ゆらぎ

第四章

「ねえ、あさぎ、心ってなんだと思う?」
 ある夏の日、ゆらぎはキャンバスに向かい合ったまま、そんな抽象的な質問をしてきた。私は彼女の後ろで本を読んでいて、ちょうど、彼女が選ぶ色の美しさに見惚れていたところだった。
「なに、急に」
「あさぎの考えを、聞いてみたくなって」
 ゆらぎは珍しく、筆を持つ手を止めなかった。ゆらぎが手を休めないときは、よほど集中しているときか、なにか後ろめたいことがあるときだと決まっている。今は彼女から話しかけてきたくらいなのだから、後者なのかもしれない。
「……そうだな、情動っていう意味なら、闘争・逃走反応がもたらす精神的な機能のことだろうし、ざっくりとまとめて主観的な快・不快の経験といってもいいかもしれないけど――」
「そんなことはそれこそAIに聞けば教えてくれるよ。あさぎは、どう思っているのかなと思って」
 どんな試験より、ずっと難しい問いだった。高校で知識として学んだだけで脳科学や心理学の専門を目指しているわけでもないし、まして作家でもないのだから彼女が納得するような美しい言葉で表現できそうにもない。
 それでも、と思いつくものならある。まとまりのない考えを口に出すのは苦手だったが、言い出さなければ、彼女の背が生み出す沈黙はいつまでも私の言葉を待っているような気がした。
「……ゆらぎ」
「え?」
「ゆらぎ、だと思う。私が考える心の、本質みたいなもの」
 彼女はついに筆を置いてこちらを振り返った。珍しく、理解できないとでも言いたげな顔をしている。
「私ってこと? 私のこと好きすぎない?」
「ゆらぎのことは好きだけど、違うよ。なんていえばいいのかな……イメージとしては、人と人とか、人と動物とか、人と物とか……とにかく、あらゆるふたつのものが紐みたいなもので繋がっていて……そのつながりのゆらぎが、感情を生んでいるのかなって、思う。原子の振動が熱を生むように、つながりのゆらぎが心を生むの」
 ゆらぎは、しばらく考え込んでいた。筆の先から、ぽたりと浅葱色の絵の具が落ちて、彼女のエプロンに染みをつくる。
「その考えだと、生まれながらにしてひとりぼっちで、何もない部屋にいる子どもには、心は生まれないのかな?」
「どうだろう……それこそ、不快情動と言ってもいいのかもしれないけど、生存に不利な環境からは逃げたくなるだろうし、恐れるだろうし……ざっくりというなら、それだって心と言って差し支えないだろうし……。さっき言った考えに照らし合わせるなら、子どもと暗闇のつながりが生んだゆらぎが、感情を生み出していることにはなるのかな、……なんて、思うけど」
 こんなふうに自分の考えを述べるのは初めてだ。なんだか、気恥ずかしい。相手がゆらぎだからまだできたことだろう。
「へえ……面白いかも、いいこと聞いた」
 言葉通り、ゆらぎは鼻歌でも歌い出しそうなほどに上機嫌だった。たいていいつでも機嫌はいいが、目に見えて楽しそうだ。
「……なあに、次回作の構想でもしているの? 心がテーマだなんて、ずいぶん挑戦的で壮大な作品だね」
「まあね。場合によっては、私の生涯でいちばんの作品になるかもね」
 このときゆらぎは確か十六歳だった。思わず、くすりと笑ってしまう。
「どんなに素晴らしいものかは知らないけれど、そう言ってしまうには若すぎるんじゃない? ゆらぎなら、もっともっとすてきなものを生み出せるよ」
 ゆらぎは、どこか大人びたまなざしで静かに笑った。同じ日に生まれ、同じように生きてきたのに、彼女はときどきはっとするほど遠い存在に思える。
