大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

朝の空気は、思ったより冷たかった。

朱里は駅へ向かう途中で、何度も足を止めそうになった。

見送ると決めたのは自分なのに、身体がそれを拒んでいる。

改札前は、人が多かった。

出勤の波と、出張者と、いつもの朝。

──この中に、嵩も混じってしまう。

そう思うと、胸の奥がきゅっと縮む。

「中谷」

後ろから呼ばれて、朱里は振り向いた。

嵩はスーツケースを足元に置き、少し困ったように立っていた。

昨日と同じ顔。

でも、もう“同じ日常”の人ではない。

「来てくれて、ありがとう」

「……はい」

それだけで、会話は途切れた。

言うべきことは、もう全部言った。

そう思っていたのに、沈黙はまだ重い。

嵩は一度、視線を落とす。

それから、意を決めたように口を開いた。

「答え、ちゃんと用意してきたんだけど」

朱里の指先が、わずかに震える。

「……でも、やめた」

驚いて見上げると、嵩は小さく笑った。

「昨日の夜、考えた。
“行く”“行かない”とか、“待つ”“待たせる”とか……
全部、結論を出そうとした」

スーツケースの持ち手を、軽く握り直す。

「でもさ、それって──
朱里の選択を、先に奪う気がして」

朱里は、息を詰めた。

「俺が言えるのは、これだけ」

嵩は、真正面から朱里を見る。

「行く。仕事だから。
でも、戻ってくる場所を、切り捨てない」

それは、告白ではなかった。

約束とも、断言とも違う。

「連絡、する。
会いに来る。
もし……朱里が、来たいって思ったら、拒まない」

一つずつ、確かめるように。

「終わらせないっていう選択だけは、
俺のほうで、決めさせてほしい」

朱里の胸に、静かに熱が広がる。

好き、と言わなくてもいい。

泣かなくてもいい。

この人は、逃げなかった。

「……ありがとうございます」

朱里は、深く息を吸った。

「私も……
ちゃんと選びます」

嵩は、少し驚いた顔をしてから、頷いた。

「うん」

改札の向こうで、発車の案内が流れる。

「行ってきます」

「……いってらっしゃい」

嵩は一歩進み、振り返る。

「中谷」

「はい」

一瞬、言葉を探す間があって──
結局、嵩はこう言った。

「嫌いじゃないって、
ちゃんと伝えてくれて、ありがとう」

朱里は、笑った。

「……大嫌い、って言わなかっただけです」

「それが一番、効いた」

改札を抜ける背中を、朱里は最後まで見送った。

胸は痛い。

でも、空っぽじゃない。

これは別れじゃない。

選ばなかった結末だ。

朱里はそう、静かに理解していた。