掃除が終わるのに、さほど時間はかからなかった。
泥だらけの葉隠にぶつぶつ言われながらも身体を拭き、そして割られた硝子をほうきで掃いて床を水拭きする。久しぶりに身体を動かしたからか、ずいぶん身体もすっきりしたように感じる。
「鬼の姫。意外と掃除もできるもんなんだな」
先ほどまで敵意丸出しだった晴仁が、感心したように言った。
「えぇ。これくらい出来て当たり前でしょ」
緋梅の身の周りを世話してくれていたのは、小雨だけだった。すべて小雨ひとりに頼るわけにもいかない。できるだけ、自分にできることはしていたのだ。それがここでまさか役立つとは思わなかった。
あとは自分に付いた泥を落とすだけという段になって、門のほうから急ぐ足音が聞こえた。
「壮真さま! お帰りなさい!」
声をかけながらふう子と葉隠が駆けていく。緋梅は晴仁と目を見合わせた。ごくりと唾を飲む。
「お前たち、無事だったのか」
壮真の驚いた声が響く。
「あたしたち、姫さまのおかげで助かったの!」
「ふん。ちょっと油断したが、いつもの俺だったら簡単に倒せてたけどな」
「そんなことないの! 姫さまがいなかったら、きっと葉隠は死んでたの!」
「ぐっ……お前、なんでそんな容赦ないことを」
壮真の姿が見えないまま、二匹の掛け合いが近づいてくる。
そして、緋梅の前に壮真が現れた。ふう子と葉隠をそれぞれ肩のうえに乗せている。壮真は渋い表情をしていた。
「晴仁、これはいったいどういうことだ」
「師匠。すみません、屋敷の前にあった文箱を開いたところ、中から化け物が出てきました」
晴仁は壮真の前で土下座をした。壮真は眉間に皺を寄せながら、晴仁と緋梅とを見比べる。そして、屋敷を見渡した。化け物が通ったあとは綺麗に水拭きしたものの、割れた硝子から風が吹いている。完全に元通りとはいかず、いたるところに化け物の襲撃の痕が見えている。
「屋敷のほかに、損害は?」
「ありません」
「そうか……よかった。晴仁、よくこの家を守ってくれた」
𠮟責を覚悟していた緋梅は、思いがけず優しい壮真の声に驚いた。晴仁は沈痛な面持ちで、首を横に振る。
「僕は何もできませんでした。緋梅さまが、化け物を倒してくださったのです」
壮真は初めて、驚いた表情をした。
「そなたが?」
緋梅は静かにうなずいた。
「姫さまがあたしたちを助けてくれたの!」
壮真の肩の上で、ふう子がぽんとお腹を叩いた。
「だから、疑っちゃだめなの!」
「壮真さま、俺からも頼む」
壮真は大きくため息をついた。
「わかった、わかった。お前たちがそこまで言うなら、今回の件は不問としよう」
「本当にいいの?」
緋梅は思わずたずねた。
「助けるためだったとはいえ、あたしは結界を破った。破れると知ってしまった。……あなたは、そんなあたしを危険だと思わないの?」
緋梅の視線を真っすぐに受け止めて、壮真は首を横に振った。
「身の危険を犯して救ってくれた恩人に、そんなことを言うほうが罰当たりだろう。……数日間、顔も合わせずにすまなかった」
そう言って、壮真は礼をした。まさか頭を下げられるとは思わず、緋梅は熱くなる頬を隠すように視線を彷徨わせた。
「そうだ! せっかくだし、姫さまともっと仲良くなろうなの!」
ぽんとお腹を叩いて、ふう子が緋梅の肩に飛び乗った。
「今日はみんなで一緒にご飯を食べるの!」
「そんな……いいの?」
緋梅は面食らってたずねる。
鬼の国でも、家族で食事をとるのは滅多になかった。正月や、数少ない祝いの席だけ。それも楽しい思い出とは言い難いものだった。
「一緒に食べようなの。壮真さまと晴仁しかいなくて、寂しそうなのよ」
「こんな大きいお屋敷に、ふたりだけ?」
緋梅は驚きの声をあげた。前々から静かな屋敷だと思っていたが、そもそも人がいなかったとは。
「ね、壮真さま。いいでしょ?」
ふう子がたずねると、壮真は小さくため息をついた。
「駄目だ、なんて言えるわけがないだろう」
「やったー! 今日はみんなでご飯なの!」
そして緋梅は初めて、壮真と食事をすることになった。
広い部屋のなかで、緋梅のすぐ隣に壮真が座っている。距離の近さに胸がざわめく。落ち着かなさに、緋梅は視線を下に落とした。
「今日は僕が腕によりをかけて作りましたからね!」
食事をよそってくれるのは、晴仁だった。これまで緋梅が食べていた料理もすべて晴仁が作ってくれたのだ。晴仁に礼を言うと、顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。食べているだけではなく、今度は手伝ってみようと心に決める。
ふと、食事をしながら緋梅は壮真の顔色を盗み見る。思っていたよりも壮真の表情が和らいでいた。緋梅が最初に出会ったときに感じたのは、人を寄せ付けない美しい刀のような鋭さと冷たさだった。それが今はなりを潜め、肩の力が抜けたように一緒に食事をしている。
「ご馳走さまでした」
すべて食べ終わった緋梅は手を合わせた。心の奥がじんわりと温まっていく。これまでに感じたことのない高揚感が胸を満たす。これが――嬉しい、という感情なのだろうか。もう一度、一緒に食卓を囲みたい。人の国に来て、やっと少しだけ打ち解けられた気がした。