「……もうひとつ、ついでに聞いてみたいんだけど、もし、もしも心がないものに、心を与える術を見つけてしまったら……それは、許されることだと思う?」
 今日はずいぶん抽象的な、正解のない質問が多い。しばらく迷ってから、やっぱりとりとめもない答えを返した。
「子どもを産む人は、新たに心をひとつこの世に生み出しているとも言えるわけだし……そんなに悪いことじゃない気はするな。何に心を与える想定をしているのかわからないけれど……まあでも、花とか無機物が心を持ったらちょっと不気味かもね。場合によっては争いの火種になるかも。よくわからないものは、怖いから」
 ゆらぎは静かに私の言葉を聞き届けると、目を瞑って何度か頷き、どこか自嘲気味な笑みを浮かべた。
「――私、あさぎと一緒に生まれてきてよかったよ」
 開け放たれた窓から吹き込んだ風が、薄いカーテンを揺らして、夏と絵の具の匂いを運んできた。濃い影を半身に背負ったゆらぎの姿はどこか重々しくて、とても自分の片割れだとはいえないような存在感を放っている。
「……その作品、できたら見せてよ。ゆらぎの言う通り、すごそうだ」
「いや、あさぎにも完成品は見せられないよ。レプリカは見せてあげるけど」
「そんな、一生懸命悩んで質問に答えたのに……」
 下手な試験よりずっと疲れたような気がするのに、彼女はその貢献に報いる気はないらしい。何より、どんな作品でも欠かさず私に見せてくれた彼女が、秘密にしようとしているのが気に食わなかった。
「そうだな……私が死んだら、いつかばれちゃうだろうから……そうしたら、そのときに確認してね。私の一世一代の特別な作品を」
「ゆらぎが死んだらなんて、縁起でもない」
 同じ日に死ぬとはいわずとも、同じくらいの歳で死ねたら嬉しいと思っていた。一緒に生まれてきたのだから、おしまいも一緒がいい。ひとりでは、生きている心地が半分くらいしかしなそうだから。
「ゆらぎ、お話中にごめん、昼食の準備ができたよ」
 ふと、廊下に繋がる扉からツルギが姿を表す。美しいが、機械的な微笑みを浮かべていた。使用者に不快感を与えないための、彼の意思ではない笑みだ。
「ありがとう」
 ツルギが、私にも向き直る。
「あさぎさんのぶんもご用意しました。ゆらぎと一緒に召し上がってください」
 揺らぎのない瞳が、まっすぐに私を映し出していた。
 妙な緊張感を覚えて、ふい、と視線を逸らす。無視したって相手はAIだ。失礼も何もないだろう。
「今日のお昼ご飯は何?」
「あさぎさんもいるから、ナポリタンから変更してカルボナーラにしたよ」
 ゆらぎに願われて柔らかな口調で話すツルギとゆらぎの後ろ姿を、ぼんやりと見つめる。後ろ姿だけを見れば、まるで恋人か友人同士のようだ。
 席を立ち、読みかけの本を椅子の上に置く。ふたりの後を追うようにドアへ向かう途中、ゆらぎがキャンバスに描いていたものが見えた。
 それは、紺色の空に浮かぶ金と銀の星の絵だった。その星のひとつが、浅葱色の光を放って、眠るように横たわる少年のそばに引き寄せられている。少年は灰色の髪をしていて、詳しく確認せずともツルギがモデルなのだとわかった。
 絵本の一ページのように美しい絵だったが、どうしてか胸騒ぎがしてしばらくその絵から目を離せなかった。
「あさぎー! 早くおいでよ! 冷めちゃうよ!」
 ゆらぎの声がリビングから響いて、はっとする。
「ごめんごめん!」
 最後に絵を一瞥して、慌てて部屋を後にした。
 ゆらぎが生きている間にその星の絵を見たのは、それが最初で最後だった。

 ◇

「う……」
 半ばうなされるようにして、夢から覚める。去年の出来事なのに、夢に見るまで思い出したことがなかった。あの問答の後はなんだか疲れてしまって、あまり振り返らなかったせいもあるかもしれない。
