先ほど聞こえた音の方へと歩みを進めた瞬間、緋梅の背筋に悪寒が走った。稲妻に打たれたように、何か良くないことが起きたと一瞬で悟った。
「ふう子! 何があったの!」
緋梅は思わず、先に走って行ったふう子に向けて声をあげた。返事はない。緋梅は離れの中に入って、あたりを見渡した。そこにも、ふう子の姿も葉隠の姿もなかった。なにかが起きているのは、本邸の方角だ。このまま本邸に行ってしまおうか。そこまで考えて、はたと立ち止まる。もし、このまま出てしまったら、結界を壊すことになる。
(でも――ふう子と葉隠が)
嫌な予感は強くなっている。このまま、見ているわけにはいかない。緋梅が結界の外に出ようとした瞬間、足音が聞こえて緋梅ははっと顔をあげた。そこには、緋梅に向かって走ってくるふう子の姿があった。
「姫さま! 葉隠が!」
「どうしたの、何があったの?」
緋梅の問いに、つぶらな瞳を潤ませて、ふう子が首を横に振った。
「わからないの。何か悪いものが、葉隠を引きずっていってしまったの! このままだと、葉隠が」
胸の奥がざわつく。なにかがこちらに近づいてくる気配がした。神さまの使いであるふう子が言うのなら、たしかに悪いものなのだろう。
「悪いもの……」
緋梅はつぶやいた。ふと、ふう子のふわふわの毛が、細かく震えているのがわかった。背中の毛が逆立っている。
「ふう子、大丈夫?」
思わずたずねる。ふう子はごくりとつばをのんだ。
「あ、あたしは誇り高き霊獣なの! 怖いことなんて何もないの!」
ふう子が答えたそのとき、本邸のほうから、どおんと大きな音が轟いた。それとともに、硝子の割れるような甲高い音が聞こえる。
「ひゃっ!」
文字通り飛び上がったふう子が、緋梅の後ろに隠れた。悪いことが起きていることは、たしかだった。緋梅は震えているふう子を抱き上げた。ふう子は驚いたように腕のなかでばたついていたが、すぐに静かになった。ふわふわの体毛と小刻みに震える感覚が伝わってくる。
「よし、葉隠を助けにいくわよ」
「でも、この離れを出ては――」
ふう子は腕のなかで、心配そうに緋梅を見上げた。
「わかってるわ。でも、このまま見ているだけではいられないでしょ」
そう言って、緋梅はふう子を抱きながら、本邸に向けて駆け出した。
「え、えぇぇ! でも、離れには結界がっ」
離れを出る直前に、網のようなものが緋梅の身体にまとわりつく。だが、弱い。緋梅は網をものともせず、強硬突破することにした。ぶちぶちと布が裂けるような音を響かせ、緋梅は結界を踏み破った。
「結界を、壊しちゃった……」
ふう子が茫然とつぶやいた。
「壮真にはあとで謝るわ。ふう子、本邸への道を教えてくれる?」
「わ、わかったの。こっちよ!」
ふう子の先導に従って、緋梅は嫌な感覚のほうへ足を進めた。足を進めるごとに、嫌な感覚がどんどん強くなっていく。その感覚が強まった先に、元凶がいた。
「あ、あれは!」
ふう子が叫んだ先に、黒い大きな泥のようなものが見えた。
それはただの泥ではなかった。ぶくぶくと泡を吐き、脈打つように膨らんでは潰れ、腐った卵のような悪臭を放っている。落ちた雫はじゅっと煙をあげて、床を焼き焦がす。
「うっ……」
緋梅は思わず立ち止まる。これまでに感じたことのない、身体の重さに襲われた。泥は緋梅を丸ごと飲み込めるほど巨大で、生きもののようにうねり、形を変えては崩れていた。そのなかに、狐の尻尾が入っていることに気づく。
「あれは、葉隠!」
泥のなかに、葉隠以外のものも見え隠れしている。ここからでは、安否はわからない。
(遅かったの――?!)
