「お礼がしたい」
葉隠にそんなことを言われたのは、事件がひと段落した頃のことだった。
食事を終え、緋梅は食べ終わった御膳を水桶に運ぶ。器をひとつ手に取り、水にくぐらせて洗ってから、布で丁寧にこする。屋敷にもずいぶん慣れ、余裕が出てきたころだった。
ふう子と違い、まだ緋梅を遠巻きに見ている葉隠がそんなことを言うなんて、緋梅には信じられなかった。
「そんな、お礼なんていいわよ。あたしもお礼されたくて助けたわけじゃないんだから」
緋梅の言葉に、葉隠は首を横に振る。
「俺だけじゃなくて、母ちゃんもお礼したいって言ってる」
「葉隠のお母さんは、稲荷神なの!」
ぽてぽてと近寄ってきたふう子が言った。
「稲荷神ってことは、狐の神さまなのよね?」
「そうだ。五穀豊穣の神さまだぞ。本当は、秋はとっても忙しいんだ。でも俺たちの社に招待してやる」
「忙しいのなら、余計にあたしにかける時間なんてないんじゃない?」
「姫さま、鈍いの! 葉隠は、そこまでして姫さまにお礼がしたいのよ」
ふう子の言葉に、葉隠はばつの悪そうな顔をしている。図星のようだった。なかなか打ち解けられないと思っていた葉隠に心を許されていると知って、緋梅は思わず顔をほころばせた。
「ありがとう。じゃあ、お許しが出たら行こうかしら」
「……私もいこう」
そのとき、後ろから壮真の声がかかった。
「前から葉隠から相談を受けていた。それに、ちょっと気になることもあるしな」
「あたし、外に出ていいの?」
緋梅は思わずたずねた。
「あぁ。私が一緒に行くなら問題ないだろう」
まさかこんな簡単にお許しが出ると思わず、緋梅は壮真の顔を見つめた。
「なんだ。信じられないと顔に書いてる」
「壮真は、あたしのことを閉じ込めておきたいのだとばかり思ってたわ」
緋梅の顔を見て、壮真は眉をひそめた。
「そなたが変なことをする鬼ではないとわかったからな」
壮真の言葉に、胸があたたかくなる。すこしずつでも、自分のことを理解してくれることが、こんなに嬉しいなんて。緋梅は壮真に向かってお辞儀をした。
「ありがとう」
壮真からのお許しを得たことで緋梅の胸はふわりと軽くなった。その夜は、不思議と心地よい眠りに包まれる。
そして翌朝――緋梅たちは葉隠の故郷である稲荷神のもとへと旅立ったのだった。
外に出てみると、いつの間にか空は高く、すっかり秋の気配に染まっていた。熱をはらんでいた風は冷たく変わり、道端には萩の花が咲き始める。もうすぐ、鬼の国では紅葉が見られるころだろう。人の国でも、同じように紅葉が見られるのかと、緋梅は山の端を仰いだ。
目的地となるのは、都からほど近い稲荷山と呼ばれる山だった。山に至るまでは、最初に緋梅がやってきたのと同じく、式神で作られた輿に乗っていくことになった。狭い空間に壮真とふたりきりだ。緋梅はおずおずと輿に乗り込んだ。
「すこし揺れる。もし酔ったら教えてくれ」
壮真と向かい合わせに座った。
「酔うって、どういう意味?」
鬼は酒につよい。たくさん飲めばもちろん酔うが、ほとんど酔うことはないと言って等しい。鬼の緋梅が、この何もない空間でいきなり酔うことなんてあり得ない。壮真の言っている意味がわからず、緋梅はたずねた。
緋梅の問いに、壮真はぽかんと口を開き、そして次の瞬間には噴き出した。
「すまぬ。そうだな、酔うというのも知らないよな。輿は揺れるだろう? ずっと揺れていると、気持ち悪くなる場合があるのだ。酒に酔ったときと同じだ。目の前がぐるぐる回る」