 ……星と、レプリカ、か。
 ごろりと寝返りを打ちながら眼裏に蘇るのは、いつかゆらぎの展示会で見たあの金属でできた星の小さなオブジェだ。ゆらぎはあれをレプリカだと言っていたが、あれの本物こそが、彼女が隠そうとした「一世一代の大作」だったのではないだろうか。
 ツルギがゆらぎの過去の作品を収納したと言っていた箱もざっと見たが、それらしいものは見当たらなかった。どこかに、今も隠されているのだろうか。
 寝転んだまま、壁に表示された数字を見て、渋々起き上がる。
 そろそろ、ツルギが起こしにやってくる時間だ。なるべく、彼とは起きた状態で対峙するようにしていた。寝起きでは、つい素が出てしまうからだ。
 ベッドから足を下ろすと、何だか妙に体が重たい気がした。気のせいか、視界がゆらゆらと揺れている。
「ゆらぎ、入るよ」
 壁の数字が七時を表示したのと同時に、ツルギが入室してくる。彼は早速部屋のカーテンを開けるボタンを押し、私の前にやってきた。
 眩しくて、頭がずきずきとした。ぼんやりと意識に膜が張ったような感覚だ。
「……ゆらぎ?」
 ツルギは私の前に跪くと、すぐさま私の手をとった。
「三十八度五分。……ゆらぎ、具合が悪いんだね。横にならなきゃだめだ」
 さすがは家庭用のアンドロイドだ。触れただけで体温を測定できるらしい。
「……解熱剤を飲めば大丈夫。支度しないと」
 正直、学校に行かなくていい理由ができたことを喜んでいないかと言われれば嘘になるが、この時期に休むと二度と行けなくなるような不安もあった。今の私の精神状態では、楽なほうに流されてしまう。
「だめだよ、悪化する。絶対家から出さない」
 ツルギにしては珍しく、頑固な言葉だった。そのまま、肩を押されるようにしてベッドに倒される。
「ツルギにそんな権限ある?」
 無理やりベッドに横にされたのがなんだか悔しくて、思わず反抗的なことを口走ってしまった。ツルギは表情ひとつ変えずに、布団を私の首元まで引き上げる。
「あるよ、ぼくはゆらぎの恋人だからね」
 ツルギは表情ひとつ変えずに言い放つと、カーテンを閉め、空調の調節をしていた。
 布団を首もとまでかけられて、初めて気がついた。夏の始まりだと言うのに、体が震えている。
 ……確かにこれじゃあ無理か。
 ツルギの制止を振り切って登校したところで、景あたりに指摘されて家に帰されるのがオチだ。それに、あの漆戸先生のいる保健室には絶対に行きたくない。
 そうやらツルギの判断は、正しいと言わざるを得ないようだ。
「……ごめん、きつい言い方して」
 AIに謝る必要なんてないと思いながらも、言わずにはいられなかった。ツルギは再び私のベッドのそばにしゃがみ込むと、そっと頬を撫でてくれる。
「そんなこと、気にしなくていいんだよ。今、おかゆを作ってくるから待っていて」
 彼は何度か私の頬を撫でると、穏やかな笑みを残して部屋を出ていった。
 AIのくせに、慈しむとは何かを知っているかのような触れ方だった。あれもプログラムなのだとしたら、恐れ入る。
 ……あんなふうに撫でられたのは、久しぶりだな。
 布団を口もとまで引き上げて、ふ、と頬を緩ませる。相手がAIだとしても、労られるのは悪くない。
 枕もとに放り出していた端末を手に取り、高校に「体調不良のため欠席」と短いメッセージを送る。返事も見ずに再び枕もとに戻し、布団の中に潜り込んだ。
 暗闇のなかでも、頭はずきずきと痛んだ。ツルギのことだ。きっとおかゆとともに薬も持ってきてくれるだろう。
