――――ここはどこだろう。大きな門がある。しかしこんな場所に来たのは初めてだ。
「牡丹」
呼ぶはずのない声が私を呼ぶ。
「……お兄ちゃん?」
これは夢だろうか。それとも、お兄ちゃんも私を怨んでいるの?私さえいなければお兄ちゃんは私を庇って鈴蘭の逆鱗に触れ死ぬこともなかったのだ。
「そうだよ」
聞きたくなかった言葉が放たれる。
「牡丹のせいでお兄ちゃんは死んだんだ」
「……っ」
やっぱり、私さえいなければ。
「牡丹、どうして殺した?」
「……っ」
止めていれば良かった。お兄ちゃんの優しさに甘えずに嫌われてでも私を庇おうなんてさせなければ良かった。
「牡丹……」
お兄ちゃんの手が伸びてくる。
そうだね……お兄ちゃんにはそうする権利がある。
「牡丹……お前が代わりに死ねば良かったのに」
――――いや。
「違う」
「……っ」
私の首に向かって伸びたお兄ちゃんの手が止まる。
「お兄ちゃんはそんなこと、言わない」
「……」
その瞬間、お兄ちゃんの幻影が消え失せる。ガタンと乱暴に揺れる音に自分が馬車の中で気を失っていたことに気が付く。
嫁入りとは到底思えぬ薄衣。こんな姿で嫁ぐだなんて……。
嫁ぎ先は【異能殺し】の一門。聞いたことはある。しかしどうして彼らがそう呼ばれるのか分からない。
どのくらい馬車に揺られていただろうか。暫くすれば馬車が停まり扉が開けば、ひとりで降りろと御者が舌打ちをする。
身体がふらつく。和臣の異能で水を浴びたせいか、まともに栄養も取れない生活のせいか。
グキッ
嫌な音がした。
「キャアッ!?」
まずい、落ちる!
そう、恐怖した時だった。
訪れた衝撃は思っていたものとは違う。
「……? 」
見上げた先にいたのは布面の男だ。焦がれ色の髪を持ち、些か着物を気崩した男。そして視界の端にチラリと見えたのは刀の柄だ。
「怪我はないか」
「……は、はい」
優しい声だ。しかし何故布面を付けているのだろう?
彼に支えられながらゆっくりと身を起こす。少しふらふらするが、立っていられないわけではない。
「さて……我ら青霧は帝の命に従い花嫁を迎えた」
青霧……それが異能殺しの家の名だ。
「役立たずはとっとと帰るといい」
彼が顔を向けたのは先程舌打ちをした御者だ。
「や、役立たずだと!?私は鈴蘭さまの命を受けた誉れ高き……っ」
そんなもののどこが誉れため高いのだ。
「はあ?馬車の乗り降りも補佐できぬ御者だからだろう」
「何だと!?貴様もどうせ使用人だろう!」
確かに彼の口調は貴族らしからぬものだが、それでは何だか腑に落ちない気品がある。
「そんじょそこらの使用人と鈴蘭さまの命を受けた私を一緒にするな!」
鈴蘭の命を受けたことの何がそこまで彼を強気にさせるのか。それだけの魅力があるのか。しかし私には理解できない。
「使用人……?俺が?ククッ」
「何がおかしい!」
「愉快だな」
彼がそう告げた瞬間、彼の背後に布面を付けた集団が並んでいることに気が付く。
その中にひとり角を持つ白髪の青年を見る。鬼……?
「な、何なんだお前らは!」
しかし御者の声に視線を元に戻す。
「我らは異能殺しと呼ばれし青霧家。異能も持たぬただびとならば、そう苦労はしない」
彼が刀を抜く。そうか、ただでさえ異能を持つものたちは強力だ。そんな彼らを『殺す』異能を持つものたち。ただびとならばわけないと言うことだ。
「ひいっ!?」
刀を前に御者が後ずさる。それともこの布面集団の独特の迫力ゆえだろうか。
「出ていくがいい。貴様に青霧の敷居を跨ぐ資格はない」
彼がそう告げれば、御者は脅えたように馬車を操り逃げていく。
「……さて、こちらへ」
彼が手を差し出す。
「……はい」
少しふらつくが、彼が手を引いてくれるからそこまでではない。そして歩いていればふと白い鬼がこちらを向いていることに気が付く。どうしたのだろう?何か失礼なことを……いや、違う。どこか懐かしい温かみを感じた気がしたのだ。どう言うことなのだろうか……?
