――――何よりも大切なひとを喪って、今の私には絶望しかない。
パシンと鈍い痛みが頬を走る。
「牡丹、あんたのせいで璃寒は死んだのよ」
何日も顔すら合わせていなかった暮無当主夫人が鬼のような顔で現れたと思えば、いつものごとく訪れるのは一方的な罵倒だ。
「私の璃寒を返してよ!」
誰があなたの璃寒だろう。私もお兄ちゃんもあなたを母親と呼んだことはない。
「この疫病神!」
バチンと痺れるような痛みに倒れ込む。床に倒れたまま暫く動けない。目に映るのは大きな鞄を携え出ていくその姿。お兄ちゃんのいないこの家にいる意味はないと言うのか。他所から嫁いだあのひとにはこの家に縛られる理由など無いのだ。
「あら、誰が寝ていいと言ったの」
そしてまた、悪夢が訪れた。
「とっとと立ちなさい。お前に休憩をやった覚えはないのよ」
まだ痺れから回復しきらない身体を無理矢理起こせば、そこには誰がどう見ても至高の美女と褒める着飾った鈴蘭の姿がある。そして暫くして彼女が出迎えたのは色素の薄い髪と瞳の美青年水守和臣だ。
「和臣、待っていたわ」
「ああ、鈴蘭。君はこんなにも美しい」
私と許嫁になった時には会いにすら来なかったと言うのに、鈴蘭が来た途端会いに来るようになった。彼も鈴蘭が目当てなのだ。
「あら、あなたまだここにいたの?」
ここにいるよう強要したのは鈴蘭だ。
「ふん、いつまでも許嫁の気分でいる気か?いい加減目ざわりだ」
鈴蘭の嘲笑に続いて和臣がそう吐き捨てる。所詮は家同士が決めた許嫁。私はあなたと許嫁であったことなどない。
「これでもくらうがいい!」
和臣が私に手を向けたと思えば、激しい鉄砲水が放たれる。
「きゃっ」
水守の異能は水を操ること。水で攻撃するなんて簡単なことだ。結界の異能があれば防げるだろうが私の弱い異能ではさらに強力な技で淘汰されるだけ。
「あっはははっ。無様ね」
私は鈴蘭に命じられ嘲笑を向けられるためにここで待たされている。悔しい……言い返したい……けど脳裏をよぎるのはお兄ちゃんの骸。ここで耐えなければ、私も負けてしまう。殺されてしまう。私には力がないから。
「それにいい報せがあるのよ。和臣さま」
「それは何だ?鈴蘭」
「私も17歳になったでしょう?だからお父さまにお願いして許嫁を用意してもらったの。もちろんそれは……和臣さま」
その父親とはどっちの父親だ。一度決めた家同士の許嫁をあっさりと替えるなんてそんなことができるのなら選択肢は大いに傾くだろう。
「和臣さまも私と結婚してこの暮無の当主になれるのですわ」
和臣は次男だ。この家にはかつて長男がいたから和臣はどちらの家も継げず、私と結婚したら分家の当主になるはずだった。けれどそうまでしても結界の異能は重宝すべきものだった。だから許嫁の契約が結ばれた。だが本家を継げない和臣は内心面白くなかったのは明白だ。
「だがそれなら結界の異能は……」
「そんなもの、分家にもいくらでもいるわ」
「ははは、それもそうだ」
分家に下らなくて済むことになった和臣はあっけらかんと笑う。何て醜悪な。暮無の血も引かないものが暮無を乗っ取っていく。
「そうだ!それにこれからは宮中の宴にも一緒に行けるのよ。すてきでしょう?」
「だが今までは身体が弱く……」
そんなものは嘘だ。そうまでして彼女は何故か宴のような場には赴かなかった。
「もう大分丈夫になりましたもの。成人までに社交に慣れよと言うお父さまからの方針ですの」
そんなにそっちのお父さまが大事なのならとっととこの家を出ていけばいいのに。何故そうまでしてうちに寄生するの?
「さて……私たちの未来は順風満帆よ。でも……それだとやっぱり邪魔よね」
鈴蘭の凍てつく視線が私を穿つ。
「そうだ!お前などいけすかない双子の兄と死ねば良かったんだ」
何……っ。何てことをっ。この男は次男で水守の家督を継げなかったこと、うちに長男がいたことで家督を継げなかった怨みをお兄ちゃんにまで向けるのだ。
「そうねえ……それも良かったかも」
まるで何でも自分の思いどおりにいくかのような言い草だ。
「けど……ただ殺すのじゃ生ぬるいわ」
「わ……私が一体あなたに何をしたの?」
「許可もなく私に口を利くなんて生意気よ。でも冥土の土産に特別に教えてあげるわ」
鈴蘭が私をキッと睨む。
「ムカつくのよ」
「は……?」
「私がたいして広くもないどこにでもあるような貴族の屋敷でこんな惨めな思いをしてる」
庶民の家からしたら充分広い。貴族の中でもそれほど大きくないのは屋敷にもしものことがあった時に異能で結界を張るためだ。大きすぎてはそれだけ力を使うから。
それに女帝のように振る舞っておいて、惨めってなんなの?
「その上璃寒は私に見向きもせずお前ばかりを見る。いつもいつもお前ばかり、ムカつくのよ」
「……私たちは双子の兄妹なのに」
「うるさいうるさい!私のものになるはずだったのに、お前が邪魔をしたのよ!」
私たち兄妹がいつも支え合って生きてきただけだ。鈴蘭はそれを羨んでいたとでも言うの?
「だからお前には『異能殺し』に嫁いでもらうわ」
「異能……殺し?」
「そうよ。さらに異能殺しに嫁いだ花嫁は全員失踪しているそうなの。失踪だなんて言葉をぼかしても、分かるわよねえ」
最悪の結末が脳裏をよぎる。
「そんな異能殺しの家であなたはどんな悲劇的な最期を迎えるのかしら。とても楽しみで仕方がないわ!」
鈴蘭がケラケラと笑う。
「そうだ。鈴蘭を苦しめた牡丹には普通の死など生ぬるい!」
和臣がせせら笑う。……何も知らないくせに。ただ鈴蘭の狂言に踊らされているだけのくせに。
「愚かな兄と共に朽ち果てろ」
私のことはいい。ただ生き延びるために耐えるだけだ。でも、お兄ちゃんのことまで……っ。
「お兄ちゃんを、悪く言わないで!」
「黙れ!」
和臣の放つ水流が竜のように襲い掛かる。
「ごぼっ」
苦しい……苦しい……私はここで死ぬの……?
お兄ちゃん……お兄ちゃん。
ごめんね……敵、打てなくて。私じゃ……何もできない。
やがて水竜から投げ出され、床に倒れ伏す。
「げほっ、ごほっ」
咳き込む私の前でクスクスと下品な笑いが鳴り止まない。
「ここで息の根を止めたら面白くない」
「分かってるじゃない、和臣さま。さて、嫁入りの迎えが来るまでに身体くらい拭いておいてよね」
「できるもんならな!はははっ!」
こうしたのは、あなたたちのはずなのに。悔しい……悔しい……こんなにも私は無力だ。