 思ったよりも体調が悪いのか、横になっているだけで瞼が重たくなってくる。それに抗えぬまま、再び私は眠りについた。

 さらさらと、髪を撫でられるような感触がして、まつ毛を震わせる。
 わずかに開いた瞼の隙間から、ツルギの姿が見えた。どうやら、彼が髪を撫でているらしい。
 ……寝ている間、ずっとそばにいてくれたのかな。
 結局おかゆも食べず薬も飲まずに、長く眠ってしまった気がする。それでもなお瞼が重たくて、抗えぬままわずかに開いた瞼を閉じた。ツルギは、私が起きたことに気づいていないようだ。変わらぬ調子で、私の髪を弄ぶように撫でている。
「ゆらぎ」
 囁くような、聞いたことのない声だった。どこか、甘い響きを帯びている。瞼の重みに抗うように、ほんのすこしだけまつ毛を上げた。
「……ゆらぎ」
 もういちど名前を繰り返して、彼は泣き出しそうな表情で私の髪をとると、そっと毛先にくちづけた。
 その一連の行動に、どくり、と心臓が跳ねる。
 薄暗がりの中で人の髪にくちづける彼が綺麗だったから、とか、そんな理由ではない。今、私が見たものが、一体のアンドロイドが起こした行動だとは思えなかったからだ。
 それこそ、まるでゆらぎに焦がれるひとりの青年だと言われたほうがよほどしっくりとくる。
 使用者への好意を表す高度なプログラムなのかとも一瞬考えたが、私が眠っていると思ってあんな行動をしているのだ。意味がない。
 何か、見つけてはいけないものに気づいてしまったような気になって、心臓がばくばくと暴れ出していた。拾い集めた小さな点と点が、結びつきそうになって怖い。
「ゆらぎ……? 起きたの? ひどく心拍数が上がっているけど、どこか苦しい?」
 ツルギの手が、そっと頬に添えられる。人と同じ温もりの、青年らしい手だった。思わず、びくりと肩が跳ねる。
 私に触れているこれは、この人は、何者なのだろう。
 ゆらぎの死を知らぬまま、遺伝子情報が同じであるばかりに私とゆらぎを混同して、私に仕える憐れなアンドロイド。その像が、ぐらりと揺らいでいくのがわかった。
「あ……ツルギ」
「大丈夫? 病院へ行こうか?」
 具合の悪さも一瞬遠のくほど、動揺していた。
 それを悟られないように軽く俯きながら、体を起こす。すぐに、ツルギの手が背中を支えてくれた。
「……平気、どこも痛くないよ」
「本当に? 無理はしないでね、ゆらぎ」
 心なんてものはないはずなのに、心底心配しているような声音だった。警鐘を鳴らすように、頭の中で心臓の音がばくばくと響き渡っている。油断すると、ベッドに倒れ込んでしまいそうだ。
「……おかゆ、作ってくれたんだよね。食べたいな」
「よかった、食べられそうなんだね。今、作り直してくるよ」
 時刻を確認すれば午前十一時を過ぎたところだった。きっと、彼がおかゆを作ってから三時間ほど経過しているのだろう。
「ふやけてても平気だから、作り直さなくていいよ。……できたてを食べられなくて、ごめん」
「ゆらぎの体調が最優先だから、そんなこと気にしなくていいんだよ。……それじゃあ、温めるだけ温めてこようかな。すこしだけ待っていて」
 ツルギが部屋を出ていくのを見送ってから、深く息をつく。まだ暴れたままの心臓を、必死に鎮めようと深呼吸を繰り返した。
 何かが、つながりそうな気がするのに、熱で浮かされた頭ではあと少しのところで届かない。
 いや、本当は、もう気づいているのにわからないふりをしているだけなのかもしれないけれど。自分で自分を欺くなんて、馬鹿げている。
 呼吸を整えているうちに、ツルギが戻ってきた。手に持っているトレーの上には、深い器に入った卵粥と水、解熱剤らしき薬が載っている。