「葉隠!」
緋梅はもう一度名前を叫んだ。泥のなかにあった葉隠の姿が、ずぶりと飲み込まれて消えていく。
「なんてこと……」
ふう子の喉から、ひゅっと悲鳴のような音が漏れた。緋梅はぎり、と歯を嚙み締めた。まだ間に合うかもしれない。あの泥のなかから、なんとか葉隠を助け出さなくては。
泥は、今度は緋梅たちを見て蠢いた。ぶよりと膨らみ、次の瞬間には縮んで弾むように跳ね、緋梅たちに襲いかかってくる。緋梅はその軌道を読み取り、息をのんで跳躍した。ふう子を飲み込ませてなるものかと、腕にさらに力を込める。それは意志を持った動きというより、霊力に反応した動きのように見えた。緋梅はふう子を抱きしめたまま、泥とは逆方向に駆けだした。
「ふう子、あの泥は何なの?」
「わからないの。でも、嫌な予感がするから、呪術の類だと思うの」
「呪術……誰かからの攻撃の類かしら。生きもののように見えるけど、あれは式神ではないのよね?」
「違うの。式神なら、術者の霊力を感じるの。でもあれは……違う」
ふう子は腕のなかで、さらに細かく震え出す。
「あたしの検討違いじゃなかったら、あれは……神さまなの」
ふう子は今にも泣きだしそうな声で言った。
「人から忘れ去られて力を失った神さまが、暴走してるの。可哀想なの」
「神さまが、どうしてあんなことになるのよ」
「わからないの……! あり得ないの、神さまがあんなになるなんて」
ふう子はいやいやをするように、首を横に振った。
「ってことは、あそこにいるのは人知を越えた化け物ってことね」
緋梅は立ち止まり、舌なめずりをした。屋敷の中には、硝子の破片が散らばり、泥が動いた跡のようなものが床にこびりついている。鼻をつまみたくなるような腐臭が漂っている。ずるずると何かを引きずるような音が後ろから聞こえてくる。早くはないものの、あれにつかまったら最後、出られる自信はない。緋梅の足もふう子と同じように震えていた。それが恐怖によるものなのか、武者震いなのかは、自分でもわからない。
「鬼の姫! こっちだ!」
その時、鋭い声がかけられる。はっとして声の主を探すと、頭から血を流した男――弟子の姿が見えた。弱々しいが、自分の周りに結界のようなものを張り巡らせている。緋梅は迷わず、そちらへ走り込んだ。
「これは何なの? あんた、弟子なんでしょう」
緋梅は荒い息をつきながら、弟子に話しかける。弟子は悔し気な顔をして、首を横に振った。
「すまない、わからないんだ」
「ふう子は、力を失った神さまだって言ってるわ」
緋梅の言葉に、弟子は目を丸くした。
「そんな……あの文箱にそんなものが」
ぶつぶつと呟く弟子を横目に、緋梅は追い迫る泥と相対した。
「どうやったら、あの神さまを倒せる?」
緋梅は着物の裾をたくし上げ、弟子にたずねた。
「ま、待て。あいつ、どんな術を使ってくるかわからないんだぞ?」
緋梅は弟子と顔を見合わせる。弟子の瞳には、緋梅に対する困惑の色が見える。緋梅に任せるべきか、任せないべきか、葛藤しているのがわかった。
「じゃあ、このまま葉隠を見殺しにしろって言うの」
緋梅はきっと弟子を睨みつけた。
「葉隠は霊獣だ。自分の力で何とか出てこれるかもしれない」
「葉隠を助けるのは諦めろって言うのね?」
「いや、見捨てろなんて言ってないだろ!」
このままでは埒が明かない。あの中で長く生きられるとは思えない。一刻でも早く葉隠を引っ張り出すしかない。
「何かあいつを倒す手立てはないの?」
沈黙を破って、緋梅はたずねた。ずるずると化け物が近づく音がする。悠長に喧嘩をしている場合ではない。
