彼、渡部勇人は天才だった。将棋に関しては一〇〇年に一人の天才と言っても差し支えがない。
齢十三でプロになり、初年度C級二組を圧倒的な成績で昇級し、竜王戦も決勝トーナメントで一勝した。その相手が、羽田勲五冠だったのも彼の話題性に拍車をかけた。
その後彼は、王将戦挑戦者決定リーグに入り、一勝四敗という成績を残した。そこで彼が勝ったのは、武田九段、名人経験者だ。
そして彼の本領が発揮されるのは五年後、彼が一八歳になった時のことだった。
彼は、まず、棋聖戦に挑戦した。相手は羽田勲四冠だ。彼は圧倒的な棋力で初戦を
手にした。見ていた岸からすると、七七手目、竜で金を取った手で、価値が決まっていたという。実際その局面でAIの形成判断は+二八〇〇だった。
そしてその勢いで三勝一敗でタイトルを手にする。するとその勢いで、他のタイトル四つを取り、五冠王になった。
棋聖王位王将竜王叡王だ。
残るタイトルは棋王、王座名人だけとなった。
それから四年後、渡部はタイトルを全部取り、八冠王になった。
彼の将棋人生は順風満帆に思えた。
だが、彼は、二五の時に一年間を勝率およそ九割という、今までの最高であったおよそ八割五分を超える勝率を記録したのち、急な引退宣言をした。
そのニュースは多くの人を驚かした。
そして、人々の記憶から渡部という名前が消え去ろうとした時、彼が二九の時にの時に彼は自殺した。
「なんで、渡部九段は死んだんでしょうね」
そう暗い顔で言うのは広田女流二段だ。
「本当だ。あの棋力があれば、幸せじゃなかったのかと思うだろう。だが、俺にも思うところがある」
皆川博六段が髭をさする。彼は齢二六で、ようやく生えてきた髭を自慢に思っていた。
「あの人は本当に人間かどうか分からなかった」
皆川は、プロとして一回だけ対局したことがある。それは、公開対局棋戦、JT杯だった。その時皆川は自分の手が渡部に全部読まれている気がした。恐怖感に満ち溢れた気がした。
すぐに盤から離れたくなった。勝てる訳のない対局に時間を使いたくなかった。目の前にファンがいるからそんな事は出来ないのだが。
それに、ここで投了したならば、対局放棄となる可能性がある。スポンサーからお金を貰っているプロの立場からすると、それは避けたいところだ。何より名誉にもかかわる。
皆川はどうか早く詰ませてくれとでもいう気持ちで指していった。だが、飛車を斬り、角を急所に打ち込むと、一気に局面が皆川ペースに入った気がした。先程まで、絶望的だったのに。
飛車銀交換は痛いが(飛車角は大駒と言って強い)、角ですぐに金を取り、二枚替え出来るという点と、角が急所に利くという事で、こちらペースと皆川は思ったのだ。先ほどまで絶望感しかない対局だったのに。
だが、その瞬間、渡部はニヤッと笑った。その笑いの意味を皆川は一瞬考えたが、対局中に無駄な思考は避けたいという事で奥にしまった。そこで意図に気づけていたらよかったのだが。
そこからはとにかく攻めていった。だが、ギリギリ攻め切れない、寄せ切れない。自分が勝っているはずなのに、なぜか手ごたえがない。
だが、攻めを途切れさせたら負ける。その思いで、兎に角駒を打ち、玉(取ったら勝ちな駒)を追っていく。
だが、最終盤、彼は気づいた。相手の玉は一手スキ(どうやっても、一手では相手に次玉が詰む状況である詰めろはできない)で、自玉の守りに入らなければならないことに。
渡部玉は詰みがありそうでなかったのだ。
皆川はそれをうけて、今度は受けに回った。まだ、ここを受けきれたら再びこちらの番が来ると。だが、その瞬間はこなかった。
最終版、皆川の玉が詰まされてしまった。しかもだ、不思議なことに、相居飛車(互いの玉が反対側に行く)だったはずなのに、玉が向かい合う状態で詰んでいる。
まさか、あの角打ちからもうこうなることに気づいていたのか?