「ありがとう」
 早速トレーから木のスプーンを手に取ろうとしたが、すぐに指先から滑り落ちてしまった。先程の動揺から、まだ抜け出せていないらしい。
 ぎゅ、と指先を握り込んでもういちどだけ呼吸を整えると、ツルギの手がスプーンを取るのがわかった。そのまま、器の中のおかゆをちょうどよく一口ぶんすくって、私の前に差し出してくる。
「いいよ、ちょっと力が入らなかっただけで、普通に食べられるよ」
「ぼくがしてあげたいんだ。だめ?」
 口もとまでスプーンを差し出され、引くに引けなくなる。まつ毛を伏せて、仕方なく口を開く。さすがはアンドロイドというべきか、溢れることなく上手に食べさせてくれた。
 ……まあ、保育や介護の場でも活用されているくらいだし。
 出汁が効いた優しい味わいの卵粥だった。ゆらぎも、体調が悪いときにはよく食べていたものだ。
「食べられてよかった。口に合うといいんだけど」
 ツルギは、柔らかく微笑んで私を見ていた。だがその瞳に、不思議な熱を見つけたような気がして、ざわりと心が揺らぐ。
 ツルギはゆらぎの食事風景が好きなようだが、食べさせるのはもっと好きなようだ。結局そのまま数口分、ツルギの手ずから食べさせてもらった。
 解熱鎮痛薬を口に含み、水で流し込む。温かいものをお腹に入れたおかげか、体がぽかぽかとして少しは気分が落ち着いてきた。
「あとで、着替えを持ってくるよ。眠れそうならまた横になっていて」
 ツルギは手早く後片付けを終えると、再び私の体を寝台に横たえ、布団を被せてくれた。至れり尽くせりだ。
「おやすみ、ゆらぎ。またあとでね」
 ツルギは微笑みながらそう告げると、そっと私の前髪を掻き上げて額にキスを落とした。
 それは、私とゆらぎの間のおまじないだ。どちらかが具合が悪いときに、もう片方が額にキスをして、元気を分け与えてあげるのだ。
 ……ゆらぎはそれを、ツルギに教えてあげたんだ。
 それくらい、大切な存在だったということだ。ツルギがいなくなると同時に布団を頭まで被り、ぎゅう、と目を瞑った。
 私が考えていることが本当だったら、私は彼に、どれだけ残酷なことをしているだろう。考えれば考えるほどに、どうしようもなく、泣き出したくて仕方がなかった。

 ◇

 しつこい風邪だったのか、はたまた私が弱っていたのか、その後結局三日間私は寝込んでしまった。当然高校は休み、つきっきりでツルギの看病を受ける毎日だ。
 景からは、毎日メッセージが来た。学祭では御伽話をモチーフにした劇をやることになったという他愛もない知らせや、薬を持って行こうかという提案など、ずいぶん気にかけてくれている。
 見舞いにも来たがっていたが、風邪を移しても困るので断っておいた。ひとりなら差し入れくらい頼んだかもしれないが、ツルギがいるおかげで困っていることはないのだ。
 だが、三日目の夕方、筆不精な母がメッセージをよこしたとほとんど同じ時刻に、母が家を訪ねて来た。
「体調を崩したと聞いたけれど、大丈夫なの」
 三日も休めば、さすがに親に連絡がいくらしい。あるいはあのおせっかいな養護教諭が余計な真似をしたのかもしれないが。
 寝巻きから部屋着に着替えた状態で、リビングで母の応対をする。寝ていてもいいと言われたが、熱はかなり下がっているし、部屋が散らかっているとでも言われようものなら気が滅入りそうだった。
「平気だよ、連絡しなくてごめん。忙しいかなと思って」
 母はSEで、AIの不具合を修正する部門に属している。AIの医師と言ってもいいかもしれない。現代では、ひょっとすると人間の医者よりも重宝される存在かもしれなかった。
