滝森さんに連れてかれたのは小さなアパートだった。白を基調としており、屋根は赤色に染まっている。築年数は長いのか白い壁のあちこちにはシミがついていた。鉄製の黒い階段も所々に錆びついた跡がある。いわゆるボロアパートと言うやつだろう。この辺にはよくある家屋だ。

「こっち」

 僕にそう呼びかけ、傘を畳むと一階の奥へと足を運んでいく。手には血を抑えるために上着を巻いている。ここに来る間にかなり出血したみたいで服は赤く染められていた。痛みを堪えている様子は見せていないが、額からは大量の汗が流れているため激痛が走っているのは否めない。どうして、そこまで強がる必要があるのだろうか。

 一番奥の部屋まで歩いていくと彼女はポケットからキーケースを取り出した。どうやら、ここが彼女の家なのだろうか。貧相とは聞いていたが、まさか家がボロアパートだとは思ってもいなかった。

「入って」

 鍵を開け、扉を力強く開けると彼女は僕に入るように命じる。親などはいないのだろうか。もし、彼らが滝森さんの悲惨な姿を目の当たりにしてしまったら、僕はどう振る舞えばいいのだろうか。自業自得とはいえ、億劫なことだ。

 恐る恐る中へと入る。玄関は綺麗に並べられ、靴はヒールが一つ並べてある。

 玄関に目をやった僕は奥の方を覗く。すると誰かが玄関へと歩いてくるのが見えた。

 僕はその姿に思わず目を剥いた。部屋と玄関の間の段差にしゃがみ込み、彼女に対して両腕を差し伸べる。彼女は僕の姿を見ると早歩きで僕の元へと歩いてくる。一切の警戒なしに彼女、ヒカルは僕の腕元へと入ってきた。

 約半月。短いようにも見えるが、毎日のように会っていた僕に関しては非常に長く感じた。もう帰ってこないと諦めていたからこそ、会えた時の感動は計り知れない。僕は自然と涙を流し、彼女の頬に自分の頬を擦り付けた。ヒカルは嫌がる様子もなく、僕の行動を受け入れてくれる。

 戯れあっている僕らを横に扉が静かに閉まる。その音でハッと我に帰ると僕は滝森さんへと顔を向けた。彼女は穏やかな表情で僕ら二人を見ていた。もらい泣きをしているのか微かに瞳が震えていた。

「どうしてヒカルは滝森さんの家に?」

「きっと私たちはずっとすれ違い続けていたんだね。これから全てを話すわ。新田くんが知らないところで私に何があったのか」

 滝森さんの言葉に僕は顔を引き締めると強く肯定するように頷いた。きっと僕は何かを誤解してしまっていたんだろう。だからこそ、彼女の話に耳を傾けなければいけない。

 僕たちはヒカルを連れ、リビングに入った。部屋はワンルームで玄関を入り、キッチンを抜けることで入ることができる。最奥にベランダにつながる窓があり、窓の横にエアコンがついている。エアコンの下側には机があり、向かい側にはベッドが置かれている。テレビはなく、あるのは机に置かれたノートパソコンと勉強道具のみ。机の端にはヒカル用と思われる段ボールに、中には僕の購入した毛布が敷かれていた。真ん中にはポツンとテーブルが置かれている。

「座る場所は限られているけれど、ゆっくり休んでて。それとこれ使って」

 滝森さんは僕にタオルを差し出す。雨に濡れた体を拭くためのものだろう。

「ありがとう」

 手に取ると柔らかく心地いい感触がする。紙を拭くと洗剤の甘い香りが鼻腔をくすぐった。滝森さんは僕に対してハニカムとクローゼットの扉を開けた。中から救急箱を取り出し、包帯を手に取る。

