最愛は誰だ

 日がてっぺんから少し傾いた頃。
 女学院の授業を全て終えた鴇は病院に来ていた。
 病室の前で深呼吸をし、遠慮がちに声をかける。

「月宮様。鴇です。入ってもよろしいでしょうか?」

 間を置いて、少しかすれた低い声が返ってくる。

「あぁ。入ってくれ」
「失礼いたします」

 扉を開けると、窓際の寝台に樹が半身を起こしていた。
 鴇は静かに会釈し、入室する。
 寝台に近づき、鴇は深々と頭を下げた。

「昨夜はお見苦しい所をお見せして申し訳ありません」
「気にするな。ほら、座って」
「ありがとうございます」

 鴇は体勢を戻し、促されるまま椅子に腰を下ろす。
 夕焼けに照らされた黒髪は、昨日よりも艶が戻っている。
 樹の顔色もよく、鴇は胸を撫で下ろした。

(よかった。順調に回復しているのね)

 鴇は気恥ずかしさから樹の大きな手へ視線を落とす。
 腕から手にかけて巻かれた包帯の白が痛々しい。

(大怪我したけど、ちゃんと生きて帰ってきてくれた)

 その節くれ立った手を握ろうとして、鴇は我に返った。
 伸ばしかけた手を素早く引っ込める。

(だめよ、樹様はなにも覚えてないの)

 手を伸ばせば届く距離にいるというのに、大きな溝があるように感じてしまう。
 鴇はそっと目を伏せる。
 憂いに満ちたその様子を浅葱色の瞳が観察するように見つめていることに、鴇が気がつくことはなかった。

「鴇殿」
「どうされましたか?」
「このロケットを知らないだろうか」

 樹が首元から銀のロケットペンダントを取り出し、それを外す。
 彼の大きな手のひらに乗ったそれは、鴇の目の前に差し出された。
 途端に、甘い匂いがふわりと漂った。
 柔らかなバニラ香りは、樹からもらった香水と同じだ。
 鴇は懐かしさに目を細める。

「貴女から、これと同じ香りがするんだ」

 その言葉に、鴇の胸は跳ねた。
 今も鴇の手首からはほのかに同じ香りが漂っている。

「大切な何かを忘れている気がしているんだが、思い出せない。それ以外はちゃんと覚えているのに」

 樹の声はわずかに震えていた。
 彼は精悍(せいかん)な顔に眉を寄せ、記憶の奥底を探るように額を押さえる。

「昨夜のこともそうだ。何かに駆られるようにあの場に行った。そこにいたのは、万葉殿ではなく、貴女だった」

 浅葱色の瞳に疑問が宿っている。
 一部の記憶だけ抜け落ちていると語る樹は、悲痛さも相まって弱々しい。

(すぐにでも名乗り出て、抱きしめてさしあげたい)

 しかし、記憶が戻らないままそのような事はできないと鴇は自身を律する。
 真っ直ぐに見つめてくる樹が、鴇の手を取った。
 樹は決意を込めた眼差しで鴇を見据える。

「……不思議だな。戦場でのことも、部下の名も、全部覚えている。なのに、君や君の周りのことだけが霞がかかって、どうしても思い出せないんだ」
「っ」
「そもそも万葉殿が許嫁であったとしても、姉妹である鴇殿の記憶がないのはありえない。何か、戦場であやかしの異能を喰らったのやも……」

 その声は悔しさに溢れていた。
 樹は後悔と不甲斐なさとがごちゃ混ぜになったような、そんな顔をしている。

「無理になさらないでください。思い出していただかなくても……こうしてご無事で戻ってくださっただけで、十分です」

 鴇は喉の奥にこみあげる何かを抑えるために無理矢理笑みを作った。
 ここで涙を流してはいけない。

「……本当は君が、鴇殿が、俺の大切な――ぐっ!」

 その言葉は最後まで紡がれることはなかった。
 樹は額を押さえ、呻き声をあげる。
 痛みに耐えるためか、痛いぐらいに鴇の手を握りしめられる。
 大粒の汗が額に滲む樹の姿は、まるで刃物で頭を裂かれているようだ。