「――あいつは、勾玉から出てきた。あの勾玉を壊せばもしかしたら」
「勾玉はどこにある?」
「あの化け物の心臓にある」
「ふう子! 何があったの!」
緋梅は思わず、先に走って行ったふう子に向けて声をあげた。返事はない。緋梅は離れの中に入って、あたりを見渡した。そこにも、ふう子の姿も葉隠の姿もなかった。なにかが起きているのは、本邸の方角だ。このまま本邸に行ってしまおうか。そこまで考えて、はたと立ち止まる。もし、このまま出てしまったら、結界を壊すことになる。
(でも――ふう子と葉隠が)
嫌な予感は強くなっている。このまま、見ているわけにはいかない。緋梅が結界の外に出ようとした瞬間、足音が聞こえて緋梅ははっと顔をあげた。そこには、緋梅に向かって走ってくるふう子の姿があった。
「姫さま! 葉隠が!」
「どうしたの、何があったの?」
緋梅の問いに、つぶらな瞳を潤ませて、ふう子が首を横に振った。
「わからないの。何か悪いものが、葉隠を引きずっていってしまったの! このままだと、葉隠が」
胸の奥がざわつく。なにかがこちらに近づいてくる気配がした。神さまの使いであるふう子が言うのなら、たしかに悪いものなのだろう。
「悪いもの……」
緋梅はつぶやいた。ふと、ふう子のふわふわの毛が、細かく震えているのがわかった。背中の毛が逆立っている。
「ふう子、大丈夫?」
思わずたずねる。ふう子はごくりとつばをのんだ。
「あ、あたしは誇り高き霊獣なの! 怖いことなんて何もないの!」
ふう子が答えたそのとき、本邸のほうから、どおんと大きな音が轟いた。それとともに、硝子の割れるような甲高い音が聞こえる。
「ひゃっ!」
文字通り飛び上がったふう子が、緋梅の後ろに隠れた。悪いことが起きていることは、たしかだった。緋梅は震えているふう子を抱き上げた。ふう子は驚いたように腕のなかでばたついていたが、すぐに静かになった。ふわふわの体毛と小刻みに震える感覚が伝わってくる。
「よし、葉隠を助けにいくわよ」
「でも、この離れを出ては――」
ふう子は腕のなかで、心配そうに緋梅を見上げた。
「わかってるわ。でも、このまま見ているだけではいられないでしょ」
そう言って、緋梅はふう子を抱きながら、本邸に向けて駆け出した。
「え、えぇぇ! でも、離れには結界がっ」
離れを出る直前に、網のようなものが緋梅の身体にまとわりつく。だが、弱い。緋梅は網をものともせず、強硬突破することにした。ぶちぶちと布が裂けるような音を響かせ、緋梅は結界を踏み破った。
「結界を、壊しちゃった……」
ふう子が茫然とつぶやいた。
「壮真にはあとで謝るわ。ふう子、本邸への道を教えてくれる?」
「わ、わかったの。こっちよ!」
ふう子の先導に従って、緋梅は嫌な感覚のほうへ足を進めた。足を進めるごとに、嫌な感覚がどんどん強くなっていく。その感覚が強まった先に、元凶がいた。
「あ、あれは!」
ふう子が叫んだ先に、黒い大きな泥のようなものが見えた。
それはただの泥ではなかった。ぶくぶくと泡を吐き、脈打つように膨らんでは潰れ、腐った卵のような悪臭を放っている。落ちた雫はじゅっと煙をあげて、床を焼き焦がす。
「うっ……」
緋梅は思わず立ち止まる。これまでに感じたことのない、身体の重さに襲われた。泥は緋梅を丸ごと飲み込めるほど巨大で、生きもののようにうねり、形を変えては崩れていた。そのなかに、狐の尻尾が入っていることに気づく。
「あれは、葉隠!」
泥のなかに、葉隠以外のものも見え隠れしている。ここからでは、安否はわからない。
(遅かったの――?!)