そう思うと、もう自信を無くしてしまった。結局渡部は勝ち上がり、そのまま優勝してしまった。
「あれは、本当に、価値よりも棋譜を作ることに命を懸けていた。まるで対局相手が自分の思い通りの棋譜を作るための玩具みたいにね。だから、それに飽きた彼は自殺を実行したのだろう」
「……でも、それは」
「それは?」
「納得いきません。私は才能のなさを感じて、プロではなく、女流棋士(女性のみが成れる。プロよりは簡単)という道を選びました。才能がある人は絶対幸せにならなきゃならないんです」
「……それが無理なこともあるっていう事だよ。今回の件は残念なことになるな。……才能なんて、才能のない人が言うんだ。才能のある人は、決してそんなことは言わない。彼らなりに苦労しているんだよ。さあ、行こう」
そして二人は葬式場に足を踏み入れた。
皆川は渡部が自殺した真相を突き止めたいと思った。金のためじゃなく、ただ、知識欲として。
幸い、プロには休みが沢山ある。研究時間が少なくなるのが嫌だが、それ以上に知りたい、その思いが強くなっていった。
「彼は天才だった」
そう、医者の飯田雄太が言った。彼は渡部の小学生時代の同級生で、唯一の小学時代の同級生だ。
「あいつに将棋を教えたのは俺だった。最初は俺が勇人相手に連勝していたんだ。ただ、それも最初だけだった。始めてから一週間で、俺は追い抜かれた。そして、あっという間に、何回も勇人にぼろ負けを喫することとなった。別に俺が将棋の研究をさぼっていたわけではない。ただ、あいつの成長スピードが圧倒的だっただけだ。それから、俺は渡部とは将棋を指すことをやめた。もう、四枚落ちのハンデを以てしても、負けるようになってしまったからだ。
小学生名人戦に出場すると聞いた時は、耳を疑った。まだ三年生、将棋を始めてまだ二年で、六年生も出るような大会に出場したんだ。
俺は一言やめとけと言った。だが、あいつは出場した。
所詮、井の中の蛙、三回戦あたりで負けると思っていた。だが、あいつはあっという間に都大会も優勝した。
それから奴は小学生名人戦で優勝した。三年生が、圧倒的な成績で六年生をなぎ倒していくあの様子は、見ている俺も興奮した。
奴はそれからすぐに奨励会に行って、授業を休むようになった。もう、住んでいる世界が違うんだなと、思った。あいつは凄まじい速さで昇級、昇段していったらしい。それからもう一緒に遊ぶことは少なくなった。あいつは遊ぶ時間よりも将棋を指していたかったらしい。
あいつの目は輝いていた。もう俺にはあいつはプロでタイトルを取るな、と思った。
俺は中学生になってからあいつとは疎遠になっていた。
だが、あいつがプロで八冠を取った後、あいつに会った。会おうぜと、メールが来たからな。だが、その時のあいつは、変わっていた。それも悪い意味で。
あいつの輝いていた眼は、明らかに暗くなっていた。俺はあいつから闇を感じた。そして見ていられず、「大丈夫か?」と訊いた。「将棋が楽しくないのか?」と一言付け加えて。
彼は、「将棋が楽しくないわけがないだろ」そう笑っていた。だけど、奴が将棋をやめたという話を聞いて、やっぱりかと、うなだれた。
あいつは将棋が楽しくなくなっていたんだなと、思った。
あいつに会いたい、と思った。だが、携帯で電話をかけても出ないし、家まで行っても、門前払いされるだけだった。
彼は、俺に対して何か負い目を感じているんじゃないかとも思った。将棋を辞めてしまったこと、暗い顔をしているであろうことを。だが、ある日、あいつの家に行ったときに家に入れた。その時にあいつは死にかけの顔をしていた。もうすべてに絶望をしているような顔をしていたんだ。その時に俺は思った。もうあいつはだめだって。それからしばらくたった時だよ。あいつが自殺したのは」
そう言って顔をへこませている彼に対して、皆川は神妙な顔をした。
「大丈夫だ。俺は後悔ばかり選んできたが、あいつに将棋を教えたことを後悔しているわけではないさ」
飯田は嘘をついた。
自殺するという選択肢を与えたのは飯田だが、彼はそれを口にしなかった。
しかも、最後に会ったのはその時じゃない。
彼が将棋を引退してからだ。
会いに行くときは不安だった。
