手にした木刀が風を切る。何百、何千とおこなった動作。振り下ろしては、構え直し、また振る。心のなかで百を数えたところで、次の型にうつる。
息を吐いて、吸って。周囲に漂っている霊力を身体の中心に集める。炎が燃え盛る様を想像しながら、木刀を振り下ろした。ぼうっと音がして、木刀が炎を纏う。その状態を保ちながら、振り下ろしと構えの動作を繰り返す。
素振りを百回おこなったあとに、霊力を使ってまた素振りを百回。そしてそれを繰り返す。気が遠くなるくらい、やり込んできた修行だ。注ぎ込む霊力を調整し、炎の大きさを一定に保っていなければ、木刀は燃えてしまう。些細な気の緩みで、これまで何十本も木刀を燃やしてきた。
山裾にある稽古場には、緋梅が風を切る音だけが響いていた。ほとんど山の中に作った稽古場は、誰も足を運ばない。樹々の合間から射しこんでいた光が、いつの間にか夕陽へと変わっている。身体は疲れ切っていたが、ここで諦める気はなかった。
――角がなくたって、強いことを証明してやる。
鬼の象徴である角を失ってから、そう緋梅は心に誓った。死んだ父が認めてくれるような、強い鬼になる。角を持つ姉たちにだって負けない鬼に。誰からも認められる鬼になるのだという思いが緋梅を突き動かす。
「……めさま、姫さま」
背後からかけられた声に、緋梅は動きを止めた。途端に、ごうと音を立てて木刀が炭へと変わる。ため息をつきながら振り返ると、侍従の小雨が灯りを持って立っていた。
小雨は、緋梅に仕える乳母の子であり、幼い時から一緒に過ごしてきた。歳もほとんど変わらない幼馴染であり、緋梅が心を許す数少ない存在だった。
「小雨、終わるまで待てなかったの? また木刀を炭にしちゃったんだけど」
「お待ちしておりましたが、一向に終わる気配がありませんので。昨日から何も召し上がっていませんよ」
困った顔で言う小雨に、緋梅は動きを止めて考える。素振りを開始したのが、昼のこと。そこまではわかる。いつの間にか、一日半経っていたということになる。集中しすぎて、気づかなかった。
「いつの間にそんなに経ってたの?! 小雨、そこはちゃんと声かけてくれなきゃ困るわ。あたしの身体と木刀、どっちが大事なの?」
「もちろん姫さまです。だから声をかけたではありませんか」
冗談のつもりで言った緋梅は、即答した小雨にどことなく気恥ずかしさを覚えた。何も言い返せないまま、緋梅はぼそぼそと感謝の言葉をつぶやいた。
「そ、それは助かったわ。ありがと。次は一日経つ前に声かけてちょうだいね!」
「今度はどんな手を使ってでもお止めしますね」
にこやかに言う小雨が怖い。ずっとそばにいるからこそ、小雨は緋梅の嫌がることはすべて把握している。
緋梅は近くに転がしておいた丸太に座り込んだ。動きを止めると、途端に身体が重く感じる。慣れた手つきで竹の水筒を緋梅に手渡し、小雨はたずねた。
「また、霊力を使った修行をしていたのですか?」
小雨から水筒を受け取って、一気に飲み干す。
「そうよ。最近は色々できるようになってきたの。角がなくたって、霊力ぐらい使えるんだってことを見せたくて」
「……角を失ったのは、緋梅さまのせいではありません」
小雨は複雑な表情で言った。
「いいの。あたしのせいってことにしておいて。だから、あたしは角がなくても頑張るの」
緋梅は語気を強く言いつのった。
かつて、緋梅は鬼の国を出て、人の国へと向かったことがあった。そこで出会ったのが、人間の少年だった。初めて出会った人間に興味を引かれ、近づいてしまったのが緋梅の運の尽きだった。
