天才棋士との結婚――そして苦悩

 翌日、皆川は渡部の師匠である吉岡七段の家に向かう。
 師匠なら何か知っている事もあるだろうということだ。

 吉岡七段は恩年五七のベテランだ。だが、タイトルは愚か、タイトル挑戦経験すら一度もない。
 それにそもそも羽田を尊敬していた渡部がなぜこの実績のない男に弟子入りしたのか、それも気になっているのだ。

「私は一応形は渡部の師匠ということにはなる。私の場合、弟子入りする前に一局指すという習慣がある。そのためにあの日、渡部君とも指した。勿論普通はアマチュアがプロに勝てるわけがない。だからこそ敢えて手を抜き、実力が把握出来るような対極にする。まああ、指導対局みたいなものだな。

 だが、その対局では手を抜く暇がなかった。そのプロと見間違えるほどの鋭い手の連続に、油断は禁物という言葉が似合うくらい追い込まれた。その時、俺は思った。このまま手加減してたら負けると。

 そして、中盤からだが、少しギアを上げた。流石に強いとは言え所詮は小学生。あっという間に局面はひっくり返った。

 そのまま対局は私の優勢に進んだ。だが、そこでまた違和感を感じたんだ。何しろ寄せきれない。優勢なのは事実だが、中々玉を寄せきれない。決まったと思ったらまさかの受けが見つかる。正直驚いた。まさかここまで粘られるとは。

 もう寄せ切ったはずの対局が、結局終局までに三十一手もかかってしまった。その時に私は思った。この子は将来プロで活躍すると。そこから俺は奨励会に入る許可を出した。つまり弟子入りすることを了承したのだ。もはや私が師匠と言ってもいいのかと思った。だからこそ許可を出す前に『本当に俺の弟子でもいいのか? もっと実績のある棋士の弟子とかじゃ行けなかったのか?』と、聞いた。

 だけど、渡部君は凛とした顔で「あなただからいいんです」と答えた。ああ、恐ろしい子だと思った。その後理由を聞いたが、何も答えてはくれなかったのだが。
 そしてそれからはあまり会ってはいなかったが、定期的に一緒に将棋を指した。その度に強くなっているという事がはっきりとわかるくらいいい手が飛び込んでくる。もう、初段くらいで俺も本気でやっても負けるかもくらいの実力にはなっていた気がするな。

 そんな彼だが、やっぱり棋士をやめる数年間は苦悶していたな。
 今思えばあの時にはもう棋士をやめたかったのかもしれない。
 やっぱり師匠である俺だからこそ思うよ。
 渡部は棋士をやめたくなかったって。
 将棋というものは対戦相手があってこそだ。その対戦相手を失ったその時、彼の棋士としての道は閉ざされてしまったんだろうな。

 引退するという話は俺は知らなかった。いつの間にか引退していた、無理もない、プロになった後の関りは俺よりも羽田さんの方が長かったのだから。そして、俺は棋士をやめた後の彼のことは知らない。やっぱり申し訳ないという気持ちもあったんだと思うよ。

 自分の師匠を裏切ってごめんとでも思っていたんだろ。
 それか、将棋に関するすべてを捨てたかったのか。

 ともかく俺は、彼が引退するときには、死という選択した時には、一言相談してほしかったと思ったな」

 それを聞いて、また皆川はまた新しいことを知れたと、陽気な気分にはならなかった。
 師匠としての苦悶。それを知れた。
 おそらく、将棋から離れたいからこそ、会うのをやめたのだろうと、推察した。
 引退するなど言えなかったのも、相談するのが嫌だったのだろう。
 もし自分が渡部の立場なら自分の師匠など絶対に会いたくないのだから。