「その……ご両親とかはいないの?」

「うん。今は別居中。私は一人でこの街に引っ越してきたの。両親からの許可はいただいている。このアパートも母親に承諾を得られたから住めている」

 高校生ですでに一人暮らしなんて。かなり複雑な家庭で育てられたのだろう。

「生活費とかは?」

「親からの仕送りはなし。バイトで賄おうと思ったけれど、想像以上にかかることがわかったから今は先生から足りない分のお金を借りている。将来的には、先生のところで働くことになるだろうから。その時の給料から天引きかな」

「そっか。大変だね」

「でも、私にとってはこの生活は苦しいよりも楽しい方が勝っているかな。大変なことも多いけど、人生で一番前向きに生きている気がするから」

 包帯を巻き終え、救急箱をクローゼットにしまう。手慣れているのか綺麗に素早く包帯は巻かれていた。

「雨で体が冷えたでしょう。何か温かいものでも飲む?」

「……うん、ありがとう」

 お願いすると、彼女はキッチンへと足を運ぶ。やかんを手に取り、水を入れるとコンロに火をつけた。電気ポットではなく、やかんでお湯を沸かすようだ。そちらの方が代金が安く済むのだろうか。

「その……手の方は大丈夫?」

 キッチンでお湯を沸かす際、やかんを洗い場に置いてから水を出していた。包帯を巻いた手に衝撃を与えると激痛が走るために庇っているのだろう。

「ナイフで刺されたからね。歩くたびに痛みが走るよ。ここまでの痛みはかなり久しぶりかも」

「本当にごめん……」

「いいよ別に。さっきも言ったとおり、私も新田くんの心を同じように傷つけてしまったと思うから」

「それだけじゃないんだ。体の傷と同じくらい滝森さんの心にも傷を与えている。きっと僕と同じくらい滝森さんも傷ついていたと思う」

「……そうだったかもしれないね。でも、それも大丈夫だよ」

 彼女はガスの火を見つめながら、おっとりとした口調で話す。それは本心なのだろうか、それともはらわたの煮え返る感情を押して偽っているのか、僕にはわからない。

 やがて湯が沸くと二つのコップに紅茶のティーバックを入れ、湯を入れる。

「お砂糖入れる?」

「お願いしていい?」

「了解」

 短いやり取りの後、彼女は両方のコップに砂糖を入れた。紅茶のエキスを浸透させるとティーバックをとり、コップの取っ手を持つ。リビングへと渡り、テーブルに紅茶を乗せる。

「熱いからゆっくり冷まして飲んでね」

「ありがとう……」

 僕は前に置かれたコップの取っ手を取る。滝森さんは僕のとりやすいようにあらかじめ右側に取っ手が来る様に置いてくれていた。こんな小さなことでも気遣いのできる彼女を改めてすごいと思う。

 彼女に言われたとおり、息を吹きかけ、少し冷ました後にゆっくりと口につけた。少量の紅茶が口に入る。喉に通すと体全体に暖かさが行き渡っていった。雨で冷えきった僕の体は生き返る様に暖まっていった。

 滝森さんは僕がゆっくりと飲んでいる間にヒカルへと水と餌をやる。僕の横にずっとひっついていたヒカルはエサの音で唆され、エサのある方へと歩いていった。餌は僕とは違い、しっかりとしたキャットフードを与えている。ただでさえ、金欠であるはずなのに、ちゃんとした餌をヒカルには与えていた。

「ヒカルちゃん、この餌をすごく気に入ってくれているんだ。喜ばしそうに食べるから何だかこっちまで嬉しくなっちゃった」

「そうなんだ。ありがとう、ヒカルのためにそこまでしてくれて」

「新田くんが必死に育ててくれた猫だからね。私も粗末にはできないよ」

 本当に僕は彼女になんてことを思ってしまったのだろう。ここまでヒカルを愛してくれた彼女をどうして疑ってしまったのだろうか。何だか自分が惨めになっていく。

 滝森さんは餌を食べるヒカルの頭を二、三回撫でると僕の方を向いた。

「じゃあ、本題に移ろうか」

 先ほどまで穏やかだった滝森さんの表情が引き締まる。唾を飲み込むと僕も彼女の話を真剣に聞くために正座に切り替えた。

「私はこの一週間、なんで新田くんが私に対してあんなことをしたのかずっと不思議に思っていた。でも、『あるもの』を見て、私は私と新田くんとの間ですれ違いが起きていることに気がついた」

