目の前で、姉の姿がみるみるうちに変わっていくのを、緋梅は絶望とともに見ていた。なすすべもなく、桔梗の角から光があふれて、姉は異形へと変わっていく。
 後ろに見える神社の鳥居と同じぐらいに膨れ上がった背に、手足だけが長い。まるで剣のようにかたちを変えた爪が、月の光に照らされて光った。華やかで美しかった姉の面影はなく、三白眼でこちらを睨みつける異形がそこに立っているだけだった。翡翠色だった角は、いまや漆黒へと変わり果て、額に突き刺さっている。
「芦名さん、これはどういうことですか……!」
 後ろにいた壮真が声を震わせる。
「あぁ、あなたは直弥の息子ですか」
 壮真の言葉に、芦名と呼ばれた男は驚いた表情をしてそちらを見た。
「これは、鬼の霊力を使った術式。私の父によって禁術とされたはずです」
 壮真の声にこたえるように、ゆらりと男が立ちあがった。細身の男が、芦名頼光。壮真の父とともに活躍した陰陽師であって、かつてこの都を焼いた張本人であった。
 桔梗に付けた式神が反応したのを悟って、緋梅は急いでここまでやってきた。その途中で、同じく飛び出してきた壮真と出会い、道中で芦名について話を聞いた。
 芦名はかつて、鬼の霊力を封じる術を研究していた。その研究はかたちになったが、実戦段階まで進んだあと、芦名は封じた鬼の霊力を使う術を生み出した。鬼の霊力は強大なものであり、人の術では危険すぎる。そうして、研究は終わったものとされていたのだが、芦名はひそかに術を研究し続けた。
 その結果、あの大火が起きたのだった。顔の半分に残る火傷は、大火を生み出した際に負ったもの。人の身では有り余る能力に、耐えられずに霊力が暴走した。人では難しいと判断した芦名は、次に神に目をつけた。神の霊力と鬼の霊力を混ぜ合わせることで、強大な魔力を得ようとした。その結果、堕ち神が生まれたのだ。
 ひきつれた痣のなかで、芦名の瞳だけが力強さをもって緋梅を睨む。
「直弥が禁術としたと言っても、それは陰陽師の中での話。陰陽師を抜けた私には関係ない」
 芦名が言ったと同時に、桔梗が咆哮をあげた。姉を中心とした突風が巻き起こる。鋭い風が緋梅を目掛けて吹いたが、それをすんでのところで回避する。頬に熱い感覚がはしった瞬間に、血が舞った。
 桔梗であったものは、ぎろりと緋梅を見つめる。だが、そこに桔梗であったときの意識は見えない。ただ音に反応している、といった方が正しい。緋梅は唇を噛んだ。
「桔梗姉さまに何をした!」
 緋梅は芦名を問い詰める。芦名は鷹揚に笑った。
「君と違い、君のお姉さんは霊力が強いわけではない。だから、実験してみようと思ってな。私が作った堕ち神の力を注ぎこんでみたのだ」
「……貴様!」
 緋梅が芦名に襲い掛かろうとした瞬間、桔梗が緋梅を狙って鋭い爪を振りかぶった。緋梅はすんでのところでそれを避ける。
(芦名は鬼の霊力を封じる研究をしていた――もしかして)
 緋梅はこれまで、自分と同様に霊力を封じられた鬼を見たことがない。芦名もまた、緋梅の父と同じく陰陽師として戦いに出向いたと聞いた。堕ち神となった神に注がれた鬼の霊力は、戦場に赴いた鬼たちのものかもしれない。
 緋梅はぎりりと奥歯を嚙み締めた。
(死者に対する冒涜だわ)
 絶対に芦名を許さないという思いで、緋梅は芦名を狙う。しかし、桔梗が緋梅の行く手を阻む。鋭い爪を振りかぶって、もう一度桔梗が緋梅を狙う。緋梅は真横に飛んで爪を避けた。大きく振りかぶった姉は、その反動で体勢を崩している。はっとして辺りを見ると、芦名とひまりの姿は消えていた。
「壮真、どうしたら桔梗姉さまを救える? あの角を壊せばいい?」
 緋梅は角を指さした。綺麗な翡翠色をしていた角が、今は闇をつめたような漆黒へと変わり果てている。そこに向けて、桔梗の霊力が流れ込んでいるのがわかった。
