川の上流に近づくにつれ、雨脚は次第に強まっていった。着物はすでにしっとりと濡れ、道とも呼べぬ獣道を歩いているうちに、足袋は泥にまみれた。鬼の緋梅にとっては、これぐらいの運動は苦にならない。一方で、人の壮真にとって、この道のりが険しいことはすぐにわかった。
息を切らしながらも、壮真は蝶を頼りに進み続ける。まるで何かに取り憑かれたように、ただひたすら蝶の行く先へと足を運んでいた。あの祠で壮真が見たものは、何だったのか。壮真の気迫に、緋梅はたずねることができないままだった。
しばらく歩くうちに、川の流れはさらに激しくなる。至るところに滝があり、それらが川の流れと合流している。滝の先に、きっと早瀬姫はいる。そう信じて、足場の悪いなかを進み続ける。
そうして歩き続けた先に、大きな滝が流れていた。轟音にかき消され、滝の音しか耳に入らない。近づくだけで、その水量に圧倒される。緋梅たちは思わず立ち止まった。蝶は滝の前で途切れている。――ここに、何かがいる。
「早瀬姫、いるんだろう!」
壮真が滝に向かって叫んだ。すると、滝が流れてくる崖の向こうから、大きな何かが首をもたげた。
――銀の鱗をした、龍だった。
はじめて目にする光景に、緋梅は思わず息をのんだ。山ひとつを丸ごと吞み込むかのような、大きな龍がそこにいた。雨のなかで鱗が鈍く銀色に光り、白眼が緋梅を捉える。龍は大きな口を開けて、声にならない悲鳴を叫ぶ。まるで、助けて欲しいと言っているようだった。
「壮真、本当にあれが早瀬姫なの?!」
緋梅は壮真に向かって叫んだ。どう考えても、あれは神ではない。神に限りなく近い、化け物だ。身体の全部が、龍に立ち向かうことを拒否している。寒さではない。純然たる恐怖で、緋梅の足は小刻みに震えていた。
「あれが、早瀬姫の堕ちた姿だ!」
壮真が叫ぶ。堕ち神は、人の信仰を失い、霊力が暴走した神のこと。そう聞いた。たしかに、霊力は暴走しているかもしれない。だが、早瀬姫に流れる霊力には、違和感があった。
(霊力を、内側で抑えているような――)
もし、本当に早瀬姫ほどの神が暴走しているのだとしたら、すでに川は氾濫していただろう。あふれそうな霊力を、かろうじて内側に抑え込んでいるような、そんな霊力の流れを感じる。
「壮真! もしかしたら早瀬姫は、まだ堕ちてはいないのかもしれない!」
緋梅は力強く叫ぶ。壮真が振り返った。
「早瀬姫がすでに堕ちているなら、この霊力を抑えておけるはずがないわ」
緋梅の叫びに、壮真ははっとした表情をする。
「早瀬姫が持っている霊力のほかに、何者かの霊力が注ぎこまれているのか?」
壮真が言ったとき、さらに空が割れるような轟音があたりに響き渡った。遅れて、ぱっと光が飛び散る。雷だ、と気づいたときには、緋梅の身体が動いていた。
目の前にいた壮真を抱きかかえるかたちで、跳躍する。先ほど壮真が立っていた場所にほど近い木に、雷が直撃する。緋梅はそのまま、滝の落差を越えて、龍の近くへと飛んだ。
「なっ、何をする!」
いきなり抱きかかえられた壮真が、驚いたように身を固くする。
「ごめんなさい、これしか方法がなかったの」
緋梅は小さくつぶやいて、さらにもう一度岩を蹴って跳躍した。
龍は壮真と緋梅を睨みつけた。その瞳に涙のようなものが光っているように見えて、緋梅ははっとする。緋梅が跳躍した先を狙って、龍が長い尻尾を使って攻撃する。壮真を抱きかかえながらも、緋梅はそれを避けた。
「緋梅。私を下ろせ」
「今下ろしたら、逆に足手まといだわ」
緋梅はきっぱりと言い切った。龍の動きを見極め、交わすにはある程度の戦闘経験がいる。壮真に自分で動かれるよりも、緋梅が動くほうが安全だ。
「どうしたら早瀬姫を救える?」
緋梅は龍の動きを読みながらたずねた。このままでは防戦一方で埒が明かない。
「早瀬姫の頭に刺さっている鱗、おそらくあれが原因だ」
壮真は龍の頭を指した。そこには、銀色の鱗のうち、ひとつだけ黒い鱗が突き刺さっていた。それはてらてらと不気味な光を放ち、周囲に淀んだ気配を漂わせていた。