「樹様!」

 鴇は慌てて立ち上がり、樹の手に自分のそれを重ねる。
 勢いよく立ち上がったため、丸椅子が軽い音を立てて床へと転がった。

「大丈夫ですか……?」

 荒い呼吸の合間に、彼は必死に言葉を絞り出す。

「すまない、今、俺は何の話をしていただろうか?」
「……へ?」

 困惑が二人を包む。
 数秒前の言葉を忘れてしまうほど、樹の記憶力は悪くないはずだ。

(まさか、本当に異能を受けて……?)

 背筋に氷を当てられたような気味の悪さが這い上がってくる。
 なぜと考える間もなく、ノック音が病室に響いた。
 鴇は慌てて彼の手を離し、椅子を起こす。寝台から少し距離を置いて座ると、少し悲しげに眉を下げられたが、迂闊なことはできない。

「葛の葉弥生と申します。月宮樹様の病室でお間違えないでしょうか」
「あぁ。入ってくれ」
「失礼いたします。……まぁ、鴇も来ていたの」
「う、うん」

 紫色の目をぱちくりさせた弥生が入室する。
 普段よりも華美な装いの彼女に、鴇はなぜか嫌な予感に苛まれてしまう。
 それを裏付けるように、弥生は鴇には興味なさげに少し目を向け、すぐに樹へと視線を移した。
 樹の傍に近づいた弥生の栗色の髪が揺れるとバニラの甘い香りが漂う。
 その香りは鴇のものととても酷似していた。
 弥生はわざとらしく寝台の前にへたり込むと、樹の手を握る。

「樹様……! ご無事でよかった……! 私、心配で心配でっ」

 震える声で言ったかと思うと、弥生の目からは大粒の涙が零れた。
 困惑する樹と鴇をよそに、弥生は口を開く。

「本当によかった……。これで私達の祝言をあげられますね」
「どういうことだ」
「まさか……私との約束も忘れてしまったの……?」
「……」
「帰ってきたら結婚をすると誓ったではありませんか」
「は?」

 樹から低い声が漏れる。
 聞いたことのないその声色に、鴇は思わず身を竦めてしまった。

(樹様、怒って……?)

 そっと樹へと視線を向ける。
 浅葱色の瞳は冷え切っており、一切の温度を感じさせずに弥生を見下ろしていた。
 心まで干上がってしまうような視線に晒されているというのに、弥生は気がついていないようだ。

「……確かに今の俺には貴女に関する記憶はない。だが家に帰れば全て分かることだ。すでに帰宅の手筈も整ってある」
「!」
「それまで大人しくしていてくれるか?」
「もちろんですわ」

 美しい笑みを浮かべた弥生が立ち上がる。

「樹様の負担になってはいけないですし、私はこれでお暇させていただきますね。ほら、鴇も帰りましょう?」
「え」
「ほら、立って」

 弥生は何事もなかったかのように鴇を立ち上がらせる。
 それはまるで、先ほどのやり取りが幻だったかのようだ。
 強引に病室から連れ出され、病院から少し離れた川辺で組んでいた腕を放される。
 すでに日が傾いており、夕焼けが水面を照らしていた。

「えっと、弥生? さっきのは……」
「はぁ? まだわからないの?」
「分からないわ。弥生は何がしたいの?」
「無能のあんたに樹様は不釣り合いなのよ。だから、記憶がないうちに許嫁になるつもり」
「どうして……? 私達、親友でしょう……?」
「親友だって思ってたのはあんただけよ。私は樹様に近づきたかっただけ」
「そんな……」

