晴仁(はるひと)から見て、東雲壮真という人間は、完璧な人だった。
陰陽師の名門である東雲家に生まれ、史上最年少で陰陽師の長である陰陽頭の座を手に入れた。今上帝の従姉弟という身分の高さに加え、それを鼻にかけない人の良さも持っている。
しいていえば、人らしい感情に欠けるのが欠点だろうか。とはいえ、戦場に赴いて戦う陰陽師としては、壮真の冷徹さは時に味方を救うものになり得る。晴仁にとってみれば、壮真は理想の人であった。
そんな壮真が結婚すると聞かされたのは、つい先日。しかも、その相手が鬼の姫だというから、初めて聞いたときは顎が外れるのではないかと思うほど、驚いた。
「師匠。まさか、その婚姻を受けるつもりですか?」
晴仁の問いに、壮真は無表情で頷いた。壮真の両親はすでに他界している。祖父母は壮真を放任しており、壮真に関わることはほとんどない。つまり、壮真が首を縦に振るだけで決定されてしまう。それがわかっているからこそ、弟子のひとりとして、壮真を止めなければという老婆心が晴仁を突き動かした。
「それで本当に、師匠は幸せになるのですか」
「幸せだなんだと言っている場合ではないだろう」
眉根を押さえて、壮真は言った。連日のように、壮真は帝に呼び出されては夜遅くに帰ってきていた。
晴仁にはわからないが、帝には帝なりの思惑があるのだろうとは思う。だが、そのせいで壮真が不幸せになるのを、黙ってみているわけにはいられなかった。
「ですが、鬼と和平を結ぶことができるとは思えません。この婚姻がうまくいかなければ、師匠はただ振り回されるだけになってしまいます」
壮真はふいと晴仁から目を逸らす。
「……それでいい。鬼を抑え込めるのは私だけだ」
「わざわざ、鬼をこちらに呼ぶ必要なんてないじゃないですか」
「誰かをみすみす鬼の国へ向かわせるわけにはいくものか」
抑えた声に混じったのは、強い決意だった。晴仁は思わず息をのむ。
「誰かが犠牲になるぐらいなら、私がここで抑える。それしかない」
そう言って、壮真は唇を噛んだ。壮真だって、この和平を本心から納得しているわけではないのだ。それがわかって、晴仁は何も言えなくなる。
誰かが犠牲にならねばならないのだったら、自分が――。鬼との戦いで父を失い、父を失った心痛で母をも亡くした壮真は、誰かに自分と同じ辛い思いをさせるたくないと考えているのだ。晴仁は直感でわかった。そして、平和を願う気持ちと、鬼への復讐とで揺れている気持ちも。
晴仁もまた、戦争で家族を亡くした孤児だ。陰陽師としての才を買われ、壮真の弟子としてここに住まわせてもらっている。壮真には他にも弟子はいるものの、孤児である晴仁を気にかけた壮真は、晴仁にここを家として使って良いと言ってくれたのだった。壮真には多大な恩がある。壮真への恩を返すため、鬼たちへの憎しみを、術を研鑽することで力に変えてきた。この身を焦がすような憎しみを、晴仁も誰かに味合わせたいとは思えなかった。
壮真の覚悟を知ってから、晴仁は壮真の結婚に反対するのを辞めた。壮真が負うと覚悟した役目を、晴仁もまた一緒に背負うと決意したのだ。少しでも壮真の抱えるものが少なくなればと、鬼へ食料を届ける役も志願した。
初めて出会った鬼の姫は、この世のものとは思えないほどに美しかった。雪のように白い肌に、烏の濡れ羽根色をした長い黒髪。大きな切れ長の瞳は少しだけ吊り目がちで、どこか猫のような印象も受けた。ただ立っているだけで、人を圧倒するような気配を纏っていた。その美しい紅の瞳を見るだけで絆されてしまいそうで、晴仁は極力目を合わせないように振る舞った。鬼の姫がこちらを見ていることは気づいていたが、それに取り合うことはしなかった。
何日か経っても、鬼の姫が暴れ出す気配はなかった。従順に離れのなかで過ごしており、霊獣たちからも報告はない。晴仁の知っている鬼とは、力が強く狂暴で、なりふり構わず人を襲ってくるような者たちだった。姿は似ているが、人とは似ても似つかない存在。そんな印象だった。鬼の姫はまだ本性を表していないだけ。きっとすぐに、鬼らしい残忍さを見せてくるだろう、と晴仁は警戒を強めていた。
そんなときだった。――謎の呪物が届いたのは。
