最愛は誰だ

 夕餉の残り物を食した鴇は煎餅布団に潜り込んだ。
 ぎゅっと体を丸めると、少しだけ気持ちが落ち着く気がした。
 お腹に手を当て、お腹の子へ話しかける。

「絶対あなたは万葉になんて渡さないわ。あなたを産むときは……家出するしか……」

 まだ婚姻を結んでいないため、樹の生家は頼ることができない。
 樹が記憶喪失なのであればなおさらだ。
 もし記憶が戻らないのだとしたら、責任感の強い樹は万葉と婚姻するだろう。
 最愛の人を奪われたとしても、樹との思い出の結晶であるお腹の子だけは、諦めることはできない。

「……誰か手を貸してくれるといいのだけれど」

 鴇は口が硬く、信頼できる友人を思い出す。

「明日、弥生に相談してみましょう」

 そう決めると少しだけ肩の荷が下りた気がした。
 しかし、頭が冴えてしまったのか、何度も寝返りを打つも、眠気は一向にやってこない。
 どうしてもそわそわしてしまう。
 その理由は明白だ。

(……戦から帰ってきたら、いつもの場所で会おうって約束してたけれど……)

 鴇は布団から起き上がり、箪笥の引き出しを開ける。
 箪笥はすでに空っぽだが、引き出しの奥には隠し収納がついている。
 そこに隠していた香水が無事だったことに鴇はひどく安堵した。
 着物は奪われてしまったが、樹からもらった香水だけはまだ残っていた。
 手首に振りかけると、爽やかなベルガモットのいい匂いが漂う。
 次第に落ち着いてくると落ち着いたバニラのような香りに変わるそれは、樹からもらった物だ。
 しっかりと香水を隠した鴇は着古した羽織を肩にかけ、屋敷を抜け出した。


 鴇は大木を見上げ、白い息を吐く。
 まだ寒さの残る季節のため、葉は一つも生えていない。
 樹と毎晩のようにこの場で逢瀬を重ねていた。
 ほんの数ヶ月前だというのに、懐かしさがこみ上げてくる。
 胸の中につっかえた思いが、じわじわと鴇の視界を滲ませた。
 鴇は溢れた液体が地面を濡らすのも厭わない。
 頬を伝う涙ごと思い出がなくなれば、楽になれるだろうか。

「っ、樹様を忘れるなんて、そんなこと、できないのに……」

 声を絞り出し、到底のみ込むことのできない喪失感を吐き出した。
 鼻をぐずぐずと鳴らしていると、がさりと背後から音がした。
 驚きのまま鴇は振り返り、固まってしまう。

「す、すまない! 驚かす気はなくて……」

 入院しているはずの樹が、慌てたように言い訳を口にする。
 しかし、問題はそこではない。
 鴇は涙を拭くのも忘れ、樹に問いかける。

「い、今の、聞きました……?」
「いや? ……その……あなたの傍に行ってもいいだろうか?」
「え?」

 樹から遠慮がちに紡がれた言葉に、鴇は首を傾げた。
 彼に鴇との記憶はないはずだ。
 万葉が樹の子を身ごもっていると告げているのだから、鴇に構う必要もない。
 不審そうな視線に気がついたのか、樹は気まずそうに眉を下げた。

「なぜかここに来なければならない気がして寝られなかったんだ」

 それは間違いなく、戦の前に交わした約束だった。
 止まりかけていた涙がまた溢れる。
 同時に体から力の抜け、地面にへたり込んでしまう。
 ぎょっと驚いた樹は焦った様子で、鴇の傍に駆けてきた。
 遠慮がちに肩に触れられ、鴇はますます嗚咽を漏らす。
 安心させるように背中を撫でられてしまうと、もうだめだった。
 壊れた蛇口のように涙が溢れてしまう。
 樹はなにも言わず、ただ、鴇の涙が止まるまで傍にいてくれた。