大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

(田中美鈴視点)
朝のオフィスは、いつも通りだった。

コピー機の音。

コーヒーの香り。

始業前の、少しだけ緩んだ空気。

その中で、美鈴は一瞬で気づいた。

(……ああ)

朱里が、いつもより少し静かだ。

無理に笑ってはいない。

でも、考えごとをしているとき特有の、視線の置きどころのなさがある。

数分遅れて出社してきた嵩も、同じだった。

挨拶は普通。

態度も変わらない。

けれど、美鈴の目にははっきりと映る。

(二人の“間”が、昨日より張り詰めてる)

悪い意味じゃない。

壊れそうな緊張じゃなくて、
触れれば動いてしまう、完成直前の形。

美鈴は自席でPCを立ち上げながら、ふっと小さく息を吐いた。

(……もう、私の出番じゃないな)

少し前なら、声をかけていた。

朱里をランチに誘って、
「不安なら不安って言えばいい」
そう背中を押したかもしれない。

あるいは嵩に、
「彼女は強がるタイプだから」

と釘を刺したかもしれない。

でも、今日は違う。

朱里は、自分で考えている顔をしている。

嵩は、自分で選ぼうとしている顔をしている。

その間に割って入るのは、
助けじゃなく、奪うことになる。

美鈴は資料をめくりながら、心の中で整理する。

(二人とも、もう“逃げない”段階に入ってる)

逃げない、というのは、
必ずしも追いかけることじゃない。

時には、立ち止まって、
相手が来るのを待つことでもある。

昼前、コピー機の前で朱里とすれ違った。

「おはよう、美鈴さん」

「おはよう。……今日は忙しくなりそうね」

他愛ない会話。

でも、その一瞬で、美鈴は確信する。

(この子、ちゃんと自分で選ぶ気だ)

不安も、迷いも、

誰かに預けずに抱えたまま。

だからこそ、ここで余計な言葉はいらない。

午後、嵩から業務の相談を受けたときも同じだった。

「この資料、表現どう思います?」

「問題ないと思いますよ。
 ……あとは、平田さんがどうしたいかですね」

それだけ。

含みも、助言も、裏の意味もない。

嵩は一瞬だけ考える顔をして、
「そうですね」と頷いた。

(分かってる)

美鈴は内心でそう呟く。

彼ももう、誰かの許可を待つ段階じゃない。

夕方。

朱里が帰り支度を始めるのを、美鈴は遠目に見る。

声はかけない。

引き止めもしない。

「大丈夫?」と聞くことすら、今日はしない。

(信じるって、何もしないことも含まれる)

それは冷たさじゃない。

相手の力を信じる、覚悟だ。

美鈴はバッグを持ち、最後に二人の背中を見る。

朱里と嵩は、まだ話していない。

でも、同じ方向を見ている。

その事実だけで、十分だった。

(さあ)

心の中で、小さく区切りをつける。

(ここから先は、あなたたちの物語)

美鈴は電気を消し、オフィスを後にした。

振り返らない。

何もしない。

それが、今の二人にとって
いちばん正しい距離だと知っているから。

夜の廊下に足音が響く。

その音は、
誰かの背中を押すためじゃなく、
静かに見守るためのものだった。