陰陽頭として、壮真の名前は民たちにも広く知られている。そのため、たまに呪術に関した相談に訪れる人々もいた。化け物を見ただとか、霊を見ただとか、祟られているだとか。それは噂に過ぎないものも多かったが、壮真は決して否定しなかった。とりあえず中に入れて話を聞く、というのが基本だった。中に入って話を聞くのは、晴仁の仕事であり、そこで何か対処が必要だと判断された場合に、壮真が出てくるのだ。忙しい壮真に迷惑をかけることはできない。晴仁はいつも張り切って相談を受けていた。
最初にその呪物に気づいたのは、晴仁だった。門の前を掃除しようとしたときに、不自然に置かれた箱に気づいた。何の変哲もない文箱。最初に見た時はそう思ったが、ただの文箱がここに置かれていること自体がおかしい。誰かが置いていったとしても、何のために。首をかしげながら、晴仁は屋敷の中で詳しく見ることにした。小さな式神を顕現させて、屋敷のなかに運ばせる。そして、晴仁に与えられた部屋のなかで、文箱と相対した。丁寧に塗られた漆の文箱は、晴仁に向けて艶やかな光を見せる。
まずは箱を持ち上げて振ってみる。なにかが入っているような質量はなく、何も音はしない。こんこん、と蓋を叩いてみるが、からっぽの感覚が帰ってくる。
しんと静まった部屋で、晴仁は頭を抱えた。不思議なこの箱を開けるべきか、それとも壮真が帰ってくるのを待つか。壮真は最近忙しくしており、帰ってくるのは日が暮れるころだろう。疲れて帰ってきた壮真を、謎の箱で煩わせるのは、気が引ける。
「よしっ……」
晴仁は思い切って、箱を開けることにした。蓋を掴んで、そして一思いに開ける。すると、中から白い煙が立ち昇った。しゅう、と湿った音を立てながら、卵が腐ったような匂いが部屋中に広がっていく。白煙はただの煙ではなかった。指先や喉にまとわりつき、吸い込むほどに頭がぼうっとしていく。身体が自分のものではないようで、指先の感覚が鈍くなる。見えない手で喉を掴まれたような苦しさに、晴仁は声も出せなかった。
晴仁は己の過ちを悟った。
――これは、ただの文箱ではない。中に込められていたのは、呪いだ。目が閉じていく瞬間、晴仁の瞳にうつったのは、箱の隙間からどろりと流れ出ていく泥の塊だった。
陰陽師の名門である東雲家に生まれ、史上最年少で陰陽師の長である陰陽頭の座を手に入れた。今上帝の従姉弟という身分の高さに加え、それを鼻にかけない人の良さも持っている。
しいていえば、人らしい感情に欠けるのが欠点だろうか。とはいえ、戦場に赴いて戦う陰陽師としては、壮真の冷徹さは時に味方を救うものになり得る。晴仁にとってみれば、壮真は理想の人であった。
そんな壮真が結婚すると聞かされたのは、つい先日。しかも、その相手が鬼の姫だというから、初めて聞いたときは顎が外れるのではないかと思うほど、驚いた。
「師匠。まさか、その婚姻を受けるつもりですか?」
晴仁の問いに、壮真は無表情で頷いた。壮真の両親はすでに他界している。祖父母は壮真を放任しており、壮真に関わることはほとんどない。つまり、壮真が首を縦に振るだけで決定されてしまう。それがわかっているからこそ、弟子のひとりとして、壮真を止めなければという老婆心が晴仁を突き動かした。
「それで本当に、師匠は幸せになるのですか」
「幸せだなんだと言っている場合ではないだろう」
眉根を押さえて、壮真は言った。連日のように、壮真は帝に呼び出されては夜遅くに帰ってきていた。
晴仁にはわからないが、帝には帝なりの思惑があるのだろうとは思う。だが、そのせいで壮真が不幸せになるのを、黙ってみているわけにはいられなかった。
「ですが、鬼と和平を結ぶことができるとは思えません。この婚姻がうまくいかなければ、師匠はただ振り回されるだけになってしまいます」
壮真はふいと晴仁から目を逸らす。
「……それでいい。鬼を抑え込めるのは私だけだ」
「わざわざ、鬼をこちらに呼ぶ必要なんてないじゃないですか」
「誰かをみすみす鬼の国へ向かわせるわけにはいくものか」
抑えた声に混じったのは、強い決意だった。晴仁は思わず息をのむ。
「誰かが犠牲になるぐらいなら、私がここで抑える。それしかない」
そう言って、壮真は唇を噛んだ。壮真だって、この和平を本心から納得しているわけではないのだ。それがわかって、晴仁は何も言えなくなる。