少年は、不思議な勾玉を持っていた。緋梅が少年に近づいた瞬間、勾玉から光が放たれ、緋梅は意識を失った。次に目が覚めたときには、少年の姿はなく――そして緋梅は角を失っていた。
あれは、不慮の事故だった。少年に、緋梅を害する意図はなかった。緋梅は今もそう思っている。気を失う前に見た少年の表情。それは、たしかに緋梅の身を案じるものだった。
突然角を失って現れた緋梅を、周りは皆心配した。何があったのだと聞かれても、緋梅は決して答えなかった。その当時は、鬼と人との戦が終わった直後。周りに伝えることで、また戦が起こって欲しくはなかったのだ。結局、緋梅が真実を伝えたのは、身の周りを世話してくれている小雨だけだった。
緋梅を見て、小雨は諦めのようなため息をつく。
「……最初に言い出したときはどうなるかと思いましたが、本当に角を使わずに霊力を発揮されるとは」
鬼は普通、角を介して霊力を体内に集め、それを放出することで、角術(かくじゅつ)と呼ばれるさまざまな力を発揮する。発揮できる力は、その鬼が生まれ持った角の色によって異なる。赤色は、火。水色は、水。緑色は、風。そして、稀に発現する金や銀の角を持っている鬼は、複数の角術を使うことができた。かつて、緋梅には亡き父と同じ、金色の角があった。
その角を失って、緋梅は違う方法で角術を使おうと試みた。角を介さずに、身体全体で霊力を体内に集約させる方法だ。最初はこれっぽっちもできなかったが、約十年の修行を経て、最近はものになってきたと思う。あとは、細かな霊力の調整ができれば、完璧だ。その最後の微調整がなかなかに難しい。
「休憩が終わりましたら、今日の修行はここら辺にして、帰りましょう。陛下からお呼びがかかっておりました」
「母上から?」
緋梅は目を見開いた。
「はい。御息女の皆さまへお話があるということで」
「母上から呼び出しなんて、久しぶりね」
緋梅の母である撫子(なでしこ)は、ほとんど緋梅たちの前に姿を現さない。父が亡くなって、女王を継いでからは、政治をおこなう別邸にこもり切りだった。久しぶりに母に会えると思うと、心が浮き足立つ。
「母上を待たせておけないわね」
緋梅は丸太から勢いよく立ち上がった。早々に帰り支度をして、屋敷へと戻ることにした。
樹々に囲まれた稽古場から、少し開けた場所へ出ると、夕方の風が汗ばんだ肌を撫でた。ふと後ろを振り返ると、夕陽が落ちた空の藍色と山の深緑が闇に溶けていくのが見える。近くの民家で夕餉の支度をしているのだろう。煙の匂いが流れてくる。
田や畑から家路に帰る民たちが、緋梅を見て遠くからひそひそ声で話しているのがわかった。どこを歩いていたって、角がない緋梅の姿は目を引いた。好奇心と憐れみの混ざった視線。角を無くしてから十年経つが、今もまだ慣れない。冷たい視線を背に受けながら、屋敷の前にたどり着いた。
屋敷の高い石垣は、夕闇のなかで重々しくそびえ立っていた。緋梅が呼ばれたのは、屋敷のなかで一番大きい一の間だった。途中で小雨と別れ、緋梅はひとりで一の間へと向かう。廊下ですれ違う侍女たちは、一礼をして足早に去っていく。
緋梅にあまり関わらないように、目を合わせないように。そんな意図が見え見えだった。この扱いにも慣れたものだが、どこか虚しい気持ちはずっと消えることはない。
一の間に向かう渡り廊下からでも、姉たちの重々しい気配がした。身体にまとわりつくような気配を振り切るように、緋梅は小さく息をつく。
