「まぁ、緋梅さま! お綺麗なの~!」
にこにことふう子が鏡の向こうで笑っている。
「本当? これで化粧はあってるの?」
口紅を塗り、白粉をたたく。それが化粧と言えるものであるなら、緋梅は生まれて初めて化粧というものをした。自分としては、顔が綺麗になるというよりは、違和感しかない。むむむと鏡に近づいては離れるを繰り返す。鏡に映っているのは、いつもよりわずかに血色のよく見える緋梅だけだった。
「あってるの! もう、緋梅さまったら恥ずかしがりなんだから~」
どこか嬉しそうにふう子は言って、緋梅の周りをうろうろと歩きまわる。手伝ってくれと泣きついたが、狸にできるわけがないの、とけんもほろろに断られた。
「で、帝のところに行くには身支度ちゃんとしなきゃいけないって誰が決めたのよ……」
ぶつぶつ言いながら、もう少し白粉を付けたほうが良いかともうひとはたきしてみる。
「――決まり、ではないがな。身支度は綺麗にして行ったほうが帝からの見え方も変わるだろう」
そう言って、部屋に入ってきたのは壮真だった。
壮真のおかげで、鬼の国へ無事文を届けることができた。母からの返答が返ってくるのとほぼ同時に、人の国にも文が届いた。そして決まったのが、鬼側から使者がやってくるということだった。
名目は、鬼と人との交流を深めること。そのために遣わされる鬼側の使者が、緋梅の次姉である桔梗だった。
緋梅がこちらにいるいま、どうしようもない人選だったとは思う。母撫子がこちらへ来るということは、鬼が人に下ったことを意味してしまう。誇りを重んじる鬼にとっては悪手だ。次に長姉紫苑が候補にあがるが、紫苑は人嫌いだ。鬼史上主義と言っていい。己の角術にも誇りをもち、気位が高すぎる。親善の場に出す人選としては不向きだ。
そうなると、必然的に次姉の桔梗を選ばざるを得ない。性格は良いとは言えないが、桔梗は己の立場をわきまえている。強い者にはおもねり、弱い者には威張り散らす。それはすなわち場の空気を読めるということでもある。母からの強い要請であれば、変な気を起こすことはないだろう。
桔梗と会う前に、事前に準備しておきたいということで、緋梅は壮真とともに帝に呼ばれたのだ。
「帝は、どんな人なの?」
緋梅は化粧道具を置いて、壮真を見上げた。
「陛下は、若くして帝の地位につかれた方だ」
「そんな話を聞きたいんじゃないの。壮真の従兄弟なんでしょう?」
緋梅がたずねると、壮真は驚いた表情をした。
「知っていたのか」
「ふう子が教えてくれた。つまり、壮真と帝は年齢も近い。近くでずっと見てきたあんたの話を聞きたいの」
緋梅の問いに、壮真はすっと隣に座り込んだ。
「そうだな。私はいつも陛下にしてやられている気がする」
ため息をつきながら、壮真は言った。
「自分は普通です、という顔をしながら、いきなりあっと周りが驚くことをしでかす。それが陛下だ」
「ふぅん。まぁ、面白いやつってことね」
壮真が帝に調子を狂わされているところは、容易に想像できた。壮真は一見すると冷たいように見えるが、一度懐に入ってしまうと面倒見が良いところもある。
「……陛下には、気を付けたほうがいい。君に興味津々だろうから」
緋梅は目をまたたいた。
「帝が、あたしを?」
「そうだ。従兄弟の妻であり、鬼の姫だ。何を言い出すかわからん。答えにくいことがあれば、黙っておくのが賢明だ。本当はそなたの姉上にも事前に話が出来たらいいのだが……」
「桔梗姉さまに何を言っても無駄よ。あたしのことは下に見ているから」
緋梅の言葉に、壮真が複雑な表情をした。
「姉妹仲は、よくないのか?」
「あまり良いとは言えないわね」
仲が良かったときもあった。すべてが狂ったのは、父の死と――緋梅が角を失ったことだった。もし緋梅が角を失うことがなければ、もっと違う姉妹関係もあったはずだ。
「大丈夫。でも桔梗姉さまは、帝がいる場でそれを出すような馬鹿じゃない。空気も読める」
長姉ほど強い角術も使えず、長兄よりも体術に恵まれなかった。そんな桔梗にとっては、世をわたる術がそれしかなかった。そう理解はしている。ただ、それと好きになれるかどうかは別の問題だった。
