろそういった突然の何かを憎んですらいた。しかし、ここ最近は感情に流されないことのほうが稀で、大抵一定の状態を保っている時は、野菊の好意を感じ取っている時だけだ。

 ワルツが終わり、人々が壁へとはけていく。白蓮は何となく悪戯心が沸いて、野菊の手の甲にキスを落とした。途端野菊の頬が赤く染まり、ぴたりと体が固まる。

「ほら、止まっていたら邪魔になってしまいますよ?」

 囁くようにしてやると、野菊の肩がびくりと跳ねた。白蓮の心は満たされ、果実水を取りに行こうと彼女の手を自分の腕に回させる。野菊にほぉっと見惚れる周囲の人々の視線も心地よく、彼は上機嫌で歩みを進めた。

「白蓮?」

 ざっと、白蓮のそばの人の波が割れた。不自然に開かれた間から出てきたのは、階を伴った茜だ。彼女の登場に野菊は身を固くする。白蓮は「ああ、茜様。このたびは婚約おめでとうございます」と頭を下げ、野菊も「おめでとうございます」と礼を続けた。

「ありがとう。どうぞ頭を上げてちょうだい」

 今日の茜の服は、淡い水色の婚約衣装だ。種類の違うレースをふんだんにあしらい、ティアラはシャンデリアの光を受け神々しく輝いている。隣にいる階も軍人の礼装ではなく婚約式の衣装で、胸元には褒章が飾られていた。

「白蓮、あなたずいぶん変わったわねえ」

 茜が白蓮のつま先から頭の先までまじまじと見回す。そして甘やかな笑みを浮かべると、「でも、婿として不月を統治することはできないのよね。もう今年にはその権利は手放されてしまうのだから」と笑った。

「ええ。なので妻とゆっくりすごしたいと思います」
「あらそう。わたくし、貴方に少しだけ申し訳ないと思っていたの。いくらわたくしを侮辱していたからといって、望まぬ結婚を強い、人生の終わりまで壊してしまうのは流石に子供じみた采配で、帝一族らしくないわ。だから御所の仕事を紹介しようと思っていたのだけれど……必要はないみたいね?」
「私は、帝都を追放されました。保身のため、自分の妖力を偽っておりました。ですから、一度この国の境を守る辺境にて国の為、帝一族の為に尽くし、ようやく一人前に手が届く身の上です。私のような無礼者にまで慈悲深きお心遣い、恐悦至極にございます」
「ふぅん。もしかして、御子が?」

 茜はつまらなそうにして野菊の腹部に目をやった。すぐに白蓮が「いえ。今の段階では」と切り返す。

「なんだ。子供を置いていくのが忍びないのだとばかり思ったわ。ふふ。共に妖魔を討伐するために帝都を出ていた時よりずいぶんと白蓮は変わったものねえ」
「それは、良い方向にですか?」
「ええ。とても良い方向よ。貴方を放り捨ててしまわないで、わたくしの元できちんと向き合い教育すれば良かったのにと、少し後悔してしまったわ」
「ありがたきお言葉でございます」
「いきましょう階。では、楽しんで」

 茜は階を伴い去っていく。階は白蓮を敵意の籠った瞳でにらみつけると、彼女の後を追っていった。

「……良かったのですか?」

 野菊が白蓮に問いかける。白蓮は何も答えないまま、ただ黙って首を横に振り、笑う。結局野菊は白蓮に何も聞けないまま、祝いは幕を閉じたのであった。


 帝都の街中を、宿に向かって馬車が走っていく。野菊は不月とは異なる街灯や眩しいほどの光溢れる車窓に目を向けていた。隣には白蓮がおり、ただ黙って前を見据えていた。

 祝いを終えて、普通の会話はしていても、白蓮の心はどこか心ここにあらずだ。かつて焦がれ、今もなお愛することをやめられない茜に会ったのだから、こうなってしまうことを野菊は予想していた。しかし、帝都での職を斡旋された時、白蓮がすぐに断ったことを野菊は不思議に思っていた。

 謀りを企てたかもしれないとはいえ、白蓮がその身を投げてしまうほど愛した相手に誘われたのだから、迷う瞬間があってもおかしくはない。にも拘らず白蓮は躊躇いすらみせず断った。そのことが野菊にとって気がかりだった。

(白蓮様、もしかしてまた、何か――)

 野菊の頭の中に、白蓮が飛び降りた瞬間の映像が繰り返される。あの瞬間、もし何か些細なかけ違いがあれば、白蓮は大怪我を、それどころか死んでいた。そして今夜もまた白蓮が死に向かうのではと、彼女の心は不安で占められていく。

「あの。少し寄り道しても?」
「え……」

 野菊が返事をする前に、白蓮が御者に声をかける。行先は聞きなれぬ場所で、どこに馬車が向かっているのか見当がつかない。

「白蓮様、どこへ……?」
「私が、野菊様をお連れしたい場所です。……駄目ですか?」

 やや上目遣い気味に、弱々しげに問われ、野菊はすぐに首を横に振る。白蓮はくすりと笑うと、馬車はゆっくりと加速して、宿に向かう道を大きく逸れて曲がったのだった。

◇◇◇

「ここは……」

 白蓮がここだと言って馬車を降りた場所は、帝都を少し出たところにある森であった。宿に残している杏梨と治郎吉を心配した野菊を察してか、「すぐ戻れるので大丈夫ですよ」と微笑む。

「ここは、私が帝都にいた頃、妖術の研究をしていた場所です。街の中で生活に不要な術を扱うことは禁止されていますからね」

 帝都では、生活の補助や仕事の補助として扱う妖術以外……主に人を傷つけることや、必要のない加速の術を扱うことは禁じられている。

 練習は訓練場や士官学校の敷地内に限定され、そこ以外での妖術の行使は罰則もあるほどだ。しかし一歩でも帝都を出れば規定はなく、学園や訓練場が休みの時、熱心な者は帝都を出るのだ。

 そしてここで、白蓮は学生時代から訓練を行っていた。人目を好まず神経質な彼は、周りに人のいる環境を好まない。よって、帝都を出てさらに森に入り、その先を抜けた草原を秘密の場所として扱っていた。

「そうなんですね……」

 野菊が辺りを見渡す。ちょうど小高い丘のようになっているこの場所は、帝都の街並みを見下ろすことができる。すっかり周りは暗く、宙には星々が瞬いていて、日中青々としているであろう木々は黒く縁どられていた。

「なんだか、落ち着きます」

 帝都の中は店から放たれる無機質な白い光源にあふれていて、元は帝都にいたといえど影が暗く落ちている不月の暮らしに染まった野菊にとっては、あまりいい環境ではない。火照った頬を優しくなでる涼風を感じていると、白蓮が野菊の手を取った。

「では、命じてください。私に、綺麗な景色を見せて、と」
「えっ」
「捧生の印の研究です。黒竜が現れた時はかなり詳細に命じて頂けましたが、少しあやふやな表現にすれば一度に扱える妖術も増えるのではないかと思いまして」
「わ、わかりました。えっと、不月野菊が、不月白蓮に命じます。私に綺麗な景色を見せてください」

 野菊が命じると、すぐに彼女の身に着けている捧生の指輪が強い光を発し、宙へと打ちあがると、白蓮の胸の印へと降り注いでいく。

「では、お望みどおりにっ」

 白蓮が指を鳴らし、詠唱を声高らかに発した。その瞬間二人の足元に妖術陣が浮かび、二人は空めがけて舞い上がる。

「えっえっこ、これはっ、白蓮様?」
「やはり、限定的に命じさえしなければ、いくらでも応用が効くということですね」

 自分の予想通りの結果に、白蓮は笑う。野菊は自分の体が浮き、足元からは帝都の街並みが窺えることで驚き、彼の手をただぎゅっと掴むばかりだ。

「二人の身体に妖術をかけているので、私を離しても大丈夫ですよ」
「えっあっ申しわけござ……」
「別に、掴んでいて貰ったほうが都合がいいですからね。でも、あまり驚くばかりの反応をされても可哀想になってしまいますから、少し趣向を変えてみましょうか」

 白蓮がもう片方の手をふわりと払いながら、呪文を唱える。それと同時に、二人の周りに魚が泳ぎ始めた。極彩色の色をして群れを成していたり、花火のように弾けてくるくると円を描いて縦横無尽に泳ぐ小魚、二人に笑いかけ回遊を続けるカメなど、様々な海の生き物を観察できる不月に住んでいても、見たことのない生き物たちでいっぱいだ。自分たちを巡る景色に野菊は感動し、嬉しそうに笑う。

「素敵……」
「少し、歩いてみましょう?」

 白蓮に導かれて、野菊はゆっくりと足を動かす。彼女がその足を下ろすたびに、光の波紋が浮かび上がり、鈴の音と共に光が瞬く。

「貴女は花もお好きでしたね」

 そう言って白蓮がまた詠唱を行うと、今度は真っ白な花々が二人に降り注いだ。花は二人にあたると、雪のように溶ける。いつの間にか空には小さな花火がいくつも打ちあがり、星々もずっと近くにあって、いくつもの星が流れていた。

「夢、みたいです」
「こういった研究はあまりしてこなかったのですが、案外簡単にできましたよ。といっても一週間程度で仕上げなければいけなかったので、大変ではあったのですが」
「もしかして、杏梨の訓練を受けている間に……?」
「ええ。元々何かしたいとは思っていたのですが、あまり試行錯誤している姿を見せるのも滑稽でしょう? 丁度貴女の侍女の立てた計画は、貴女と別行動を取る機会が多いものでしたから」

