――――あれはいつの頃だったか。熱を出した私をお兄ちゃんが必死に看病してくれた。出来損ないの私たちに出してもらえる薬などなくて、布を水で濡らして額に乗せるくらいしかできなかったけど、それでもお兄ちゃんの優しさのお陰で私は生きてこられた。
「……お兄ちゃん」
朧気な瞳を開ければ、そこに目に入ったのは布面の鬼・白鬼さんだった。見慣れぬ部屋、ふかふかのお布団、質感のいい浴衣。今までとは何もかもが違うことに私は青霧家に嫁いだのだと再認識する。
「……っ、白鬼さん……?」
私がそう漏らせば、白鬼さんがすっくと立ち上がり退室してしまう。
「牡丹ちゃん、目を覚ましたのね」
すると入れ替わりに現れた女性は布面を付けているが分かる。彼女は柘榴さんだ。
「私は……」
「3日三晩寝込んでいたのよ」
「3日……も?」
それは嫁入りした身としては盛大な失態なのでは……!?
「ごめんなさ……っ」
慌てて起き上がろうとすればまだくらくらする。
「まだ安静にしていて。ろくに食べてもいないのだから、まずは食べやすいものを用意するわ」
「……はい」
しかしそれを待たずに再び白鬼さんが部屋を訪れる。
「あら、白鬼。もう持ってきてくれたの?」
白鬼は小鉢を柘榴さんに手渡せば無言で何処かへ行ってしまう。
「ごめんなさいね。無口だけどいいこなのよ」
「……いえ、その……彼は鬼、ですか?」
「ええ。驚いたでしょう?棕櫚さまが最近ふらりと連れてきたのよ」
「最近……」
「あの方は時折【眷属】を迎えられたり、ふらりと拾い物をしてきたりね。それが棕櫚さまだから」
異能者の中には【異形】と呼ばれる代物を【式】として従属させられるものがいる。しかし【眷属】と言う表現はそれに当てはまるのかどうか微妙なところである。
棕櫚さまは青霧家ではどういう立ち位置なのだろう。
「今はちょっとごたついてるけど、落ち着いたら青霧の家のことも棕櫚さまが自らお話しされると思うわ」
「……はい」
しかしごたついているとは……一体……?
「それにまずはしっかり食べないと」
柘榴さんがゆっくりと身体を起こしてくれて、小鉢を持たせてくれる。中は果物のすりおろしのようだ。
「どう?」
「……おいしい、です」
「そう。良かったわ。また持ってくるから、しっかり休んでいてね。あとお手洗いに行きたくなった時は廊下に出て左の突き当たり。ひとりで行けそうじゃなければ呼んでね」
柘榴さんが持たせてくれたのは掌に収まる大きさの鐘である。これを鳴らせばいいのか。
「それと……これを」
柘榴さんが差し出したのは彼女たちと同じ布面だった。
「これは……?」
「もしもの時のために。部屋から出るときは必ずこの布面を着けてね」
「どうして……」
「決まりなのよ。この家の掟。それから夜はお手洗い以外の場所には出ては行けないわ」
「……?」
「それが牡丹ちゃんを守ることになる。これは青霧の掟なの」
異能を受け継ぐ家には独自の掟があるものだ。暮無なら月に一度異能者が複数集まり、暮無の家、宮中、そして都に広域結界を作る。必ず果たさなくてはならないお役目として掟になっている。その目的は帝や都を守るため。
「布面を着けるのもあと少しの辛抱だから、許してちょうだいね」
「は……はい」
しかし青霧の布面を着けなくてはならない掟とは一体……?花嫁の失踪にも関係しているのだろうか。今までの暮らしから考えれば穏やかすぎる静かな時間。初めての場所のはずなのに実家よりも安全だと思えるのは何故だろう。
優しいひとたちに見守られながら少しずつ栄養を取り、身体を休める。
――――そうしていれば……夜が来た。
暮無の家にいた頃よりは食事を取っている方だと思う。最初柘榴さんに付き添われたお手洗いも少しはひとりで行けるようになった。
布面を着けなくてはならないのだけはどうしてか不便だが、布面を着けていても周囲が透けたように見えるのは不思議である。
夜、柘榴さんたちをわざわざ起こすのもどうかと思われて、恐る恐る夜の廊下に出る。お手洗いの方向には灯りが灯されているから分かる。
ひたり、ひたりと裸足でゆっくりと歩み始めた時。
「……?」
ウオオオォォ……
グオオオォォ……
何か底知れない地鳴りのような声が響いてくる。お手洗いとは反対の方向だ。都には結界がある。内部に異形が紛れ込むなど、式などでない限りはあり得ないはずだが。
ゆっくりと来た道を戻り、反対側の廊下へ向かう。
――――その時だった。
「……っ」
途端に目の前を塞がれる。夜の暗がりだと言うのにはっきりと見えるのは彼が異形側だからだろうか。
「白鬼さん」
「お手洗いは反対だ」
淡々と告げられる声。しかしどことなく懐かしさを覚える声についつい言葉が次いで出る。
「……けど、声が」
「何があろうとも、聞こえようとも、夜は外に出てはならない」
「どう言うこと……?」
「それが青霧に嫁ぐ花嫁の義務」
「失踪の噂に関係してるってこと……?」
「……お前は、お前だけは……」
「白鬼さん……?」
「……部屋に戻れ。門には来てはならない」
白鬼さんの言葉には重々しい何かがある。それに門とは……?屋敷の正門のような意味ではないように思える。それが青霧が抱える何か。正体は分からない。しかし先程の祈るような言葉に、どうしてか逆らうことなど出来なかった。