「わかった。では支度ができたら行こうか」
そう言って、壮真が立ち上がる。緋梅も最後に自分の顔を鏡で見て、立ち上がった。壮真の後を付いて、緋梅は宮中へと向かう支度をする。牛車に乗り込み、そしてふたりきりになってから、ぽつりと壮真が口を開いた。
「……緋梅。もし、陛下とそなたの姉が争うことがあれば、どちらの味方につく?」
壮真の表情は、真剣そのものだった。
「あたし、は……」
自分は鬼として生まれた。角は失っても、鬼としての誇りを失っていない。気持ちは、鬼に近いはずだ。ただ、壮真をはじめとして、人間というものに触れた。思っていたよりも人は、感情豊かで、そして一緒にいると楽しい。その感情があるのも確かだった。鬼として生きるなかで、いつの間にか失ってしまった心を取り戻すことができている。そんな風にさえ思う。とはいえ、人間の味方なのかと言われたら迷う自分もいた。
壮真は言いよどむ緋梅をじっと見つめて、そしてふっとほほ笑んだ。牛車が音を立てて動き出す。
「いじわるな質問をしてしまい、すまない。実を言うと、私も同じ気持ちだ。東雲壮真として、人間の味方につくべきだとは思っている。だが、そなたと敵対したくは……ない」
「壮真がそんなことを考えているとは、思ってもなかったわ」
緋梅は壮真の瞳を見て、心のままに言った。壮真はこうして緋梅によく接してくれる。鬼への憎しみを抑えてまで、そうしてくれているのだとばかり、思っていた。
「私も、驚くべき変化だと思う」
頭をかいて、少し恥ずかしそうに壮真は言う。
「緋梅と過ごして、ずっとこのままではよくないと、思うようになった」
壮真は口を切る。
「だが、陛下は――宮中の連中はそうではない。そなたの立場は危うい。もし、万が一のことがあった場合に、どちらにつくかどうかだけは、考えておいたほうがいい」
「万が一は考えたくないけど、考えておくわ」
緋梅の答えに、壮真はふっと笑った。
「そうだな、万が一なんて考えたくもないな」
がたがたと牛車は緋梅たちを宮中へと運んでいく。
鬼が出るか、蛇が出るか。鬼と人との邂逅が、始まろうとしていた。
にこにことふう子が鏡の向こうで笑っている。
「本当? これで化粧はあってるの?」
口紅を塗り、白粉をたたく。それが化粧と言えるものであるなら、緋梅は生まれて初めて化粧というものをした。自分としては、顔が綺麗になるというよりは、違和感しかない。むむむと鏡に近づいては離れるを繰り返す。鏡に映っているのは、いつもよりわずかに血色のよく見える緋梅だけだった。
「あってるの! もう、緋梅さまったら恥ずかしがりなんだから~」
どこか嬉しそうにふう子は言って、緋梅の周りをうろうろと歩きまわる。手伝ってくれと泣きついたが、狸にできるわけがないの、とけんもほろろに断られた。
「で、帝のところに行くには身支度ちゃんとしなきゃいけないって誰が決めたのよ……」
ぶつぶつ言いながら、もう少し白粉を付けたほうが良いかともうひとはたきしてみる。
「――決まり、ではないがな。身支度は綺麗にして行ったほうが帝からの見え方も変わるだろう」
そう言って、部屋に入ってきたのは壮真だった。
壮真のおかげで、鬼の国へ無事文を届けることができた。母からの返答が返ってくるのとほぼ同時に、人の国にも文が届いた。そして決まったのが、鬼側から使者がやってくるということだった。
名目は、鬼と人との交流を深めること。そのために遣わされる鬼側の使者が、緋梅の次姉である桔梗だった。
緋梅がこちらにいるいま、どうしようもない人選だったとは思う。母撫子がこちらへ来るということは、鬼が人に下ったことを意味してしまう。誇りを重んじる鬼にとっては悪手だ。次に長姉紫苑が候補にあがるが、紫苑は人嫌いだ。鬼史上主義と言っていい。己の角術にも誇りをもち、気位が高すぎる。親善の場に出す人選としては不向きだ。
そうなると、必然的に次姉の桔梗を選ばざるを得ない。性格は良いとは言えないが、桔梗は己の立場をわきまえている。強い者にはおもねり、弱い者には威張り散らす。それはすなわち場の空気を読めるということでもある。母からの強い要請であれば、変な気を起こすことはないだろう。
