緋梅が人の国へ輿入れしてから、ひと月が経った。
(あの子……どうしているかしら)
鬼の女王――撫子はため息をついた。
「陛下。なにか考えごとでも?」
撫子の様子をうかがいながら、侍従の小雨がたずねる。小雨はかつて緋梅の侍従をしていたが、緋梅が輿入れしてからは、撫子の侍従となった。撫子の周りでも、よく働いてくれている。
「緋梅のことを、思い出してしまって」
言いながら、撫子は外を眺めた。空は夕焼けに変わろうとしている。撫子はふと、眼下の村に目をやった。屋敷に近い村では、小さな子どもたちが笑い声をあげながら遊んでいる。
「小さい頃の緋梅、覚えてる?」
近づいた小雨は、撫子が見ている光景に気づいて目を見張った。
「もちろんです。私は何度も泣かされましたからね」
小雨は懐かしそうに言って、ほほ笑んだ。小雨は乳母の子であった。緋梅と一緒に育ってきたと言っても過言ではない。やんちゃな緋梅によく振り回されていたことを思いだす。
「姫さまは、亡き玄晶さまに似ておられましたね」
「そうね。姉弟たちの誰よりも、似ていたわね。真っすぐなところも、ちょっとぶっきらぼうなところも」
夫、玄晶は鬼のなかでも一風変わった男だった。
鬼の王族には掟があった。兄弟姉妹をすべて殺した者だけが王になれるというものだ。玄晶ももれなく、その掟にしたがい、兄弟姉妹たちを殺しつくして、血まみれの王座についた。ところが、玄晶は最後までそれを悔いていた。自ら手にかけた兄弟姉妹たちが夢に出てくるのだと、夜な夜な人知れず涙を流していた。すでに玄晶への輿入れが決まっていた撫子は、こんな頼りない男と結ばれるのは間違いだったかもしれない、と後悔したものだった。
だが、玄晶は痛みがわかる男なだけではなかった。痛みを乗り越え、変える勇気のある男でもあったのだ。兄弟姉妹を殺した者だけが王座につくという掟を、玄晶は自分の代で撤廃した。
玄晶の死後は、彼が生前に指名した者が王位を継ぐように。そうして指名されたのが、撫子だった。まさか自分が女王になるなんて、嫁いだ当初はまったく思ってもいなかった。
次の王位を継ぐ者を選ぶ使命が、撫子にはある。だが、決めかねているというのが本音だった。
一番上の紫苑は、霊力に優れるが他者の気持ちを顧みることがない。
二番目の桔梗は、世渡りが上手いが、霊力が弱い。
もし、緋梅に角があったなら、撫子はおそらく緋梅を次代の後継者に選んでいただろう。緋梅は他者の気持ちがわかる優しい子だ。真っすぐで素直すぎるきらいはあるが、誰かにおもねることはしない。
「玄晶さまも、姫さまをかわいがっていらっしゃいましたね」
「そうね」
もう戻らない時を思い出して、撫子は息をついた。
「玄晶さまは、こうも言ってたわね。お前は俺の子なんだからな、って。きっと玄晶さまも、緋梅に継がせたいと思ってたんだと思うわ。緋梅もずっと玄晶さまのあとを付いて回っていたし」
まだ緋梅が幼かったころの幸せな思い出。ただ、玄晶に守られているだけでよかった、あの頃のこと。今こうして女王となってわかる。玄晶の肩に乗っていた重圧の大きさや、家族に向けていた愛情の大きさ。
誇りや伝統を大切にしている鬼だからこそ、何かを変えることへの拒否感は大きい。玄晶が決めた、王位継承の儀の廃止もまた、多くの反対があった。それをすべて跳ね除け、玄晶は家族を守った。
次は、撫子の番だった。玄晶が掟を変えたように、撫子も鬼の国を変えるのだ。
「私は、緋梅を嫁がせてよかったのだろうか」
あれからずっと考えていた思いが、思わず言葉に出てしまった。長きにわたる戦を終わらせるのは、今しかないと思った。撫子が死んだあと、次の代に残していくには大きすぎる問題だった。今こそ、やらねばならぬと思った。だが、それによって緋梅をこの国から失ったことは、最善の手だったのだろうか。
緋梅はひとり、撫子の期待を背負って人の国へと向かってしまった。撫子にとって、緋梅もまた大切な娘のひとりだった。その想いを伝えきれなかったことが、今となっては悔やまれてならない。
「私が思うにですが……」
小雨が口を開いた。
「姫さまは、鬼の国という狭い場所に閉じ込めておけない方だったのですよ」
穏やかに、小雨はほほ笑んだ。
「こんなところにいては、勿体ない。あの澄んだ瞳で、広い世界を見てくるべきです」
「そうか、そうね」