「体調のこと、誰から聞いたの? 学校?」
「星川くんのお母さんからよ」
 実家が近くにあるだけあって、私の母と景のお母さんは友人同士だ。景とは家族ぐるみの付き合いなのだ。
「そっか……」
「星川くんは、変わらずあさぎのこと気にかけてくれているのね。付き合ってるの?」
「そんなわけないよ……景は人気者なんだから」
「ふうん、お母さんはお似合いだと思うけれど」
 母とはあまりこんな話をしてこなかったから、気恥ずかしい。
 視線を彷徨わせていると、助け舟を出すようなタイミングで、ツルギがお茶を運んできた。母には温かい緑茶で、私には飲みやすいように冷たい麦茶にしてくれたらしい。
「ありがとう」
 いつものようにツルギに礼を述べると、彼は何も言わずに小さく微笑んだ。話の邪魔をしてはいけないとでも思ったのか、そのままアトリエのほうへ下がっていく。
 母は結局ツルギに一言もかけることはなかった。昔から、そういうひとだ。
「珍しいわね、あさぎ。あなたが、AIに親切にするなんて。AI嫌いじゃなかった?」
 麦茶のコップに口をつけ、一口飲み込んでからおずおずと頷く。
「うん……今でも、得意なわけじゃないけど」
「まだ、お父さんのことを引きずっているの?」
 どくり、心臓が揺れる。脳裏に、白黒のCT画像が何枚も蘇った。
「引きずって、いるというか……」
「あれは、誰のせいでもないわ。もちろん、AIのせいでも。それに、今は、あのころとは比較にならないほど精度が向上している。……聞いたわよ、他のみんながAIに任せるような読影分野に固執して、休み時間もみんなと交流せずに読影問題を解いているんですって?」
 相変わらず、嫌なところをついてくる人だ。嫌いなわけではないけれど、長く会話を楽しめたことはあまりなかった。
「それも、景のお母さんから聞いたの?」
「これは、保健室の漆戸先生からよ」
 またあの養護教諭か。本当に余計な真似しかしない。舌打ちがうまくできればしたいくらいの気持ちだった。
「……別に、いいでしょ。悪いことじゃないし、どれだけAIの精度が向上しようとも最後に診断を下すのは人間の医者だし。それなら、自分の目でもAIと同じくらい正確に判断できたほうがいい」
「そうだけれど、それでお友だちとの交流や星川くんとの付き合いを疎かにするのはおかしいと言っているの。お父さんも、そんなことは望んでいないわよ」
「お父さんが望んでいるかいないかなんて関係ない。私の心が楽だからしているだけ。いいでしょ、別に。誰にも迷惑かけていないんだから。それに、言うほど人付き合いを疎かにしているつもりはないよ」
 こういう言い方が母の気に障るとはわかっていながらも、言わずにはいられなかった。
「お母さんは、あなたを心配して言っているのよ。どうしてそう、反抗的なの……」
 はあ、と深いため息をついて、母は頭を抱えてしまう。いつもそうだ、ふたりで話すと必ずこうなる。
 ――まあまあ、お母さん、あさぎが勉強しているのは悪いことじゃないのは確かでしょう? あさぎも、お母さんはほんとに心配しているだけなんだからあんまりとげとげしないで。ふたりともそのくらいにしておやつでも食べようよ。
 空いた席で、ゆらぎがぱっと明るい笑みを浮かべて間をとりなしてくれる姿が見えたような気がした。ゆらぎと三人でいれば、私たちは初めから終わりまで楽しく会話ができたのだ。
 たぶん、ゆらぎと母はふたりでも喧嘩することなく会話ができるのだろう。母のストレスも、ゆらぎと話すときのほうが少ないのは明白で、実家にいるときのちょっとした用事や話なら、ゆらぎにすることが多かった。ゆらぎは誰とでも気が合うのだ。