「あれを取れば、いいのね?」
「そうだ。あれが早瀬姫の霊力を乱す原因になっているはずだ」
「っ、わかった!」
もう一度、龍の攻撃をかわす。巻き上げられた水で足元がおぼつかない。一瞬ふらりと体勢を崩しそうになる。
「緋梅、大丈夫か」
さすがに、壮真を抱えながらあの鱗を狙うのは難易度が高い。
「私を下ろしてくれ。そうすれば、身軽になるだろう」
たしかに壮真を下ろすことで、緋梅は身軽になる。だが、もし龍が壮真を狙ったら――どうしたらいい。緋梅の心の葛藤を見透かすように、壮真は力強くうなずいた。
「自分の身は、自分で守れる。緋梅には、あの鱗を取ることだけに集中してほしい」
言い切った壮真の瞳を見て、緋梅は覚悟した。壮真を近くの木陰にそっと下ろした。
「あとはあたしに任せて」
緋梅は言い切って、壮真に背を向けて駆けた。濁流に足を取られながらも、ところどころに見える石の上を飛ぶように走る。龍に攻撃をさせないように、右に左にと移動しながら、龍の動きをかく乱する。
「早瀬姫……いま、助ける」
龍の目の前まで走り込み、緋梅は小さくつぶやいた。そうして、一気に足に力を込めて跳躍する。龍も大きく口を開き、緋梅を警戒するように咆哮した。
鋭い牙が緋梅を貫こうと迫る。緋梅は身体をねじり、それを避けた。かちん、と空振りした音が耳のすぐそこで聞こえる。そして、緋梅は思いっきり龍の首に取りついた。龍は緋梅に気づいたのち、緋梅を振り落とそうと首を何度も横に振る。だが、もう龍に飛び乗ったその瞬間、勝敗は決していた。
(鬼の腕力を舐めないことね……!)
緋梅は首の鱗ひとつひとつを掴みながら、一歩ずつ上へとのぼっていく。雨が降りしきるなか、龍の頭頂部にたどり着いた。黒い鱗が、頭頂部の真ん中に刺さっていた。禍々しい気配が漂う。緋梅は全身の力を込めて、黒い鱗を一気に引き抜いた。その瞬間、龍が雷に打たれたように動きをとめる。そして、そのまま身体が傾き始めた。
慌てて身を交わそうとするも、傾いでいく龍に叩き付けられ、緋梅は頭を強く打った。その瞬間に、額に付けていた角飾りがかしゃん、と音を立てて崩れ落ちる。
「っあ……!」
壊れた角の残骸を手に取ろうと緋梅は手を伸ばす。しかし、角の欠片は手からすり抜け、濁流の中に飲み込まれていった。
緋梅の身体も濁流に落ちるかと思ったそのとき、ふわりとしたものが緋梅の身体を包んだ。ぎゅっとつぶっていた目を開くと、壮真の蝶があたりをひらひらと待っている。蝶たちが、緋梅の衝撃をやわらげてくれたようだ。ほっと一息吐いたとき、どうと音がして背後で龍が倒れた。
それと同時に、強く降っていた雨がぴたりと止む。そして、雲の合間から光が差してきた。
「雨が……止んだ」
きらきらと降り注ぐ光に照らされて、龍の姿がおぼろげになり溶けていく。それと同時に、濁流の勢いも一気に弱まり始めた。
「緋梅! 怪我はないか」
大きな声がして、壮真が岩のうえを渡り歩きながら緋梅に近寄ってくる。ふわふわと蝶に浮きながら、緋梅は壮真に向けて手を振った。蝶はゆっくりと壮真のもとに緋梅を運ぶ。
「緋梅、その角は」
壮真は驚きの声をあげる。緋梅は咄嗟に、なくなった角を隠そうとした。
「これは……」
「先ほどの戦いで、やられたのか?」
「違う。騙していて、ごめんなさい。あたしは……角なしの鬼なの」
覚悟を決めて、緋梅は口を開く。胸に痛みが走った。自分が角なしの――不完全な存在であると認めるのが、こんなに怖いなんて。緋梅はぎゅっと自分の手のひらを握った。壮真の顔が見られなくて、うつむく。
「緋梅。顔をあげてくれ」
やわらかい壮真の声に、緋梅はおそるおそる顔をあげた。そこには、泣き笑いのような表情をした壮真の姿がある。
「緋梅が無事であれば、それでいい。角のことは、またゆっくり話そう」
「壮真……」
この感情が何なのかわからず、緋梅はそれっきり口をつぐんだ。ほっとしたのか、それとも嬉しかったのか。自分でもよくわからなかった。
人に角はない。だから角を失う痛みなどわかるはずがない、と卑屈に思う一方で、これほどあっさりと受け入れられたことで、心が軽くなる自分もいた。