 ふっと白蓮は優しく微笑んだ。いつもと違う余裕は感じられず、ありのままの彼の笑顔に感じられて野菊の胸がきゅっと切なくなる。

「でも、まさか貴女も私に隠し事をしているとは思いませんでしたけど」

 白蓮が自分の胸元のタッセルに触れる。

「帝都には、行きませんよ。いくら帝一族の願いといえど、私は私の楽しみを見つけましたから。他ならぬ、不月で」

 その言葉に、野菊は目を見開いた。彼女の心に、茜の誘いを聞いてからぐるぐると巣食っていた蟠りが、優しくほぐれていく。

「明らかに、暗い顔をしていたでしょう。そんなに私を手放すのがお嫌ですか?」
「そ、そんなつもりは。ただ、白蓮様があまりにもすぐ断っていらっしゃるのを見て、どういうお心なのだろうと、気になっていただけで……」
「ふふ。そうですか」

 白蓮はこの上なく嬉しそうに指を鳴らす。ぽんぽんと降り注ぐ花々が光とともに弾けはじめ、大輪の花を作り出す。

「私を不月に置いておけば、こういう景色が毎日見られますよ。良かったですね。私が不月にいることを選んで」
「いや、わ、私はそんなつもりじゃ……」
「でも、素敵と言ったじゃないですか。こんなに目を輝かせて……」

 白蓮はもっと、もっとと詠唱を繰り返す。野菊は自分を喜ばせようとする彼の気持ちがうれしくて、そっと彼の手を握った。

「白蓮様」
「なんです? 私の存在がいかに有益であるかを認める気に――」
「ありがとうございます白蓮様」

 野菊が、じっと白蓮の目を見つめた。その瞳は極彩色の光を受けてか、潤んで見える。嬉しそうで、でも切なげで、白蓮は囚われたように少し止まった後、甘く微笑み返したのだった。

◇◇◇

「なーんか中途半端な天気っすねえ……」

 祝いから、三日が経った頃。不月の天気はいつになくぐずついていた。日陰の土地、光刺さぬ土地不月と呼ばれる所以は、晴れ渡っていても、背が高く黒々とした木々が多く、せっかくの日差しも木の葉たちに遮られてしまうことの他に、曇り空が多いからである。

 しかし、不月の雲はあまり雨を降らさない。春が終わり夏へ向かっていく時期に、雨季と呼ばれる雨が続く数週間があり、逆を言えば、曇りはすれど雨が降ることは帝都より少なめであったりするのだ。

 にもかかわらず最近……といってもここ七日は、曇り空であっても一瞬だけ雨が降ったり、かと思えば止んだりとはっきりしない不安定な天気が続いていた。

「そうですね……」

 先程から仕事をすることもなく窓の外を眺める治郎吉の隣に、野菊がそっと立つ。彼女は、雨があまり好きではない。両親と姉が亡くなった日に雨が降っていて、雨で濡れた道路で馬車が横転したことにより、三人とも儚くなってしまったからだ。

「何をしてるんですか?」

 並んで窓の外を眺める二人の間に、ずいっと白蓮が割って入った。押しのけられた形になった治郎吉は「痛った! なんすか?」と驚愕の表情を浮かべる。

「なんですか、とは?」
「いや明らかに今俺のこと押しのけたっすよね? 絶対故意っすよね? もう何度目っすかこれ!」
「何のことやら」

 白蓮は、「で、何をしていたんですか?」と野菊に問いかける。明らかに強引に治郎吉を避けた野菊は戸惑いながらも無言の圧力により「天気が不安定だなと、窓の外を見ていて……」と説明した。

「まぁ、もうすぐ雨季の頃合いですからねえ……」
「いやちょっと雨季の頃合いとかじゃないっすよ。なんか最近二人近くないっすか? なんかあったんすか?」

 じいっと治郎吉が二人を見つめる。最近、白蓮は奇行が目立つようになった。それは野菊と誰かが並んでいると、必ず寄ってきてその間に滑り込むというもの。相手が男の場合は無言で、杏梨など女性の場合は「ちょっと失礼しますね」の言葉がつくものの、全般的に褒められた行為ではない。主な被害者である治郎吉は、ある意味その身を以てして白蓮の変化を感じ取っていた。

「旦那様本当節々の変化がものすごい餓鬼っぽくないっすか? この間はかっこつけて髪の毛ぐちゃぐちゃにしてみたり、今は何かまた訳分かんないこと始めたりちゃんと子供やってこなかったっすか?」
「野菊様、執事が煩いので口封じの命を」
「いやそれはちょっと……」

 野菊が首を横に振る。そして彼らから視線を反らして、「あっ」と声を上げた。

「どうしました?」
「どうしたっすか?」
「そろそろ、みな子さんのところへ行ってきますね」

 野菊はそそくさとその場を後にする。白蓮は口を開こうとして、ぐっと拳を握りしめ、口を噤む。

「いいんすか?」
「何がです」
「お墓参り、ついていかなくて」

 治郎吉の言葉に、白蓮は答えない。白蓮が野菊と共に墓へと訪れたのは、みな子にケープを贈ったあの日だけだ。以降、彼女に誘われることもなく、白蓮はただただ待つばかりだ。

 白蓮は野菊と接する中で、彼女がとても繊細で、そして流されやすい性格であると知った。にもかかわらず、彼女はどんな場所でも黒い服を身に纏う。

 その覚悟を知っているのに、やすやすと墓参りに同行したいとは、白蓮はとても言えなかった。

 だから、白蓮は野菊から誘われるのを待っている。祈るように窓の外を見つめると、空は暗く、今にも雨が降り出しそうであった。

◇◇◇

 レンガ造りの小道を、雨が叩く。野菊は鴉色の傘を差しながら、地面を踏みしめるように歩いていた。もう少しで、墓地が見えてくる。彼女が傘をそっと上へずらすと、道の先に傘をさす人影が見えた。周囲は雨がもたらす霧により、辺りは白んで見えるのに、赤い傘で顔を隠すように佇む人影は浮かび上がるように佇んでいて、見ていると漠然とした不安感が襲ってくる。

 歩くたびに距離が近づき、やがてはっきりとした輪郭が見えたことで野菊は驚きに足を止めた。

「茜様」
「ごきげんよう。不月の死神」

 茜は安らかな笑みを浮かべているが、その瞳は全く笑っていない。捕食する視線を野菊に向けている。

「お会いできて、光栄でございます。まさか不月でお会いできるとは……」
「いいのよ。そういうのは。わたくしまどろっこしいのは嫌いなの。今日はねえ、貴女にしてもらいたいことがあってきたのよ」

 そう言って、茜は野菊との間合いをぐっと詰め、野菊の捧生の指輪に触れた。

「これねえ、印を入れた人間が外せるようにすべきでしょう? でも、着けている人間の許可なしに外すことは出来ないのよ。どうにかできないか聞いたら、第一声が普通は印をつけた人間が指輪をつけるものだから、問題は起きてこなかったって言うの。それって、答えになってないわよねえ? 傲慢だと思わない? 貴女もそう思うでしょう? 野菊。ねえ?」
「……は、はい」

 有無を言わさぬ茜の目に、野菊はただ頷くしかない。あまりの威圧に、首筋には冷や汗が流れていった。

「だから、私殺してしまったの。だって、それならどうにかします。研究します。申しわけございませんでした。なんて言うものだから。色々言い方ってものがあるでしょう? なのに、言い訳から始めたんだもの。美しくないわ」

 それだけで、人を殺した。冗談だと思いたかったが、茜は平然と話していて、野菊は信じざるをえなかった。

「だから、貴女にわざわざ了承を貰いに来たのよ」
「ど、ど、どうして……、白蓮様は、爵位をまた、もう一度……?」
「あはははは!」

 野菊の言葉に、茜は笑い出す。涙すら浮かべ「ごめんなさい。あまりに荒唐無稽な絵空事を言い出すものだから!」と野菊の肩を何度も叩いた。しかしその力はどんどん強くなり、やがて肩を握りつぶすように掴む。

「あのね。白蓮は私の元に戻そうと思ってるの。もう階と婚約してしまったから、第二夫人……、いや夫ね。こういう時なんて言えばいいのかしら。良くないわね。片方にだけ言葉が与えられている状況は。私と白蓮の結婚を機に、何か新しい呼称を作って浸透させればいいのかしら」

 野菊は、茜の言葉がまるで理解できなかった。呆然としながらも、真実を問う為手のひらをぎゅっと握りしめる。

「茜様は、白蓮様に、暴力を振るわれていたのは、何か、誤解があってのこと、でしたよね……」
「わざわざ当たり障りない言葉を使わないで、正直に嘘って言ってくれていいわよ。わざと謀って彼を陥れたのに、どうして今更彼を戻そうとするのか、って。けれどそうね。白蓮は不敬罪として死刑にならないよう手配したけれど、貴女に対しては私は何もしないもの。いい判断だわ」

