平田さんが唐突に黙り込んだあの瞬間。
 まるで時間ごと止まってしまったような空気は、まだ胸の奥に残っていた。

 並んで歩く私たちの間に、気まずい沈黙が降りている。
 さっきまで自然に重なっていた足音が、微妙にずれはじめているのを感じる。

「あの……」

 耐えきれなくなって、私は小さく声を出した。

「さっき、急に黙ったのは……どうしてですか?」

 問いかけてしまってから、しまったと思った。
 詰問みたいに聞こえる。そうしたいわけじゃないのに。

 平田さんは一瞬だけ戸惑うように瞬きをして、それから、

「……朱里さんが、無理してる気がしたから」

 静かに答えた。

「無理なんて、してません」

「ううん。してるよ」

 私の返事に被せるように、優しいけれど逃げ場のない声で言われる。

「ほら、今も。俺の顔、ちゃんと見れてない」

 ハッとする。
 図星だった。

 視線を向けようとしても、どうしても胸の奥がざわついてしまって、目が合うのが怖くて。

「……別に、避けてるわけじゃ……」

「うん、わかってる。避けてるんじゃなくて、戸惑ってるだけだよね」

 そう言って、彼は少し歩みを緩める。
 こちらを責め立てるような空気なんてまったくなくて、ただ穏やかに、私のペースを待つように。

「……金曜日のときは、もっと普通に話せてましたよね」

 自分で言って、胸がきゅっと縮まった。

「なのに今日だけ、なんでこんなに……」

 続く言葉を探していると、平田さんは照れたように苦笑した。

「それ、多分……俺のせいだよ」

「え……?」

「今日の俺、ちょっと気合入りすぎてたから」

 思いもよらない答えに、思わず足を止める。

「いや。その……また一緒に帰りたいって言ったし、朱里さんが“ちょっとだけ”って言ってくれたから、嬉しくて」

 耳の後ろをかきながら、少し俯き気味に。

「だから変に意識して……なんか、ぎこちなくなった」

 それを聞いた瞬間、胸の奥で何かがふわっとほどけた。

 ──あ、同じなんだ。

 ぎこちないのは、私だけじゃなかった。

「……それなら、私のほうこそです。金曜日みたいに自然にできなくて……」

 声に出すと、恥ずかしいくらい正直な言葉になった。

「ううん。今日のほうが普通だよ。だって金曜日は、予想外のことばっかりだったし」

 彼は小さく息を吐いて、照れた笑みを向けてくる。

「それに、金曜日より今のほうが……俺は好きだな」

 その言葉に、一瞬だけ呼吸が止まった。

「……ど、どうしてですか?」

「ちゃんと“考えて”歩いてる感じがするから。朱里さんが」

 また距離が、数センチ近づいた気がした。

「無理に明るくしようとしてるんじゃなくて……丁寧に、俺の言葉を拾ってくれてる感じがして」

 胸の中心がじんわり熱くなる。

「だからね」

 平田さんは、ほんの少しだけ声を落とした。

「止まったみたいに感じた時間も、悪くなかったよ」

 その言葉が、ゆっくり私の心にしみ込んでくる。

 どうしよう。
 こんなふうに言われたら、また一歩踏み出したくなってしまう。

「……じゃあ、その……」

 言いながら、私は勇気を出して彼の横顔を見た。

「もう少しだけ……ゆっくり歩いてもいいですか?」

 一瞬、平田さんの目が驚いたように見開かれ──
 すぐに、緩く微笑んだ。

「もちろん」

 私たちはまた歩き出す。

 ぎこちなさも戸惑いも、まだ全部消えたわけじゃない。
 それでも。

 ──さっき止まった時間は、確かに前へ進み始めていた。