 そう言うと、滝森さんは自分の机へと歩いていき、バッグから『あるもの』を取り出す。

「タブレット……」

 滝森さんの手に持ったものを小さくつぶやく。あるものとは前に僕が滝森さんに貸したタブレットだった。

「先週の休日、私は新田くんから借りたタブレットを使って講義を受けようと思った。とは言っても、その日にはすでに新田くんの信用スコアが600未満になってしまっていたので、受けることはできなかったのだけど」

 照れ臭く笑う彼女。どうして滝森さんは僕の信用スコアが600未満であることを知っているのか。言い方からしたら、講義を受ける際に知ったと言うことではなさそうだ。

「きっともう使うことはないだろう。そう思った私は講義の際に入手したファイルを削除しようとファイルのアプリを開いたの。そしたら、あるものが目に止まった」

 タブレットを操作し、画面を僕へと見せる。

『読者の皆様へ……』から始まるファイル。僕がこの世界への置き土産として作った長い長い物語だ。

「新田くんが記載したファイルは私の持つこのタブレットと同期状態にあった。そのため、新田くんが書いていた内容を私は全て見ることができたの。そこで私は新田くんと私の間ですれ違いが起こっていることがわかった。今からそれを説明していこうと思う」

 滝森さんはタブレットを持って僕に隣り合う形でテーブルに座った。タブレットを僕にも見える形で置く。彼女は気持ちを整えるようにコップを手に取り、ゆっくりと紅茶を啜った。コップを静かに置き、置かれたタブレットを指でスクロールしていく。

「まずはどうしてヒカルちゃんが私の家に飼われることになったのかについて説明していこうと思う」

 画面の止まった場所は『10月28日』。ハロウィンイベントの当日だ。

「この日、私はハロウィンパーティの準備に遅刻することになった。理由は加藤くん達が『ヒカルちゃんを河川敷から別の場所に移そうとしているところを発見したから』なの。新田くんの家に行こうと河川敷の上に敷かれた橋を渡っている時、何気なく河川敷を見たら、加藤くん達の姿を目にした。彼らは大きな布に包まれたカゴを手に持っていた。私は怪しいと思い、彼らの行き先を追っかけることにしたの。そしたら、彼らは街外れまでヒカルちゃんを連れていって、人気のないところでカゴから離したの。私はその後ヒカルちゃんを保護して、自分の家で飼う事にした。元のところに戻さなかったのは、きっと加藤くん達は新田くんの反応を見るためにもう一度あの場所へと訪れると思ったから。その際に何事もなくヒカルちゃんがあの場所にいた場合、また同じことを繰り返すかもしれない。しかも警戒して今回のよりももっと複雑な方法をとってくると思った。そうなると、今度こそヒカルちゃんの行方がわからなくなってしまう。ならば、私の家で飼った方がヒカルちゃんの安全が保証されると思ったから」

「どうして、加藤はヒカルが河川敷にいるのを知っていたのかな?」

「それはおそらくこの日が怪しいんじゃないかと踏んでいる」

 滝森さんは再びタブレットをスライドする。日付は『10月20日』。僕の家で二人で勉強会をした日だ。

「この日、新田くんは私にヒカルちゃんを見せてくれたでしょ。その際に私は河川敷の隣にある道路から加藤くん達が私たちを見ているのが視界に入ったの。私が存在に気づいたことですぐにいなくなってしまったけれど」