 茜はくすりと笑う。その笑顔は、心底愉しそうなものだ。

「あの時は、階が欲しかったのよ。でも白蓮と婚約する手前、階の方が好きだから婚約破棄しますなんて正直に言えば、帝一族の品位が損なわれてしまうでしょう? 国民だって怒って、そのうち反感が高まって暴動なんて起きたら、平民は皆死んでしまうでしょう? だからああいう茶番を行ったの」
「そんな……」
「それに、ここだけの話、白蓮のいた志藤家って結構煩いのよ。帝一族が貴重な鉱石を取ろうとすると反対したりね……。だから志藤家を取り込もうと私の婚約が組まれた訳なんだけれど、考えてみれば白蓮に婚約破棄されて醜聞になれば、あの家も弱体化、没落するでしょう?」

 野菊は、薄々茜が白蓮を謀ったと疑っていた。しかしそれが確信に変わるとは思ってもみなかった。そして、思いたくなかった。

「そんな、白蓮様は、茜様を愛して……」

 その身を、投げることまでしたのに。あんまりだ。これでは。野菊は涙を浮かべた。零してはいけない。辛いのは自分ではない。そう思っても、涙が零れてしまう。

「ははは。泣くほど彼が心配? 安心して野菊。私は別に白蓮を虐待するために帝都に戻そうとしているんじゃないの。愛する為に帝都に戻すのよ?」
「え……」
「白蓮、とってもかっこよくなったでしょう? だから、私の夫になって、また妖術士として国の為、私の為に働いてもらうの。といっても、私と愛し合うのだから、あまり危ないことはしてほしくないし、働くのは……そうね十日に一回! 褒章もたくさんあげるわ。彼から奪ったものより、それ以上のものを与えてあげるの」

 茜は嬉しそうに空を見上げ、手を伸ばした。

「地位も、名誉も約束する。志藤は白蓮を戻したことで帝一族に感謝するでしょうし、もう帝一族に手出しは出来ない。望まない結婚を強いられた白蓮は私の元に戻り、また国一番の妖術士の座に君臨するの! あれ、もしかして、妖力がないのにって心配してる?」
「い、いえ……」
「妖力の虚偽なんて、あんなの取って付けた理由だわ。妖力が少なくても高位の妖術が使えるよう彼、研究していたんでしょう? 今まで不便はなかったしね。その辺りの心配はしなくていいのよ」

 馬鹿ねえ。囁きかけられた声の温度の低さに、野菊の足が地に縫い付けられたように動かなくなる。その間に、茜は目を輝かせ口を開いた。

「前は顔だけで野暮ったい雰囲気とか、弱そうな感じが好みじゃなかったんだけど、今の白蓮はとっても素敵。貴女のお古なのがちょっと難しいところでもあるけれど、でも貴女に出会って白蓮は素敵になった。感謝してるわ!」

 ――だからほら、捧生を拒絶しますって、呪文を唱えて。無邪気とは言い難い無機質な声色で、まるで感情のない表情で茜が野菊を見据える。今までの振る舞いはすべて演技なのか。手は震えながらも、白蓮の幸せの為に、野菊はじっと茜を見つめ返した。

「なあに、もしかして、白蓮を引き渡すのが嫌なの? 駄目よ。元は白蓮は公爵家。あなたは辺境の令嬢といえど、平民の出、しかも娼婦の娘でしょう? ひた隠しにしているようだけど」

 茜の言葉に、野菊は目を見開いた。愕然とする彼女に、茜が勝ち誇った笑みを浮かべる。

「帝一族に隠し事が出来ると思って? ねえ、白蓮は知っているの? 貴女が薄汚い生まれの娘だってこと……。百合の気まぐれで拾われて、妹なんて言って飼われてる、本質は汚い野良犬同然ってこと」

 自分を通して百合を踏みにじられたことで、野菊の頭がとうとう熱くなった。しかし、目を閉じて、そっと怒りを殺し「違うのです」と首を横に振った。

「私は、証明が欲しいのです。私との婚姻を強いたことは、茜様が白蓮様に、罰を与えたいと願ったことと存じます。あの場は、帝の御前であり、この場は私と帝一族のみ。どうか、茜様が私に命じた証明を頂けないでしょうか……」
「証拠? いいわよ。なんだ。何言うかと思ったら証拠ね。てっきり嫌だとか泣かれるのかと思ったけれど、貴女結構狡猾なのね」

 茜が呪文を唱えると、二人の目の前に光が瞬き、金の誓約書が現れた。結界を張る妖術が施されたそれは、雨が降りかかることなく浮いている。

「私、和葉茜は、不月野菊に、彼女の夫、不月白蓮を茜の元に戻すよう、帝一族の総意の命として命じたことを約束するわ」

 茜の言葉に、金の誓約書が独りでに文字を付け加えていく。後は? と促され、野菊は意を決して口を開いた。

「私……不月野菊は、不月の地の平和のもとに……」
「あら、民想いね」
「そして、夫白蓮が、何人にも辱められない。虐げられない。乏しめられない。強いられないことを条件に、白蓮を和葉茜に引き渡すことに同意したと宣言します!」

 二人を分かつように、雷鳴がすぐ近くで轟いた。捧生の指輪がぱっと砕け、灰となって散っていく。その瞬間、茜がぱっと目を見開いて、笑い始める。

「ふふふ、嫌だわ。死神令嬢はそんなに慈悲深かったのかしら? 自分を拾った姉を、親を、殺してその財産を全て得たくせに。好きな男の為? おかしい。おっかしいわ!」

 くすくすと茜は笑う。野菊の目は、ただ強い意志を持って彼女に向けられている。

「いいわ。予定を変更しましょう。本当はこのまま白蓮を連れ帰るつもりだったけれど、貴女から白蓮に別れを告げなさい」
「え……」
「貴女から、きちーんと私の下に白蓮を返すことになったって伝えて」

 そう言って、茜はぐい、と妖力石をを野菊に渡した。

「これねえ、私のもとに貴女の声が届くようになってるの。私、予想外の行動を他人にされたり言われるの、大嫌いなのよ。それに、自分がきちんと大切に思ってるのに、上からかぶせて大切にしろって言われるのも嫌い。だから、今あなたのしたこと、本当に大っ嫌い」

 茜が野菊の鼻先まで近づく。野菊は視線を逸らすことをしなかった。

「だから、これで許してあげる。好きな人と離れる苦しみ、たあんと味わって頂戴ね」

 茜が囁き終えると、足元に妖術陣が浮かび、ぱっと彼女はその場から消えていった。野菊は傘を差したまま、降りしきる雨の中、進むことなくただただ立ち尽くしていた。

◇◇◇

 不月の屋敷を、雨が叩く。白蓮は足早に廊下を歩いていた。今日、野菊が墓場へ行って帰ってくると、彼女はしばらく用があるからと書斎にこもっていた。夕食も体調が悪いと言って出てこようとしない。しかし湯あみを終えると、話があるから時間が欲しいと杏梨を通じて伝えられたのだ。

 これは何かあるかもしれない。

 白蓮は原因を考えた結果、もしかしたら野菊に告白されるのではと考えていた。今まで野菊から、好きだと言われたことはないが、その瞳にのせられる好意と敬意は声を出さずとも雄弁に語られていて、始めこそ辛く思ったが今は心地よく、むしろ好意を感じられない瞬間に不安を感じるほどだ。

 白蓮が幼い頃より抱えていた苦悩は和らぎつつある。力の開放は出来ていないとはいえ神子であり、妖力が無いのではなく周囲にくれてやっている状態。野暮ったいと言われ負け惜しみをと思っていた容姿も磨かれた。散々かっこ悪いところを見せ迷惑をかけ続けていた野菊に、連日徹夜で研究した幻影妖術も披露できたし、婚約式で見事にエスコートをしてみせたのだ。以前より、自分はましな存在となっているはず。生きていていい人間になったはず。

 もう婚姻し捧生の指輪で決定権を全て持っているのに告白なんて大業なことをしようとしているから、今日の野菊はいつになく暗いのだ。

 それくらいのことを妄想していないと、今日の白蓮は生きていけなかった。

 だって恐ろしいから。出て行けといわれることが。住む場所がなくなるのではなく野菊のもとを去れと言われることが恐ろしくて仕方が無かった。

「白蓮様……」

 墓場に行って以降姿を見せなかった野菊の瞳は、想像以上に暗いもので、白蓮は胸が痛むと共に不安になった。ベッドに腰掛ける彼女の隣に恐る恐る座ると、沈黙が訪れる。

 野菊は手を開き、そして握ることを繰り返しては、目を伏せる。焦れた白蓮が「何かあるのでは?」と促した。

「……実は、これを見ていただきたくて」

 野菊が、意を決して懐から耳飾りを取り出した。彼女は白蓮との出会いを思い出し、静かに目を閉じる。白蓮は見覚えのある耳飾りに目を見開いた。

「これは……!」
「今から、八年前、白蓮様から頂いたものです……」

 野菊は、耳飾りを見つめる。美しい海原の色をした宝石は、照明の光を受けて揺らめく。その輝きは、八年前と全く変わることがない。

「でも、それは、私が平民の少女に渡したもので……」
「平民なのです。元は、私は」

 野菊の言葉に、白蓮は目を見開いた。驚く彼の姿に野菊の胸は締め付けられ、絞り出すように言葉を紡ぐ。

「私は、娼婦の娘です。娼婦街で生まれ、五歳の頃父親を名乗る華族の元に引き取られたのですが、その家は私に妖力が無いことを知り、母の元へ戻しました」

 野菊は、影が集い、人が人を買う環境の中で育った。幼い間は商品価値がないとおざなりな扱いを受け続け、やがてこの世に出て九年が経った頃、そろそろ客が取れると店に出されそうになり、逃げ出すように娼婦街を出た。