小雨につられて、撫子もほほ笑んだ。
そのとき、小雨の後ろで誰かがやってくる音がした。
「失礼します。緋梅さまからの文が届きました」
「緋梅から?」
まさか、何か緋梅の身に起きたのか。さぁっと血の気が引いていくのを感じた。緋梅は鬼だ。身体は頑丈であるし、緋梅も身体を鍛えていた。滅多なことで負けるわけがない。だが、人は陰陽道という、鬼の角術に近いものを使うことができる。それに、大人数に襲われては勝てるものも勝てない。
「緋梅の身になにかあったの?」
撫子は思わず立ち上がった。使用人から渡された文を小雨が撫子に手渡した。文からは、誰かの霊力を感じた。これは緋梅の霊力ではない。おそらく、緋梅の夫となった男――東雲壮真のものだ。
はやる気持ちを抑えながら、撫子は文を手に取る。そして、深呼吸をした。
「読むわ」
宣言してから、文を開いた。そこに書かれていたのは、緋梅の筆跡だった。読むうちに、動悸がしてきた。目の前が暗くなっていく。知らずしらずのうちに、手が震えていた。
「女王さま、どうかされましたか」
表情を硬くして、小雨がたずねる。
「……大丈夫。緋梅は無事よ」
しいて言葉を絞り出すと、幾分か小雨の表情が和らいだ。
「だけど、とんでもない事実がわかったわ。急ぎ、紫苑と桔梗を呼んでちょうだい」
「かしこまりました」
撫子のただならぬ様子を感じて、小雨が出ていった。
たったひとりの部屋で、撫子は大きなため息をつく。これが真実だと、思いたくはなかった。
緋梅の文に記されていたのは、鬼の国の誇りそのものを揺るがす事実だった。
「玄晶さま、ごめんなさい」
もう遠くへいってしまった夫に向けて、謝罪する。先の戦で亡くなった玄晶が命をかけて守ったはずの誇り。それを傷つけられたと知って、撫子のなかには言いようのない悲しみと怒りとが渦巻いていた。
誰が鬼の誇りを傷つけたのか。何がなんでも探し出してやる、と思うのと同時に、こんな状況下においても、鬼との和平を受け入れてくれた人への尊敬の念もわいてくる。
長年争いあってきた鬼と人。かつて同じであったとされる種族の壁が、今こそ壊される。怒りに打ち震えつつも、それでも撫子の心には、たしかな希望の光が灯っていた。
(あの子……どうしているかしら)
鬼の女王――撫子はため息をついた。
「陛下。なにか考えごとでも?」
撫子の様子をうかがいながら、侍従の小雨がたずねる。小雨はかつて緋梅の侍従をしていたが、緋梅が輿入れしてからは、撫子の侍従となった。撫子の周りでも、よく働いてくれている。
「緋梅のことを、思い出してしまって」
言いながら、撫子は外を眺めた。空は夕焼けに変わろうとしている。撫子はふと、眼下の村に目をやった。屋敷に近い村では、小さな子どもたちが笑い声をあげながら遊んでいる。
「小さい頃の緋梅、覚えてる?」
近づいた小雨は、撫子が見ている光景に気づいて目を見張った。
「もちろんです。私は何度も泣かされましたからね」
小雨は懐かしそうに言って、ほほ笑んだ。小雨は乳母の子であった。緋梅と一緒に育ってきたと言っても過言ではない。やんちゃな緋梅によく振り回されていたことを思いだす。
「姫さまは、亡き玄晶さまに似ておられましたね」
「そうね。姉弟たちの誰よりも、似ていたわね。真っすぐなところも、ちょっとぶっきらぼうなところも」
夫、玄晶は鬼のなかでも一風変わった男だった。
鬼の王族には掟があった。兄弟姉妹をすべて殺した者だけが王になれるというものだ。玄晶ももれなく、その掟にしたがい、兄弟姉妹たちを殺しつくして、血まみれの王座についた。ところが、玄晶は最後までそれを悔いていた。自ら手にかけた兄弟姉妹たちが夢に出てくるのだと、夜な夜な人知れず涙を流していた。すでに玄晶への輿入れが決まっていた撫子は、こんな頼りない男と結ばれるのは間違いだったかもしれない、と後悔したものだった。
だが、玄晶は痛みがわかる男なだけではなかった。痛みを乗り越え、変える勇気のある男でもあったのだ。兄弟姉妹を殺した者だけが王座につくという掟を、玄晶は自分の代で撤廃した。
玄晶の死後は、彼が生前に指名した者が王位を継ぐように。そうして指名されたのが、撫子だった。まさか自分が女王になるなんて、嫁いだ当初はまったく思ってもいなかった。
次の王位を継ぐ者を選ぶ使命が、撫子にはある。だが、決めかねているというのが本音だった。