「――そこの者。感謝します」
そのとき、凛とした声があたりに響いた。
息を切らしながらも、壮真は蝶を頼りに進み続ける。まるで何かに取り憑かれたように、ただひたすら蝶の行く先へと足を運んでいた。あの祠で壮真が見たものは、何だったのか。壮真の気迫に、緋梅はたずねることができないままだった。
しばらく歩くうちに、川の流れはさらに激しくなる。至るところに滝があり、それらが川の流れと合流している。滝の先に、きっと早瀬姫はいる。そう信じて、足場の悪いなかを進み続ける。
そうして歩き続けた先に、大きな滝が流れていた。轟音にかき消され、滝の音しか耳に入らない。近づくだけで、その水量に圧倒される。緋梅たちは思わず立ち止まった。蝶は滝の前で途切れている。――ここに、何かがいる。
「早瀬姫、いるんだろう!」
壮真が滝に向かって叫んだ。すると、滝が流れてくる崖の向こうから、大きな何かが首をもたげた。
――銀の鱗をした、龍だった。
はじめて目にする光景に、緋梅は思わず息をのんだ。山ひとつを丸ごと吞み込むかのような、大きな龍がそこにいた。雨のなかで鱗が鈍く銀色に光り、白眼が緋梅を捉える。龍は大きな口を開けて、声にならない悲鳴を叫ぶ。まるで、助けて欲しいと言っているようだった。
「壮真、本当にあれが早瀬姫なの?!」
緋梅は壮真に向かって叫んだ。どう考えても、あれは神ではない。神に限りなく近い、化け物だ。身体の全部が、龍に立ち向かうことを拒否している。寒さではない。純然たる恐怖で、緋梅の足は小刻みに震えていた。
「あれが、早瀬姫の堕ちた姿だ!」
壮真が叫ぶ。堕ち神は、人の信仰を失い、霊力が暴走した神のこと。そう聞いた。たしかに、霊力は暴走しているかもしれない。だが、早瀬姫に流れる霊力には、違和感があった。
(霊力を、内側で抑えているような――)
もし、本当に早瀬姫ほどの神が暴走しているのだとしたら、すでに川は氾濫していただろう。あふれそうな霊力を、かろうじて内側に抑え込んでいるような、そんな霊力の流れを感じる。
「壮真! もしかしたら早瀬姫は、まだ堕ちてはいないのかもしれない!」
緋梅は力強く叫ぶ。壮真が振り返った。
「早瀬姫がすでに堕ちているなら、この霊力を抑えておけるはずがないわ」
緋梅の叫びに、壮真ははっとした表情をする。
「早瀬姫が持っている霊力のほかに、何者かの霊力が注ぎこまれているのか?」
壮真が言ったとき、さらに空が割れるような轟音があたりに響き渡った。遅れて、ぱっと光が飛び散る。雷だ、と気づいたときには、緋梅の身体が動いていた。
目の前にいた壮真を抱きかかえるかたちで、跳躍する。先ほど壮真が立っていた場所にほど近い木に、雷が直撃する。緋梅はそのまま、滝の落差を越えて、龍の近くへと飛んだ。
「なっ、何をする!」
いきなり抱きかかえられた壮真が、驚いたように身を固くする。
「ごめんなさい、これしか方法がなかったの」
緋梅は小さくつぶやいて、さらにもう一度岩を蹴って跳躍した。
龍は壮真と緋梅を睨みつけた。その瞳に涙のようなものが光っているように見えて、緋梅ははっとする。緋梅が跳躍した先を狙って、龍が長い尻尾を使って攻撃する。壮真を抱きかかえながらも、緋梅はそれを避けた。
「緋梅。私を下ろせ」
「今下ろしたら、逆に足手まといだわ」
緋梅はきっぱりと言い切った。龍の動きを見極め、交わすにはある程度の戦闘経験がいる。壮真に自分で動かれるよりも、緋梅が動くほうが安全だ。
「どうしたら早瀬姫を救える?」
緋梅は龍の動きを読みながらたずねた。このままでは防戦一方で埒が明かない。
「早瀬姫の頭に刺さっている鱗、おそらくあれが原因だ」
壮真は龍の頭を指した。そこには、銀色の鱗のうち、ひとつだけ黒い鱗が突き刺さっていた。それはてらてらと不気味な光を放ち、周囲に淀んだ気配を漂わせていた。
「あれを取れば、いいのね?」
「そうだ。あれが早瀬姫の霊力を乱す原因になっているはずだ」
「っ、わかった!」