「しかし、そこでの生活が嫌になり、私は母の元を去りました。しかし、幼く無学な娘が働くすべなどありはしない。盗みをすることで、かろうじて食いつないでおりました。そして商人から宝石をくすねた時に、白蓮様と出会ったのです」

 野菊は、白蓮の顔を見ないよう、ただ耳飾りを見つめて話を続ける。

「私は、誰かに助けてもらいたいと思っていた。苦しかった。拾った御伽噺を読んでは、自分の世界に助けてくれる光が無いことを呪いました。そんな時、貴方に出会ったのです。白蓮様」
「野菊……」
「それから、私はなんとか盗みをせず、真っ当に生きられないか道を探しました。しかし、中々難しく、恥ずかしながら結局行き倒れになってしまい……そんな時です。百合様に出会ったのは」

 それは野菊が白蓮と出会って半年経った頃だった。人々が行き交う大通りを逸れた裏路地で、盗みを止め何も食べることができず餓死寸前であった彼女の前に、百合が通りかかった。百合は野菊を見つけると微笑んで、抱きしめ、「この子を御屋敷に迎え入れるわ」と宣言した。野菊は自分は死に逝き、これは夢で、百合は天の使いだと考えたが、次に意識がはっきりすると彼女がいたのは天国ではなく不月の屋敷で、羽はなく、しっかりと地に足の着いた百合、そして不月伯爵と夫人とまみえたのである。

「私は、平民の娘なのです。白蓮様の隣に、並び立ってはいけない存在なのです」
「そんなことはないっ私は――」
「だから、捧生の指輪を、茜様にお願いして、外していただきました」

 野菊がそっと自身の左の薬指を白蓮に見せた。そこにはあったはずの指輪が無い。

「どうして……?」
「茜様が、白蓮様を旦那様として迎え入れたいとおっしゃっております。白蓮様の名誉と地位を取り戻し、きちんと愛を捧げたいと約束してくださいました。なので、私は白蓮様との婚姻、及び捧生の契約を、茜様の手によって破棄させて頂いたのです」

 野菊は、微笑んだ。これが白蓮の門出であることを信じて。涙を流さぬよう、ぐっと堪える。白蓮は、身を投げるほど茜に焦がれたのだ。恋心はままならないもので、階という気がかりな存在もいるけれど、このまま不月に白蓮がいても、彼が帝一族に無礼をなし、茜を傷つけたという汚名が晴れることはない。家からの絶縁状も、きっと取りやめになるはずだ。

 これで、幸せになれる。そう思っても、本当に、それが白蓮の幸せなのか。茜を信じていいのか。そして、あれだけ酷い言葉を浴びせていた志藤家と復縁することが白蓮の幸福になるのかとの疑念で、胸が軋む。

(でも、私がそう思って、白蓮様を手放したくないと、私のものでもないのに、彼を傲慢に、独占しようとそう感じるだけかもしれない)

「ですから、白蓮様はこれで――」
「僕を、捨てるんですか」

 野菊の視界に、白蓮の顔が映る。目の奥はぞっとするほど暗く、その表情は、泣いているようにも、笑っているようにも、怒っているようにも見えるのに、声色は静かで淡々としていた。

「捨てるなんて、そんなことありません」
「だって、そうでしょう。今更、帝一族のところに行けだなんて。ははは。笑えない。野菊様は、僕のこと、好きではないのですか?」

 白蓮の言葉に、野菊は目を反らした。彼に心の内を見透かされてはならない。ぐっと手のひらを握りしめると空気が凍てついたものに変わった。

「僕が、いらない……?」
「……」
「僕がいらなかったなら、そう言ってくれたら……!」

 白蓮が拳を握り締め、ベッドサイドにあったテーブルに叩きつけた。テーブルは倒れ、上に置いてあった花瓶が部屋に砕け散る。

「何が、気に入らなかったんですか……。刺繍? 焼き菓子の手伝い? それとも、妖術? 剣術が得意ではないから? 容姿を磨くことを怠っていたから? あの義兄のように気さくさが無いから? すぐ感情的になってしまうから? ああ、全部ですか」

 野菊は、言葉を紡ぐことができない。否定してしまえば、帝一族との約束に反してしまう。すると白蓮が「あぁ……」と胡乱げな声で頷いた。

「最初から、ですよね。確かに僕は、貴女に酷い言葉を浴びせていましたもんね……死神令嬢なんか、好きに、なるわけないって、そう言って……貴女の作った食事に手を付けず、会うたびに来るなと言って怒鳴りつけましたもんねぇ……」

 白蓮の声は、震えている。瑠璃色の瞳からは一筋の涙が滴った。

「ねぇ、でも、僕のこと、好きでしょう……? 僕のこと、好きだったでしょう……? ずっと、ずっと見ていたじゃないですか、僕のことを、貴女は……!」
「……見て、いません」
「見てたんですよ! ……見てたじゃないですか。ねぇ、嘘つくの止めてくださいよ。ねえ、もしかしてこれも嘘ですか? ねぇ、そうですよね? 貴女が僕を捨てるなんてありませんよね? だって貴女、僕のこと好きだって言ってくれたじゃないですか……?」
「……そんなこと、ありません」

 野菊の言葉に、白蓮の目から光が消えた。顔つきが明らかに変わり、野菊は息をのむ。

「いやだ、ごめんなさい、でもむりだ。貴女がいなくなるなんて耐えられない」

 白蓮が涙を流す。野菊が咄嗟に後ずさりする前に、白蓮が野菊の手首を掴んだ。しかしその瞬間、ばちっと野菊だけが後ろに吹っ飛ぶように弾かれる。彼女は壁に頭を強く打ち付け、額から血を流した。

「野菊様っ!」

 白蓮がはっとして野菊に駆け寄ろうとするが、目の前に突如茜が現れ足を止めた。

「かわいそう。そんなに強く頭をぶつけて」

 吹き飛ばされ頭を強く打った野菊に、茜が手をかざす。聖女の力により血は一瞬で消え、傷口もふさがっていった。

「茜様。どうしてここに……」
「あら、白蓮。貴方会わない間にそんなに物分かりが悪くなったのかしら? さっき野菊はお前に言ったでしょう? 婚姻も捧生の契約もなしにして、お前が私の元に戻ってくるって」
「僕はそんなことを望んだ覚えはありません」
「あら、私の元に戻れることが嬉しくて、照れているのかしら。可愛いわねぇ。でも、思い出と慰めなら許すけれど、お前は帝一族の子の父親になるのだから、平民娘の子供の父になるのは許されないわ。わたくし、なるべく殺生はしたくないですもの」

 茜はそう言って、野菊のお腹を見た。

「安心して、さっきの攻撃妖術は貴女を白蓮に襲わせないための風妖術。そして風妖術で受けた怪我を治す癒しの力よ。わたくし、民が増えるのは歓迎しているから、貴女が母になる権利を奪ったりはしないわ。だから白蓮ではなく、貴女にふさわしい男を見つけなさい。貴女が傷つけた分、きちんと白蓮のことを癒してあげるから、安心して幸せになってね」

 茜は満面の笑みを浮かべると、詠唱を唱えた。今度は白蓮の足元にも妖術陣浮かぶ。白蓮は野菊に必死に呼びかけるが、野菊は答えない。ただ、幸せになってくださいとだけ声をかけて背を向ける。

「野菊!」

 白蓮の絶叫が部屋に響く。やがて、空間が歪む音がして、部屋には野菊ただ一人が残ったのだった。

◇◇◇

「では、行ってきます」

 不月の玄関ホールに、野菊が立つ。使用人たちは皆彼女を見送り、頭を下げた。しかし、治郎吉と杏梨だけは不安げに野菊を見つめている。

「どうしたの?」
「いえ……、お墓参りのあと、すぐに戻られますか?」
「ええ。そのつもりです」
「本当っすか?」

 治郎吉の疑いの眼差しに、野菊は苦笑した。大丈夫と頷いて、彼女は屋敷を後にする。

 茜との約束の下、白蓮を見送り二週間が経過した。今は雨期の真っただ中で、朝から大雨が不月中に降り注ぐ。辺りは草露と土の混ざった匂いが立ち上り霧が漂い、遠くからは雷鳴が響いていた。

 墨色の傘を差した野菊は、滑らないよう足元に注意を向けながら歩みを進める。しかし、水溜りに映った自分の顔を見て、そっと足を止めた。

 白蓮がいなくなったことについて、使用人は野菊に問いただすことをしなかった。彼がいなくなった翌朝すぐ、帝一族から白蓮の引き渡しに対する礼状が届いたのだ。それを見て、使用人たちは皆、なんとなく何があったかを察した。始めこそ白蓮が野菊を捨てたのだと責める者もいたが、野菊が黙って首を横に振り、皆大方、言葉に出さずともすべてを察した。

 雨季だからと昨日往診に訪れた糸川も同じで、白蓮が帝命により戻ったことを伝えただけで「そうですか」と、それ以上何も聞くことはしなかった。

 このまま、白蓮のいなかった頃に戻っていく。ゆっくりとでいいから戻していけばいい。白蓮も、愛している人と暮らすほうが幸せに決まっているし、もしかしたら、白蓮が一番になるかもしれない。あれだけの執着を茜様は彼に見せていたのだから。

