朱里の言葉が消えたあと、
オフィスには、しばらく何も起きなかった。
嵩はすぐに答えなかった。
慰める言葉も、綺麗な締めも用意しない。
ただ、視線を外し、ゆっくりと息を吐く。
「……そっか」
それだけ言って、少し笑った。
苦笑に近い、でもどこか安堵したような表情。
朱里は、その横顔を見つめる。
“大嫌い”と言わなかったことで、何かが壊れる気がしていた。
でも壊れたのは、沈黙のほうだった。
「正直に言うと」
嵩は天井を見上げる。
考えを整理する癖は、昔から変わらない。
「最初から、嫌いだなんて……信じてなかった」
朱里の胸が、ひくりと鳴る。
「冗談だって、照れ隠しだって、分かってた。
……分かってた、つもりだった」
嵩は朱里を見る。
真っ直ぐだが、責める目ではない。
「でも、信じ続けるのって……結構、怖い」
その一言で、朱里は悟った。
彼もまた、守っていたのだと。
「嫌われてないって信じるのは、
裏切られたときに、全部自分が傷つくから」
嵩は、そこで言葉を切った。
「だから俺は……途中から、
“本気で嫌われてる”って思うほうを選んだ」
朱里は何も言えなかった。
それは、責められているのとは違った。
同じ臆病さを、違う形で抱えていた。
ただそれだけのこと。
「転勤の話も」
嵩は続ける。
「一人で決めようとしてた。
朱里に何か言われる前に、終わらせたかった」
視線が交わる。
「でも、さっきの言葉で……やめた」
朱里の心臓が、強く脈打つ。
「行くか、行かないかは……まだ分からない。
でも、少なくとも──」
嵩は一歩、近づいた。
それ以上は来ない。
「終わらせるつもりは、ない」
触れない距離。
でも、逃げない距離。
「重い話だって言ったけどさ」
少し照れたように、嵩は笑う。
「一緒に考える相手がいるなら、
重くても、いいと思った」
朱里の喉が熱くなる。
好き、という言葉は、まだ出てこない。
でも──
「……待っても、いいですか」
朱里は、震えながら言った。
「ちゃんと、選べるようになるまで」
嵩は、すぐに頷かなかった。
でも、否定もしなかった。
「待つよ」
短く、確かに。
「朱里が、選ぶなら」
二人の間に、また静けさが戻る。
けれどそれは、最初とは違う沈黙だった。
言わなかった言葉が、
言えなかった感情が、
確かに──残っている。
「……行きますか」
朱里が言う。
「はい」
並んで歩き出す。
肩は触れない。
でも、同じ方向を向いている。
それだけで、十分だった。
オフィスには、しばらく何も起きなかった。
嵩はすぐに答えなかった。
慰める言葉も、綺麗な締めも用意しない。
ただ、視線を外し、ゆっくりと息を吐く。
「……そっか」
それだけ言って、少し笑った。
苦笑に近い、でもどこか安堵したような表情。
朱里は、その横顔を見つめる。
“大嫌い”と言わなかったことで、何かが壊れる気がしていた。
でも壊れたのは、沈黙のほうだった。
「正直に言うと」
嵩は天井を見上げる。
考えを整理する癖は、昔から変わらない。
「最初から、嫌いだなんて……信じてなかった」
朱里の胸が、ひくりと鳴る。
「冗談だって、照れ隠しだって、分かってた。
……分かってた、つもりだった」
嵩は朱里を見る。
真っ直ぐだが、責める目ではない。
「でも、信じ続けるのって……結構、怖い」
その一言で、朱里は悟った。
彼もまた、守っていたのだと。
「嫌われてないって信じるのは、
裏切られたときに、全部自分が傷つくから」
嵩は、そこで言葉を切った。
「だから俺は……途中から、
“本気で嫌われてる”って思うほうを選んだ」
朱里は何も言えなかった。
それは、責められているのとは違った。
同じ臆病さを、違う形で抱えていた。
ただそれだけのこと。
「転勤の話も」
嵩は続ける。
「一人で決めようとしてた。
朱里に何か言われる前に、終わらせたかった」
視線が交わる。
「でも、さっきの言葉で……やめた」
朱里の心臓が、強く脈打つ。
「行くか、行かないかは……まだ分からない。
でも、少なくとも──」
嵩は一歩、近づいた。
それ以上は来ない。
「終わらせるつもりは、ない」
触れない距離。
でも、逃げない距離。
「重い話だって言ったけどさ」
少し照れたように、嵩は笑う。
「一緒に考える相手がいるなら、
重くても、いいと思った」
朱里の喉が熱くなる。
好き、という言葉は、まだ出てこない。
でも──
「……待っても、いいですか」
朱里は、震えながら言った。
「ちゃんと、選べるようになるまで」
嵩は、すぐに頷かなかった。
でも、否定もしなかった。
「待つよ」
短く、確かに。
「朱里が、選ぶなら」
二人の間に、また静けさが戻る。
けれどそれは、最初とは違う沈黙だった。
言わなかった言葉が、
言えなかった感情が、
確かに──残っている。
「……行きますか」
朱里が言う。
「はい」
並んで歩き出す。
肩は触れない。
でも、同じ方向を向いている。
それだけで、十分だった。