もう一度、龍の攻撃をかわす。巻き上げられた水で足元がおぼつかない。一瞬ふらりと体勢を崩しそうになる。
「緋梅、大丈夫か」
さすがに、壮真を抱えながらあの鱗を狙うのは難易度が高い。
「私を下ろしてくれ。そうすれば、身軽になるだろう」
たしかに壮真を下ろすことで、緋梅は身軽になる。だが、もし龍が壮真を狙ったら――どうしたらいい。緋梅の心の葛藤を見透かすように、壮真は力強くうなずいた。
「自分の身は、自分で守れる。緋梅には、あの鱗を取ることだけに集中してほしい」
言い切った壮真の瞳を見て、緋梅は覚悟した。壮真を近くの木陰にそっと下ろした。
「あとはあたしに任せて」
緋梅は言い切って、壮真に背を向けて駆けた。濁流に足を取られながらも、ところどころに見える石の上を飛ぶように走る。龍に攻撃をさせないように、右に左にと移動しながら、龍の動きをかく乱する。
「早瀬姫……いま、助ける」
龍の目の前まで走り込み、緋梅は小さくつぶやいた。そうして、一気に足に力を込めて跳躍する。龍も大きく口を開き、緋梅を警戒するように咆哮した。
鋭い牙が緋梅を貫こうと迫る。緋梅は身体をねじり、それを避けた。かちん、と空振りした音が耳のすぐそこで聞こえる。そして、緋梅は思いっきり龍の首に取りついた。龍は緋梅に気づいたのち、緋梅を振り落とそうと首を何度も横に振る。だが、もう龍に飛び乗ったその瞬間、勝敗は決していた。
(鬼の腕力を舐めないことね……!)
緋梅は首の鱗ひとつひとつを掴みながら、一歩ずつ上へとのぼっていく。雨が降りしきるなか、龍の頭頂部にたどり着いた。黒い鱗が、頭頂部の真ん中に刺さっていた。禍々しい気配が漂う。緋梅は全身の力を込めて、黒い鱗を一気に引き抜いた。その瞬間、龍が雷に打たれたように動きをとめる。そして、そのまま身体が傾き始めた。
慌てて身を交わそうとするも、傾いでいく龍に叩き付けられ、緋梅は頭を強く打った。その瞬間に、額に付けていた角飾りがかしゃん、と音を立てて崩れ落ちる。
「っあ……!」
壊れた角の残骸を手に取ろうと緋梅は手を伸ばす。しかし、角の欠片は手からすり抜け、濁流の中に飲み込まれていった。
緋梅の身体も濁流に落ちるかと思ったそのとき、ふわりとしたものが緋梅の身体を包んだ。ぎゅっとつぶっていた目を開くと、壮真の蝶があたりをひらひらと待っている。蝶たちが、緋梅の衝撃をやわらげてくれたようだ。ほっと一息吐いたとき、どうと音がして背後で龍が倒れた。
それと同時に、強く降っていた雨がぴたりと止む。そして、雲の合間から光が差してきた。
「雨が……止んだ」
きらきらと降り注ぐ光に照らされて、龍の姿がおぼろげになり溶けていく。それと同時に、濁流の勢いも一気に弱まり始めた。
「緋梅! 怪我はないか」
大きな声がして、壮真が岩のうえを渡り歩きながら緋梅に近寄ってくる。ふわふわと蝶に浮きながら、緋梅は壮真に向けて手を振った。蝶はゆっくりと壮真のもとに緋梅を運ぶ。
「緋梅、その角は」
壮真は驚きの声をあげる。緋梅は咄嗟に、なくなった角を隠そうとした。
「これは……」
「先ほどの戦いで、やられたのか?」
「違う。騙していて、ごめんなさい。あたしは……角なしの鬼なの」
覚悟を決めて、緋梅は口を開く。胸に痛みが走った。自分が角なしの――不完全な存在であると認めるのが、こんなに怖いなんて。緋梅はぎゅっと自分の手のひらを握った。壮真の顔が見られなくて、うつむく。
「緋梅。顔をあげてくれ」
やわらかい壮真の声に、緋梅はおそるおそる顔をあげた。そこには、泣き笑いのような表情をした壮真の姿がある。
「緋梅が無事であれば、それでいい。角のことは、またゆっくり話そう」
「壮真……」
この感情が何なのかわからず、緋梅はそれっきり口をつぐんだ。ほっとしたのか、それとも嬉しかったのか。自分でもよくわからなかった。
人に角はない。だから角を失う痛みなどわかるはずがない、と卑屈に思う一方で、これほどあっさりと受け入れられたことで、心が軽くなる自分もいた。
「――そこの者。感謝します」
そのとき、凛とした声があたりに響いた。
