早瀬姫、と誰かが呼び始めたのはいつのことだったか。
早瀬姫が神として、この地を守り始めてから、幾星霜の年月が流れた。早瀬姫は、ただひたすらに人を慈しみ、豊穣をもたらすことを考えてきた。
早瀬姫は川の神。芽吹きの季節には川をたっぷりと満たし、雨が続く季節には洪水が起きないように見守ることしかできない。それを知ってか知らずか、人間は早瀬姫の祠にきてさまざまな悩みごとを打ち明ける。
小さな子どもとともに豊作を祝ったり、時にはこっそり人の農作業を手伝ったり。人との距離が近すぎると眉をひそめる神もいるかもしれない。だが、早瀬姫は不器用で不完全な人を愛していた。神である早瀬姫にとって、人の営みは興味深く、そして何よりも愛おしいものだった。
そんなある日のことだった。早瀬姫の祠に人が現れた。しとしとと雨が降る日だった。やってきたのは二人。一人は女、もう一人は男だった。よく見かける村の人間ではない。今でこそ村の人間が祠に足を運ぶようになったが、早瀬姫は決して広く知られた神ではない。祭りならまだしも、早瀬姫に直接会いにくる人間はほとんどいなかった。
男と女は親子と見まがうほど年が離れていた。だが、顔はまったく似ておらず、会話を盗み聞く限りは、そこには主従めいた上下関係が感じられた。
長い髪をひとつに束ねた猫背気味の男は、足が不自由だった。杖をつき、女に支えながらやっとのことで歩いている。顔の半分には、ひきつれたような火傷の痕があった。
――可哀想に。
気になった早瀬姫がふたりの様子を見ていると、ふと男と目が合った。
「あなたが早瀬姫、ですね?」
男にしては高く細い声。早瀬姫は驚いた。子どもの頃であれば、早瀬姫を認識できる人間もいる。だが、大人になるにつれ、神を見ることが出来なくなる。大人と目が合ったのは初めてだった。
しかも、早瀬姫のことを知っている。女のほうは見えないようで、辺りをきょろきょろと眺めている。
「早瀬川をつかさどる、五穀豊穣の神。早瀬姫」
男の瞳は、獲物を狩る蛇のように鋭かった。早瀬姫は思わず震えあがる。このまま逃げだそうとも思ったが、男の眼力に気圧されて身じろぎすらできない。
「早瀬姫、あなたは力が欲しいと思いませんか?」
男は微笑みを浮かべながらゆっくりと早瀬姫に近づく。早瀬姫は首を横に振った。自分はこの生活に満足している。ささやかに人と関わりながら、五穀豊穣を授ける。それだけでよい。それしか望まない。
男がなぜ、こんなことを言ってくるのかわからなかった。人と神とでは、力の差は圧倒的だ。人は神の前に、ひれ伏すしかないはずだった。そう思っていたにもかかわらず、目の前の男が放つ気配は、すでに人の域を越えていた。
「私ならば、あなたをもっと強い神にして差し上げます。もっともっと多くの人から崇められる、そんな神に」
いつの間にか、早瀬姫は動けなくなっていた。はっとして足元を見ると、蛇のような生きものが早瀬姫の足に絡みついている。それを払おうと手を伸ばした瞬間、身体から力が抜けていった。早瀬姫は膝をついた。
「怖がらないでください。大丈夫。あなたのためですから」
男の手が、早瀬姫の頭に触れる。その瞬間、何かが早瀬姫の中に入ってきた。
早瀬姫が神として、この地を守り始めてから、幾星霜の年月が流れた。早瀬姫は、ただひたすらに人を慈しみ、豊穣をもたらすことを考えてきた。
早瀬姫は川の神。芽吹きの季節には川をたっぷりと満たし、雨が続く季節には洪水が起きないように見守ることしかできない。それを知ってか知らずか、人間は早瀬姫の祠にきてさまざまな悩みごとを打ち明ける。
小さな子どもとともに豊作を祝ったり、時にはこっそり人の農作業を手伝ったり。人との距離が近すぎると眉をひそめる神もいるかもしれない。だが、早瀬姫は不器用で不完全な人を愛していた。神である早瀬姫にとって、人の営みは興味深く、そして何よりも愛おしいものだった。
そんなある日のことだった。早瀬姫の祠に人が現れた。しとしとと雨が降る日だった。やってきたのは二人。一人は女、もう一人は男だった。よく見かける村の人間ではない。今でこそ村の人間が祠に足を運ぶようになったが、早瀬姫は決して広く知られた神ではない。祭りならまだしも、早瀬姫に直接会いにくる人間はほとんどいなかった。
男と女は親子と見まがうほど年が離れていた。だが、顔はまったく似ておらず、会話を盗み聞く限りは、そこには主従めいた上下関係が感じられた。
長い髪をひとつに束ねた猫背気味の男は、足が不自由だった。杖をつき、女に支えながらやっとのことで歩いている。顔の半分には、ひきつれたような火傷の痕があった。
――可哀想に。
気になった早瀬姫がふたりの様子を見ていると、ふと男と目が合った。
「あなたが早瀬姫、ですね?」
男にしては高く細い声。早瀬姫は驚いた。子どもの頃であれば、早瀬姫を認識できる人間もいる。だが、大人になるにつれ、神を見ることが出来なくなる。大人と目が合ったのは初めてだった。
しかも、早瀬姫のことを知っている。女のほうは見えないようで、辺りをきょろきょろと眺めている。
「早瀬川をつかさどる、五穀豊穣の神。早瀬姫」
男の瞳は、獲物を狩る蛇のように鋭かった。早瀬姫は思わず震えあがる。このまま逃げだそうとも思ったが、男の眼力に気圧されて身じろぎすらできない。
「早瀬姫、あなたは力が欲しいと思いませんか?」
男は微笑みを浮かべながらゆっくりと早瀬姫に近づく。早瀬姫は首を横に振った。自分はこの生活に満足している。ささやかに人と関わりながら、五穀豊穣を授ける。それだけでよい。それしか望まない。
男がなぜ、こんなことを言ってくるのかわからなかった。人と神とでは、力の差は圧倒的だ。人は神の前に、ひれ伏すしかないはずだった。そう思っていたにもかかわらず、目の前の男が放つ気配は、すでに人の域を越えていた。
「私ならば、あなたをもっと強い神にして差し上げます。もっともっと多くの人から崇められる、そんな神に」
いつの間にか、早瀬姫は動けなくなっていた。はっとして足元を見ると、蛇のような生きものが早瀬姫の足に絡みついている。それを払おうと手を伸ばした瞬間、身体から力が抜けていった。早瀬姫は膝をついた。
「怖がらないでください。大丈夫。あなたのためですから」
男の手が、早瀬姫の頭に触れる。その瞬間、何かが早瀬姫の中に入ってきた。