 野菊は目を閉じて、また墓場へ向かって歩く。降りしきる大雨の音がやけにうるさく感じて、雨の雫が触れた肌は、やけに冷たく感じた。

◇◇◇

「おばさま」

 クワを引きずりながら歩く墓守の老婆、みな子に後ろから声をかけると、野菊に呼ばれた彼女は気怠げに顔を上げた。

「ああ、あんたかい。明日は命日だってのに、こんな雨の日に外出て熱でも出したらどうするんだよ。またやぶ医者に嫌味を言われるよ」

 うんざりとした顔でみな子は野菊に目をやる。

「なんだい。雨を利用して死のうったってそうはいかないよ。馬鹿竜がいるといえどあいつは墓穴堀りの腕が鈍っちまってる。しばらく使いもんならないんだから、墓増やされちゃ困るんだよ」
「そんなことしませんよ」
「ふん。今にも消え入りそうだったじゃないか。素直に行かないでと言えばいいものを。馬鹿な国のお姫さんの言うこと聞いて、百合がいたら引っぱたかれてるところだね」
「御姉様はそんなことしません」

 百合は、暴力を嫌っていた。妖魔以外に対して攻撃妖術を使用するのは野蛮だ、言葉で表現できない愚か者だと心底馬鹿にしていた。野菊が首を横に振ると、みな子は「いや、絶対するね」と返す。

「百合がお前に散々言ってただろう。欲しいものは欲しいと言え。大切にしろって」
「……」
「それを自分が死んで四年後には好きな男を譲るなんて、私なら墓掘り返して戻ってきてるところだよ」

 もし、百合がいたならば。

 この選択を変えることがあったのだろうか。野菊が目を閉じて考えても、何も浮かばない。それどころか白蓮の別れ際の顔が浮かんで、頭にこびりついて離れない。

「本当にいいのかい? あの馬鹿竜に頼めば、帝都まで飛ばしてくれるはずだよ」

 みな子の言葉に、野菊が目を見開く。しかしすぐに首を横に振った。

「いいのです。元々白蓮様は公爵家。私は拾われた身です。住む世界が異なっておりました……。それに、彼は神子ですが、私は満足に妖術が使えない。どんな、どんなに、危険な状況でも、妖術が使えない。彼の身に危険が迫ったとき、私は助けることができないのです」

 野菊は、落としていた視線をみな子に向け、気遣いに対する礼を伝える。そして墓場の奥へと足を踏み入れていったのだった。

◇◇◇

「ただいま戻りました」

 墓場から不月の屋敷に戻ってきた野菊は、玄関ホールで傘の水気を払った。治郎吉はちょうど不在なのか、ホールには使用人、そしてそれらを束ねる杏梨がいて、光琉はただ暇を持て余した様子で壁に背を向けていた。

「おかえり我が妹よ。百合の墓はどうだったか? 何か変わっていたか?」

 光琉も、野菊とは時間を変え墓参りをしている。よってどんな状況であるかをよく知っているはずだ。

 しかし野菊は「特に何もありませんわ」と丁寧に答える。そのまま部屋へと向かおうとする彼女を、杏梨が呼び止めた。

「後でお茶をお持ちいたしますか?」
「はい。お願いしたいです」

 野菊が頷く。杏梨は優しく微笑んで、調理場へ向かったのだった。



「失礼いたします。杏梨です」

 野菊が百合の部屋で休んでいると、ほどなくして杏梨が現れた。自分の分の湯のみも運び、あらかじめ野菊が用意していた椅子に座った。

「では」

 杏梨が侍女用のヘッド着物を取り去る。野菊、杏梨、百合の三人でお茶をすることが、ずっと彼女たちの習慣だった。

 日取りこそ決めていないものの、なんとなく三人のうち誰かが酷く疲れた時に開かれるお茶会は、主従の垣根を超え、ただ年頃の女三人が集い話す、自由で気ままなものであった。

 だが、三人の秘密の茶会百合の死により、永遠に開催されなくなり、今では雨季の時期、弔いとして野菊、杏梨だけの茶会が開かれている。

「野菊様、白蓮様のことはもうよいのですか」
「ええ」

 ぼんやりとしている野菊に、杏梨が緑茶を淹れる。野菊は、その茶を隣の空席に移した。そして二番目に出されたお茶を、今度は自分のところに置く。

 大抵お茶会がしたいと言い出すのは百合だから一番に、野菊はぬるめの緑茶が好きだから二番に、そして緑茶を淹れるのは杏梨だから、杏梨は特別熱いお茶を、そうして決まった順番は、百合が亡くなっても変わらない。ただ変わったことは、一番手の緑茶はただただ温度を失うばかりで、一向に減らないことだけだ。

「今日、みな子おばさまに言われました。御姉様が生きていたら、私をひっぱたいているって」
「百合様は野菊様の幸せを願っておりましたから、きっとそうするでしょうね」
「でも、思ったの。お姉様が生きていたら、白蓮様はお姉様と結婚をして、もっと心安らかで、茜様よりもずっと幸せな結婚ができるんじゃないかって……」
「それはどうでしょうね」

 野菊は、白蓮と接するとき、姉ならどうするかと考えたことがあった。だが百合は奔放で、とにかく想像の出来ないことをしてみせ、人の前を歩いていた。

 だから彼女がどうするか何を言うかは実際のところ全く分からず、野菊は手探りで、自分なりに白蓮に接していた。

 百合のように出来れば、白蓮を元気づけることが出来るはずなのにと、頭の中は後悔でいっぱいだった。しかし、野菊の確信を崩すように杏梨が首を横に振る。

「私は、百合様の幼少の頃を知っています。彼女は分け隔てなく言葉を話す素直なお方ですが、もし二人が会いまみえたとしても、百合様ははっきりと元旦那様の短所を指摘します。一方で売り言葉に買い言葉と、元旦那様は逆上するでしょう、刃傷沙汰になっていたかもしれませんね」

 しれっとした顔つきで杏梨は言う。そしてくすっと笑った後、窓を眺めた。

「案外、旦那様は帝一族を殺して戻ってくるかもしれませんよ。そうしたら、どうします?」
「そんなことありませんよ」
「もしも、ですよ。人を殺してまで自分を選んだ人間を、野菊様は愛してくださいますか?」

 杏梨の真剣なまなざしに、野菊は考え込む。緑茶の波紋を見つめ、やがて杏梨と目を合わせた。

「応えなくてはいけないと、思います。私がその方の人生を壊してしまった、その方を殺してしまったことと同じですから」
「では……」
「でも、もう私は誰かを殺したくない」

 野菊は、視線を落とす。かつて、大切にしたい、恩返しがしたい、ずっと一緒にいられたら嬉しい。捨てられても構わない。奪われることが常で、得ることを諦めていた野菊がそれほどまでに想った相手は、事故で死んだ。あの時妖術が使えていたら、三人は死なずにすんでいた。医者が来るまでの延命だって出来ていたかもしれない。癒しの力が使えずとも、何か方法があった。

 その降り注ぐ雨のような追想は、四年経った今もなお、やむ気配がない。

「そうですか。残念ですね」

 杏梨が湯呑を横切って、野菊の手に触れる。

「とても、残念です」

 杏梨の声が、野菊には遠いもののように感じられた。不思議に思って顔を上げると、彼女の顔が霞んで見える。

「杏梨……」
「ありがとうございました。野菊様。私はずっと、貴女が羨ましかった」

 杏梨、と呼びかけようとしても、野菊の口はただ空気を含んで動くばかりで、声にならない。やがてふっと野菊は意識を手放すと、糸が切れた操り人形のようにテーブルに伏したのだった。

◇◇◇

 和葉国の帝が住まう御殿は、国旗にも使用されている大きな孔雀を模した塑像やステンドグラスがあちこちに使われている。光が差し込むことで床を極彩色に染め上げるその芸術は、国家遺産として職人の保護もされるほどだ。

 一方、壁を彩るのは、羽一本一本手を抜くことなく仕上げられたガラス工芸で、妖術で火力を調節し生み出されるその繊細な技法は、優れた火力調整を行い、また緻密な彫刻を妖術で行える技術者を本来必要とされる軍事だけでなく、芸術分野にも惜しみなく動員できることから国力を国内外に知らしめるに最適で、和葉国の御所、そしてその部屋の各所には、必ずそれが置かれていた。

「私をここから出さなければ、貴女を殺します」

 しかし、和葉国の御所の部屋の中でも一際繊細で美しいといわれる硝子孔雀は、床に打ち付けられバラバラに散らばっていた。

 そして、孔雀を残酷な姿に変えてしまった白蓮は、美しい片翼を拾い上げ、徐に目の前に立つ和葉茜に破片を向ける。その大きさは剣にも似ていて、刺されば最後、助かる見込みはないものだった。

 一方茜は、凶器を向けられているにもかかわらず余裕の笑みを崩さない。「馬鹿ねえ」と一瞬にして硝子を砂に変えてしまう。

「御所の中は、帝一族に忠誠を誓った者以外その妖力を行使することが制限される。だからこんなことしたのでしょうけど、そもそも私が不要と判断したものは塵と化すように出来てるの」
「……くっ」
「でもまぁ、妖術が扱えないと思ったら、すぐ別の手段を試そうとするところは好きよ」

 野菊の元から離れた白蓮は、御所の一室に閉じ込められていた。茜の予定であれば彼女の部屋で飼われるはずだったのだが、白蓮が到着早々茜を殺しにかかった為に、別室で折檻の処理を施したのだ。