 僕がブランケットを段ボールに敷いていた際、彼女がヒカルから目を離して遠くを見ていた。それは加藤たちのことを見ていたのか。

「これはあくまで推察になるけど、加藤くんたちは大型スーパーで買い物をしている私たちを目にして、後をつけてきたんじゃないかなと思う。河川敷でばったり発見するよりはそっちの方が理にかなっているから。あそこの大型スーパーで他の生徒を見ることが多々あったから。みんな愛用しているんだと思う」

「そうだったんだ。どうして、そのことを僕に教えて……あっ」

 僕はハッと思い出した。ハロウィンで何が起こったのか。それを考えれば分かることだ。滝森さんは僕が察したことに対して、肯定するように頷く。

「本当はハロウィンが終わった頃に新田くんに相談しようと思っていた。ただ、あの日に恵の言葉でショックを受けた私は新田くんに話す気力も機会も失ってしまった。とはいえ、機会を失ったのはその日のみで、後日話せばいいと考える事にした。最悪、新田くんが気づき、私に相談するだろうとも思った。だから私ができることとして、ヒカルちゃんが住みやすいように生活のインフラを整えることにしたの。やることは大きく分けて二つだった。一つは、アパートでのペットの飼育は原則禁止のため、特別に許可をもらう必要があること。もう一つは家でのヒカルちゃんの住処を作ること」

 滝森さんは「住んでるアパートはペットの飼育は原則禁止」だと言っていた。ハロウィンの日、チラッと見えた彼女の信用スコアが下がっていたのは『原則禁止』というルールを破ってしまったからなのか。

「特別許可をもらう条件として、このアパートに住む全ての住人に承諾書を得る必要があった。私は全部屋を訪れ、飼育を許可してもらう事について頼み込んだ。幸い、ここにいる人たちはみんな優しいから漏れなく承諾を得ることができた。これで一つ目は達成した。次に私はヒカルちゃんの住処を作る事にした。ただ、作ることはせず、河川敷にある段ボールとブランケットを使う事にしようと思った。ヒカルちゃんとしては長年愛用しているものの方が居心地がいいかもしれないと考えたの。でも、河川敷にある段ボールとブランケットを取ろうとした矢先、トラブルが起きた」

「加藤たちとばったり会ったんだね」

「うん。会ったと言うよりは見つかったが正しいかな。彼らはヒカルちゃんがいなくなって戸惑う新田くんの様子を一眼見ようと隠れていたみたいだった。そこで段ボールとブランケットを手に取る私を見て、気になったのか声をかけてきたの」

 僕が河川敷で見た光景は滝森さんと加藤たちが一体となっていたのではなく、対となるような構図だったわけか。河川敷から段ボールもブランケットも無くなっていた理由はわかった。