 鴇が唇を噛み締める。
 女学院で唯一鴇に優しくしてくれた弥生との思い出が、がらがらと崩れ落ちていくようだ。
 紫色の目がつり上げられ、弥生の唇が勝ち誇ったように弧を描いた。

「これで樹様は私のものよ。あぁ、あんたの妹も妊娠したって言ってるんだっけ。ならその計画も邪魔しないとね」
「何を……きゃあ!?」

 勢いよく突き飛ばされ、鴇はお腹を庇うように尻餅をついてしまう。
 ばちゃんと派手な音がたち、水しぶきが飛んだ。
 肌を刺すような冷たさが、着物から伝わってくる。
 鴇は慌てて立ち上がろうとするも、なぜか体が動かない。
 どれだけ足裏に力を込めようと体は言うことを聞かなかった。
 この現象に、鴇は覚えがある。鴇は持たないが、女学院の授業でやったことがあった。
 足先が氷に包まれたと錯覚するほど、感覚を失いつつある。
 体の芯まで凍り付くような寒さに、鴇の体が小刻みに震え出した。
 鴇の顔から血の気が引いていく。

「弥生、やめて……。異能を解いて……お願いだから……」
「なら約束してちょうだい。もう二度と、樹様に近づかないって」
「っ、わか――」
「何をしている!?」

 鋭い声が降ってくる。
 声の聞こえた方へと顔を向けると、そこには焦燥に駆られたような樹が川辺を降りてくる最中だった。
 病院から抜け出してきたのだろう。樹の出で立ちは簡易な入院服のままだ。
 ふと体が軽くなり、ようやく鴇は立ち上がることができた。
 川から抜け出した鴇に、弥生が寄り添う。
 心配そうな顔を作った彼女が、そっと鴇の耳元へ唇を寄せた。

「約束、破らないでちょうだいね」
「っ」
「鴇殿、大丈夫か?」
「大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。では私はこれで……」
「そんな青い顔で大丈夫だと言う奴があるか。嫌かもしれないが我慢してくれ」
「ひゃっ!? お、おろしてください!」
「駄目だ」

 軽々と抱き上げられ、鴇の心臓が跳ね回る。
 同時に、弥生から非難の視線が刺さった。
 樹との突然の触れ合いに嬉しいやら、怖いやらで感情がぐちゃぐちゃだ。

「樹様、車を回して参りますので……」
「いや。いい。俺が送る」
「……そんな優しい樹様だから、私……お慕いしていますわ」
「そうか。ではな。葛の葉殿」
「はい。また」

 鴇が遠ざかる弥生へと目を向けると忌々しげな視線とかち合った。
 頭の芯から冷え切るような瞳に、鴇は思わず視線を逸らしてしまう。

「……先ほど腹を守っていたように見えたが、鴇殿はもしや……」
「月宮様、その……私は……」
「いや、これは野暮だな。忘れてくれ」

 申し訳ないと眉を下げた樹は、屋敷へと向かう途中で大きな西洋手拭(タオル)を購入してくれた。
 鴇は腰より下が濡れてしまった着物を絞ってから、渡されたそれで水滴の滴る足を拭く。
 水分がすべて取れると、温かな毛布(ケット)で包まれ、また抱き上げられた。

「あ、歩けますから……!」
「駄目だ」

 すぐに却下され、樹は屋敷へと歩みを進める。
 先ほどまでは凍ってしまいそうなほどだったというのに、今は体が沸騰しそうなほど熱い。
 樹の体に触れないよう背筋をのばしていると、不満げな声が降ってきた。

「……ちゃんと体を預けてくれ」
「っ、は、はい」

 鴇はごくりと息を呑んで、おずおずと樹の胸へ頭を預けた。
 とくとくと樹の鼓動が聞こえる。
 鴇は懐かしい温度に、肩の力が抜けた。

(なんだか、とっても眠いわ)

 絶妙な揺れと温かさに鴇の意識はまどろんでいった。