大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

(嵩視点)
部屋に入って、電気をつけなかった。

スーツのままソファに腰を下ろし、背もたれに頭を預ける。

今日一日、頭のどこかでずっと引っかかっていたことが、
静けさの中で、はっきりと形を持ち始めた。

(朱里は……何も言わなかった)

引き止めもしなかった。

責めもしなかった。

期待も、不安も、全部飲み込んだような顔で、

ただ話を聞いて、頷いて、そこに立っていた。

嵩は目を閉じる。

思い出すのは、別れ際の朱里の横顔だ。

笑っていたわけじゃない。

でも、泣きそうでもなかった。

あの表情が、ずっと胸に残っている。

(あれは……納得、じゃない)

そう思った瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。

納得していたなら、もっと楽だったはずだ。

「行ってください」

そう言われていたら、覚悟はもっと単純だった。

でも朱里は、そう言わなかった。

嵩はゆっくりと息を吐く。

(じゃあ、なんで言わなかったんだ)

遠慮?

大人の配慮?

それとも──信頼?

どれもしっくりこない。

朱里は、言葉を選ぶ人だ。

感情がないから黙るんじゃない。

むしろ逆で、感情が多すぎるから、慎重になる。

それを、嵩は知っている。

「大嫌い」
何度も聞いたその言葉の裏に、
どれだけの迷いと防衛があったか。

嵩は立ち上がり、キッチンで水を飲む。

コップを置く音が、やけに大きく響いた。

(言わなかった理由は……俺に委ねた、からか)

自分で考えろ、選べ、と。

それは突き放しじゃない。

信頼だ。

でも同時に、
「私は、ここから先を決めきれていない」
というサインでもある。

嵩はソファに戻り、天井を見る。

(……ずるいな)

そう思って、苦笑した。

朱里が言わなかったから、
自分は勝手に考えてしまう。

期待してしまう。

「もし、言ってくれたら」

「もし、引き止められたら」

そんな仮定ばかりが浮かぶ。

でも。

(それを言わせなかったのは、俺だ)

転勤という現実を差し出したのは、自分だ。

答えを急がせないと言いながら、
選択の重さだけは、きっちり置いていった。

嵩は、ゆっくりと目を閉じる。

朱里が何も言わなかった理由。

それは──
今の自分が、受け止められる分だけを差し出したからだ。

全部を預けない。

でも、何も言わない場所には戻らない。

その境界線に、彼女は立っていた。

(……それで、十分だと思った)

だからこそ、嵩は逃げられない。

「引き止められなかったから行く」

そんな言い訳は、もう使えない。

選ぶなら、自分の意志で選ぶ。

そして。

(選んだ先で、もう一度話す)

それが、彼女が言わなかった言葉への、
自分なりの答えだ。

嵩はスマートフォンを手に取る。

朱里とのメッセージ画面を開く。

新しい通知は、ない。

でも、焦りはなかった。

(まだ、途中だ)

夜は、答えを出す時間じゃない。

でも、問いから逃げない時間だ。

嵩は画面を伏せ、深く息を吐いた。

朱里が何も言わなかった理由を、
自分なりに考え続ける。

それは──
彼女を大事に思っている証拠でもあった。

静かな夜が、ゆっくりと更けていく。

嵩は初めて、
「待つ側」ではなく、
「選ぶ側」として夜を過ごしていた。