桔梗と会う前に、事前に準備しておきたいということで、緋梅は壮真とともに帝に呼ばれたのだ。
「帝は、どんな人なの?」
緋梅は化粧道具を置いて、壮真を見上げた。
「陛下は、若くして帝の地位につかれた方だ」
「そんな話を聞きたいんじゃないの。壮真の従兄弟なんでしょう?」
緋梅がたずねると、壮真は驚いた表情をした。
「知っていたのか」
「ふう子が教えてくれた。つまり、壮真と帝は年齢も近い。近くでずっと見てきたあんたの話を聞きたいの」
緋梅の問いに、壮真はすっと隣に座り込んだ。
「そうだな。私はいつも陛下にしてやられている気がする」
ため息をつきながら、壮真は言った。
「自分は普通です、という顔をしながら、いきなりあっと周りが驚くことをしでかす。それが陛下だ」
「ふぅん。まぁ、面白いやつってことね」
壮真が帝に調子を狂わされているところは、容易に想像できた。壮真は一見すると冷たいように見えるが、一度懐に入ってしまうと面倒見が良いところもある。
「……陛下には、気を付けたほうがいい。君に興味津々だろうから」
緋梅は目をまたたいた。
「帝が、あたしを?」
「そうだ。従兄弟の妻であり、鬼の姫だ。何を言い出すかわからん。答えにくいことがあれば、黙っておくのが賢明だ。本当はそなたの姉上にも事前に話が出来たらいいのだが……」
「桔梗姉さまに何を言っても無駄よ。あたしのことは下に見ているから」
緋梅の言葉に、壮真が複雑な表情をした。
「姉妹仲は、よくないのか?」
「あまり良いとは言えないわね」
仲が良かったときもあった。すべてが狂ったのは、父の死と――緋梅が角を失ったことだった。もし緋梅が角を失うことがなければ、もっと違う姉妹関係もあったはずだ。
「大丈夫。でも桔梗姉さまは、帝がいる場でそれを出すような馬鹿じゃない。空気も読める」
長姉ほど強い角術も使えず、長兄よりも体術に恵まれなかった。そんな桔梗にとっては、世をわたる術がそれしかなかった。そう理解はしている。ただ、それと好きになれるかどうかは別の問題だった。
「わかった。では支度ができたら行こうか」
そう言って、壮真が立ち上がる。緋梅も最後に自分の顔を鏡で見て、立ち上がった。壮真の後を付いて、緋梅は宮中へと向かう支度をする。牛車に乗り込み、そしてふたりきりになってから、ぽつりと壮真が口を開いた。
「……緋梅。もし、陛下とそなたの姉が争うことがあれば、どちらの味方につく?」
壮真の表情は、真剣そのものだった。
「あたし、は……」
自分は鬼として生まれた。角は失っても、鬼としての誇りを失っていない。気持ちは、鬼に近いはずだ。ただ、壮真をはじめとして、人間というものに触れた。思っていたよりも人は、感情豊かで、そして一緒にいると楽しい。その感情があるのも確かだった。鬼として生きるなかで、いつの間にか失ってしまった心を取り戻すことができている。そんな風にさえ思う。とはいえ、人間の味方なのかと言われたら迷う自分もいた。
壮真は言いよどむ緋梅をじっと見つめて、そしてふっとほほ笑んだ。牛車が音を立てて動き出す。
「いじわるな質問をしてしまい、すまない。実を言うと、私も同じ気持ちだ。東雲壮真として、人間の味方につくべきだとは思っている。だが、そなたと敵対したくは……ない」
「壮真がそんなことを考えているとは、思ってもなかったわ」
緋梅は壮真の瞳を見て、心のままに言った。壮真はこうして緋梅によく接してくれる。鬼への憎しみを抑えてまで、そうしてくれているのだとばかり、思っていた。
「私も、驚くべき変化だと思う」
頭をかいて、少し恥ずかしそうに壮真は言う。
「緋梅と過ごして、ずっとこのままではよくないと、思うようになった」
壮真は口を切る。
「だが、陛下は――宮中の連中はそうではない。そなたの立場は危うい。もし、万が一のことがあった場合に、どちらにつくかどうかだけは、考えておいたほうがいい」
「万が一は考えたくないけど、考えておくわ」
緋梅の答えに、壮真はふっと笑った。
「そうだな、万が一なんて考えたくもないな」
がたがたと牛車は緋梅たちを宮中へと運んでいく。
鬼が出るか、蛇が出るか。鬼と人との邂逅が、始まろうとしていた。