一番上の紫苑は、霊力に優れるが他者の気持ちを顧みることがない。
二番目の桔梗は、世渡りが上手いが、霊力が弱い。
もし、緋梅に角があったなら、撫子はおそらく緋梅を次代の後継者に選んでいただろう。緋梅は他者の気持ちがわかる優しい子だ。真っすぐで素直すぎるきらいはあるが、誰かにおもねることはしない。
「玄晶さまも、姫さまをかわいがっていらっしゃいましたね」
「そうね」
もう戻らない時を思い出して、撫子は息をついた。
「玄晶さまは、こうも言ってたわね。お前は俺の子なんだからな、って。きっと玄晶さまも、緋梅に継がせたいと思ってたんだと思うわ。緋梅もずっと玄晶さまのあとを付いて回っていたし」
まだ緋梅が幼かったころの幸せな思い出。ただ、玄晶に守られているだけでよかった、あの頃のこと。今こうして女王となってわかる。玄晶の肩に乗っていた重圧の大きさや、家族に向けていた愛情の大きさ。
誇りや伝統を大切にしている鬼だからこそ、何かを変えることへの拒否感は大きい。玄晶が決めた、王位継承の儀の廃止もまた、多くの反対があった。それをすべて跳ね除け、玄晶は家族を守った。
次は、撫子の番だった。玄晶が掟を変えたように、撫子も鬼の国を変えるのだ。
「私は、緋梅を嫁がせてよかったのだろうか」
あれからずっと考えていた思いが、思わず言葉に出てしまった。長きにわたる戦を終わらせるのは、今しかないと思った。撫子が死んだあと、次の代に残していくには大きすぎる問題だった。今こそ、やらねばならぬと思った。だが、それによって緋梅をこの国から失ったことは、最善の手だったのだろうか。
緋梅はひとり、撫子の期待を背負って人の国へと向かってしまった。撫子にとって、緋梅もまた大切な娘のひとりだった。その想いを伝えきれなかったことが、今となっては悔やまれてならない。
「私が思うにですが……」
小雨が口を開いた。
「姫さまは、鬼の国という狭い場所に閉じ込めておけない方だったのですよ」
穏やかに、小雨はほほ笑んだ。
「こんなところにいては、勿体ない。あの澄んだ瞳で、広い世界を見てくるべきです」
「そうか、そうね」
小雨につられて、撫子もほほ笑んだ。
そのとき、小雨の後ろで誰かがやってくる音がした。
「失礼します。緋梅さまからの文が届きました」
「緋梅から?」
まさか、何か緋梅の身に起きたのか。さぁっと血の気が引いていくのを感じた。緋梅は鬼だ。身体は頑丈であるし、緋梅も身体を鍛えていた。滅多なことで負けるわけがない。だが、人は陰陽道という、鬼の角術に近いものを使うことができる。それに、大人数に襲われては勝てるものも勝てない。
「緋梅の身になにかあったの?」
撫子は思わず立ち上がった。使用人から渡された文を小雨が撫子に手渡した。文からは、誰かの霊力を感じた。これは緋梅の霊力ではない。おそらく、緋梅の夫となった男――東雲壮真のものだ。
はやる気持ちを抑えながら、撫子は文を手に取る。そして、深呼吸をした。
「読むわ」
宣言してから、文を開いた。そこに書かれていたのは、緋梅の筆跡だった。読むうちに、動悸がしてきた。目の前が暗くなっていく。知らずしらずのうちに、手が震えていた。
「女王さま、どうかされましたか」
表情を硬くして、小雨がたずねる。
「……大丈夫。緋梅は無事よ」
しいて言葉を絞り出すと、幾分か小雨の表情が和らいだ。
「だけど、とんでもない事実がわかったわ。急ぎ、紫苑と桔梗を呼んでちょうだい」
「かしこまりました」
撫子のただならぬ様子を感じて、小雨が出ていった。
たったひとりの部屋で、撫子は大きなため息をつく。これが真実だと、思いたくはなかった。
緋梅の文に記されていたのは、鬼の国の誇りそのものを揺るがす事実だった。
「玄晶さま、ごめんなさい」
もう遠くへいってしまった夫に向けて、謝罪する。先の戦で亡くなった玄晶が命をかけて守ったはずの誇り。それを傷つけられたと知って、撫子のなかには言いようのない悲しみと怒りとが渦巻いていた。
誰が鬼の誇りを傷つけたのか。何がなんでも探し出してやる、と思うのと同時に、こんな状況下においても、鬼との和平を受け入れてくれた人への尊敬の念もわいてくる。
長年争いあってきた鬼と人。かつて同じであったとされる種族の壁が、今こそ壊される。怒りに打ち震えつつも、それでも撫子の心には、たしかな希望の光が灯っていた。