「私と貴方は実力に大きな差がある。いくら少ない妖力で高位の妖術が扱えたとしても御所では生活用の下位妖術しか使えないし、私は帝一族の人間よ。例え刺されたって自分を癒して終わりだわ」

 以降茜は護衛を伴うことなく、白蓮のもとを訪れる。護衛を伴う必要すらないと部屋の外に待機させており、あれこれと手段を使って殺しにかかる犬以下の存在を観察していた。

「でも、誓約が本当に邪魔ねえ。お仕置きがしたいのに、出来ないだなんて……」

 はぁ、と茜は溜息を吐く。本当は風妖術で肌の辺りを薄く切ってやりたいのに、野菊に対して行った誓約により白蓮に攻撃妖術を向けることも、護衛を使って痛めつけることも、何もかもが封じられていた。

 恩人を亡くし明日を見られない無気力な娘。

 元々平民上がりで生きる気力しかなく、学びもなかったのだから、脅威になることはないと自由にさせた結果、その誓約のせいで茜は悉く自由を奪われていた。

「誓約……?」
「そうよ。あなたを引き渡す時に、野菊が貴方を傷つけないならとの条件のもと引き渡しを宣言してしまったから、私はわざわざ階が貴方に毒を盛ろうとするのを防いだりしているのよ。貴方が毒で苦しんでも、癒しの力があるっていうのに、馬鹿らしい」

 階は、白蓮を迎え入れることに言葉に出さないまでも反対の意を示していた。挙句白蓮が戻ってくると、毒を盛ったり刺客を送るなど、暗殺を企てている。

「階も困ったものねえ……」

 茜は、階が自分を求め愚かな行動を、自分の想像通りの行動を起こすことに愉悦を抱いている。なんて愚かだと笑い、愉しむために帝や帝妃に知られないよう、帝一族に知られぬよう動いてはいた。しかし、誓約の為にその愚かで可愛らしい悪戯の手伝いだけはできなかった。

「私、貴方の苦しんでいる顔、結構好きなのだけれど」
「私は貴女の死に顔が見たいですよ。早急に。そして早く、野菊様の笑顔が見たい」
「捨てられたのに?」

 茜が聞き返すと、白蓮はより一層彼女を睨む瞳を強くした。

「本当に貴方のことが好きだったら、野菊は私に泣いて縋り付いていたんじゃないかしら。貴方が彼女に縋り付いていた時みたいに」

 くす、くすと少女のように茜が笑い、散歩をするように部屋の中を歩く。

「結局野菊は貴方を、誰かを殺したいほど思ってはいないのだわ。一方通行ね、可哀想。可哀想だわ! とっても」

 白蓮が硝子の破片を掴んだ。しかしそれは塵と化す。

「野菊はきっと、誰も本気で愛さない! そしていつか義務のように他の男の子を産んで、育てるのよ。でも安心して頂戴。私が貴方を愛してあげる。野菊が貴方のことを忘れてしまっても!」

 白蓮は、野菊の顔を思い浮かべた。刺繍のハンカチを嬉しそうに受け取った顔。不安げに自分を見つめる顔。自分に別れを告げる顔。様々な顔を、瞳を閉じて頭の中で思い描く。

(野菊は、僕のことが好きなはずだ。僕を愛していた)

 しかし、茜が邪魔をした。帝一族の手前野菊は断れず、別れを告げた。領民を殺すと脅されたかもしれない。だから自分を捨てたわけではないと白蓮は心を落ち着けようとして、あることに気が付いた。

(僕は、帝一族を殺してでも野菊様に会いたいと思った。でも、彼女は違うじゃないか)

 白蓮は、今なお懸命に帝一族を殺そうと動いている。しかし野菊は墓場へ行き、そして帰ってきて自分に別れを告げた。僅かな間に別れる決断ができたということは、野菊にとってそれまでの存在だったんじゃないか。自分は、こんなにも愛しているのに。彼女に生かされて、今、ここにいるというのに。

 野菊の顔を思い描くたび、心臓が強く脈打って、白蓮の身体の中に熱いものが体中を駆け巡る。

 やがて塵となったガラス片は、歪に集まり、白蓮の手のひらの中で鋭い剣へと姿を変えた。

(いや、違う、彼女が誰を好きでも、僕がどんなに駄目な人間でも、僕が彼女を幸せにしたい……)


「なるほど、怒りや悲しみ、幸せか何かかと思いましたが、僕の条件はこれだったんですね……」

 突然白蓮が妖力を行使し、それどころか膨大な力を発したことで茜は目を見開く。一方の白蓮は不敵に笑った。

「なるほど、どうりで今まで、条件を満たせなかったわけです」

 ゆらり、揺らめくように白蓮が茜に一歩近づく。光の一切入っていない瞳に茜が怯え後ずさりをしたとき――御所全体が大きく揺れた。

 立っていた茜が倒れかけ、壁に手をついた。その瞬間、白蓮と茜の間に黒い靄が現れる。

「なっなによこれ!」

 茜の叫びが部屋に木霊する。禍々しく、光すら通さないそこからやがて真っ白なローブを着た人物が現れた。フードを深く被っていて茜からはその姿が見えないが、地に膝をついていたことで下からその顔を覗い知った白蓮は、唖然とする。

「お初にお目にかかります、茜様。突然の訪問、多大なるご無礼のことと承知しております」

 ローブの人物は、徐にその顔を露わにした。そして、茜に手をかざす。詠唱なく発された妖術は茜の腕と足を壁に磔にした。

「なっどうして……あなた、いったい……」
「貴女たち帝一族が疎み、虫けらのように殺した者を、神としていた者ですよ」

 ローブの者――杏梨が茜に告げた後、ゆっくりと白蓮へ振りかえる。

「終わりにしましょう。全て、野菊様と共に」

 そうして、侍女であったはずの杏梨は、闇を纏って笑ったのだった。

◇◇◇

「……あ」

 強い光に瞼を焼かれ、朧げに野菊が目を開く。周囲を見渡せば真っ青な空が広がっていて、地に触れている部分は固く冷やりとしている。どうやら自分はどこかの屋上にいて横たわっていたのだと彼女が認識してすぐ、先程まで自分の近くにいた名を呼んだ。

「杏梨?」
「はい。野菊様」

 いつも通りの返事に野菊は安堵しながら身体を起こす。彼女も無事だと声のほうへ振り返った瞬間、あまりの光景に絶句した。

 白いローブを纏った杏梨が、微笑んでいる。しかしその隣には和葉茜が、それだけではなく、帝も、帝妃も、帝子も、剣士階までもが磔にされ、必死にもがいている光景であった。杏梨の近くには白蓮も拘束されていて、あまりの状況に野菊が愕然とすると、自分のすぐそばで呻き声が聞こえた。

「光琉様?」
「う……」

 先ほどの野菊と同じく横たわっていた光琉は、胡乱に瞳を開いた。起き上がりながら頭を押さえる。杏梨は「少々手荒すぎましたか」と、苦笑した。

「光琉様は緑茶を飲んでくださらなかったので、妖術を行使させていただきましたが、やはりこの身体になってから力の加減が上手くいきませんね」
「杏梨……あなた、何を……」
「断罪ですよ。野菊様。この国は腐っているので、民のためにも膿を全て出さなければならないのです」

 そう言って、杏梨は徐に手を開いた。すぐに瘴気とともに禍々しい色をした刀が現れ、彼女はそれを構えると、白蓮の首に向ける。

「杏梨!」
「安心してください野菊様。貴女が私のお話を最後まで聞いてくだされば、私の邪魔をしなければ、貴女の旦那様をお返しして差し上げます。でも……」

 杏梨は軽く刀で空を切った。ぱさり、と白蓮の毛先の一束が地に落ちる。

「次は首を狙います」

 感情のこもっていない瞳で杏梨が口角を上げた。今まで、姉のように慕っていた彼女の変貌に、野菊は息を呑む。

「杏梨、貴女、貴女は、どうしてこんなことを……」
「それはですね。先程から一言も発さない光琉様ならご存知だと思います。ねえ光琉様。貴方は帝一族がこの国の子供から妖力を奪い軍事利用したこと、そしてそれを止めようとした不月当主、夫人……そして百合様を殺したことを、知っていましたよね」
「……お姉様が……お母様が、お父様が、殺され、た……?」

 野菊の頭の中が真っ白になる。そして、光琉へと振り返った。この国は腐っているという言葉。自分は地獄に落ちるという言葉。今まで聞いてきたそれらを思いだしながら、彼女は光琉へ振り返る。

「光琉様、どういうことですか……」
「……」
「光琉様!」

 声をかけても、返事しようとしない光琉に焦れた野菊が肩を掴むと、やがて彼は苦し気に口を開いた。

「杏梨の言ったことが、全て正しい。国は、生まれたばかりの子供から妖力を吸い取る術を独自に得て、平民や、娼館で生まれた子供を相手に実験をしていたらしい。当初は妖力が膨大にある人間から少しずつ得る計画だったらしいが、平民の、貧しい出の子供なら、飢え死にするのが関の山。どうせ客を取ることしかないのだからと、殆ど吸い上げていたんだ……」
「その被害者の一人が、貴女ですよ野菊様」

 杏梨は野菊を指した。自分に妖力がないことは、生まれつき。ずっと彼女はそう思っていた。だからこそ家族を一度に失ったあの時、やりきれない気持ちで、今日まで苦しみ生きてきた。

 しかし、それが作り上げられたものだった。静かに、静かに野菊は、磔にされた帝一族を見る。ある者は目を見開き、ある者は悔しそうに顔を歪め、またある者は命乞いを繰り返していた。