「ゆらぎが、いてくれれば……」
 ぽつり、と母はつぶやいた。気が合わないけれど、考えることは同じだ。
 父が亡くなったときも、母をいちばん支えたのはゆらぎだった。私は悲しみに暮れるばかりで、母のことなどまるで気にかけられなかったのに、ゆらぎはいつでも母のそばにいた。
 そういうところも、今に影響しているのかもしれない。
 愛されて大切にされていることはわかっているから「ゆらぎでなく、私がいなくなればよかった」なんて、そんな幼稚なことは言いたくないけれど、それでも時折思うことがある。
 ここにいるべきは、ゆらぎのほうだった、と。そう思う瞬間が、私の周りにはありすぎる。
「具合悪いから今日は帰って。また連絡する」
 私から会話を切り上げて、席を立つ。母も反対はしなかった。
 母もきっと、疲れているのだろう。ゆらぎを失った悲しみから立ち直れているとは思えない。仕事をして、気を紛らわせているだけだ。その証拠に、ひとまわり痩せたような気がした。
「……ケーキを買ってきたから、食べられそうならあとで食べなさい」
 玄関で、思い出したように母は言った。そういえば、ツルギに何か白い箱を預けていた気がする。
「うん、ありがとう。……お母さんも体調には気をつけてね」
「ええ」
 玄関口で母を見送って、リビングに戻る。母の帰りを悟ったのか、ツルギがリビングに戻っていた。
「お見送りできなかった。失礼なことをしてしまったね」
「大丈夫。気にするような人じゃないから」
 麦茶が置かれた席に座って、ため息をつく。ツルギがさっそく、母の使った湯呑みを下げていた。
「お母さんから、ケーキを預かっているよ。食べる?」
「うん」
 食欲も、かなり戻ってきた。悪くなっても困るし、今のうちに食べてしまおう。
 母には、ツルギが私とゆらぎを混同していることは伝えていない。ただ、ゆらぎの使っていたアンドロイドをそのまま引き取るとだけ言って、この家に連れてきたのだ。相談すれば、きっと母は正しくツルギを直してくれるのだろう。
 それでも、今は不思議なくらいツルギのことを母に伝えようとは思わなかった。この現実逃避を、壊されたくない。
「はい、どうぞ。温かい紅茶も淹れたから飲めそうだったら飲んでね」
 数分して戻ってきたツルギが、私の目の前にケーキの乗った皿とティーカップを置く。
 ケーキは、昔から私が好んでいるレアチーズケーキだった。ケーキの上にはブルーベリーやイチゴがたくさん載っていて、五歳の時に父が買ってきてくれたときから、私の好物になっていた。
 しかも、実家の近くの懐かしい菓子店のものだ。母は、わざわざそこに立ち寄って買ってきてくれたらしい。
 両親とゆらぎとケーキを食べた日のことを思い出して、ぐ、と胸が詰まる。あの光景はもう二度と戻らない。
「どうしたの? 具合悪い?」
 ツルギが、心配そうに顔を覗き込んでいる。油断すれば泣きそうだ。目尻を必死に抑えて、取り繕うように笑ってみせた。
「なんでもないよ」
「本当に? 目が赤いよ」
 ツルギの指先が、そっと目のきわをなぞる。くすぐったくなるほどの優しい触れ方に、余計に泣いてしまいそうだった。
「違うの……ただ、このケーキは、亡くなったお父さんとも食べた思い出のケーキだから」
 私をゆらぎだと思っている彼に、ゆらぎのことは語れない。
「ゆらぎが、八歳のときに亡くなったんだよね。……寂しかったね」
 ツルギは私の隣の椅子に座ると、そっと肩を引き寄せるようにして抱きしめてくれた。思わず、彼の肩に顔を埋めるようにして嗚咽を漏らす。具合が悪いせいか、涙をうまく止められなくて困る。