「では花嫁を」
「はい。棕櫚さま。早速結納のご準備を」
彼は棕櫚さまと言うのか。そして答えた布面の人物は小柄で、声からも女性だと分かる。
しかし……いきなり結納……?青霧の家は私なんかでいいと言うこと?それか花嫁の相次ぐ失踪と関係しているのだろうか。
――――だが拒む権利も力も私にはない。
「私は柘榴と申します。早速ご案内いたします」
「は……はい、柘榴さま」
「私に『さま』は不要ですよ。しがない青霧の異能殺しですので」
しがないって……異能殺しな時点ですごい能力を持ってそうなのだが。
「……ざ、柘榴さん?」
「ええ、花嫁さま」
「……ぼ……牡丹で、いいです」
『花嫁さま』と呼ばれることが少しだけ恥ずかしくて。自分がそう呼ばれるのに相応しくないと感じているからか。しかし……彼女も私なんかの名を呼ぶのは嫌だろうか。
「牡丹ちゃん。かわいい名前だわ」
「……っ!?」
名前で褒められたことは初めてだった。
初めて呼ばれる響き。『かわいい』だなんて言われるだなんて思ってもみなくて答える言葉を忘れてしまう。
――――やがて脱衣場に辿り着く。
「それでは禊を」
みそ……ぎ?湯浴みなら分かるが結納の儀の前に禊とは、結納とは違う神がかった儀式のようなものを感じ取る。
柘榴さんは決して強要する素振りは見せず、私が衣の帯をほどけば優しく手伝ってくれるようだ。
そして禊用の薄手の衣を纏う。さらに彼女の導くままに訪れたのはまさに神聖な禊の場と言う雰囲気の泉である。
――――しかし、どうすればいいのだろうか。
戸惑っていれば柘榴さんが示してくれる。
「泉の中にお入りください。肩まで浸かる必要はありません。あくまで儀礼的なものですから、簡単に腕や上半身に水を浴びればそれで終わりです」
そう言うものなのか。
ゆっくりと水面に爪先を浸たす。水面に脚が呑み込まれていくのと同時に蘇るのは、あの時の和臣の……っ。そう自覚した瞬間、身体の均衡を崩しつるりと足の裏が滑る。
「きゃっ!!?」
全身が水に浸り、髪に水が染み込み、衣が重くなる。それほど深い泉でもないのに、身動きが取れず沈んでいく。
どうしよう……ここでもまた私は無力だ。
「牡丹ちゃん!」
その時力強い柘榴さんの声が響く。
「誰か!来て!」
彼女が叫べば複数の女性たちの声が響く。
気が付けば何人もの腕で身体を引っ張りあげられていた。
「けほっ、こほっ」
「大丈夫!?」
ここまで案内してくれた柘榴さんの声と共に耳に入ったのはとても美しい女性の素顔だった。
「アンタ、大丈夫?」
「禊はもうこれでいいから、早く身体を拭かないと」
「替えの衣も用意して!」
複数の女性たち。みな布面を上げている。
ふわふわの布でびしょびしょになった髪や身体を拭かれれば、肌ざわりのいい長襦袢を着せられる。
「身体を冷やさないように、厚手の着物を」
「けど結納の儀は?棕櫚さまは」
「棕櫚さまなんだから、そんな細かいこと言わないわよ。あくまで大事なのは儀礼的な段取りよ」
棕櫚さまはやはり青霧の偉い方のなのだろうか。
厚手の着物を着せられて、通されたのは静寂に包まれた神秘的な和室である。そこには向かい合った座布団と、御神酒と思われるものが用意してある。
「こちらへ」
再び布面を下ろした柘榴さんが示す座布団に腰かければ上から白い被きのようなものを被せられる。白無垢……に似ている。これは結納の儀だからなのだろう。
「棕櫚さまが参られます」
柘榴さんが告げれば、襖を開き先程の棕櫚さまが白鬼さまを従えながら入ってきて私の目の前に腰掛ける。え……っ。私の夫となるのは……棕櫚さまなの!?
「帝から告げられた急な嫁入りだ。男鰥だとか独り身の同胞はいるが、歳の近いものは限られている。許せ」
それはその……鈴蘭が強引に設えた嫁入りに対応できるのが棕櫚さましかいなかったと言うことか。
帝から命じられれば受け入れるしかない。それでも歳の離れた相手ではなく少しでも歳の近いであろう棕櫚さまが引き受けてくれたのか。とは言え私は18歳、彼は20代だろう。
「盃は唇に触れるだけでいい」
棕櫚さまが盃を私に差し出す。まだ18歳の私のことを気遣ってくれているのか。溺れかけた私を助けてくれた柘榴さんたち、御者から庇ってくれた棕櫚さま。異能者には異能殺しと呼ばれ恐れられていても、彼らは私が出会ってきたひとたちの中でお兄ちゃん以外で初めて優しくしてくれた。
「……」
そっと盃を唇に当て、下ろせば。
「それでいい」
手を差し出してきた棕櫚さまに盃を返す。
そっと布面の下をまくり、棕櫚さまが盃の中を飲み干した。口元しか見えないが、その口元はどこか妖艶で神秘的だと感じた。
「これでいい。儀式は成った。我らは夫婦となった。牡丹」
私の……名前。呼んでもらえるだなんて思っても見なかった。そして彼と夫婦になった。未だ素顔も分からない彼と夫婦になったなどと、まるで実感が湧かない。本当に『夫婦』と言うものになったのかすら……分からない。
「柘榴、彼女を部屋へ」
「承知いたしました」
柘榴さんが差し出す手を取り、歩き出そうとした時。不意に身体が傾く。猛烈な目眩と身体を沸騰させるような熱に抗えない。
しかしそんな私の身体を支えてくれた腕には既視感がある。
「花嫁さま!」
「おい、大丈夫か!すごい熱だ」
ひんやり冷たいと棕櫚さまの手が額に当てられる。
「先程禊の際に足を滑らせて全身で水を被ったのです。まさかそれで……」
「いや……根本的なものはその前からかもしれない。彼女はずっと青い顔をしていた。部屋までは俺が運ぶ」
「しかし……が近いのでは」
「少しなら構わん」
段々と耳に届く会話が朧気になっていく。だが確かなのは棕櫚さまの腕に抱かれる感覚にひどい安堵を抱いたと言うことだ。