一の間の前で、緋梅は膝をついて礼をした。
「緋梅、ただいま参りました」
中から答えはないが、それが答えだ。緋梅は意を決して、中へと入る。
張り詰めた空気がそこに漂っていた。上座中央にはまだ誰もいない。中央から見て左側には、長姉の紫苑がぴんと背筋を伸ばして座っていた。蘇芳色の小袖に身をつつみ、艶やかな黒髪は腰のあたりまで流れている。紫苑はゆっくりと顔をあげた。その顔はまるで彫刻のように整っているが、緋梅を見る眼差しはひどく冷たい。
「遅かったのですね、緋梅」
切れ長の瞳が緋梅を捉える。翡翠色の瞳と同じ色の角が、額に立派に生えている。薄い唇には、微かな微笑が浮かんでいた。それは緋梅を歓迎するものではなく、嘲りを含んだものだと知っている。
「紫苑姉さま、お待たせしてしまい、申し訳ございません」
「やっぱり、これだから角なしは困りますよね。紫苑姉さま?」
頭を下げる緋梅の頭上に、もうひとつ声がかかる。次姉の桔梗のものだった。
「あなたも遅いですよ、桔梗。母上に呼ばれた意味を考えなさい」
紫苑がぴしゃりと言い放つ。桔梗は薄紫色の小袖に身を包み、扇を手に微笑を浮かべていた。華やかな顔立ちは笑みを形作っているが、その視線は冷静に紫苑を射貫いていた。
「私は紫苑姉さまほど暇じゃありませんから」
紫苑の眉がぴくりと動く。
「私はあなたとは違い、母上の補佐をしているの。何も任されないあなたにはわからないでしょうけど」
「母上の補佐までしているっていうのに、なぜ母上は紫苑姉さまを後継者にしないのでしょうね?」
ぎらり、と紫苑の瞳に怒りが燃えた。
「――桔梗姉さま」
緋梅は思わず口を出した。紫苑が一番気にしていることだ。これ以上言えば、喧嘩どころでは済まない。
「あら、緋梅。角のないあなたに何か言える? あなたには、後継者なんて到底無理なんだから」
きゃはは、と桔梗は白々しく笑った。侮辱にまみれた視線を受け止めて、緋梅は口をつぐむ。
父が生きていた頃は、まだ家族仲はよかったはずだ。父は圧倒的な力を持ち、姉妹の憧れだった。父が死んで母が女王となった。誰を後継者にするかは、父の遺言により母に託された。
母が誰を後継者に据えるのか。長姉の紫苑か、次姉の桔梗か、それとも末妹の緋梅か。姉妹関係は、いつの間にか自分こそが後継者に相応しいのだと、蹴落とし合う関係に成り果てていた。
「こんな鬼族の恥さらし。なぜ母上はいつまでも生かしておくのかしら」
はぁ、とわざとらしくため息をついて、紫苑は頬に手をやった。桔梗が立ち上がり、緋梅の前に近づく。そして、緋梅を見下しながら吐き捨てた。
「角もなければ、愛想もない。本当に役に立たないのね、あんたって。あんたと血が繋がってると考えるだけで、反吐が出るわ」
緋梅は視線を真正面から受け止めた。姉たちに返すべき言葉はなかった。だが、屈したと思われたくはなかった。
「なによ、その目は……!」
桔梗の笑みが消え、すっと目が細められる。手にしていた扇が鋭く振り上げられた。ひゅん、と風を切る音がした瞬間、緋梅は片手で扇を掴んで止めた。動揺したように目を動かした桔梗を見てから、緋梅は手を下ろす。
そのとき、廊下の奥から衣擦れの音が聞こえてきた。姉妹たちは口をつぐみ、自然と元の場所へと戻る。去り際に、桔梗から向けられた視線は、憎しみに満ちたものだった。緋梅は仕方なく桔梗の隣に座る。直後、微かな香の香りが部屋に漂った。
「みな、揃っているようね」
母、撫子が姿を現した。黒髪は高く結い上げられ、その細面は雪のように白く美しい。撫子が一歩足を踏み入れただけで、部屋の空気が重々しく張り詰めた。