「不月の双水岩の洞窟。あれは紛い物です。切り出せないからと双水岩に似せ、妖力石の備蓄を行っていたのです。しかし、唯一、誤算がありました。子らから吸った妖力石を使った人間が、人の形を成さなくなったのです。国は、それらを皆、東に捨てました」

 人の形を成さなくなったもの。そう聞いて、白蓮の脳裏に妖魔討伐の記憶がよみがえった。延々と沼地から隷属を生み出す禍の化身。中には、鳴き声をあげるものもいた。

「……もしかして、それが軍の討伐した」
「ええ。妖魔の正体ですよ」

 白蓮は、杏梨の言葉に愕然とし、目を見開いた。

「東の妖魔は減りませんよ。帝一族が変わらない限り、何故なら今もなお、帝一族は不月へ貯めこんだ妖力石を使うために、実験を繰り返しているのですから。帝一族は東の民を、いいえ和葉国の民全員を欺き続けたのです。この話を聞いた国民は、帝一族を許しはしないでしょう」

 杏梨はくすりと笑って、自分が纏う瘴気の中から水晶玉を取り出した。それらは伝達に使われる種類のものであるが、通常の砂粒程度のものではなく、彼女の手のひらに収まりきらないほどのもので、今までの話が全てこの国一帯に伝わったことを示していた。

「非合法な実験について調べ、妖力を失い死に絶える者が殆どだった中から野菊様を見つけ出し、保護し、帝一族を止めようと動いた不月当主、夫人、そして百合様を、帝一族は殺した。多様な実験結果が出て行く中で野菊様を殺して妖魔になってしまったらかなわない、そう思った貴方たちは野菊様が何も知らされていないと聞いて、さぞ喜んだことでしょう。そんな野菊様が自らの恩人の死に傷つき、黒着物を纏い社交界で嫌われていく。帝一族にとってさぞ都合が良かったことでしょう」

 杏梨は刀を引きずると、磔にされている帝一族に近づいた。

「そして、今になってまた洞窟を有効利用できないかと、墓守の老婆を襲い、墓守を国が請け負うことで、双水岩――いえ、贄の洞窟の管理をしようと目論んだ。あの老婆はよく動き回る。管理にあたって邪魔でしかありませんからね」
「ど、どうして不月の侍女ごときが、そんなことまで」
「百合様から全部聞いていたのですよ。私だけは。まぁそこの百合様の婚約者の方は、自力で調べ上げたようですけれど」

 杏梨が一瞬だけ光琉を見て、勝ち誇ったように笑う。

「貴方は革命を起こそうと各地で仲間を得ていたようですが、人を殺せば、地獄に落ちて百合様に会えなくなると悩んで、結局中途半端でしたね。妖魔を食らって力を得るか悩んで、結局それもやれずじまい。でも、天国で百合様とお会いする夢が叶いそうでよかったですね……裏切者」

 光琉は拳を握りしめ、俯いた。

「私は、野菊様を守るよう言いつけられておりました。ですから百合様に頂いた妖魔のこもったスコープで、ずっと帝一族を監視しておりました。あの方はどんな職人からでも、どんな国からでも気に入れば買ってしまう。これは、貴方たちが蛮族の国と嗤う職人の道具で、どんなに遠く離れていても照準を合わせればすぐさまその会話が聞ける代物です」

 素敵でしょう。と続けながら杏梨はスコープに頬擦りをした。そして、徐に帝を刀で貫くと、帝一族らに炎を放った。磔にされた者は皆燃やされ、絶叫が響く。

「私が貴方たちを磔にすることが出来たのも、御所で妖術が使えることも、強行して復讐が完了するのも、全て貴方たちが馬鹿にし、自分たちの利益しか見ず、馬鹿にしてきた職人の研究の、技術の集大成です。妖力石なんて貯めこまなくても、少しでも貴方たちが下々の人間を顧みていれば、何もかも違っていた」

 杏梨は全てを終わらせるよう、開いていた手を握りしめる。瞬間、磔にされていた身体たちは炭へと姿を変え、風に流されていった。

 茜を殺したいと願った白蓮だが、あまりのあっけない最期に頭に何も浮かばず、ただ何かの区切りを終えた感覚があった。杏梨はこれらの一部始終を国へ流していた妖力石を、天に掲げる。

「帝一族は、潰えました。これで悪は裁かれたのです。しかしこれまでの帝一族より、ずっといい国になることでしょう。ねえ、光琉様、貴方はこの国のために尽くしてください。革命家として国に尽くし、寿命で死に、どうぞ百合様と天国でお幸せに」

 杏梨はそう言って、水晶玉を割った。そしてゆっくりとした足取りで野菊へとまっすぐ向かっていく。

「杏梨、貴女全て知っていたなら……」

 何故私に言ってくれなかったの。

 そう続けたい気持ちを、野菊は抑える。きっと全て知っていたからこそ、言わなかったのだ。もし聞けば、野菊は復讐に加担していた。杏梨の邪魔になろうと、姉や両親になってくれた人を殺された怒りは、到底殺すことができないからだ。

「言ったでしょう。私は、貴女が妬ましかった。百合様の愛情を独り占めする貴女が、憎かった。だから貴女を仲間外れにしたかった」
「杏梨……」
「でも、貴女を妬み憎む日々も、今日で終わり」

 杏梨は笑うと、突如瘴気を纏ったまま野菊に向かって倒れこむ。野菊は驚き杏梨の頬に触れ肩を揺するが、杏梨は血を吐きながらただ浅く息を繰り返すばかりだ。

「杏梨! 杏梨! どこか、どこか怪我を――?」
「ふふ。妖魔を食らい、妖力の補強をした代償ですので、怪我なんかじゃありませんよ」
「いや! 待って、待って杏梨、私を置いていかないで! 杏梨!」
「安らかな気持ちです。ねぇ、野菊様。野菊様も、何か、何か終わらせてください。例えばこの、黒い服を着ることとか……貴女はきっと、もっと明るい色のほうが映えますよ。あとは……そうだ、墓参り、毎日なんて行くのはやめて、もっと自由に過ごしてください……百合様は墓場なんて退屈だと、すぐに飽きてしまうから。貴女が幸せだ、楽しいと思った時にきっと、それを知りたくて少しだけ降りてくる。そういう人たちだ。だから少しは、自分の幸せを見つける努力をしてくださいね……」

 なんてことのない、世間話。けれどもう一生できないことがありありとわかって、野菊は杏梨の頬に触れた。杏梨はその手を掴み、涙で濡れる赤い瞳を一心に見つめる。

「ねぇ、野菊様」
「なに、なに杏梨」
「私、ずっと……私から、百合様の愛を奪った貴女のことが、大嫌いだったんですよ……? でも、いまは……」
「杏梨……!」

 野菊は杏梨の肩を何度も揺さぶる。しかし彼女の瞳は固く閉じられ開く気配がない。野菊は狂ったように杏梨の名前を呼び続ける。その絶叫は、やがて雨が降り出してもなお、御所の屋上に木霊していた。

◇◇◇

 不月の夜空に、青白い月が浮かぶ。野菊は自室のバルコニーで、ただただそれを見上げている。

 杏梨は、何においても手を抜くことはなかった。復讐においても同じで、自分が死んだ後のことも完璧に計算し尽くし手を打っており、御所の屋上で杏梨の亡骸に縋りついていた野菊、そして彼女を止められない白蓮や光琉の前には、杏梨が手配していた国の遣い──帝一族と距離がある華族や、すべてを知った軍の上層部が現れ、皆を保護した。

 そうしてその夜、杏梨が術式を組んでいた妖術で不月の地に転送された野菊たちは、明日から帝一族の体制が変わり全てが明るみになり、国が変わっていくこともあって、これから忙しくなると早々に各々の部屋に戻ることとなったのだ。

 白蓮は、野菊の姿を後ろから見つめる。

 漆黒のローブを羽織る彼女は、今にも夜闇に溶けていくようにも見えた。手すりだって掴んでいるのに、今にもそのまま身を投げてしまいそうで、不安に駆られた白蓮はそっと彼女の隣に立った。

「白蓮様……、ご無事で、何よりです。本当に……」

 野菊は、白蓮に目を合わせた。しかしその瞳は自分に向けているようでまったく向いていないと感じた白蓮の胸に、やるせない気持ちがよどんでいく。

「……杏梨は、今、どこにいるんでしょうね……」

 冷たい風が、二人の間を通り抜ける。野菊は、もう会うことのない侍女への思いを馳せていく。

「ずっと復讐を考えて、御姉様のことを、御父様、御母様の仇を討つことを考えて生きてきたのに、私はずっと、死ぬことばかり考えていました。助けてもらった命だから、間違っても無駄にしてはいけない。きちんと生きなければいけない。それなのに……」

 野菊は涙を流す。彼女はずっと、ずっと死に焦がれていた。一途に一途に終わりを想っていた。

「三人に、会いたくてたまらないと……、寂しくて」

 しかし、それを今日、こんなにも後悔するとは思っていなかった。もう少し、もう少し目の前の杏梨を見ていれば、こんな結末を迎えることはなかったのかもしれない。呪いを分け合って、今彼女を失うことだけは避けることができたかもしれない。