誰かが犠牲にならねばならないのだったら、自分が――。鬼との戦いで父を失い、父を失った心痛で母をも亡くした壮真は、誰かに自分と同じ辛い思いをさせるたくないと考えているのだ。晴仁は直感でわかった。そして、平和を願う気持ちと、鬼への復讐とで揺れている気持ちも。
晴仁もまた、戦争で家族を亡くした孤児だ。陰陽師としての才を買われ、壮真の弟子としてここに住まわせてもらっている。壮真には他にも弟子はいるものの、孤児である晴仁を気にかけた壮真は、晴仁にここを家として使って良いと言ってくれたのだった。壮真には多大な恩がある。壮真への恩を返すため、鬼たちへの憎しみを、術を研鑽することで力に変えてきた。この身を焦がすような憎しみを、晴仁も誰かに味合わせたいとは思えなかった。
壮真の覚悟を知ってから、晴仁は壮真の結婚に反対するのを辞めた。壮真が負うと覚悟した役目を、晴仁もまた一緒に背負うと決意したのだ。少しでも壮真の抱えるものが少なくなればと、鬼へ食料を届ける役も志願した。
初めて出会った鬼の姫は、この世のものとは思えないほどに美しかった。雪のように白い肌に、烏の濡れ羽根色をした長い黒髪。大きな切れ長の瞳は少しだけ吊り目がちで、どこか猫のような印象も受けた。ただ立っているだけで、人を圧倒するような気配を纏っていた。その美しい紅の瞳を見るだけで絆されてしまいそうで、晴仁は極力目を合わせないように振る舞った。鬼の姫がこちらを見ていることは気づいていたが、それに取り合うことはしなかった。
何日か経っても、鬼の姫が暴れ出す気配はなかった。従順に離れのなかで過ごしており、霊獣たちからも報告はない。晴仁の知っている鬼とは、力が強く狂暴で、なりふり構わず人を襲ってくるような者たちだった。姿は似ているが、人とは似ても似つかない存在。そんな印象だった。鬼の姫はまだ本性を表していないだけ。きっとすぐに、鬼らしい残忍さを見せてくるだろう、と晴仁は警戒を強めていた。
そんなときだった。――謎の呪物が届いたのは。
陰陽頭として、壮真の名前は民たちにも広く知られている。そのため、たまに呪術に関した相談に訪れる人々もいた。化け物を見ただとか、霊を見ただとか、祟られているだとか。それは噂に過ぎないものも多かったが、壮真は決して否定しなかった。とりあえず中に入れて話を聞く、というのが基本だった。中に入って話を聞くのは、晴仁の仕事であり、そこで何か対処が必要だと判断された場合に、壮真が出てくるのだ。忙しい壮真に迷惑をかけることはできない。晴仁はいつも張り切って相談を受けていた。
最初にその呪物に気づいたのは、晴仁だった。門の前を掃除しようとしたときに、不自然に置かれた箱に気づいた。何の変哲もない文箱。最初に見た時はそう思ったが、ただの文箱がここに置かれていること自体がおかしい。誰かが置いていったとしても、何のために。首をかしげながら、晴仁は屋敷の中で詳しく見ることにした。小さな式神を顕現させて、屋敷のなかに運ばせる。そして、晴仁に与えられた部屋のなかで、文箱と相対した。丁寧に塗られた漆の文箱は、晴仁に向けて艶やかな光を見せる。
まずは箱を持ち上げて振ってみる。なにかが入っているような質量はなく、何も音はしない。こんこん、と蓋を叩いてみるが、からっぽの感覚が帰ってくる。
しんと静まった部屋で、晴仁は頭を抱えた。不思議なこの箱を開けるべきか、それとも壮真が帰ってくるのを待つか。壮真は最近忙しくしており、帰ってくるのは日が暮れるころだろう。疲れて帰ってきた壮真を、謎の箱で煩わせるのは、気が引ける。
「よしっ……」
晴仁は思い切って、箱を開けることにした。蓋を掴んで、そして一思いに開ける。すると、中から白い煙が立ち昇った。しゅう、と湿った音を立てながら、卵が腐ったような匂いが部屋中に広がっていく。白煙はただの煙ではなかった。指先や喉にまとわりつき、吸い込むほどに頭がぼうっとしていく。身体が自分のものではないようで、指先の感覚が鈍くなる。見えない手で喉を掴まれたような苦しさに、晴仁は声も出せなかった。
晴仁は己の過ちを悟った。
――これは、ただの文箱ではない。中に込められていたのは、呪いだ。目が閉じていく瞬間、晴仁の瞳にうつったのは、箱の隙間からどろりと流れ出ていく泥の塊だった。