息を吐いて、吸って。周囲に漂っている霊力を身体の中心に集める。炎が燃え盛る様を想像しながら、木刀を振り下ろした。ぼうっと音がして、木刀が炎を纏う。その状態を保ちながら、振り下ろしと構えの動作を繰り返す。
素振りを百回おこなったあとに、霊力を使ってまた素振りを百回。そしてそれを繰り返す。気が遠くなるくらい、やり込んできた修行だ。注ぎ込む霊力を調整し、炎の大きさを一定に保っていなければ、木刀は燃えてしまう。些細な気の緩みで、これまで何十本も木刀を燃やしてきた。
山裾にある稽古場には、緋梅が風を切る音だけが響いていた。ほとんど山の中に作った稽古場は、誰も足を運ばない。樹々の合間から射しこんでいた光が、いつの間にか夕陽へと変わっている。身体は疲れ切っていたが、ここで諦める気はなかった。
――角がなくたって、強いことを証明してやる。
鬼の象徴である角を失ってから、そう緋梅は心に誓った。死んだ父が認めてくれるような、強い鬼になる。角を持つ姉たちにだって負けない鬼に。誰からも認められる鬼になるのだという思いが緋梅を突き動かす。
「……めさま、姫さま」
背後からかけられた声に、緋梅は動きを止めた。途端に、ごうと音を立てて木刀が炭へと変わる。ため息をつきながら振り返ると、侍従の小雨が灯りを持って立っていた。
小雨は、緋梅に仕える乳母の子であり、幼い時から一緒に過ごしてきた。歳もほとんど変わらない幼馴染であり、緋梅が心を許す数少ない存在だった。
「小雨、終わるまで待てなかったの? また木刀を炭にしちゃったんだけど」
「お待ちしておりましたが、一向に終わる気配がありませんので。昨日から何も召し上がっていませんよ」
困った顔で言う小雨に、緋梅は動きを止めて考える。素振りを開始したのが、昼のこと。そこまではわかる。いつの間にか、一日半経っていたということになる。集中しすぎて、気づかなかった。
「いつの間にそんなに経ってたの?! 小雨、そこはちゃんと声かけてくれなきゃ困るわ。あたしの身体と木刀、どっちが大事なの?」
「もちろん姫さまです。だから声をかけたではありませんか」
冗談のつもりで言った緋梅は、即答した小雨にどことなく気恥ずかしさを覚えた。何も言い返せないまま、緋梅はぼそぼそと感謝の言葉をつぶやいた。
「そ、それは助かったわ。ありがと。次は一日経つ前に声かけてちょうだいね!」
「今度はどんな手を使ってでもお止めしますね」
にこやかに言う小雨が怖い。ずっとそばにいるからこそ、小雨は緋梅の嫌がることはすべて把握している。
緋梅は近くに転がしておいた丸太に座り込んだ。動きを止めると、途端に身体が重く感じる。慣れた手つきで竹の水筒を緋梅に手渡し、小雨はたずねた。
「また、霊力を使った修行をしていたのですか?」
小雨から水筒を受け取って、一気に飲み干す。
「そうよ。最近は色々できるようになってきたの。角がなくたって、霊力ぐらい使えるんだってことを見せたくて」
「……角を失ったのは、緋梅さまのせいではありません」
小雨は複雑な表情で言った。
「いいの。あたしのせいってことにしておいて。だから、あたしは角がなくても頑張るの」
緋梅は語気を強く言いつのった。
かつて、緋梅は鬼の国を出て、人の国へと向かったことがあった。そこで出会ったのが、人間の少年だった。初めて出会った人間に興味を引かれ、近づいてしまったのが緋梅の運の尽きだった。
