別れの日は、思っていたより静かだった。
送別会の片づけが終わり、フロアには人の気配がほとんど残っていない。
窓の外では、いつもと変わらない夜景が光っていた。
──こんなものか。
朱里は自分の胸の奥を探る。
痛いほど苦しいのに、世界は何事もなかったように続いている。
「中谷」
呼ばれて振り向くと、平田嵩が立っていた。
スーツ姿のまま、ネクタイを少し緩めている。
見慣れた姿なのに、今日だけは“遠くなる人”に見えた。
「……お疲れさまでした」
それだけ言って、帰ればよかった。
そうすれば、何も壊さずに済んだ。
でも、足が動かなかった。
「送別会、ありがとう」
嵩が言う。
いつも通りの、穏やかな声。
朱里は笑おうとして、失敗した。
喉の奥に、何かが詰まる。
言い慣れた言葉が、自然に浮かんできた。
──大嫌い。
これを言えば、終われる。
これを言えば、これ以上近づかなくていい。
朱里は息を吸った。
「……」
唇が開く。
でも、音にならなかった。
不思議だった。
今まで何十回、何百回も言ってきたのに。
こんなにも簡単だった言葉が、どうしても出てこない。
胸が苦しくなって、視界が滲む。
「あ、あの……」
声が震えた。
泣くつもりなんてなかったのに、涙がこぼれ落ちる。
嵩は何も言わず、ただ朱里を見ている。
急かさない。
いつもそうだった。
朱里は拳を握りしめた。
「……それ」
喉が詰まって、言葉が途切れる。
「それ、もう……言えなくなりました」
言った瞬間、何かがほどけた。
ずっと、自分を守ってくれていた壁。
近づきすぎないために作った、薄い膜。
それを、自分の手で下ろした感覚。
涙は止まらなかった。
でも、叫びはしなかった。
「好きって……言うの、まだ怖いです」
震える声で、朱里は続ける。
「ちゃんとした言葉にしたら、
全部壊れそうで……逃げ場がなくなりそうで」
嵩は黙ったままだ。
それが、ありがたかった。
「でも……」
朱里は一歩だけ、前に出た。
ほんの数センチ。それでも、今までで一番遠い距離。
「何も言わないまま、いなくなるのは……
それは、もっと怖いって……今日、初めて思いました」
静寂が、二人の間に落ちる。
遠くでエレベーターの音がした。
それすら、現実から切り離されたみたいだった。
朱里は、もう一度息を吸う。
「だから……今日は」
言葉を探しながら、はっきりと。
「大嫌い、って……言いません」
それが、百回目の「大嫌い」。
言わなかったという事実だけが、
はっきりと、その場に残った。
朱里は顔を上げた。
泣き腫らした目で、嵩を見る。
逃げなかった。
隠れなかった。
選んだ。
この瞬間だけは。
送別会の片づけが終わり、フロアには人の気配がほとんど残っていない。
窓の外では、いつもと変わらない夜景が光っていた。
──こんなものか。
朱里は自分の胸の奥を探る。
痛いほど苦しいのに、世界は何事もなかったように続いている。
「中谷」
呼ばれて振り向くと、平田嵩が立っていた。
スーツ姿のまま、ネクタイを少し緩めている。
見慣れた姿なのに、今日だけは“遠くなる人”に見えた。
「……お疲れさまでした」
それだけ言って、帰ればよかった。
そうすれば、何も壊さずに済んだ。
でも、足が動かなかった。
「送別会、ありがとう」
嵩が言う。
いつも通りの、穏やかな声。
朱里は笑おうとして、失敗した。
喉の奥に、何かが詰まる。
言い慣れた言葉が、自然に浮かんできた。
──大嫌い。
これを言えば、終われる。
これを言えば、これ以上近づかなくていい。
朱里は息を吸った。
「……」
唇が開く。
でも、音にならなかった。
不思議だった。
今まで何十回、何百回も言ってきたのに。
こんなにも簡単だった言葉が、どうしても出てこない。
胸が苦しくなって、視界が滲む。
「あ、あの……」
声が震えた。
泣くつもりなんてなかったのに、涙がこぼれ落ちる。
嵩は何も言わず、ただ朱里を見ている。
急かさない。
いつもそうだった。
朱里は拳を握りしめた。
「……それ」
喉が詰まって、言葉が途切れる。
「それ、もう……言えなくなりました」
言った瞬間、何かがほどけた。
ずっと、自分を守ってくれていた壁。
近づきすぎないために作った、薄い膜。
それを、自分の手で下ろした感覚。
涙は止まらなかった。
でも、叫びはしなかった。
「好きって……言うの、まだ怖いです」
震える声で、朱里は続ける。
「ちゃんとした言葉にしたら、
全部壊れそうで……逃げ場がなくなりそうで」
嵩は黙ったままだ。
それが、ありがたかった。
「でも……」
朱里は一歩だけ、前に出た。
ほんの数センチ。それでも、今までで一番遠い距離。
「何も言わないまま、いなくなるのは……
それは、もっと怖いって……今日、初めて思いました」
静寂が、二人の間に落ちる。
遠くでエレベーターの音がした。
それすら、現実から切り離されたみたいだった。
朱里は、もう一度息を吸う。
「だから……今日は」
言葉を探しながら、はっきりと。
「大嫌い、って……言いません」
それが、百回目の「大嫌い」。
言わなかったという事実だけが、
はっきりと、その場に残った。
朱里は顔を上げた。
泣き腫らした目で、嵩を見る。
逃げなかった。
隠れなかった。
選んだ。
この瞬間だけは。



