「すまない。君は、誰だろうか」

 真っ白な病室に耳心地の良い低音が響いた。
 申し訳なさそうな浅葱色の瞳に、少女の喉から嫌な音が漏れる。
 許嫁であるはずの彼――月宮(つきみや)(いつき)の問いに答えられず、少女は胸の前でぎゅっと両手を握りしめた。
 どうして、なぜと、疑問が胸の中を渦巻く。
 頭では答えなければならないと分かっていても、心が拒否をしているようだ。
 少女のただならぬ様子に、樹が困惑したように首を傾げる。
 揺れた黒髪には艶がなく、少し軋んでいるように見えた。

「わ、私は、薬師寺(やくしじ)(とき)と申します」
「あぁ。万葉(かずは)嬢の姉か」

 唐突に出てきた名に鴇は目を丸くした。
 万葉は確かに鴇の義妹だ。鴇を覚えていないのであれば、なぜ万葉だけ覚えているのだろうか。
 記憶を失う前、樹は万葉を嫌っており、名を呼ぶことすらなかった。
 樹の意図が分からず鴇は閉口する。

「……」
「彼女の腹に、俺の子が宿っているらしい」

 ぐらりと世界が歪んだ気がした。
 頭の中で耳鳴りのような音が響き、樹の声が上手く聞き取れない。

「本当に俺は彼女と戦に向かう前に会っていたのだろうか? 姉の君ならば何か知って……大丈夫か!?」

 手首を掴まれ、甘く柔らかなバニラの香りが鼻孔をくすぐった。
 その香りに鴇は現実へと引き戻された。

「……へ?」
「顔色がすこぶる悪い。……今日はもう帰りなさい」
「……はい。お大事になさってください。い……月宮様」
「あぁ」

 鴇はむりやり笑みを作り、頭を下げる。
 そこからどうやって家まで帰ったのかは、覚えていない。