「私ね……私、本当は、AIなんて嫌いだったの」
 涙と一緒に、心の中で渦巻いているものが勝手に吐き出されてしまう。ツルギは、私の頭をそっと撫でながら静かに耳を傾けていた。
 父は、私が八歳のときに癌で亡くなった。一度は寛解して、母と同じ仕事に復帰もできていたが、私が八歳の秋に再発して、年が明けるころには帰らぬ人となってしまった。
 私がCT画像にこだわるのも、父の件があったからだ。父は、夏の定期受診で頚部リンパ節の腫大を指摘されていたが、AIは95%の確率で「炎症による一時的な反応性変化」だと診断し、主治医もそれを信頼した。秋の受診時には、リンパ節腫大は身体中に広がっていて、今度は転移と診断された。
 医学を学んだ今、夏の時点でのAIの判断も医師がそれを信頼したのも、まったくの間違いではなかっただろうと思う。けれど、幼い私はそう思えなかった。あの時点で気づければ、何か動いていれば、お父さんはもう少し長く、一緒にいてくれたのではないかと思えてならなかったのだ。
 以来、医学の道に進んでからも、取り憑かれたように読影問題ばかり解いている。そのせいでクラスに馴染めなくても、それでいいと思っていた節は否めない。私は今も、父の死を引きずっていた。
 なんとなくAIが苦手なのもそれが原因だったけれど、その私が今、こうしてアンドロイドに縋り付いて泣いているなんて我ながら信じられない。昔では考えられなかった。
 ツルギと暮らしてからAIに対する考えが揺らいでいるのは自分でもわかっていた。それはあまりに人間らしいツルギのせいでもあるし、ゆらぎの死因のせいでもあるのだと思う。
 あの日、ゆらぎに突っ込んだあの車が、AIの搭載されている完全自動運転車だったら。
 そうしたら、車はゆらぎにぶつかるどころかガードレールに接触する前に止まって、ゆらぎは死ななかったのに。ゆらぎは今もあのひだまりのような笑みを浮かべて、私のそばにいてくれたのに。
 父は医師がAIに頼ったせいで亡くなったけれど、ゆらぎはあの運転手がAIに頼らなかったせいで亡くなったのだ。その矛盾が、私の心をいっそう不安定にしていた。
「今も、AIは嫌い? ぼくのことも、苦手なの?」
 穏やかなツルギの声に、また一粒涙を流す。大粒の涙の感覚が、頬を伝っていった。
「わからない……でも、ツルギのことは嫌いじゃない。嫌いじゃ、ないよ」
 嫌いだったら、こうして彼の腕の中で泣くことなんてできない。自分で思っているよりも私は、彼に心を許しているようだった。
「よかった。それで、十分だよ。きみが他の何を拒絶しても、ぼくを嫌いじゃないと思ってくれるなら、それでいいよ」
 ツルギはそう言って笑うと、そっと私の目尻にくちづけた。「ゆらぎ」を労るようなその行動に、余計に涙が溢れてくる。
 ごめん、ごめんね、ゆらぎじゃなくてごめん。
「ごめん、嫌だったかな。大切なひとにそうするって、本で読んだから」
 ツルギは慌てたように私の顔を覗き込んだ。ぽろぽろと涙を流しながら首を横に振って、再び彼の肩に頭を預ける。
「嫌じゃないから……私が泣き止むまでこうしていて」
「もちろん。いつまででもこうしてるよ」
 ツルギもまた、私の頭に自らの頭をすり寄せるようにいっそう距離を縮めた。作られた温もりに、こんなに安堵してしまっている私はどうかしている。
 ……ずっと、このままでいいのにな。
 ゆらぎがいない現実も、不安定な心とも向き合わずに、ツルギとこうして穏やかに暮らしていられたら。そうしたら、どれだけ安らかに生きられるだろう。
 きっと正しくはないその選択が、ふたりきりの部屋の中では、どうにも輝いて見えて仕方がなかった。