離れで暮らし始めて、数日が経った。今のところ、緋梅は穏やかな日々を過ごしていた。
壮真と顔を合わせることはなく、霊獣の二匹以外で会うのは、弟子の少年のみ。少年は、いつも緋梅のために御膳を運んできてくれる。離れには炊事できる場所がないため、都度本邸から運んできてくれるようだった。
何度か話しかけようと画策しているが、まだ心を許してくれる気配はない。結局のところ、人の国に来たというのに、緋梅が話しているのは、霊獣の二匹ぐらいなものだった。壮真がここに来る気配すらない。壮真と結婚したことさえも、夢だったのかと疑いそうになる。
庭に出てみよう、と思い立ったのは、そんなある日のことだった。ずっと離れのなかにいるのも、さすがに飽きてきた。ふう子が持ってきてくれた巻物にも目を通したものの、これまで身体を動かすことばかりしてきた緋梅には、じっと座っているのは苦痛でしかない。ならばと、武器こそないが、せめて中庭で身体を動かしてみようと決めた。
中庭に出ると、冷たい風が緋梅の頬を撫でた。いつの間にか、季節は秋へとうつっていた。庭に植えられた樹々は淡く色を変え始めている。緋梅の見たことのない樹々もあれば、見たことのある樹々もあった。さわさわと揺れる葉を見ながら、ふと鬼の国を思い出した。
鬼の国は、切り立った山々に囲まれた土地である。様々な部族が暮らし、集落は山の斜面に点在していた。緋梅が育った場所もまた、険しい山々に抱かれていた。
その昔、鬼は洞窟のなかに住んでいたらしい。岩だらけの斜面に穴を掘り、そこを大きく広げることで棲家とした。その名残で、今も山に住むのだと聞かされていた。
一方、人間が住んでいるのは平野だ。人間は数が多く、多くの食料を必要とする。そのために、田畑を切り開ける平野がうってつけだったのだそうだ。ふう子が持ってきてくれた巻物のなかに、そんな記述があった。
壮真の屋敷も、例に漏れず平野に位置している。辺りを見渡しても、山は遠くに見えるだけ。見慣れた圧迫感がないのが、逆にどこか落ち着かない。
そのまま風に吹かれていたそのとき、ふいに視界の端で、空気が波打つような揺れを捉えた。緋梅は思わずそちらに近づく。気のせいかと思ったが、そこだけ膜が張ってあるかのように見えるのだ。水中から見た太陽の煌めきのように、ゆらゆらと光っている何か。光の加減でかたちを変えながら揺れる様に誘われ、緋梅は庭を眺めるふりをして、そっとそれに触れた。何かがそこにあって、跳ね返されるような感触がした。緋梅ははっと気づく。これは、緋梅を閉じ込めておく結界だ。緋梅が許可なく外に出ぬよう、外部との接触を防ぐためのもの。
(まぁ、当然よね)
緋梅は鬼だ。人間から見たら恐怖の対象に他ならない。これまで陰陽師として、鬼と戦ってきた壮真なら、鬼の力を見くびるはずがない。入念に対策をおこなうことだろう。この結界によって、人間は緋梅から守られているのだ。
「姫さま、どうしたのー?」
ぽてぽて、と歩いてきたふう子がたずねた。不審に感じられただろうかと思い、緋梅は慌てて結界から手を離した。その瞬間、ぴりりと手の先に痛みを感じる。そちらを見ると、結界の一部に亀裂が走っていた。ふう子は気づいていないようで、緋梅の隣で庭を眺める。
「壮真さまに、会いたい?」
ふいに、ふう子がたずねた。
「……会いたくない、と言ったら嘘だけど、会いたい、というのも違う気がするわね」
緋梅は正直に答える。壮真に会ったのは、最初に出迎えた日の一度きり。壮真が緋梅のことをどう思っているか、今の段階では見当もつかなかった。この離れでの生活をずっと続けるわけにもいかないが、いくら今緋梅が訴えたとしても、そうやすやすとここから出して貰えるとは思えなかった。
そのとき、離れの方からがしゃん、と何かが壊れる音がした。それと同時に、葉隠のぎゃあ、という声も聞こえる。
「また、葉隠が何かやらかしたみたい。ちょっと行ってくるの」
そう言って、ふう子が走って葉隠のもとへ向かった。ひとり残された緋梅は、先ほどの結界をまじまじと見つめた。結界に亀裂がはしり、ほころびが見えている。結界の先に手を伸ばすと、先ほど感じた圧迫感が消えていた。まるで、結界が、緋梅を排除の対象とは見なしていないかのようだった。もしかしたら、ここから出ることは出来るかもしれない。すんなり抜け出せそうだったが、緋梅はそこですっと手を引いた。
(でも、まだ今じゃないわ)
いま外に出たとしても、一時の自由を得るだけで、壮真からの信頼を勝ち取ることはできない。ただでさえ緋梅への印象は最悪なのに、それがさらに地に落ちるだけだ。それだけで済めばよいが、最悪、鬼の国へ送り返されてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。母の思い――鬼と人との和平を、必ず成し遂げなければならない。そのために、今はとにかく壮真の信頼を得るほかに、出来ることはない。
(でも、どうすれば信頼を得られるのか、わからないのよね)
壮真に会うこともできないのであれば、どうしようもない。緋梅は小さくため息をつき、先ほど聞こえた音のほうへ歩を進めた。
