天才棋士との結婚――そして苦悩


 そして翌日、皆川は早速その住所の場所に行った。
 そこのインターフォンを押す。いきなり訪れたのだから何か言われるか心配だが……


「何の用ですか?」


 一人の女性がドアを開けた。年齢は三〇台前半くらいだろう。


「羽田三冠からここの住所を聞いて」
「もしかして、勇人君のこと?」
「は、勇人君?」

 確かに渡部の下の名前は勇人だ。だが、下の名前呼びに少しだけ戸惑う。

「もしかして違った?」
「いえ、そうです。渡部勇人のことで伺いました」
「そう、なら入って」

 そして、皆川は恐る恐る入っていく。家の中は普通の家という感じがうかがえた。
 普通の台所、普通のテーブル、普通の感じが満載だった。

 そして促されるままに椅子に座る。

「それで、勇人君の何が知りたいのかな。えっと、皆川六段」
「俺のこと知っているのか?」
「勿論、だって夫の同業者だし」
「そうか……」

 そう呟いて、すぐに驚いた。

「夫!?」

 まさかあの渡部に彼女、いや、妻がいたっていう事なのか。
 それは皆川にとって驚きの事実だった。

「そうよ、意外でしょ。とはいえ、世間には公表して無かったけどね。でも、私は本当に彼を愛していた。そうか、羽田さんが今日一人来ると言っていたのはこういう事だったのか」

 そう豪快に笑う青空、それに対して皆川は愛想笑いで返した。でも、確かにお腹は大きく、お腹に赤ちゃんがいるという事はすぐにうかがえる。

「羽田さんからは全部教えてあげて欲しいって言ってたね。いいよ、教えてあげる。私と彼の事を」

 その言葉に対し、皆川は唾をのんだ。

「まず私が彼に会ったのは近所の公園だった。あの時は驚いたわ、
 まさか大の大人が公園で遊んでるとは思わなかったから。あ、でも二十五だからギリセーフなのかな?

 まあ、それは置いといて、その時に私は彼を心配になったの。本当に辛そうだったから。だから、私は彼に、勇人君に声をかけたの。その時、彼はいらないって否定的だったの。でも、私が執拗に聞いていったところ、彼は話してくれたの。将棋が、人生が楽しくないって。それを聞いて、私は彼を助けたいと思った。これが、始まりよ。そして、私は彼と一緒に過ごすことになったの。
 彼は変装してだけど、デートも出来るようになったし。あの時は今までで一番幸せな日々だったかもしれない。そして、結婚して、幸せな家族生活を形成していったの。だけど、数年一緒に過ごすと、彼は異常をきたすようになり、愚痴が増えた。なぜ自分は普通に生きられないのか、なぜ他の人は凡才なのか。

 彼は他の人を恨んでいた。自分の対局相手を。自分を本気させないことも。
 勇人君はこうとも言ってたわ、「自分は天才じゃない、他の人が弱すぎるんだ」って。
 その、自分を本気にさせる相手がいないという思いと、ただ将棋を指したいだけなのに、マスコミに注目されるという思い、そして、将棋を指しているだけなのに、誹謗中傷を受けるという悲しい思いが。
 彼の目は死んでいき、私との口数も少なくなっていった。

 そしてある日、私は彼に将棋をやめることを提案した。もう、こんなつらそうな彼は見ていられなかったから。羽田さんも説得してくれて、彼に将棋をやめさせるのに成功したの。

 それから、彼はしばらく幸せそうな顔を見せてくれた。世間のわだかまりなど関係なく、楽しく暮らしていた。ゲームをはじめて、新しい趣味も作った。でも、それも最初だけだったみたい。
 私も彼には将棋をさせてあげたかった。でも、将棋をする彼の苦しい顔をもう見たくなかった。結局どう 彼にゲームも私との生活も、将棋の代わりに放ってくれなかったみたい。

 そして、私と彼は出来るだけの時間を共に過ごすようになった、本当にあらゆる時間を。
 だからこそ、彼の笑顔が見れなくなったのは本当に残念な事だったの。
 結局どれだけ頑張っても彼に将棋以外の楽しい趣味を見出すことは無理だった。
 囲碁もオセロもカードゲームや、ゲームまであらゆるものを提案したけど、全部無理だった。
 将棋の穴を埋められるものにはならなかった。

 ある時、ある人から、勇人君が自殺したがってるんじゃないかと言われた、もちろん最初はそんなことないと思った。だけど、彼が毎晩寝言で死にたいと言っているのを聞いて、私は勇人君を現世に縛りつけるのが本当に正しいのか懐疑的になった。そして私は決めた。彼を自殺させてあげようと。
 私は今でも迷ってる。あの選択は本当に正しかったのかなって。何しろ私の体には彼との子どもがいるし、私には今は保育園に行っている娘もいる。

 でも、こんな世界に彼を残してあげたくない。娘には心苦しいけど、あの時の私にはそれ以外の方法を思いつけなかったのだ。
 その日から彼は原稿用紙の前に座るようになった。遺書のようなものを書いているんだとわかった。
 そしてその二カ月後、「じゃあ、死んでくるよ」と、数年ぶりに見た笑顔で言った。私は笑顔で「うん行ってらっしゃい」と答えた。

 そして見送った後、私は泣いた。とにかく泣いた。
 私は彼に死んでほしくなかったのだ、と理解した。もう、彼には会えないんだ、と本当に悲しくて、たまらなかった。
 そこから私は友達の家に向かった。所謂アリバイ作りにね。
 そして、友達の家で彼の死を知った。テレビのニュースで
 そこにはしっかりと『将棋元プロの渡部勇人が遺体で見つかる』と書いてあった。それを見て涙が止まらなくなった。本来彼がこの世から解脱したことを喜ぶべきなのに。

 そこからあらゆる出来事があったわ。お葬式などのことが。その時マスコミとかを封じるために、身内と関係者だけの葬儀にした。私も、彼の自殺が、マスメディアによって汚されるのを避けたかったしね」

「でも、俺は」
「貴方は別よ。マスメディアじゃないもの。マスコミは勇人君を苦しめた原因の一つだから。でもあなたはたぶん、面白おかしく書こうと思っている訳ではないでしょ」
「いえ、俺は本を書くつもりはありません。ただ、俺が知りたいだけなんですから」
「そう。せっかくだから本でも出したらいいのに」
「そこまでは調べられていません」
「本に乗せてもいいのに。そうだ、彼が書いた人生録みたいなものがあるんだけど、見る?」
「いいんですか?」
「ええ」

 そして皆川は人生録を見る。