「声をかけてきた加藤くんたちは、そこで……」

 先ほどまでスラスラと言葉を述べていた滝森さんの口が止まる。この後に続く言葉は彼女にとっては耐え難い言葉なのかもしれない。

 僕は隣に座る彼女の傷ついた手にそっと優しく自分の手を乗せた。滝森さんは目を瞬かせ、僕を見る。

「続けて」

 表情を変える事なく、依然として真剣な様子で僕は彼女へと言った。もう取り返しの効かないところまで来てしまったのだ。今さら何が来たって動じやしない。

 滝森さんは僕の表情が移ったかのように呆けた表情を切り替えると再び口を開いた。

「この話をする前に、まず前提から話していきたいと思う」

 大きく息を吸い、肩を上げる。息を止め、ゆっくり口から吐く。呼吸を整え、脳を整理させる時間を作ったようだ。一呼吸終え、再び話し始める。

「私はね、新田くんが加藤くんたちにいじめられていることを前から知っていたの」

 僕は滝森さんの言葉を聞いて、心臓が疼くのを感じた。色々な感情が頭を巡る。ただ、一番感じたのは『納得感』だった。

「知っていたと言うよりかは気づいていたと言うのが正しいかもしれない。新田くんに言ったとおり、私も過去にいじめの被害者側の経験をしたことがあったから、その類のものには敏感になっているんだと思う。それに気づいた私はなんとかして新田くんを助けようと思った。ただ、経験した身であるからこそ、助けるのは難しいことを知っていた。下手な動きを見せれば、新田くんへのいじめはエスカレートする。だから私は新田くんを間接的に励ましながらも助ける方法を思案していた。そんな中、この地域で試験的に『信用スコア政策』が行われることとなった。私はこれを使って、何かしてあげられないかと考えた。最終的には何かしてくれたのは新田くんだったんだけどね」

 滝森さんは照れ臭そうな笑みを浮かべる。

「でも、これといった方法は思い浮かばなかった。そんな時、いつも行っている大型スーパーでたまたま新田くんの姿を目にした。そして、君が社会クラス6の待遇を受けていることがわかった。私はこれを好機だと思った。元々、私の中で考えていたアイディアを実行できるかもしれないと考えたの。それが私たちのグループに新田くんを入れること」

 そこであの日の『アミューズメントパーク』の出来事が起こったわけか。

「グループに入れるためには新田くんが私たちにとってメリットとなる存在にしなければいけないと思った。感情的な面では、礒貝くんや菊池くん、それからあの時は恵も新田くんのことを好いていない感じだったから難しいと思った。社会クラス6というメリットはきっとグループに入るための武器になる。新田くんを引き入れるタイミングは人数割引が必要だったアミューズメントパークで欠員が出たので、そこにしようと急遽決めた。無事、恵たちもよく思ってくれたので、これで一安心だと勝手に安堵していた。でも、まさか河川敷で私と新田くんがヒカルちゃんと戯れている様子を彼らに見られるとは思ってもいなかった。あの日、彼らを見た時にほんの少し嫌な予感はしていた。新田くんには内緒にしていたのだけど、私も個人的にヒカルちゃんのところに行っていたりしたの」

「そうだったんだ。そういえば、たまに僕の用意した餌に対してあまり興味を示さなかったタイミングがあったかも。あれは嫌いというわけじゃなくて、お腹がいっぱいだったりしたのかな」

「そうかもしれない。何もせず、ただ見守るのも変かなと思って、私も餌やってたりしたから。ごめんね」

「うんうん。ヒカルが喜んでくれていたのなら構わないよ」

「それで、ハロウィンの日。私の抱えていた嫌な予感は現実のものとなった。幸い、私がちょうど河川敷を通った際に起きた出来事だったので、なんとかヒカルちゃんを保護することができた。そして、ヒカルちゃんの寝床の段ボールやブランケットを回収している姿が彼らに見つかった時、私はせっかくの機会だと思って彼らに尋ねたの。どうして新田くんに対して酷いことをするのかどうか。そしたら、彼らはこう言った」

 滝森さんは一度口を閉じ、大きく呼吸をする。瞳は閉じられ、自分を落ち着けているような様子だった。その動作だけで彼女が何を言おうとしているのかはだいたい予想がついた気がした。

「『私が新田くんと仲良く話していることが気に入らなかった』のだと加藤くんは言ったの」

 ありえない話ではない。加藤は滝森さんのことを告白するくらい好きだった。クラスの華である彼女が影の存在である僕と仲良く話している姿は加藤にとっては許せなかったのだろう。どうしてあそこにいるのが自分よりも弱い立場の人間なのか、内心はそう思っていたに違いない。

「私のしていた行動は全部裏目に出ていた。私が新田くんに干渉すればするほど、加藤くんたちは新田くんを強く恨んでしまう。そう思った私は新田くんから距離を取ろうと思った」

「そうだったんだ。じゃあ、鬼頭と教室にいる時に僕のことを悪く言ったのは……」

「うん。距離を取るために恵に対して、新田くんの嫌味を言った。あの時はまだ、心の整理がついてなかったから心外にも酷いことを言ってしまったと思う。自分でもなんであんなことを言っていたのかよくわからなかった。だから、言いながら自分の心も傷ついていくことが分かった。本当にごめんなさい」