少年は、不思議な勾玉を持っていた。緋梅が少年に近づいた瞬間、勾玉から光が放たれ、緋梅は意識を失った。次に目が覚めたときには、少年の姿はなく――そして緋梅は角を失っていた。
あれは、不慮の事故だった。少年に、緋梅を害する意図はなかった。緋梅は今もそう思っている。気を失う前に見た少年の表情。それは、たしかに緋梅の身を案じるものだった。
突然角を失って現れた緋梅を、周りは皆心配した。何があったのだと聞かれても、緋梅は決して答えなかった。その当時は、鬼と人との戦が終わった直後。周りに伝えることで、また戦が起こって欲しくはなかったのだ。結局、緋梅が真実を伝えたのは、身の周りを世話してくれている小雨だけだった。
緋梅を見て、小雨は諦めのようなため息をつく。
「……最初に言い出したときはどうなるかと思いましたが、本当に角を使わずに霊力を発揮されるとは」
鬼は普通、角を介して霊力を体内に集め、それを放出することで、角術(かくじゅつ)と呼ばれるさまざまな力を発揮する。発揮できる力は、その鬼が生まれ持った角の色によって異なる。赤色は、火。水色は、水。緑色は、風。そして、稀に発現する金や銀の角を持っている鬼は、複数の角術を使うことができた。かつて、緋梅には亡き父と同じ、金色の角があった。
その角を失って、緋梅は違う方法で角術を使おうと試みた。角を介さずに、身体全体で霊力を体内に集約させる方法だ。最初はこれっぽっちもできなかったが、約十年の修行を経て、最近はものになってきたと思う。あとは、細かな霊力の調整ができれば、完璧だ。その最後の微調整がなかなかに難しい。
「休憩が終わりましたら、今日の修行はここら辺にして、帰りましょう。陛下からお呼びがかかっておりました」
「母上から?」
緋梅は目を見開いた。
「はい。御息女の皆さまへお話があるということで」
「母上から呼び出しなんて、久しぶりね」
緋梅の母である撫子(なでしこ)は、ほとんど緋梅たちの前に姿を現さない。父が亡くなって、女王を継いでからは、政治をおこなう別邸にこもり切りだった。久しぶりに母に会えると思うと、心が浮き足立つ。
「母上を待たせておけないわね」
緋梅は丸太から勢いよく立ち上がった。早々に帰り支度をして、屋敷へと戻ることにした。
樹々に囲まれた稽古場から、少し開けた場所へ出ると、夕方の風が汗ばんだ肌を撫でた。ふと後ろを振り返ると、夕陽が落ちた空の藍色と山の深緑が闇に溶けていくのが見える。近くの民家で夕餉の支度をしているのだろう。煙の匂いが流れてくる。
田や畑から家路に帰る民たちが、緋梅を見て遠くからひそひそ声で話しているのがわかった。どこを歩いていたって、角がない緋梅の姿は目を引いた。好奇心と憐れみの混ざった視線。角を無くしてから十年経つが、今もまだ慣れない。冷たい視線を背に受けながら、屋敷の前にたどり着いた。
屋敷の高い石垣は、夕闇のなかで重々しくそびえ立っていた。緋梅が呼ばれたのは、屋敷のなかで一番大きい一の間だった。途中で小雨と別れ、緋梅はひとりで一の間へと向かう。廊下ですれ違う侍女たちは、一礼をして足早に去っていく。
緋梅にあまり関わらないように、目を合わせないように。そんな意図が見え見えだった。この扱いにも慣れたものだが、どこか虚しい気持ちはずっと消えることはない。
一の間に向かう渡り廊下からでも、姉たちの重々しい気配がした。身体にまとわりつくような気配を振り切るように、緋梅は小さく息をつく。
一の間の前で、緋梅は膝をついて礼をした。
「緋梅、ただいま参りました」