 こんなことになるなら、もっと、もっと杏梨と話しておけばよかった。

 彼女を見ていればよかった。後悔をしても、何もかもが遅いことは痛いほどにわかっている。でもめまぐるしく杏梨との記憶を思い起こしてしまうほど、彼女との思い出は野菊にとって温かく、今、抉るほどの痛みを伴うほどに優しい記憶だった。

「杏梨と、お茶をする時間が好きでした。一緒にお花の水やりをする時間が好きでした。他愛もない話をする時間が好きでした。でも楽しいと感じるたびに、何かを裏切っている気がして苦しかった。だから、私は彼女に、何も伝えていない。好きだとも、なにも……それなのに、それなのに、私は」

 野菊の瞳から、大粒の涙が溢れる。

「幸せになんて、なりたくない……!」

 このまま、大切な人を見送って生きることなんて、拷問だ。御姉様も、御母様も御父様も、杏梨だってこの世界にいないのにと、野菊は涙を流しただ掌を握る。誰の手も借りる気はないと、まるでそう伝えるように。

「許しませんよ。そんなことは」

 冷たい白蓮の声が響いた後、野菊は腕を掴まれ引っ張られた。そのまま白蓮に抱き留められ、その腕の中に囚われた。

「結局、貴女は死に魅入られているだけだ。貴女は、僕に救われたのでしょう。僕の耳飾りを、大切にしているくらいにはーー」

 白蓮は、野菊の頬に触れ、無理やり瞳を合わさせる。月明りの光を受けた白蓮の瑠璃色の瞳はぞっとするほどに、野菊が今まで見てきたどんなものよりも昏く、凍てついた美しさを持っていた。

「僕は、貴女のせいで死にます。貴女が、僕を見てくれなければ、死に見初められるのならば、貴女の前で、世界で一番惨たらしく苦しみ、醜く僕は死にます。貴女が、僕を殺すのです、また、あの侍女のように、貴女の姉のように、母のように父のように、僕は貴女の心だけの存在と成り果てることを誓います」

 白蓮は、薄く笑って、そのまま野菊に口づけをした。

「貴女は、この生き地獄の中で幸せになるのです。それが、僕を捨てようとした、貴女の罰なのですよ。どこまでも苦しみ、最期まで……地獄に落ちて落ちて、その果てまで、貴女は僕と一緒にいて、罰を受け続けるのです」
「白蓮様……」
「愛していますよ。だからどうか、全て、僕のせいにしてください」

 白蓮が、野菊を見つめる。その優しさに、野菊はこんなに優しく、残酷な罰があるのかと、涙を流す。やがて彼方から日が昇り始め、月明りではなく太陽が二人を照らそうとしていた。

◇◇◇

 和葉国の帝一族は、正義の断罪者により、長年築き上げてきた暴虐の歴史に幕を閉じた。国の未来を担う子らから悪戯に妖力を奪った挙句、その妖力によって人から外れた者を東へと捨てた末、自身の道を阻もうとした辺境の一家を殺した悪しき帝一族は皆死に絶えた。そして今、和葉国は新たな歴史を歩もうとしている。

 奇しくも国が生まれ変わった日は、正義に生きたことでこの世を去った不月の当主、夫人、長女百合の亡き日と重なったことで、毎年の雨季の半ばは、永年不月の正義に散った者たち、帝一族により未来を悪戯に奪われた者たちの慰霊、犠牲となった者たちのために新しい未来を踏み出そうという決起の日となった。

 今日は革命から一年が経ち、初めての慰霊祭だ。

 不月の街並みは桃、橙、深緑などそれぞれ不月当主、夫人、その娘百合の好んだ色の傘が妖術を使って空に浮かべられ、その下では純白の花々が縁取っている。

 そうして人々が並び、慰霊碑へ向かっていく姿を、野菊は杏梨の遺したスコープからそっと見つめる。しかし後ろからはたかれ、すぐ振り返った。

「なんだいお前は、そんな風にしてるならもう一回行って来たらどうだい」

 みな子が怪訝な目を野菊に向ける。野菊は「私はもう朝に行きましたし、それに私がいると騒がしくなってしまうので……」

 慰霊祭の開催を主導したのは野菊だった。長年、当主や夫人を殺し財を自分のものにしようとしたと疑われた彼女の潔白は証明され、同情の声が増えた。

 慰霊祭が行われるなら自分が行いたいと考え実行した彼女だったが、今朝方、屋敷を出るとと遠方から訪れた者たちが謝罪がしたいと複数現れたため、慰霊祭の円滑な進行の為、姿を見せぬよう配慮したのだった。

 よって今現在は、現在国営の中枢で働くこととなった光琉に任せ、治郎吉に彼の手伝いをするよう命じている。

 しかし、野菊には慰霊祭を主導した責任があり、墓場からスコープを用いて見回っていたのである。

「もう、あれから一年になるねえ」

 みな子が傘が並べられた街並みに目を向ける。桃、橙、深緑、そしてもう一つ。淡い黄色がある。生前杏梨が好きだった色で、今日の慰霊祭も教会では伯爵と夫人、百合、杏梨の名前が大きく書かれていた。

「はい……」

 野菊が手元のスコープに視線を落とす。杏梨は自分が死ぬことを全て計算していたようで、侍女の自分が抜けたときの為に治郎吉を教育し、屋敷の運営が滞らないよう配慮していた。

 杏梨だけがいない日々。杏梨不在による不便が不自然すぎるくらいにない。それは長年、杏梨が復讐及び自分の不在を計画していたことをあらわしていた。

 野菊が寂しげにスコープを撫でていると、彼女の足元に影が差した。顔を上げると、柔和な笑みが視界に映り込む。

「白蓮様」
「そろそろスコープでの観察を終えた頃かと思いまして。もうお昼の時間になりますし」

 白蓮は手に持った籠を軽く持ち上げる。握りしめた左手の薬指には、野菊のはめるものと同じ、光を受け七色に輝く白蓮の妖力石で出来た指輪がはめられている。

 あれから、茜が亡くなったことで彼女が直々に結んだ契約の悉くが無効化された。

 野菊と白蓮の結婚は、茜が命じ、用意されていた司祭たちによって契約が結ばれた。しかし野菊と白蓮の離縁は茜が無理やり執り行ったために、離縁だけがなくなったのだ。

「そうですね……もうこんな時間ですもんね」

 野菊はスコープを抱きしめ、墓場を後にする。みな子は手を振り、彼女の隣に立ちながらも一言も発さなかった延珠も野菊たちを見送った。野菊と白蓮は、ゆっくりと山の奥、湖へと歩いていく。

「本当にいいのですか? 民と昼食をとらなくて。食事会、誘われていましたよね」
「はい……」

 野菊は、視界の隅、鬱蒼と茂る木々からこちらを覗くように見える双水岩の洞窟に目を向けた。洞窟は、帝一族の罪を忘れぬよう残すことが決められている。洞窟に纏わる真実を知ってから、野菊は自分の妖力があそこに込められているということよりも、どこか子供たちが集まって騒いでいる奇妙な感覚がしていた。実際、白蓮とともに初めてこの場所を訪れたとき、学び舎に通う子供たちがいた事実はないと後になったことも思い出し、その考えは確信に変わりつつある。

「何を考えているのです。僕の話を聞いていましたか?」
「あ……、ああ。今日の様子ですと、きっと弔いとは異なった状態になってしまうでしょうから」
「皆さんが謝って、野菊様は気持ちよくないのですか? 貴方を侮辱した者が謝っているのに」
「ええ。今日は慰霊祭が大切ですから」

 野菊の言葉に、白蓮は「そうですか……」と残念がる。そして彼女に見えないよう、聞こえないように音を立てず指を鳴らすそぶりをした。その瞬間、ふわりと風が舞い上がる。

 ちょうど向かいから、野菊を探しにやってきた遠方からの来客がやってきていたが、二人ははっとした様子で踵を返し歩いて行った。

 これでよし、と白蓮は野菊を見る。

「では、食事が終わったら、午後にもう一度町に降りましょうか。やはり野菊様がいらっしゃったほうがいいと思いますし」
「分かりました」

 やがて二人は湖に辿り着き、刺繍の式布の上に座り、湖を眺め始めた。

「綺麗ですね」
「ええ」

 白蓮は、そっと野菊の膨らんだ腹を撫でた。今、野菊の身体には彼の子供が命を育んでいる。

 不月の夏が終わった時には、きっと元気な声を野菊に聞かせているのだろうと、白蓮は想いを馳せる。

「どうされました?」
「ああ。来年にはこの子と貴女の作ったおにぎりの取り合いをしていると思うと、感慨深いなと思っただけです」
「あ、赤子はおにぎりを食べることは出来ませんよ……」

 野菊が不安げに白蓮を見た。もともと研究気質な白蓮は、子についても学ぶようにしている。

「私は、いい父親になれるか、わかりません。何せ育った環境が特殊ですから、なので不安に思って、色々と可能性を考えてしまうのです」
「白蓮様……」
「暗い話をしてるわけではありませんよ。これから先、楽しみでもあるのです。貴女と家族になって、貴女の夫として生きることが」

 白蓮は、野菊を見つめた。彼女の腹を撫でるのをやめて、そっと手を握る。

 野菊が安心するように白蓮の方にもたれ、笑みを浮かべた。その表情を横目に、白蓮は祈る。

 野菊の感情が愛でなくても構わない。夫婦として男として愛されずとも、どうか彼女が幸せであれば。

 そして、その隣に自分がいることをどうか許してほしい。

 ただそれだけを、心から祈る。