壮真の笑顔を目にするのは、これが初めてのことだった。緋梅は思わず壮真の顔を見つめる。普段の凛とした表情とも違う、ぱっと花開くような笑顔。大人びている分、くしゃりと顔をほころばせたときの笑顔は、少年のように見えた。
「あたし、酒には強いのよ。問題ないわ」
「そうか。では、到着までゆっくりしているといい」
そう言って、壮真は瞳を閉じた。もし、他の誰かが今のふたりを見たら、人間の夫婦にしか見えないだろう。輿に揺られはじめて数分たってから、壮真から寝息が聞こえはじめる。規則正しく立つ音を聴きながら、緋梅も瞳を閉じた。いつもは寄ってこないはずの葉隠が、緋梅の足元で丸くなる。緋梅もいつの間にか眠っていた。
「付いたぞ、起きろ」
ぺしぺしと何かが頬に当たる感触に、緋梅は目を開いた。不機嫌そうな顔をした葉隠が尻尾で緋梅を叩いていた。いつの間にか、すっかり眠ってしまったようだった。
「もうついたの? はやいわね」
壮真も同様だったようで、眠い瞼をこすりながら輿から降りる。緋梅もその後に続いて降りた。そのとき、壮真が緋梅の手をとって降りるのを手伝ってくれる。差し出された手を見て、緋梅は動きを止めた。
(この手を取って、いいのだろうか)
自分に差し出されたのだから、手を取るのが礼儀だろう。頭では冷静に考えているが、本当にそれで良いのだろうかと葛藤する自分が心のどこかにいる。これまで、鬼の国でも緋梅に触れる者はいなかった。
「さぁ、ゆっくり」
壮真が優しく声をかける。
(ええい、ままよ!)
緋梅は思い切って壮真の手をとった。あたたかな、そして滑らかな手の感覚が伝わる。緋梅のたこだらけの手とは違う。術を扱う者の違いだ。緋梅は一歩、輿の外へと足を踏み出した。離れてしまったはずの温もりが、なお掌に残っていた。
葉隠にそんなことを言われたのは、事件がひと段落した頃のことだった。
食事を終え、緋梅は食べ終わった御膳を水桶に運ぶ。器をひとつ手に取り、水にくぐらせて洗ってから、布で丁寧にこする。屋敷にもずいぶん慣れ、余裕が出てきたころだった。
ふう子と違い、まだ緋梅を遠巻きに見ている葉隠がそんなことを言うなんて、緋梅には信じられなかった。
「そんな、お礼なんていいわよ。あたしもお礼されたくて助けたわけじゃないんだから」
緋梅の言葉に、葉隠は首を横に振る。
「俺だけじゃなくて、母ちゃんもお礼したいって言ってる」
「葉隠のお母さんは、稲荷神なの!」
ぽてぽてと近寄ってきたふう子が言った。
「稲荷神ってことは、狐の神さまなのよね?」
「そうだ。五穀豊穣の神さまだぞ。本当は、秋はとっても忙しいんだ。でも俺たちの社に招待してやる」
「忙しいのなら、余計にあたしにかける時間なんてないんじゃない?」
「姫さま、鈍いの! 葉隠は、そこまでして姫さまにお礼がしたいのよ」
ふう子の言葉に、葉隠はばつの悪そうな顔をしている。図星のようだった。なかなか打ち解けられないと思っていた葉隠に心を許されていると知って、緋梅は思わず顔をほころばせた。
「ありがとう。じゃあ、お許しが出たら行こうかしら」
「……私もいこう」
そのとき、後ろから壮真の声がかかった。
「前から葉隠から相談を受けていた。それに、ちょっと気になることもあるしな」
「あたし、外に出ていいの?」
緋梅は思わずたずねた。
「あぁ。私が一緒に行くなら問題ないだろう」
まさかこんな簡単にお許しが出ると思わず、緋梅は壮真の顔を見つめた。
「なんだ。信じられないと顔に書いてる」
「壮真は、あたしのことを閉じ込めておきたいのだとばかり思ってたわ」