壮真と顔を合わせることはなく、霊獣の二匹以外で会うのは、弟子の少年のみ。少年は、いつも緋梅のために御膳を運んできてくれる。離れには炊事できる場所がないため、都度本邸から運んできてくれるようだった。
何度か話しかけようと画策しているが、まだ心を許してくれる気配はない。結局のところ、人の国に来たというのに、緋梅が話しているのは、霊獣の二匹ぐらいなものだった。壮真がここに来る気配すらない。壮真と結婚したことさえも、夢だったのかと疑いそうになる。
庭に出てみよう、と思い立ったのは、そんなある日のことだった。ずっと離れのなかにいるのも、さすがに飽きてきた。ふう子が持ってきてくれた巻物にも目を通したものの、これまで身体を動かすことばかりしてきた緋梅には、じっと座っているのは苦痛でしかない。ならばと、武器こそないが、せめて中庭で身体を動かしてみようと決めた。
中庭に出ると、冷たい風が緋梅の頬を撫でた。いつの間にか、季節は秋へとうつっていた。庭に植えられた樹々は淡く色を変え始めている。緋梅の見たことのない樹々もあれば、見たことのある樹々もあった。さわさわと揺れる葉を見ながら、ふと鬼の国を思い出した。
鬼の国は、切り立った山々に囲まれた土地である。様々な部族が暮らし、集落は山の斜面に点在していた。緋梅が育った場所もまた、険しい山々に抱かれていた。
その昔、鬼は洞窟のなかに住んでいたらしい。岩だらけの斜面に穴を掘り、そこを大きく広げることで棲家とした。その名残で、今も山に住むのだと聞かされていた。
一方、人間が住んでいるのは平野だ。人間は数が多く、多くの食料を必要とする。そのために、田畑を切り開ける平野がうってつけだったのだそうだ。ふう子が持ってきてくれた巻物のなかに、そんな記述があった。
壮真の屋敷も、例に漏れず平野に位置している。辺りを見渡しても、山は遠くに見えるだけ。見慣れた圧迫感がないのが、逆にどこか落ち着かない。
そのまま風に吹かれていたそのとき、ふいに視界の端で、空気が波打つような揺れを捉えた。緋梅は思わずそちらに近づく。気のせいかと思ったが、そこだけ膜が張ってあるかのように見えるのだ。水中から見た太陽の煌めきのように、ゆらゆらと光っている何か。光の加減でかたちを変えながら揺れる様に誘われ、緋梅は庭を眺めるふりをして、そっとそれに触れた。何かがそこにあって、跳ね返されるような感触がした。緋梅ははっと気づく。これは、緋梅を閉じ込めておく結界だ。緋梅が許可なく外に出ぬよう、外部との接触を防ぐためのもの。
(まぁ、当然よね)
緋梅は鬼だ。人間から見たら恐怖の対象に他ならない。これまで陰陽師として、鬼と戦ってきた壮真なら、鬼の力を見くびるはずがない。入念に対策をおこなうことだろう。この結界によって、人間は緋梅から守られているのだ。
「姫さま、どうしたのー?」
ぽてぽて、と歩いてきたふう子がたずねた。不審に感じられただろうかと思い、緋梅は慌てて結界から手を離した。その瞬間、ぴりりと手の先に痛みを感じる。そちらを見ると、結界の一部に亀裂が走っていた。ふう子は気づいていないようで、緋梅の隣で庭を眺める。
「壮真さまに、会いたい?」
ふいに、ふう子がたずねた。
「……会いたくない、と言ったら嘘だけど、会いたい、というのも違う気がするわね」
緋梅は正直に答える。壮真に会ったのは、最初に出迎えた日の一度きり。壮真が緋梅のことをどう思っているか、今の段階では見当もつかなかった。この離れでの生活をずっと続けるわけにもいかないが、いくら今緋梅が訴えたとしても、そうやすやすとここから出して貰えるとは思えなかった。
そのとき、離れの方からがしゃん、と何かが壊れる音がした。それと同時に、葉隠のぎゃあ、という声も聞こえる。
「また、葉隠が何かやらかしたみたい。ちょっと行ってくるの」
そう言って、ふう子が走って葉隠のもとへ向かった。ひとり残された緋梅は、先ほどの結界をまじまじと見つめた。結界に亀裂がはしり、ほころびが見えている。結界の先に手を伸ばすと、先ほど感じた圧迫感が消えていた。まるで、結界が、緋梅を排除の対象とは見なしていないかのようだった。もしかしたら、ここから出ることは出来るかもしれない。すんなり抜け出せそうだったが、緋梅はそこですっと手を引いた。
(でも、まだ今じゃないわ)
いま外に出たとしても、一時の自由を得るだけで、壮真からの信頼を勝ち取ることはできない。ただでさえ緋梅への印象は最悪なのに、それがさらに地に落ちるだけだ。それだけで済めばよいが、最悪、鬼の国へ送り返されてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。母の思い――鬼と人との和平を、必ず成し遂げなければならない。そのために、今はとにかく壮真の信頼を得るほかに、出来ることはない。
(でも、どうすれば信頼を得られるのか、わからないのよね)
壮真に会うこともできないのであれば、どうしようもない。緋梅は小さくため息をつき、先ほど聞こえた音のほうへ歩を進めた。