泥だらけの葉隠にぶつぶつ言われながらも身体を拭き、そして割られた硝子をほうきで掃いて床を水拭きする。久しぶりに身体を動かしたからか、ずいぶん身体もすっきりしたように感じる。
「鬼の姫。意外と掃除もできるもんなんだな」
先ほどまで敵意丸出しだった晴仁が、感心したように言った。
「えぇ。これくらい出来て当たり前でしょ」
緋梅の身の周りを世話してくれていたのは、小雨だけだった。すべて小雨ひとりに頼るわけにもいかない。できるだけ、自分にできることはしていたのだ。それがここでまさか役立つとは思わなかった。
あとは自分に付いた泥を落とすだけという段になって、門のほうから急ぐ足音が聞こえた。
「壮真さま! お帰りなさい!」
声をかけながらふう子と葉隠が駆けていく。緋梅は晴仁と目を見合わせた。ごくりと唾を飲む。
「お前たち、無事だったのか」
壮真の驚いた声が響く。
「あたしたち、姫さまのおかげで助かったの!」
「ふん。ちょっと油断したが、いつもの俺だったら簡単に倒せてたけどな」
「そんなことないの! 姫さまがいなかったら、きっと葉隠は死んでたの!」
「ぐっ……お前、なんでそんな容赦ないことを」
壮真の姿が見えないまま、二匹の掛け合いが近づいてくる。
そして、緋梅の前に壮真が現れた。ふう子と葉隠をそれぞれ肩のうえに乗せている。壮真は渋い表情をしていた。
「晴仁、これはいったいどういうことだ」
「師匠。すみません、屋敷の前にあった文箱を開いたところ、中から化け物が出てきました」
晴仁は壮真の前で土下座をした。壮真は眉間に皺を寄せながら、晴仁と緋梅とを見比べる。そして、屋敷を見渡した。化け物が通ったあとは綺麗に水拭きしたものの、割れた硝子から風が吹いている。完全に元通りとはいかず、いたるところに化け物の襲撃の痕が見えている。
「屋敷のほかに、損害は?」
「ありません」
「そうか……よかった。晴仁、よくこの家を守ってくれた」
𠮟責を覚悟していた緋梅は、思いがけず優しい壮真の声に驚いた。晴仁は沈痛な面持ちで、首を横に振る。
「僕は何もできませんでした。緋梅さまが、化け物を倒してくださったのです」
壮真は初めて、驚いた表情をした。
「そなたが?」
緋梅は静かにうなずいた。
「姫さまがあたしたちを助けてくれたの!」
壮真の肩の上で、ふう子がぽんとお腹を叩いた。
「だから、疑っちゃだめなの!」
「壮真さま、俺からも頼む」
壮真は大きくため息をついた。
「わかった、わかった。お前たちがそこまで言うなら、今回の件は不問としよう」
「本当にいいの?」
緋梅は思わずたずねた。
「助けるためだったとはいえ、あたしは結界を破った。破れると知ってしまった。……あなたは、そんなあたしを危険だと思わないの?」
緋梅の視線を真っすぐに受け止めて、壮真は首を横に振った。
「身の危険を犯して救ってくれた恩人に、そんなことを言うほうが罰当たりだろう。……数日間、顔も合わせずにすまなかった」
そう言って、壮真は礼をした。まさか頭を下げられるとは思わず、緋梅は熱くなる頬を隠すように視線を彷徨わせた。
「そうだ! せっかくだし、姫さまともっと仲良くなろうなの!」
ぽんとお腹を叩いて、ふう子が緋梅の肩に飛び乗った。
「今日はみんなで一緒にご飯を食べるの!」
「そんな……いいの?」
緋梅は面食らってたずねる。
鬼の国でも、家族で食事をとるのは滅多になかった。正月や、数少ない祝いの席だけ。それも楽しい思い出とは言い難いものだった。
「一緒に食べようなの。壮真さまと晴仁しかいなくて、寂しそうなのよ」
「こんな大きいお屋敷に、ふたりだけ?」
緋梅は驚きの声をあげた。前々から静かな屋敷だと思っていたが、そもそも人がいなかったとは。
「ね、壮真さま。いいでしょ?」
ふう子がたずねると、壮真は小さくため息をついた。
「駄目だ、なんて言えるわけがないだろう」
「やったー! 今日はみんなでご飯なの!」
そして緋梅は初めて、壮真と食事をすることになった。
広い部屋のなかで、緋梅のすぐ隣に壮真が座っている。距離の近さに胸がざわめく。落ち着かなさに、緋梅は視線を下に落とした。
「今日は僕が腕によりをかけて作りましたからね!」
食事をよそってくれるのは、晴仁だった。これまで緋梅が食べていた料理もすべて晴仁が作ってくれたのだ。晴仁に礼を言うと、顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。食べているだけではなく、今度は手伝ってみようと心に決める。
ふと、食事をしながら緋梅は壮真の顔色を盗み見る。思っていたよりも壮真の表情が和らいでいた。緋梅が最初に出会ったときに感じたのは、人を寄せ付けない美しい刀のような鋭さと冷たさだった。それが今はなりを潜め、肩の力が抜けたように一緒に食事をしている。
「ご馳走さまでした」
すべて食べ終わった緋梅は手を合わせた。心の奥がじんわりと温まっていく。これまでに感じたことのない高揚感が胸を満たす。これが――嬉しい、という感情なのだろうか。もう一度、一緒に食卓を囲みたい。人の国に来て、やっと少しだけ打ち解けられた気がした。