「そうだな。あの角に術をかけて、堕ち神の力を注ぎこんでいるのだと思う。あれを破壊すれば……だが、角というものは鬼にとっての誇りなのではないか」
 壮真は真剣な瞳で緋梅に問う。
「そうよ。鬼にとって、角はとても大切なもの。鬼の誇りそのものとも言えるかもしれない。――でも、あたしはそれより、姉さまに生きていて欲しい。わがままで、本当に嫌なやつだけど、あたしの姉なの」
 緋梅は壮真の瞳を見つめた。手足は震えている。この選択は、姉を殺すことになるかもしれない。だが、この状態の姉を見殺しにすることは、緋梅にはできなかった。
「あたしがやる。壮真は援護してちょうだい」
「わかった」
 壮真は力強くうなずいた。緋梅はそれを見てから、ひとっとびに跳躍した。高いところから、角に狙いを定めて落ちていく。すでに体勢を整えていた姉が、その長い爪で緋梅を突き刺そうと身構える。
「それは、想定済みよっ!」
 緋梅は身体を逸らせてそれに対抗する。交わしたと思った瞬間、もう片方の腕が緋梅を横から殴りつけた。
「……がはっ」
 叩きつけられた衝撃で、身体の空気が奪われる。緋梅は空気を求めて口を開いた。そのとき、緋梅の前に水でできた壁ができる。はっとして壮真を見ると、壮真が術を完成させたところだった。ほっとしたのもつかの間、その水壁を突き破って姉が緋梅を追う。地面に叩きつけられ、ごろごろと転がった緋梅が体勢を整える。
(あたしは、本当に姉のことが嫌いだった)
 そんな時にも、心に浮かぶのは姉のこと。かつてまだ姉妹の仲がよかった頃のことだ。
 長姉に怒られたあと、決まって泣きついたのは桔梗だった。金の角を持つ緋梅は誰からも期待されて、だからこそ紫苑は緋梅に強くあたった。紫苑と緋梅のあいだを取り持つのは、決まって桔梗だった。
 金の角なんて、なければよかった。そう思ったことは幾度となくあった。角のことなんて、何も考えず――ただ、姉妹で仲良くしていたかった。
 身体はまだ戦える。それなのに、目の前にいるのが姉だと思うと、躊躇している自分もいた。もし、姉が死んでしまったら。角を失った姉が、生きる希望を失ってしまったら。
(でも――あたしの我儘でいい。あたしは、姉さまに生きていてほしい)
 ぐっと身体を起こし、緋梅は桔梗を見据えた。そして、桔梗に向かって走っていく。桔梗は長い爪を使って緋梅を近づけない。繰り出される爪と爪の合間を抜けて、緋梅は走った。そして桔梗の間合いを詰めて、そして桔梗の身体を踏み台にして、角へ向けて手を伸ばす。あと一歩で触れる――そう思った瞬間、桔梗が大きな唸り声をあげた。それとともに、桔梗の身体全体を風が覆う。緋梅の身体も風にあおられるかたちで吹っ飛んだ。
 空中で受け身を取ろうとするも、風は緋梅の体勢を崩す。体勢をかろうじて保ったとき、もうひとつの風が飛んでくる。風の刃が緋梅の髪を切った。長く伸ばしていた髪がざっくりと肩までに切り落とされた。あと少し体勢が悪ければ、緋梅の胴と頭はわかれていたかもしれない。
 緋梅はもう一度桔梗に向けて叫んだ。しかし声は届かない。そのとき、ごろごろと稲光が聞こえ、緋梅の目の前に雷が落ちた。偶然ではない――桔梗が雷を呼んだのだ。桔梗は身体に雷をまとっている。
 それを信じられずに緋梅は見つめた。桔梗の角は翡翠色。つまり、使える属性は風のみのはずだ。雷属性の角術を使うことができるのは、金や銀の角を持つ鬼だけ。桔梗の身体に別の鬼の霊力が注がれたせいで、桔梗の使える角術が強くなっている。
 桔梗は手をあげた。危険を察知して、緋梅はその場から跳躍して避ける。この速さなら避けられる――そう思った瞬間、目にも止まらぬ速さで放たれた雷が、緋梅の腹を貫いた。