中から答えはないが、それが答えだ。緋梅は意を決して、中へと入る。
張り詰めた空気がそこに漂っていた。上座中央にはまだ誰もいない。中央から見て左側には、長姉の紫苑がぴんと背筋を伸ばして座っていた。蘇芳色の小袖に身をつつみ、艶やかな黒髪は腰のあたりまで流れている。紫苑はゆっくりと顔をあげた。その顔はまるで彫刻のように整っているが、緋梅を見る眼差しはひどく冷たい。
「遅かったのですね、緋梅」
切れ長の瞳が緋梅を捉える。翡翠色の瞳と同じ色の角が、額に立派に生えている。薄い唇には、微かな微笑が浮かんでいた。それは緋梅を歓迎するものではなく、嘲りを含んだものだと知っている。
「紫苑姉さま、お待たせしてしまい、申し訳ございません」
「やっぱり、これだから角なしは困りますよね。紫苑姉さま?」
頭を下げる緋梅の頭上に、もうひとつ声がかかる。次姉の桔梗のものだった。
「あなたも遅いですよ、桔梗。母上に呼ばれた意味を考えなさい」
紫苑がぴしゃりと言い放つ。桔梗は薄紫色の小袖に身を包み、扇を手に微笑を浮かべていた。華やかな顔立ちは笑みを形作っているが、その視線は冷静に紫苑を射貫いていた。
「私は紫苑姉さまほど暇じゃありませんから」
紫苑の眉がぴくりと動く。
「私はあなたとは違い、母上の補佐をしているの。何も任されないあなたにはわからないでしょうけど」
「母上の補佐までしているっていうのに、なぜ母上は紫苑姉さまを後継者にしないのでしょうね?」
ぎらり、と紫苑の瞳に怒りが燃えた。
「――桔梗姉さま」
緋梅は思わず口を出した。紫苑が一番気にしていることだ。これ以上言えば、喧嘩どころでは済まない。
「あら、緋梅。角のないあなたに何か言える? あなたには、後継者なんて到底無理なんだから」
きゃはは、と桔梗は白々しく笑った。侮辱にまみれた視線を受け止めて、緋梅は口をつぐむ。
父が生きていた頃は、まだ家族仲はよかったはずだ。父は圧倒的な力を持ち、姉妹の憧れだった。父が死んで母が女王となった。誰を後継者にするかは、父の遺言により母に託された。
母が誰を後継者に据えるのか。長姉の紫苑か、次姉の桔梗か、それとも末妹の緋梅か。姉妹関係は、いつの間にか自分こそが後継者に相応しいのだと、蹴落とし合う関係に成り果てていた。
「こんな鬼族の恥さらし。なぜ母上はいつまでも生かしておくのかしら」
はぁ、とわざとらしくため息をついて、紫苑は頬に手をやった。桔梗が立ち上がり、緋梅の前に近づく。そして、緋梅を見下しながら吐き捨てた。
「角もなければ、愛想もない。本当に役に立たないのね、あんたって。あんたと血が繋がってると考えるだけで、反吐が出るわ」
緋梅は視線を真正面から受け止めた。姉たちに返すべき言葉はなかった。だが、屈したと思われたくはなかった。
「なによ、その目は……!」
桔梗の笑みが消え、すっと目が細められる。手にしていた扇が鋭く振り上げられた。ひゅん、と風を切る音がした瞬間、緋梅は片手で扇を掴んで止めた。動揺したように目を動かした桔梗を見てから、緋梅は手を下ろす。
そのとき、廊下の奥から衣擦れの音が聞こえてきた。姉妹たちは口をつぐみ、自然と元の場所へと戻る。去り際に、桔梗から向けられた視線は、憎しみに満ちたものだった。緋梅は仕方なく桔梗の隣に座る。直後、微かな香の香りが部屋に漂った。
「みな、揃っているようね」
母、撫子が姿を現した。黒髪は高く結い上げられ、その細面は雪のように白く美しい。撫子が一歩足を踏み入れただけで、部屋の空気が重々しく張り詰めた。
