大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

木曜日の夕方。

定時を告げるチャイムが鳴っても、

朱里はすぐに席を立てなかった。

(……今日は、何も言われてない)

(でも、言われないまま終わる気がしない)

そんな予感だけが、胸の奥に居座っている。

パソコンを閉じ、立ち上がった瞬間。

「中谷さん」

呼ばれて、身体が強張る。

振り向くと、嵩が立っていた。

いつもより少しだけ距離が近い。

「……帰り、歩ける?」

「はい」

即答してしまった自分に、少し驚く。

エレベーターを降り、会社を出る。

夜に切り替わりきらない空が、妙に落ち着かない。

二人は、自然と並んで歩き出した。

話題は、他愛もないものだった。

「今日、会議長かったね」

「ですね……集中力、後半危なかったです」

「俺も」

笑う。

でも、どちらも“本題”を避けているのが分かる。

歩幅は揃っているのに、心は一歩ずれている。

しばらくして、嵩が足を止めた。

「……少し、いい?」

立ち止まる場所は、いつもの角。

帰り道の分岐点。

朱里の喉が鳴る。

「……はい」

嵩は、しばらく言葉を探すように空を見た。

街灯が、彼の横顔を照らす。

「中谷さん」

「はい」

「……もし、だよ」

前置きの“もし”が、重い。

「もし、近いうちに」

「俺の環境が変わるかもしれないって言ったら……どう思う?」

朱里の心臓が、大きく跳ねた。

(来た)

でも、逃げなかった。

「……具体的には、どんな、ですか?」

声は震えたけれど、途切れなかった。

嵩は、ほんの一瞬、目を閉じる。

「……まだ、正式じゃない」

「でも、かなり現実的な話」

言葉を選びながら、少しずつ核心に近づいていく。

「仕事として、断れない可能性が高い」

「場所も、期間も……簡単じゃない」

そこまで言って、口を閉じた。

“転勤”という単語だけが、言われないまま宙に浮く。

朱里は、分かっているのに、聞かされていない。

「……嵩さん」

名前を呼ぶ。

嵩が、朱里を見る。

その目に、迷いと覚悟が混ざっていた。

「全部、ちゃんと話します」
「でも……今日は、まだ言えない」

正直すぎる言葉だった。

「決めきれてないまま渡すのは、卑怯な気がして」

「中途半端な不安だけを、背負わせたくない」

朱里は、少し笑った。

「……それ、もう背負ってます」

「今の時点で」

嵩の肩が、わずかに揺れる。

「……ごめん」

「いいえ」

朱里は、深呼吸をした。

「でも……逃げないって決めたので」

「聞く準備は、してます」

その言葉に、嵩の表情が揺れた。

「ありがとう」

短い一言に、たくさん詰まっていた。

「……じゃあ」

「明日、ちゃんと話そう」

約束というより、決意。

「はい」

即答だった。

別れ際。

嵩が、ほんの少しだけ近づいて言った。

「今日は……これ以上、何も言わない」
「でも」
「気持ちは、変わってない」

朱里は、頷いた。

「……分かってます」

背を向けて歩き出す。

数歩進んで、振り返りたくなった。

でも振り返らなかった。

(明日、聞く)
(怖いけど、ちゃんと)

その夜、朱里のスマホが震える。

《明日、全部話します。 逃げないで、聞いてください》

画面を見つめて、朱里は小さく返した。

《逃げません》

“転勤”という言葉は、

まだ出ていない。

でももう、戻れないところまで来ていた。