木曜日の朝。
朱里は、通勤電車の中でスマホを握りしめていた。
メッセージは打っていない。
既読も未読も、今はどうでもいい。
(昨日、言うって決めたんだ)
言い訳をしない。
取り繕わない。
“平気な顔”をやめる。
会社に着くと、いつも通りの朝が流れていた。
コピー機の音、キーボードの音、誰かの笑い声。
そして――嵩。
「おはよう、中谷さん」
穏やかな声。
昨日と変わらない距離。
それが、少しだけ寂しくて、少しだけ安心する。
「……おはようございます」
ちゃんと返せた。
それだけで、今日は上出来だと思った。
午前中は、仕事に集中した。
集中しないと、心臓がうるさくて仕方なかったから。
昼休み。
社内カフェで席を探していると、声がした。
「中谷さん」
嵩だった。
「今日の帰り……昨日言ってた通り、一緒に歩ける?」
「……はい」
返事は早かった。
迷わなかった。
(逃げないって決めたから)
夕方。
定時を過ぎ、二人は並んで会社を出た。
空は薄いオレンジ色。
風が少しだけ冷たい。
最初は、いつも通りの沈黙。
でも今日は、沈黙を引き延ばさないと決めていた。
歩きながら、朱里は立ち止まった。
「……平田さん」
嵩も足を止める。
「どうしたの?」
優しい声。
それが、余計に怖くなる。
でも、逃げない。
朱里は深く息を吸った。
「私……怖いです」
一瞬、嵩の目が揺れた。
「何が?」
「全部です」
言葉が、止まらなくなる。
「好きって言われるのも、
好きって言うのも、
この距離が変わるのも」
視線を上げる。
「失うかもしれないって思うと、
臆病になります」
声が少し震えた。
「平気な顔して、我慢したくなる。
でも、それは……たぶん違うって、昨日言われました」
美鈴の顔が、一瞬よぎる。
「だから……逃げたくないです。
怖いまま、ちゃんと話したい」
言い切った。
沈黙。
でも、それは怖い沈黙じゃなかった。
嵩は、すぐに答えなかった。
考えている時間を、ちゃんと取っている沈黙。
そして、ゆっくり口を開いた。
「……教えてくれて、ありがとう」
その一言が、まず胸に落ちた。
「怖いって言われて、正直……嬉しい」
「え?」
「信頼してくれてるって思ったから」
朱里は目を瞬いた。
「俺ね、
中谷さんが一人で我慢するのが、一番怖い」
静かな声だった。
「離れることより、
気づかないうちに、置いていかれる方が」
朱里の胸が、きゅっと締まる。
「だから……怖いなら、怖いって言って」
「……はい」
「迷うなら、迷ってるって言って」
少しだけ、距離が近づいた。
でも、触れない。
「俺は急がない。
でも、止まらない」
その言葉は、重くて、優しかった。
「一緒に、進もう。
逃げないペースで」
朱里の目に、熱いものが込み上げる。
「……はい」
それだけで、十分だった。
駅が見えてくる。
今日も、ここまで。
でも昨日より、確実に前にいる。
別れ際、嵩が言った。
「明日も……一緒に帰ろう」
「……はい。帰りたいです」
自分から言えた。
それが、何より嬉しかった。
背を向けて歩き出しながら、朱里は思う。
(怖いって言えたら、
こんなに、息がしやすいんだ)
──逃げないって、こういうことかもしれない。
朱里は、通勤電車の中でスマホを握りしめていた。
メッセージは打っていない。
既読も未読も、今はどうでもいい。
(昨日、言うって決めたんだ)
言い訳をしない。
取り繕わない。
“平気な顔”をやめる。
会社に着くと、いつも通りの朝が流れていた。
コピー機の音、キーボードの音、誰かの笑い声。
そして――嵩。
「おはよう、中谷さん」
穏やかな声。
昨日と変わらない距離。
それが、少しだけ寂しくて、少しだけ安心する。
「……おはようございます」
ちゃんと返せた。
それだけで、今日は上出来だと思った。
午前中は、仕事に集中した。
集中しないと、心臓がうるさくて仕方なかったから。
昼休み。
社内カフェで席を探していると、声がした。
「中谷さん」
嵩だった。
「今日の帰り……昨日言ってた通り、一緒に歩ける?」
「……はい」
返事は早かった。
迷わなかった。
(逃げないって決めたから)
夕方。
定時を過ぎ、二人は並んで会社を出た。
空は薄いオレンジ色。
風が少しだけ冷たい。
最初は、いつも通りの沈黙。
でも今日は、沈黙を引き延ばさないと決めていた。
歩きながら、朱里は立ち止まった。
「……平田さん」
嵩も足を止める。
「どうしたの?」
優しい声。
それが、余計に怖くなる。
でも、逃げない。
朱里は深く息を吸った。
「私……怖いです」
一瞬、嵩の目が揺れた。
「何が?」
「全部です」
言葉が、止まらなくなる。
「好きって言われるのも、
好きって言うのも、
この距離が変わるのも」
視線を上げる。
「失うかもしれないって思うと、
臆病になります」
声が少し震えた。
「平気な顔して、我慢したくなる。
でも、それは……たぶん違うって、昨日言われました」
美鈴の顔が、一瞬よぎる。
「だから……逃げたくないです。
怖いまま、ちゃんと話したい」
言い切った。
沈黙。
でも、それは怖い沈黙じゃなかった。
嵩は、すぐに答えなかった。
考えている時間を、ちゃんと取っている沈黙。
そして、ゆっくり口を開いた。
「……教えてくれて、ありがとう」
その一言が、まず胸に落ちた。
「怖いって言われて、正直……嬉しい」
「え?」
「信頼してくれてるって思ったから」
朱里は目を瞬いた。
「俺ね、
中谷さんが一人で我慢するのが、一番怖い」
静かな声だった。
「離れることより、
気づかないうちに、置いていかれる方が」
朱里の胸が、きゅっと締まる。
「だから……怖いなら、怖いって言って」
「……はい」
「迷うなら、迷ってるって言って」
少しだけ、距離が近づいた。
でも、触れない。
「俺は急がない。
でも、止まらない」
その言葉は、重くて、優しかった。
「一緒に、進もう。
逃げないペースで」
朱里の目に、熱いものが込み上げる。
「……はい」
それだけで、十分だった。
駅が見えてくる。
今日も、ここまで。
でも昨日より、確実に前にいる。
別れ際、嵩が言った。
「明日も……一緒に帰ろう」
「……はい。帰りたいです」
自分から言えた。
それが、何より嬉しかった。
背を向けて歩き出しながら、朱里は思う。
(怖いって言えたら、
こんなに、息がしやすいんだ)
──逃げないって、こういうことかもしれない。