緋梅の顔を見て、壮真は眉をひそめた。
「そなたが変なことをする鬼ではないとわかったからな」
壮真の言葉に、胸があたたかくなる。すこしずつでも、自分のことを理解してくれることが、こんなに嬉しいなんて。緋梅は壮真に向かってお辞儀をした。
「ありがとう」
壮真からのお許しを得たことで緋梅の胸はふわりと軽くなった。その夜は、不思議と心地よい眠りに包まれる。
そして翌朝――緋梅たちは葉隠の故郷である稲荷神のもとへと旅立ったのだった。
外に出てみると、いつの間にか空は高く、すっかり秋の気配に染まっていた。熱をはらんでいた風は冷たく変わり、道端には萩の花が咲き始める。もうすぐ、鬼の国では紅葉が見られるころだろう。人の国でも、同じように紅葉が見られるのかと、緋梅は山の端を仰いだ。
目的地となるのは、都からほど近い稲荷山と呼ばれる山だった。山に至るまでは、最初に緋梅がやってきたのと同じく、式神で作られた輿に乗っていくことになった。狭い空間に壮真とふたりきりだ。緋梅はおずおずと輿に乗り込んだ。
「すこし揺れる。もし酔ったら教えてくれ」
壮真と向かい合わせに座った。
「酔うって、どういう意味?」
鬼は酒につよい。たくさん飲めばもちろん酔うが、ほとんど酔うことはないと言って等しい。鬼の緋梅が、この何もない空間でいきなり酔うことなんてあり得ない。壮真の言っている意味がわからず、緋梅はたずねた。
緋梅の問いに、壮真はぽかんと口を開き、そして次の瞬間には噴き出した。
「すまぬ。そうだな、酔うというのも知らないよな。輿は揺れるだろう? ずっと揺れていると、気持ち悪くなる場合があるのだ。酒に酔ったときと同じだ。目の前がぐるぐる回る」
壮真の笑顔を目にするのは、これが初めてのことだった。緋梅は思わず壮真の顔を見つめる。普段の凛とした表情とも違う、ぱっと花開くような笑顔。大人びている分、くしゃりと顔をほころばせたときの笑顔は、少年のように見えた。
「あたし、酒には強いのよ。問題ないわ」
「そうか。では、到着までゆっくりしているといい」
そう言って、壮真は瞳を閉じた。もし、他の誰かが今のふたりを見たら、人間の夫婦にしか見えないだろう。輿に揺られはじめて数分たってから、壮真から寝息が聞こえはじめる。規則正しく立つ音を聴きながら、緋梅も瞳を閉じた。いつもは寄ってこないはずの葉隠が、緋梅の足元で丸くなる。緋梅もいつの間にか眠っていた。
「付いたぞ、起きろ」
ぺしぺしと何かが頬に当たる感触に、緋梅は目を開いた。不機嫌そうな顔をした葉隠が尻尾で緋梅を叩いていた。いつの間にか、すっかり眠ってしまったようだった。
「もうついたの? はやいわね」
壮真も同様だったようで、眠い瞼をこすりながら輿から降りる。緋梅もその後に続いて降りた。そのとき、壮真が緋梅の手をとって降りるのを手伝ってくれる。差し出された手を見て、緋梅は動きを止めた。
(この手を取って、いいのだろうか)
自分に差し出されたのだから、手を取るのが礼儀だろう。頭では冷静に考えているが、本当にそれで良いのだろうかと葛藤する自分が心のどこかにいる。これまで、鬼の国でも緋梅に触れる者はいなかった。
「さぁ、ゆっくり」
壮真が優しく声をかける。
(ええい、ままよ!)
緋梅は思い切って壮真の手をとった。あたたかな、そして滑らかな手の感覚が伝わる。緋梅のたこだらけの手とは違う。術を扱う者の違いだ。緋梅は一歩、輿の外へと足を踏み出した。離れてしまったはずの温もりが、なお掌に残っていた。
