焼け焦げた草原に、冷たい風が吹き抜けていく。
かつてここは、緑が生い茂る豊かな大地であった。今は草木の生えぬ、濃灰色の地平が目の前に広がっている。
鬼と人。
かつては同じであったと言われるふたつの種族は、緋梅が生まれるずっと前から、争いあっていた。
霊力をその身に宿し、強い力と長い寿命を持つ鬼。力は弱く、寿命も短い代わりに、繁栄を繰り返す人。豊かさを求め、それぞれの種族は領地を奪い合った。
その結果が、この光景だ。
黒く焼け焦げた大地。白骨化した死体のような、炭と化した木々。人と鬼、どちらのものだろうか――襤褸の布切れに降りた烏が、死肉をついばんでいる。真っ赤に燃えた夕陽が、まるで血のように地平に垂れていく。煤の香りと腐敗臭。むせかえるような死の香りに、緋梅は反射的に目を逸らした。
――山を降りてはならない。
緋梅が小さい頃から、繰り返し言われていた言葉。両親にも、周りの大人たちにも、口酸っぱく言われてきた。山は鬼の領域だが、ひとたび山から降りたら、そこは人の領域になるから、と。
来たいと願ったのは、緋梅だった。自分で願ったにもかかわらず、今は強い後悔が胸をついていた。
鬼が誇るべき死とは、果たしてこんなもので良いのだろうか。鬼にとって、戦いに生き、戦いで死ぬことが誉れ。緋梅もまたそれを信じ、大きくなったら鬼のために死ぬのだと、覚悟を持って生きてきたはずだった。
初めて死に直面し、緋梅は狼狽していた。
ぎゅっと目をつむり、緋梅は息を吐く。胸の奥でざわめく動揺を必死に押し殺し、踵を返す。その時、風が緋梅の髪を後ろから吹き上げる。それと同時に、微かな泣き声が聞こえた。
「……え?」
幻聴だと思い、緋梅は振り返る。からからと吹く風に交じり、今度ははっきりと聞こえた。嗚咽交じりの泣き声。子どもの声――ここにあるはずがない声だった。
視線を巡らせた先に、大きな岩がある。岩の向こうは陰になって見えない。あの陰の先に、誰かがいるのだろうか。自分以外の生者に会いたい。もう死と向き合いたくない。その一心で、緋梅は岩の方へと足を向けていた。
そこにいたのは、藍色の着物を着た少年だった。少年の額を見て、緋梅の心臓がどきりと跳ねる。
(角が……ない)
鬼の子には必ずある角が、少年にはなかった。
――人間だ。
緋梅は思わず息をのむ。初めて、人間を見た。その容姿はあまりにも鬼に似ている。角がないだけで、ほとんど鬼と変わらない。
鬼は強く、人は弱く脆い。人間が束になってやっと、鬼と対等に戦えるのだ。人は弱い生きものなんだと、鬼と人は全く違うのだと、言い聞かされてきた。それがどうだ。目の前にいる少年は、ほとんど鬼と同じではないか。
強く興味を引かれて、緋梅はそろりと少年に歩み寄った。少年は、緋梅が近づいていることにまったく気づかないまま、わんわんと泣いていた。真っ赤に目を腫らし、ぽろぽろと落ちていく涙は止まらない。
鬼は滅多なことで泣かない。白昼堂々と泣いている様を見るのは、初めてだった。着物の袖は、湿って色が変わっている。かなりの時間、ここで泣いていたのだろう。
「とうさま……かあさま」
泣き声の合間に聞こえた言葉は、両親を呼ぶものだった。
なんて偶然だろう。
緋梅は自分の手のひらを握りしめた。大きく息を吸って、吐いてを繰り返す。
緋梅もまた、つい先ごろ父を失ったばかりだった。親を失った、身を切るような悲しみは、十分すぎるほどに理解できた。
自分でも意識しないまま、緋梅は少年に向けて、もう一歩を踏み出していた。踏みしめた土が微かに音を鳴らす。緋梅の気配に気づいたのか、少年ははっと顔をあげた。涙で濡れたまつ毛が、きらりと光る。
「……お、おに?」
掠れた声。少年の表情に見えたのは、怯えと恐怖。意を決して、緋梅は声をかけた。
「君を害するつもりはない」
緋梅は軽く手をあげる。武器になるものは、何も持っていない。まったくの丸腰であることを見せる。
丸腰なのは、少年も同じらしい。武器のひとつも取り出さず、一歩後ずさる。
「本当よ。信じてくれない?」
鬼の言葉など、聞いてもらえないか。仕方ないと思いながら、緋梅は言葉を続けた。怯える少年の瞳には、同じく恐々とした顔の緋梅が映っている。
「泣いて……いたから。何があったのだろうと、思って」
少年がはっと息をのむ。くしゃりと表情が歪み、そして緋梅に向けて大声で叫んだ。