勿論、彼に拒絶されるかもと思ったからだ。
しかし、あの時は無事に迎え入れてくれてうれしかった。
「そうですか」
皆川は頷いた。
飯田が言ったことは大方本当の話だ。
「皆川六段も大変でしょうけど、頑張ってください」
「分かっています」
そして皆川はその場を後にした。渡部の過去を聞いて、ひとまず安心はした。
過去の彼は本当に将棋を愛していたのだと。
だが、まだまだ情報が必要だ。次の人に聞きに行こうと思った。
齢十三でプロになり、初年度C級二組を圧倒的な成績で昇級し、竜王戦も決勝トーナメントで一勝した。その相手が、羽田勲五冠だったのも彼の話題性に拍車をかけた。
その後彼は、王将戦挑戦者決定リーグに入り、一勝四敗という成績を残した。そこで彼が勝ったのは、武田九段、名人経験者だ。
そして彼の本領が発揮されるのは五年後、彼が一八歳になった時のことだった。
彼は、まず、棋聖戦に挑戦した。相手は羽田勲四冠だ。彼は圧倒的な棋力で初戦を
手にした。見ていた岸からすると、七七手目、竜で金を取った手で、価値が決まっていたという。実際その局面でAIの形成判断は+二八〇〇だった。
そしてその勢いで三勝一敗でタイトルを手にする。するとその勢いで、他のタイトル四つを取り、五冠王になった。
棋聖王位王将竜王叡王だ。
残るタイトルは棋王、王座名人だけとなった。
それから四年後、渡部はタイトルを全部取り、八冠王になった。
彼の将棋人生は順風満帆に思えた。
だが、彼は、二五の時に一年間を勝率およそ九割という、今までの最高であったおよそ八割五分を超える勝率を記録したのち、急な引退宣言をした。
そのニュースは多くの人を驚かした。
そして、人々の記憶から渡部という名前が消え去ろうとした時、彼が二九の時にの時に彼は自殺した。
「なんで、渡部九段は死んだんでしょうね」
そう暗い顔で言うのは広田女流二段だ。
「本当だ。あの棋力があれば、幸せじゃなかったのかと思うだろう。だが、俺にも思うところがある」
皆川博六段が髭をさする。彼は齢二六で、ようやく生えてきた髭を自慢に思っていた。
「あの人は本当に人間かどうか分からなかった」
皆川は、プロとして一回だけ対局したことがある。それは、公開対局棋戦、JT杯だった。その時皆川は自分の手が渡部に全部読まれている気がした。恐怖感に満ち溢れた気がした。
すぐに盤から離れたくなった。勝てる訳のない対局に時間を使いたくなかった。目の前にファンがいるからそんな事は出来ないのだが。
それに、ここで投了したならば、対局放棄となる可能性がある。スポンサーからお金を貰っているプロの立場からすると、それは避けたいところだ。何より名誉にもかかわる。
皆川はどうか早く詰ませてくれとでもいう気持ちで指していった。だが、飛車を斬り、角を急所に打ち込むと、一気に局面が皆川ペースに入った気がした。先程まで、絶望的だったのに。
飛車銀交換は痛いが(飛車角は大駒と言って強い)、角ですぐに金を取り、二枚替え出来るという点と、角が急所に利くという事で、こちらペースと皆川は思ったのだ。先ほどまで絶望感しかない対局だったのに。
だが、その瞬間、渡部はニヤッと笑った。その笑いの意味を皆川は一瞬考えたが、対局中に無駄な思考は避けたいという事で奥にしまった。そこで意図に気づけていたらよかったのだが。
そこからはとにかく攻めていった。だが、ギリギリ攻め切れない、寄せ切れない。自分が勝っているはずなのに、なぜか手ごたえがない。
だが、攻めを途切れさせたら負ける。その思いで、兎に角駒を打ち、玉(取ったら勝ちな駒)を追っていく。
だが、最終盤、彼は気づいた。相手の玉は一手スキ(どうやっても、一手では相手に次玉が詰む状況である詰めろはできない)で、自玉の守りに入らなければならないことに。
渡部玉は詰みがありそうでなかったのだ。
皆川はそれをうけて、今度は受けに回った。まだ、ここを受けきれたら再びこちらの番が来ると。だが、その瞬間はこなかった。
最終版、皆川の玉が詰まされてしまった。しかもだ、不思議なことに、相居飛車(互いの玉が反対側に行く)だったはずなのに、玉が向かい合う状態で詰んでいる。
まさか、あの角打ちからもうこうなることに気づいていたのか?