「葉隠!」
緋梅はもう一度名前を叫んだ。泥のなかにあった葉隠の姿が、ずぶりと飲み込まれて消えていく。
「なんてこと……」
ふう子の喉から、ひゅっと悲鳴のような音が漏れた。緋梅はぎり、と歯を嚙み締めた。まだ間に合うかもしれない。あの泥のなかから、なんとか葉隠を助け出さなくては。
泥は、今度は緋梅たちを見て蠢いた。ぶよりと膨らみ、次の瞬間には縮んで弾むように跳ね、緋梅たちに襲いかかってくる。緋梅はその軌道を読み取り、息をのんで跳躍した。ふう子を飲み込ませてなるものかと、腕にさらに力を込める。それは意志を持った動きというより、霊力に反応した動きのように見えた。緋梅はふう子を抱きしめたまま、泥とは逆方向に駆けだした。
「ふう子、あの泥は何なの?」
「わからないの。でも、嫌な予感がするから、呪術の類だと思うの」
「呪術……誰かからの攻撃の類かしら。生きもののように見えるけど、あれは式神ではないのよね?」
「違うの。式神なら、術者の霊力を感じるの。でもあれは……違う」
ふう子は腕のなかで、さらに細かく震え出す。
「あたしの検討違いじゃなかったら、あれは……神さまなの」
ふう子は今にも泣きだしそうな声で言った。
「人から忘れ去られて力を失った神さまが、暴走してるの。可哀想なの」
「神さまが、どうしてあんなことになるのよ」
「わからないの……! あり得ないの、神さまがあんなになるなんて」
ふう子はいやいやをするように、首を横に振った。
「ってことは、あそこにいるのは人知を越えた化け物ってことね」
緋梅は立ち止まり、舌なめずりをした。屋敷の中には、硝子の破片が散らばり、泥が動いた跡のようなものが床にこびりついている。鼻をつまみたくなるような腐臭が漂っている。ずるずると何かを引きずるような音が後ろから聞こえてくる。早くはないものの、あれにつかまったら最後、出られる自信はない。緋梅の足もふう子と同じように震えていた。それが恐怖によるものなのか、武者震いなのかは、自分でもわからない。
「鬼の姫! こっちだ!」
その時、鋭い声がかけられる。はっとして声の主を探すと、頭から血を流した男――弟子の姿が見えた。弱々しいが、自分の周りに結界のようなものを張り巡らせている。緋梅は迷わず、そちらへ走り込んだ。
「これは何なの? あんた、弟子なんでしょう」
緋梅は荒い息をつきながら、弟子に話しかける。弟子は悔し気な顔をして、首を横に振った。
「すまない、わからないんだ」
「ふう子は、力を失った神さまだって言ってるわ」
緋梅の言葉に、弟子は目を丸くした。
「そんな……あの文箱にそんなものが」
ぶつぶつと呟く弟子を横目に、緋梅は追い迫る泥と相対した。
「どうやったら、あの神さまを倒せる?」
緋梅は着物の裾をたくし上げ、弟子にたずねた。
「ま、待て。あいつ、どんな術を使ってくるかわからないんだぞ?」
緋梅は弟子と顔を見合わせる。弟子の瞳には、緋梅に対する困惑の色が見える。緋梅に任せるべきか、任せないべきか、葛藤しているのがわかった。
「じゃあ、このまま葉隠を見殺しにしろって言うの」
緋梅はきっと弟子を睨みつけた。
「葉隠は霊獣だ。自分の力で何とか出てこれるかもしれない」
「葉隠を助けるのは諦めろって言うのね?」
「いや、見捨てろなんて言ってないだろ!」
このままでは埒が明かない。あの中で長く生きられるとは思えない。一刻でも早く葉隠を引っ張り出すしかない。
「何かあいつを倒す手立てはないの?」
沈黙を破って、緋梅はたずねた。ずるずると化け物が近づく音がする。悠長に喧嘩をしている場合ではない。
「――あいつは、勾玉から出てきた。あの勾玉を壊せばもしかしたら」
「勾玉はどこにある?」
「あの化け物の心臓にある」
