追加資料の準備でバタバタする月曜の夜。
 会社のフロアにはもうほとんど誰もいないのに、
蛍光灯だけは妙に元気にぎらぎらしていた。

 プリンターがガガガと騒がしく動く中、朱里は疲れた肩を軽く回す。

(はあ……まさか、今日こんなに遅くなるなんて)

 せっかく「ゆっくり歩こうか」なんて言われて、
胸の奥がほんのり甘くなっていたのに。

 全部、部長の“急ぎで頼む”のせいだ。

「中谷さん、こっちは終わったよ」

 隣から、落ち着いた声。

 朱里が顔を上げると、嵩が資料の束を揃えて立っていた。
 シャツの袖をまくって手首に光る時計が、どこか品よく見える。

(……ちょっと。なんでこんな時間でもかっこいいの)

 理不尽に腹が立つのは、疲れているからだろうか。

「平田さんも……お疲れさまです」

「うん。でも、朱里さんのほうが大変だったでしょ。急に呼び出されて」

「……まあ、そうですけど」

 朱里がプリンター横の紙を確認していると、
隣で嵩が少しだけ声を落とした。

「——さっきの、続き」

「……っ」

 指がぴたりと止まった。

「え、あの……つ、続き……?」

「うん。帰り道の。途中だったから」

 朱里の心臓はドラムロールのように暴れだす。

 “途中だったから”という言葉が、
今日一日ずっと胸の奥に引っかかっていた意味を持って響く。

(わ、わかってるなら……そんな普通の声で言わないでよ……)

「い、今は……仕事中なので……」

「仕事終わったら話す?」

 く、くる……ッ!

 朱里は慌ててプリンタートレイを閉めた。

「こ、今後のお話でしたら、明日でもいいかと……!」

「明日だと朱里さん忙しいでしょ?」

「そ、それは……」

 嵩が穏やかに見つめてくる。

 一歩も逃げられない。

 しかもこの距離、さりげなく近い。
 気づいてしまった瞬間に心拍数が跳ね上がる。

「朱里さんが嫌じゃなければ、だけど」

「……嫌じゃ……ない……です」

 思わず本音が漏れた。

 しまった、と思ったときにはもう遅い。

 嵩の表情が、ふっと優しくほぐれる。

「なら、少し話そうか。ここじゃなくて──外で」

「そ、外……?」

「うん。会社出たらすぐ、公園があるだろ? 人も少ないし」

 朱里は頭の中で、反射的に警戒する。

(ま、待って……!
 夜の公園……って、え?
 これって、なんか、そういう……!?)

 完全に自意識過剰だと分かっているのに、
想像が勝手に先走る。

 そんな朱里の混乱を知ってか知らずか、嵩は落ち着いた声で言った。

「金曜のこと。望月さんのこと。
 ……朱里さんが、俺のことで悩んでるって話」

「……っ」

「ちゃんと聞かせてほしい」

 言葉が真っ直ぐすぎて、逃げ場がなかった。

 ずるい。ずるい。ずるい。

 こんなの、好きになってしまうじゃないか。

 そのとき──

 ガチャ、と会議室の扉が開いた。

「──あれっ? まだ二人とも残ってたの?」

 望月瑠奈が顔を出した。

 書類を抱え、疲れてはいるが、朱里と嵩を見るその目は、
ほんのわずかだけ鋭い。

 気まずい沈黙。

 嵩が先に口を開いた。

「望月さんも残業?」

「はい。書類出し忘れちゃって。……あれ、中谷さんと平田さん、帰るところでした?」

 朱里は一拍遅れ、慌てて言葉を繋ぐ。

「あ、あの、いえ……えっと……仕事が、もうすぐ終わるところで……!」

「へえ。
 じゃあ……帰り、一緒に?」

(……っ!)

 ──止まっていた時間が、再び動いた気がした。

 そして、嵩が静かに朱里を見た。

「──どうする?」