そう思うと、もう自信を無くしてしまった。結局渡部は勝ち上がり、そのまま優勝してしまった。
「あれは、本当に、価値よりも棋譜を作ることに命を懸けていた。まるで対局相手が自分の思い通りの棋譜を作るための玩具みたいにね。だから、それに飽きた彼は自殺を実行したのだろう」
「……でも、それは」
「それは?」
「納得いきません。私は才能のなさを感じて、プロではなく、女流棋士(女性のみが成れる。プロよりは簡単)という道を選びました。才能がある人は絶対幸せにならなきゃならないんです」
「……それが無理なこともあるっていう事だよ。今回の件は残念なことになるな。……才能なんて、才能のない人が言うんだ。才能のある人は、決してそんなことは言わない。彼らなりに苦労しているんだよ。さあ、行こう」
そして二人は葬式場に足を踏み入れた。
皆川は渡部が自殺した真相を突き止めたいと思った。金のためじゃなく、ただ、知識欲として。
幸い、プロには休みが沢山ある。研究時間が少なくなるのが嫌だが、それ以上に知りたい、その思いが強くなっていった。
「彼は天才だった」
そう、医者の飯田雄太が言った。彼は渡部の小学生時代の同級生で、唯一の小学時代の同級生だ。
「あいつに将棋を教えたのは俺だった。最初は俺が勇人相手に連勝していたんだ。ただ、それも最初だけだった。始めてから一週間で、俺は追い抜かれた。そして、あっという間に、何回も勇人にぼろ負けを喫することとなった。別に俺が将棋の研究をさぼっていたわけではない。ただ、あいつの成長スピードが圧倒的だっただけだ。それから、俺は渡部とは将棋を指すことをやめた。もう、四枚落ちのハンデを以てしても、負けるようになってしまったからだ。
小学生名人戦に出場すると聞いた時は、耳を疑った。まだ三年生、将棋を始めてまだ二年で、六年生も出るような大会に出場したんだ。
俺は一言やめとけと言った。だが、あいつは出場した。
所詮、井の中の蛙、三回戦あたりで負けると思っていた。だが、あいつはあっという間に都大会も優勝した。
それから奴は小学生名人戦で優勝した。三年生が、圧倒的な成績で六年生をなぎ倒していくあの様子は、見ている俺も興奮した。
奴はそれからすぐに奨励会に行って、授業を休むようになった。もう、住んでいる世界が違うんだなと、思った。あいつは凄まじい速さで昇級、昇段していったらしい。それからもう一緒に遊ぶことは少なくなった。あいつは遊ぶ時間よりも将棋を指していたかったらしい。
あいつの目は輝いていた。もう俺にはあいつはプロでタイトルを取るな、と思った。
俺は中学生になってからあいつとは疎遠になっていた。
だが、あいつがプロで八冠を取った後、あいつに会った。会おうぜと、メールが来たからな。だが、その時のあいつは、変わっていた。それも悪い意味で。
あいつの輝いていた眼は、明らかに暗くなっていた。俺はあいつから闇を感じた。そして見ていられず、「大丈夫か?」と訊いた。「将棋が楽しくないのか?」と一言付け加えて。
彼は、「将棋が楽しくないわけがないだろ」そう笑っていた。だけど、奴が将棋をやめたという話を聞いて、やっぱりかと、うなだれた。
あいつは将棋が楽しくなくなっていたんだなと、思った。
あいつに会いたい、と思った。だが、携帯で電話をかけても出ないし、家まで行っても、門前払いされるだけだった。
彼は、俺に対して何か負い目を感じているんじゃないかとも思った。将棋を辞めてしまったこと、暗い顔をしているであろうことを。だが、ある日、あいつの家に行ったときに家に入れた。その時にあいつは死にかけの顔をしていた。もうすべてに絶望をしているような顔をしていたんだ。その時に俺は思った。もうあいつはだめだって。それからしばらくたった時だよ。あいつが自殺したのは」
そう言って顔をへこませている彼に対して、皆川は神妙な顔をした。
「大丈夫だ。俺は後悔ばかり選んできたが、あいつに将棋を教えたことを後悔しているわけではないさ」
飯田は嘘をついた。
自殺するという選択肢を与えたのは飯田だが、彼はそれを口にしなかった。
しかも、最後に会ったのはその時じゃない。
彼が将棋を引退してからだ。
会いに行くときは不安だった。
勿論、彼に拒絶されるかもと思ったからだ。
しかし、あの時は無事に迎え入れてくれてうれしかった。
「そうですか」
皆川は頷いた。
飯田が言ったことは大方本当の話だ。
「皆川六段も大変でしょうけど、頑張ってください」
「分かっています」
そして皆川はその場を後にした。渡部の過去を聞いて、ひとまず安心はした。
過去の彼は本当に将棋を愛していたのだと。
だが、まだまだ情報が必要だ。次の人に聞きに行こうと思った。