「とうさまは、鬼に殺されたんだ!」
悲痛に満ちた声だった。緋梅は何も言えずに、ただ立ち尽くす。
「鬼たちから僕を護るって言って、とうさまは死んだんだ! 鬼のっ……せいで」
少年の瞳から、ぽろぽろと涙が落ちていく。緋梅もまた、泣きそうになった。
「私の父も、同じだ。人間から子どもたちを護るのだと戦って、死んだ」
緋梅は唇を噛む。少年に言ったところで何も変わらないとわかっていて、それでも言わずにはいられなかった。
人間だけではない。鬼もまた、命を落とした。緋梅たちを守るために、誇りある死を遂げたのだ。誇りある死、と思っていても、胸のどこかにぽっかりと空いた穴は埋まらない。
緋梅の言葉に、少年は目を見開いた。澄んだ瞳から、また一粒、涙がぽたりと零れ落ちる。
やり場のない悲しみと、そして虚しさが緋梅を襲う。許されるなら、緋梅だって大声で泣き叫びたかった。父さまを返して、と。それを少年に言っても仕方ない。わかっている。だからその代わりに、強く唇を噛む。そして、黙ったまま少年のすすり泣きを聞いていた。
「どうして、戦わないといけないの?」
どれくらい時間が経っただろう。ぽつりと言ったのは、少年だった。その頃には、少年はほとんど泣き止んでおり、緋梅への敵意は薄れているように見えた。
「わからない。でも、私たちはずっと戦ってきた」
緋梅は首を横に振る。
「じゃあ、じゃあ。もう戦いなんてやめようよ」
そう言って、少年が緋梅に近づいた。その瞬間、少年の身体が淡く光る。はっとして少年を見つめると、少年の首から下がっていた首飾りが光っていた。少年自身も驚いた表情で、首飾りを襟元から出す。翡翠色をした勾玉から、淡い白い光が放たれていた。
「だ、大丈夫?」
緋梅は声をかけ、少年にもう一歩近づいた。そのとき、少年が絶望の表情を浮かべて叫んだ。
「危ない、離れてっ!」
緋梅が次の言葉を放つ前に、白い光が身体を包む。次の瞬間に、緋梅の角に強い衝撃が走った。身体が粉々に砕け散ってしまいそうだ。今までに感じたことのないほどの強い痛みに、緋梅は耐えられずに叫ぶ。そして、いつの間にか意識を失っていた。
かつてここは、緑が生い茂る豊かな大地であった。今は草木の生えぬ、濃灰色の地平が目の前に広がっている。
鬼と人。
かつては同じであったと言われるふたつの種族は、緋梅が生まれるずっと前から、争いあっていた。
霊力をその身に宿し、強い力と長い寿命を持つ鬼。力は弱く、寿命も短い代わりに、繁栄を繰り返す人。豊かさを求め、それぞれの種族は領地を奪い合った。
その結果が、この光景だ。
黒く焼け焦げた大地。白骨化した死体のような、炭と化した木々。人と鬼、どちらのものだろうか――襤褸の布切れに降りた烏が、死肉をついばんでいる。真っ赤に燃えた夕陽が、まるで血のように地平に垂れていく。煤の香りと腐敗臭。むせかえるような死の香りに、緋梅は反射的に目を逸らした。
――山を降りてはならない。
緋梅が小さい頃から、繰り返し言われていた言葉。両親にも、周りの大人たちにも、口酸っぱく言われてきた。山は鬼の領域だが、ひとたび山から降りたら、そこは人の領域になるから、と。
来たいと願ったのは、緋梅だった。自分で願ったにもかかわらず、今は強い後悔が胸をついていた。
鬼が誇るべき死とは、果たしてこんなもので良いのだろうか。鬼にとって、戦いに生き、戦いで死ぬことが誉れ。緋梅もまたそれを信じ、大きくなったら鬼のために死ぬのだと、覚悟を持って生きてきたはずだった。
初めて死に直面し、緋梅は狼狽していた。
ぎゅっと目をつむり、緋梅は息を吐く。胸の奥でざわめく動揺を必死に押し殺し、踵を返す。その時、風が緋梅の髪を後ろから吹き上げる。それと同時に、微かな泣き声が聞こえた。
「……え?」
幻聴だと思い、緋梅は振り返る。からからと吹く風に交じり、今度ははっきりと聞こえた。嗚咽交じりの泣き声。子どもの声――ここにあるはずがない声だった。
視線を巡らせた先に、大きな岩がある。岩の向こうは陰になって見えない。あの陰の先に、誰かがいるのだろうか。自分以外の生者に会いたい。もう死と向き合いたくない。その一心で、緋梅は岩の方へと足を向けていた。
そこにいたのは、藍色の着物を着た少年だった。少年の額を見て、緋梅の心臓がどきりと跳ねる。
