(嵩の送別会)
店は、駅前の居酒屋だった。
特別おしゃれでもなく、
かといって雑でもない、
会社の飲み会にはちょうどいい場所。
「では、本日は平田さんの送別会ということで──!」
乾杯の音頭とともに、
グラスがぶつかる音が響く。
拍手。
笑顔。
「お世話になりました!」という声。
嵩は、いつも通り穏やかに笑っていた。
「ありがとうございます。
正直、まだ実感はないんですが……」
模範的で、角の立たない挨拶。
朱里は、その斜め前の席に座っていた。
グラスを持つ手が、少しだけ強張っている。
(……送別会、なんだ)
分かっていた。
ずっと分かっていた。
でも、
「転勤の話」
「話す場所」
「言葉を選ぶ夜」
そうやって細切れに受け止めてきたものが、
この拍手で一気に“現実”になった。
「中谷さん、大丈夫?」
隣の瑠奈が、こそっと声をかけてくる。
「……うん」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
瑠奈はそれ以上何も言わなかった。
代わりに、嵩の方を一度だけ見て、すぐ視線を戻す。
(先輩、ちゃんと選ぶんだな)
そんな顔だった。
料理が運ばれ、会話が弾み始める。
嵩の周りには自然と人が集まる。
仕事の話。
失敗談。
地方支社の噂。
朱里は、少し距離のある位置でそれを聞いていた。
話しかけようと思えば、できる。
でも──
“ここ”じゃない。
ここで言う言葉は、
誰かに聞かれる前提の言葉になってしまう。
朱里は、それが嫌だった。
(私は、選びたい)
言うなら、
ちゃんと“二人の言葉”として。
宴もたけなわになった頃、
美鈴が立ち上がった。
「じゃあ、最後に一言だけ」
店内が静まる。
「平田さん。
あなたがいなくなるのは正直困ります」
笑いが起きる。
「でも、あなたがどこに行っても
ちゃんとやる人だってことは、
ここにいる全員が知ってます」
美鈴は一度、朱里の方を見た。
ほんの一瞬。
でも、その視線は確かにこう言っていた。
──今は、言わなくていい。
「だから今日は、
“頑張って”も“寂しい”も言いません」
美鈴はグラスを持ち上げる。
「ただ一つだけ。
選んだ道を、ちゃんと歩いてください」
乾杯。
拍手。
嵩は、深く頭を下げた。
その拍手の中で、
朱里は気づいてしまった。
(……私、引き止めてない)
それは、強がりでも、諦めでもない。
ただ、
「今は言わない」と決めただけ。
会が終わり、店の外に人が流れ出す。
「平田さん、向こうでも連絡くださいよ!」
「今度遊びに行きます!」
そんな声の中で、
朱里と嵩の目が、一瞬だけ合った。
言葉はない。
でも、
“まだ終わってない”という合図だけが、確かにあった。
夜風が、少し冷たい。
拍手の余韻が、まだ耳に残っている。
その中で朱里は思う。
(言わなかったことは、消えてない)
言わなかった言葉は、
まだ、胸の中にちゃんとある。
それを渡すかどうか──
決めるのは、もう少し先だ
店は、駅前の居酒屋だった。
特別おしゃれでもなく、
かといって雑でもない、
会社の飲み会にはちょうどいい場所。
「では、本日は平田さんの送別会ということで──!」
乾杯の音頭とともに、
グラスがぶつかる音が響く。
拍手。
笑顔。
「お世話になりました!」という声。
嵩は、いつも通り穏やかに笑っていた。
「ありがとうございます。
正直、まだ実感はないんですが……」
模範的で、角の立たない挨拶。
朱里は、その斜め前の席に座っていた。
グラスを持つ手が、少しだけ強張っている。
(……送別会、なんだ)
分かっていた。
ずっと分かっていた。
でも、
「転勤の話」
「話す場所」
「言葉を選ぶ夜」
そうやって細切れに受け止めてきたものが、
この拍手で一気に“現実”になった。
「中谷さん、大丈夫?」
隣の瑠奈が、こそっと声をかけてくる。
「……うん」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
瑠奈はそれ以上何も言わなかった。
代わりに、嵩の方を一度だけ見て、すぐ視線を戻す。
(先輩、ちゃんと選ぶんだな)
そんな顔だった。
料理が運ばれ、会話が弾み始める。
嵩の周りには自然と人が集まる。
仕事の話。
失敗談。
地方支社の噂。
朱里は、少し距離のある位置でそれを聞いていた。
話しかけようと思えば、できる。
でも──
“ここ”じゃない。
ここで言う言葉は、
誰かに聞かれる前提の言葉になってしまう。
朱里は、それが嫌だった。
(私は、選びたい)
言うなら、
ちゃんと“二人の言葉”として。
宴もたけなわになった頃、
美鈴が立ち上がった。
「じゃあ、最後に一言だけ」
店内が静まる。
「平田さん。
あなたがいなくなるのは正直困ります」
笑いが起きる。
「でも、あなたがどこに行っても
ちゃんとやる人だってことは、
ここにいる全員が知ってます」
美鈴は一度、朱里の方を見た。
ほんの一瞬。
でも、その視線は確かにこう言っていた。
──今は、言わなくていい。
「だから今日は、
“頑張って”も“寂しい”も言いません」
美鈴はグラスを持ち上げる。
「ただ一つだけ。
選んだ道を、ちゃんと歩いてください」
乾杯。
拍手。
嵩は、深く頭を下げた。
その拍手の中で、
朱里は気づいてしまった。
(……私、引き止めてない)
それは、強がりでも、諦めでもない。
ただ、
「今は言わない」と決めただけ。
会が終わり、店の外に人が流れ出す。
「平田さん、向こうでも連絡くださいよ!」
「今度遊びに行きます!」
そんな声の中で、
朱里と嵩の目が、一瞬だけ合った。
言葉はない。
でも、
“まだ終わってない”という合図だけが、確かにあった。
夜風が、少し冷たい。
拍手の余韻が、まだ耳に残っている。
その中で朱里は思う。
(言わなかったことは、消えてない)
言わなかった言葉は、
まだ、胸の中にちゃんとある。
それを渡すかどうか──
決めるのは、もう少し先だ



