天才棋士との結婚――そして苦悩

 そしてその一か月後。
 今日も勇人君は対局をしに行っている。

 今日は前よりも調子が悪いようで、肩を落としながら対局に向かっている。

 私は洗濯物を干し、軽く裁縫をしながら、勇人君の帰りを待つ。

 その間に見るのはもちろん、勇人君の対局だ。

 今日も勇人君は、熱心に指してる。
 恐らく、彼が今嫌々指してるという事を知ってるのは私だけだろう。

 その将棋は、勇人君が押し込まれるような形だ。
 でも、私は知っている。勇人君が勝つことを。

 だけど、対局中に異変に気付いた。
 勇人君が苦い顔をしているのだ。

それもまるで――しんどさ、だるさを我慢しながらのような……

 もしかして体調でも悪い?
 私はそう思った。とはいえ、連絡手段なんてない。

 プロ棋士は、電子機器を対局中に使うことなど不可能なのだ。
 それは主に、カンニングを防ぐため。
 だから連絡なんて取れない。

「勇人君……」

 心配だ。

 勇人君はまじめにそのまま指してはいってるものの、明らかに苦しそうだ。
 あの遊園地の日を思い出す。
 あの日、勇人君は倒れてしまった。
 今日ももしかしたら倒れてしまうのかもしれない、

 私くらいにしか気づかない、勇人君の変化。だけど、これが今の勇人君の集中力を奪っていることは疑う余地がない。

 勇人君はまじめだ。途中で対局をやめるなんてことはあり得ない。
 だからこそ、心配なのだ。


 結局勇人君の調子は上がらないまま、負けてしまった。
 勇人君は満足に感想戦をすることなく、帰って行った。

 コメント欄は、『渡部八冠、態度悪い』『感想戦もしない棋士』案の定こころのないコメントが書かれている。
 私は、即座に勇人君にメールを送った。

『もしかして体調悪い? 大丈夫?』
『お腹が痛いし、目もいたい。目を開けていられそうにもない』

 勇人君は、目が痛いのか。
 という事はきっと頭もいたいはずだ。

『タクシー使って帰ってきたらいいよ』

 そこまで、将棋会館と、この家は離れていない。
 しかし、今の勇人君には果てしない距離に見えるだろう。

『いや、それはしない』
『え?』
『家をばらされたくない』

 勇人君……
 タクシーで家まで帰ったら、きっと家の場所を知られる。その結果、私の存在も明るみに出る可能性もある。
 それを嫌がってるのだろう。

『でもそれよりも、勇人君だよ』
『僕は心配しないで欲しい』

 そして、その後の私のメールには既読すらつかなかった。

 暫く心配に思いながら、家で待つこと五分。
 やっぱり心配でいてもたってもいられず、家を出た。
 勿論勇人君にその事を伝えて。
 そして最寄り駅まで来た。

 すると、勇人君が、ベンチに座っていた。

「勇人君」

 私は叫んだ。

「ああ、葵」

 そう、力なき声で言う勇人君。

「やっぱり無茶だったんだ。途中から力が抜けてしまって歩けなくなってしまった。最後は電車を降りるだけで義理だ」
「だから言ったのよ。タクシー使いなさいって」
「それは恥ずかしいだろ。それはそうと、迎えに来てくれてありがとう」

 そう、勇人君が優しい声で言った。

 そして私は、タクシーを呼ぼうとしたが、勇人君に止められた。
 やっぱり個室に二人は正体がばれるリスクがあるからって。

 なので私は必死に勇人君と肩を組んで家まで帰った。
 勿論、人気のない道を。
 二人共マスクだから感染とか大丈夫だとは思いたいけど。


 家に着いた後、すぐに勇人君を寝かした。

「大丈夫? なわけないよね」
「ああ、目と頭と胃が痛い」

 ほぼ全てじゃんと、言いかけてやめた。

「おなかはすいてる?」
「全然だ」
「じゃあ」

 と、私は勇人君のお腹を優しく撫でる。

「葵?」
「大丈夫だよ、私がついてるから」
「……僕のことはいいから」

 遠慮してるのかな。

「大丈夫だよ。勇人君がしんどかったら、私も心配なんだもん。必死で看病するよ。その代わり、早く治ってね」
「ああ」
「今日の将棋どうだった?」
「考えがまとまらなかった。今日の将棋は準決勝だったし、まあでも別にいいかな」
「いいかなって?」
「負けの事だ。……葵、僕って最低だな」
「え?」

 どうして急に?

「僕は将棋の勝敗なんてどうでもいいんだからな」

 私はその言葉に対する返答が思いつかない。
 そっか、今日は勇人君は負けた。体調不良だったとはいえ。
 でも、勇人君は何も感じなかったのだろう。


 私はただ、そんな勇人君をなでた。

 その後すぐに、勇人君は眠りに落ちた。
 私はその寝顔を堪能した。
 勇人君には早く元気になって欲しいというのは、当然の思考だ。

 そう言えば、勇人君の次の対局日を調べる。三日後だ。
 勇人君がこのまま体調がよくならなければ、勇人君は次の対局をキャンセルできるのではないか、そんなことをふと、思い立った。

 でも勇人君はそう言うのは望んでないんだろうなあ。

 私はそんなことを考えながら、京料理を考える。
 確か、勇人君はおかゆが嫌いだと聞いてる、
 なら、勇人君が食べやすい料理を作らなければ。
 そう思って私は外にうどんの麺を買いに行った。



 ★★★★★

「勇人君!?」

 家に帰ると、勇人君の叫びが家中に響いていた。
 勇人君は体中が痛いみたいだった。
 しんどそうだ。

 家を離れない方がよかった。

「勇人君……」

 私は必死に勇人君のお腹をなでる。

「ごめんね。家を離れていて」
「葵は、悪くないよ」
「ごめんね」
「僕の体調管理が杜撰(ずさん)だっただけだよ」
「そう……」

 それはつまり私の責任だ。
 勇人君の隊長をしっかりと管理するのは、妻である私の責任なのに。

「ごめんね」
「謝られたら、逆にやりにくいよ」
「ふふ、そうだよね。最近忙しかったもん。ゆっくり休むといいよ」
「いや、二日で治して見せる」

 やっぱり、対局は死に行くという事。
 その責任感こそ、勇人君を苦しめたる原因なんだけど。
 勇人君は気づきながらも、知らないふりをしている。私はそう感じた。

 勇人君は苦しそうな顔をしていたが、痛み止めを飲ませ、暫くそばで看病していると、いつの間にか勇人君は眠った。
 勇人君は、ぐっすりと眠った。

 望むなら、この安眠が続いてくれることを祈る。
 私は勇人君には幸せでいて欲しいのだ。


「勇人君、私はいつまでも勇人君の味方だからね」

 私は耳元でささやいた。
 きっと、常日頃からの将棋のストレスが風邪の原因なのだろう。
 私はいっそう勇人君の味方になってあげなきゃ。
 勇人君みたいなまじめな人間が苦しむ世界なんて、間違っているのだから。