(角が……ない)
鬼の子には必ずある角が、少年にはなかった。
――人間だ。
緋梅は思わず息をのむ。初めて、人間を見た。その容姿はあまりにも鬼に似ている。角がないだけで、ほとんど鬼と変わらない。
鬼は強く、人は弱く脆い。人間が束になってやっと、鬼と対等に戦えるのだ。人は弱い生きものなんだと、鬼と人は全く違うのだと、言い聞かされてきた。それがどうだ。目の前にいる少年は、ほとんど鬼と同じではないか。
強く興味を引かれて、緋梅はそろりと少年に歩み寄った。少年は、緋梅が近づいていることにまったく気づかないまま、わんわんと泣いていた。真っ赤に目を腫らし、ぽろぽろと落ちていく涙は止まらない。
鬼は滅多なことで泣かない。白昼堂々と泣いている様を見るのは、初めてだった。着物の袖は、湿って色が変わっている。かなりの時間、ここで泣いていたのだろう。
「とうさま……かあさま」
泣き声の合間に聞こえた言葉は、両親を呼ぶものだった。
なんて偶然だろう。
緋梅は自分の手のひらを握りしめた。大きく息を吸って、吐いてを繰り返す。
緋梅もまた、つい先ごろ父を失ったばかりだった。親を失った、身を切るような悲しみは、十分すぎるほどに理解できた。
自分でも意識しないまま、緋梅は少年に向けて、もう一歩を踏み出していた。踏みしめた土が微かに音を鳴らす。緋梅の気配に気づいたのか、少年ははっと顔をあげた。涙で濡れたまつ毛が、きらりと光る。
「……お、おに?」
掠れた声。少年の表情に見えたのは、怯えと恐怖。意を決して、緋梅は声をかけた。
「君を害するつもりはない」
緋梅は軽く手をあげる。武器になるものは、何も持っていない。まったくの丸腰であることを見せる。
丸腰なのは、少年も同じらしい。武器のひとつも取り出さず、一歩後ずさる。
「本当よ。信じてくれない?」
鬼の言葉など、聞いてもらえないか。仕方ないと思いながら、緋梅は言葉を続けた。怯える少年の瞳には、同じく恐々とした顔の緋梅が映っている。
「泣いて……いたから。何があったのだろうと、思って」
少年がはっと息をのむ。くしゃりと表情が歪み、そして緋梅に向けて大声で叫んだ。
「とうさまは、鬼に殺されたんだ!」
悲痛に満ちた声だった。緋梅は何も言えずに、ただ立ち尽くす。
「鬼たちから僕を護るって言って、とうさまは死んだんだ! 鬼のっ……せいで」
少年の瞳から、ぽろぽろと涙が落ちていく。緋梅もまた、泣きそうになった。
「私の父も、同じだ。人間から子どもたちを護るのだと戦って、死んだ」
緋梅は唇を噛む。少年に言ったところで何も変わらないとわかっていて、それでも言わずにはいられなかった。
人間だけではない。鬼もまた、命を落とした。緋梅たちを守るために、誇りある死を遂げたのだ。誇りある死、と思っていても、胸のどこかにぽっかりと空いた穴は埋まらない。
緋梅の言葉に、少年は目を見開いた。澄んだ瞳から、また一粒、涙がぽたりと零れ落ちる。
やり場のない悲しみと、そして虚しさが緋梅を襲う。許されるなら、緋梅だって大声で泣き叫びたかった。父さまを返して、と。それを少年に言っても仕方ない。わかっている。だからその代わりに、強く唇を噛む。そして、黙ったまま少年のすすり泣きを聞いていた。
「どうして、戦わないといけないの?」
どれくらい時間が経っただろう。ぽつりと言ったのは、少年だった。その頃には、少年はほとんど泣き止んでおり、緋梅への敵意は薄れているように見えた。
「わからない。でも、私たちはずっと戦ってきた」
緋梅は首を横に振る。
「じゃあ、じゃあ。もう戦いなんてやめようよ」
そう言って、少年が緋梅に近づいた。その瞬間、少年の身体が淡く光る。はっとして少年を見つめると、少年の首から下がっていた首飾りが光っていた。少年自身も驚いた表情で、首飾りを襟元から出す。翡翠色をした勾玉から、淡い白い光が放たれていた。
「だ、大丈夫?」
緋梅は声をかけ、少年にもう一歩近づいた。そのとき、少年が絶望の表情を浮かべて叫んだ。
「危ない、離れてっ!」
緋梅が次の言葉を放つ前に、白い光が身体を包む。次の瞬間に、緋梅の角に強い衝撃が走った。身体が粉々に砕け散ってしまいそうだ。今までに感じたことのないほどの強い痛みに、緋梅は耐えられずに叫ぶ。そして、いつの間にか意識を失っていた。