 滝森さんは僕から一歩後ろに下がると両手を床につき、静かに頭を下げた。地面につくほど深々と下げると、しばらく状態を保った。突然の出来事に僕は唖然とする。きっと本当のことなのだろう。安堵と憎悪の感情が心の中で乱れ合う。僕は滝森さんになんて声をかけたら良いのだろう。

「今のは本当のことよ」

 すると後ろからガラガラと音が鳴った。誰かがベランダにつながる窓を開けたようだ。僕は反射的に後ろを振り向く。

「鬼頭っ!」

「久しぶりね。随分と疲れ果てた顔してるじゃない」

 鬼頭は怪訝な表情を浮かべながら僕を見る。親しい仲である滝森さんにこんなことをさせた僕にひどくイラついている様子だ。

「どうしてここに?」

「あんたと静が会う前に私は静と家にいたの。それであんたから電話がかかってきてた時に静がここであんたと話すって言ったから私はベランダで盗み聞きしていたの。それに私がいればもし、あんたたち二人に何かあった時にすぐに警察に連絡できるからね。まあ……」

 鬼頭は視線を滝森さんの方へと向ける。彼女の視線の先にはおそらく滝森さんの『包帯が巻かれた手』が見えているのだろう。

「私としては警察に連絡しても良い限りだけど」

「ダメだよ、恵。ここで警察に連絡したら、私と新田くんの受けた傷が公平じゃなくなる。今でも私の方が劣っているくらいだもの」

「でも、今でもしんどいでしょ! 早く病院に行ったほうが」

「大丈夫。こんな傷で弱音を吐いているようじゃ、この先やっていけないと思うから」

「静……。はあ、全くしょうがないな。ねえ、新田。静はね、本当にあんたのことを思っているのよ。静が新田の悪口を言っている時、あんたはすぐ逃げたから知らないでしょうけど、静は喋りながら号泣してたんだから。目の前で悪口言いながら、なんの唐突もなく号泣しているなんて初めての経験よ」

 僕はふと滝森さんの方を向いた。彼女は照れ臭そうに頬を染めながら、僕の視線を避けるように顔を後ろへ向けた。滅多に見せない彼女の挙動に少し気持ちが跳ねる。僕は少しずつ彼女のことを再び好きになっているのが分かった。

「僕の方こそごめん。滝森さんの気持ちを知らずに勝手に想像して、きみにとても酷いことをたくさんしてしまった」

「うんうん。私が招いた種だもん。受けて当然だよ。それに悪いことだけではなかったから」

 滝森さんは鬼頭の方へと視線を送った。今度は鬼頭が照れ臭そうに頬を描きながら視線を逸らす。

「恵と真に信頼できる仲になったのは、あの張り紙のおかげでもあったから」

「でも、あれは新田の功績じゃないから。あの張り紙のせいで静が他の生徒にどれくらい嫌味を言われているか知っているの!?」

「ご、ごめんなさい」

「大丈夫だよ。昔に比べれば、へっちゃら。だって、とっても大切な人が私を信用してくれているから」

 滝森さんは綺麗な瞳で鬼頭を覗いた。鬼頭は矢に撃ち抜かれたかのようにその場にバタンと座り込む。気を紛らわせるため、思いっきり滝森さんの体を抱きしめた。いきなりの鬼頭の行動に滝森さんは「きゃっ!」と声を漏らす。

「静〜。私も静のこと大切だと思ってるから。これからもずーっと大好きでいるからね」

 ぐずる様な泣き声で滝森さんへと話す鬼頭。滝森さんもまた優しく包み込む様に鬼頭の体を抱いた。

「恵……うん、私も」

「ありがとう。でも、だからこそ!」

 鬼頭は滝森さんから体を離すと素早く僕の方へと足を運ばせた。僕の後ろへ回ると、目の前に彼女の腕が現れる。腕は僕の首元に巻かれるとそのまま僕を後ろへと引っ張る。さらにタチの悪いことに彼女は両足を僕の体へとまくりつけ、身動きを取れなくした。

「新田、あんたは許さない! 何よ! 静のあの傷は! 本当になんてことをしてくれたの! あんたにも同じ痛みを味合わせてやる! ウリャー!」

 腕を引き上げ、首を締め付けられる。とはいえ、そこまで痛いものではなかった。意図的に弱くしているのか、鬼頭の実力なのかはわからない。なんせアミューズメントパークで運動音痴が発覚した彼女なのだ。これが実力と言われても納得する。

 しかし、問題なのは首を絞められたことで声を出すのが難しいことだ。必死に鬼頭を呼び止めようとするが、出るのは声にならない音のみ。これでは、鬼頭には到底伝わらない。

「ふっふっふ」

 どうしたものかと思いながら思案していると滝森さんの笑う声が耳に入る。僕たち二人のやりとりを楽しんでくれているみたいだ。すると、さらに首が絞まっていくのを感じる。比例するように先ほどまでとは嘘のように激痛が襲いくる。どうやら鬼頭は意図的に弱くしていたみたいだ。

「どうだ、悪者め! 悪事を働くやつは、この鬼頭 恵様が許さん!」

 滝森さんの笑い声で調子づいた鬼頭はヒーロー番組の主役のような口調で僕の耳元で囁く。僕は必死にギブアップを伝えようと試みるが、足で固められたことで腕は使えず、声がでないこの状況でどのように伝えれば良いことやら。

 試しに足を地面に叩くことで伝えられないか。そう思い、足をあげると誰かに捕まれ、振り下ろせない状態になった

「ごめんね、あんまりバタバタすると隣人に迷惑がかかってしまうから」

 どうやら滝森さんも参戦したらしい。足を固められ、完全に動けない状態になった。

「オッシャ! これでフィニッシュだ!」

 これ見よがしに鬼頭がさらに力を加える。僕は死を覚悟した。まさか最後は女子二人に固められて終わるとは、不運なのか幸運なのか。一つわかることはこれを幸運と思った僕は変態であると言うことだ。

 意識が途切れる寸前、不意に痛みが消える。薄まった視界は一気に開き、解放された僕はその場で咳き込んだ。

 なんとか死なずに済んだ。ゴホゴホと咳き込みながら最初に思ったことがそれだった。どうやら僕は死にたくないと思ったらしい。さっきまであれほど滝森さんを殺して、自分も死ぬと思っていた僕が今は全く違う考えになったみたいだ。

「これで私の怒りはチャラよ。今日はこれで見逃してあげるけど、次に静を悲しませたら、続きを叩き込んでやるから覚悟していなさい」

 鬼頭が強く釘を刺す。彼女のことだから冗談ではないだろう。

「わかってる……滝森さん……本当にごめん」

 だが、心配はない。きっと、もう滝森さんを悲しませたり、傷つけたりすることを僕はしない。一度痛い目を見た道は慎重に歩く。それが僕のポリシーだ。

「うんうん。私の方こそごめん。きっと、私たちはまだ『信用』が足りていなかったんだね。自分たちの行動にのみ目が行っちゃって、行動の目的まで目が届いていなかった。でもそれは、これからの私たちが一番大事にしていかなければならないことだと思うの。だって、行動の目的はAIによる数値の計算には反映できない」

 確かにAIは人の行動のみで善悪を決めており、行動における目的の善悪までは見ていない。だからこそ、『ヒカルの身を守るために家で保護した』という善意は省かれ、『原則ペット飼育禁止の家に猫を持ち込んだ』という悪行のみが切り取られ、計算されていた。それで僕は惑わされ、滝森さんは悪いことをしたのだと勘違いしてしまった。

「行動の目的は、その人の人柄や性格を熟知していなければ、推測も理解もできない。だからこそこれからは『お互いのことをよく知っていかなければいけない』のだと思う。きっとそれが『信用』に一番必要な要素なんじゃないかな。『信用』ってその人の理想像ではなく現実の姿に当てはめて考えなければいけないことだから。その人が持つ深い思考や意志は決して数値のみでは測ることはできない。親密な関係である人間にしか理解できないことだと思う。だからこれからは互いのことを深く深く知っていこう」

 滝森さんは僕に手を差し伸べる。純白の綺麗で鮮やかな肌。僕はそれを手に取った。雨で冷えたからか手は冷たかった。でも、滝森さんの意志がしっかり伝わり、心は暖かくなる。先ほどまで僕を覆っていた暗い邪悪なオーラは綺麗さっぱり浄化されていった。

 まだ出会って一年も経っていないのだ。そんな短い期間で勝手に彼女の理想像を作り上げて、彼女の現実の行動にのみ目を向けて、理想とかけ離れたことで彼女に憎しみを浮かべた僕は本当になんて愚かな人間だったのだろうか。

「ごめん。まだ僕はきっと滝森さんのことを何も分かっていないんだと思う。だからこれからはもっと滝森さんのことを知っていきたい」

「うん。私も同じ気持ち」

 こうして僕たちは和解し合うことができた。可憐で優しい滝森さんはいつまで経っても僕の理想像通りだった。けれど、僕は彼女の全てをまだ知らない。付き合っていけば、僕の知らない滝森さんの一面が見られるだろう。でも、それは決して悪いものでないと今は強く感じる。きっと、これから付き合い続けても僕の中の彼女の理想像は崩れることなく、彼女の現実の姿がそのまま理想像に近づいていくだけだろう。

「なんか気に入らないわね。私を除け者して、二人の世界に入っちゃって」

 握手をする手の横で鬼頭が訝しげな表情を浮かべる。

「そんな二人にはお仕置きだ!」

 鬼頭は僕たちの手を立つように両手を組み、手を挙げると勢いよく振り下ろした。僕と滝森さんの手に振動が加わり、反射的に手が離れる。特に手を握った時に一番上に来ていた僕の親指はかなりの痛手を負った。思わず、自分の手に息を吹きかけるほどだった。

「新田の前に私と深く深く付き合っていこう! 今日も静の家に泊まるね」

「良いけど。寝床は大丈夫?」

「昨日みたいに一緒にベッドで寝ればいいじゃん。昨日みたいにさ」

 鬼頭は重要なことだと強い口調で言う。視線は完全に僕に定まっていた。口角を上げ、憎たらしい笑みを浮かべる。

「良いけど、その代わり私は壁側で良い?」

 滝森さんは有無を言わせない尖った口調で鬼頭へと提案する。昨日寝ている時に何かあったのは確かみたいだ。おそらく鬼頭の寝相が悪かったのだろう。

「オーケー。昨日とは逆だね」

 鬼頭は自分に原因があるとは気づいていないのか何食わぬ顔で了承した。世の中、知らない方が幸せなこともあるから決して彼女には言わないであげておこう。滝森さんの口からは言っていないため僕の勘違いという可能性だってある。それでは今回の二の舞だ。

「新田はさっさと帰って頭冷やしなさいよ」

「流石に入れないよ。じゃあ、ヒカル、またね」

 僕は段ボールで寛いでいたヒカルの頭を撫でた。ヒカルは気持ちよさそうにゴロゴロと音を鳴らしている。また彼女に逢えて良かったと心の底から思えた。

 きっともう少し暗い日々が続く。まだ全てが片付いたわけではないのだ。それでも、きっと明るい未来が待っている。そう強く信じ、僕は滝森さんの家を後にした。