僕は滝森さんよりも先に河川敷に辿り着いた。

 雨は歩いている途中で本降りになり、髪も服もすっかり濡れてしまった。やはり上着を着ておけばよかったと後悔する。

 しかし、嫌なことだけではない。雨が降ったことで河川敷には人気が全くなかった。これならば誰にも見られず、役目を果たすことができる。

 僕は彼女が来るのを待った。橋に落ちる雨の音が響き渡る。川は雨量が募り、やや荒れていた。その様子をぼーっと見ながら過ごす。

「新田くん!」

 ようやく辿り着いたみたいだ。雨により轟音が鳴り響いていたが、思いのほか彼女の声はよく聞こえた。僕の名前を読んだことでカクテルパーティ効果が働いたのだろうか。

「久しぶり……滝森さん……」

 滝森さんは傘をさしながら僕へと歩み寄る。スポーツウェアを着ており、髪はポニーテール状に結ばれている。彼女は心配そうな表情で僕を見る。だが、内心はみっともない僕の容姿を卑下していることだろう。ほんと虫唾が走る芸当だ。

「来てくれて、ありがとう。まさかあんなにも早く返信をくれるとは思ってなかったよ。それにこんな雨の中、わざわざ僕のために足を運んでくれてありがとう」

「当たり前だよ。だって、友達なんだから」

「友達……」

 僕は彼女の言葉に腹の底が煮えたぎるのを感じた。ここまでのことをしておいて、まだ僕を友達と見ているのか。それもそうか、彼女にとっては僕はおもちゃみたいなものなのだ。僕がどれだけ恨みを持っていようと彼女は僕を愛し続ける。おもちゃとはそういうものだ。

 本当に気に入らない。

「人の大事なものを奪っておいて、友達なんてよく言えるね!!」

 息をため、煮えたぎった怒りを発散させるように滝森さんへと怒号を漏らした。

「大事なもの?」

「知らないとは言わせないぞ。ここにいたはずのヒカリを殺したのはお前だろ!! 加藤たちと手を組んで僕の大事な、唯一の友達のヒカリを……殺したんだ……」

「違うよ。私はヒカリちゃんを……」

「嘘をつけ!! 僕は見ていたんだ。お前が加藤と一緒にヒカリの住んでいた段ボールと毛布を取ったのを。元々、お前と加藤はグルだったんだな!! それで僕をうまく操って、僕から大事な情報を入手して、そして奪った!!」

「違うよ。私はただ……」

「何が違うって言うんだ。僕は聞いたんだ。お前が鬼頭と話している時に僕の陰口を言ったのを!! 最初から僕を貶めるつもりで話しかけてきたんだな」

 滝森さんは口を噤み、否定することはなかった。先ほどまで散々否定していたのに、これを否定しないとは。やはり、彼女は僕を卑下していたようだ。

「やっぱりそうだったんだね。このゲス女め。君は最低の人間だよ」

 彼女は何も言わない。傘を落とし、拳を握って俯くだけだった。

 もうこれで終わりにしよう。僕はポケットに手を入れるとキッチンから取り出した『ナイフ』の柄を握った。

 こんなゲス女をこの世に生かしてはおけない。僕の手で仕留める必要がある。

「加藤と手を組み、僕が社会クラス6であることを利用するために接触した。貧相というのも設定かな」

 僕は今までの経路を辿りながら、彼女へと近づいていく。

「それで僕からヒカルという大事にしている存在を聞き出し、加藤と一緒にヒカリを始末することにした。きっと加藤たちは信用スコア政策のせいで僕に暴力が振るえないことに対して、苛立ちを覚えていたんだろうね。だからこそ、僕の大切なものを奪い、絶望させることで解消しようとした。本当に嫌なやつだ。あんなやつは暴力を受けて然るべき存在だ。君もね」

 僕は滝森さんの前までやってくる。彼女は未だに微動だにせず、ただただ俯いていた。僕の話を聞いているのかさえわからない。

「加藤たちは先週、ちゃんと痛い目に遭ってもらったよ。でも君はまだだ。そして、君は僕に対して一番下劣なことをした。君の罪は重い」

 だから僕と一緒に『死ぬこと』で、その罪を償ってもらう。

 僕は手に持ったナイフをポケットから抜くと勢いよく彼女の脇腹めがけて刃を突き刺した。一気に振り抜かなければ、怖気付いてしまうと分かっていた。だからこそ、思いっきり力を入れ、彼女へと振るった。

 手には確かに物体を貫いた感触がある。僕の手にはぬめっとした液体の感触が伝わる。

 だが、なんだかおかしい。僕は自分の手元へと目をやった。

 違和感に駆られたのは手の止まった場所だ。明らかに滝森さんよりも前の方で、僕の腕は止められていた。

 確認すると僕は思わず目を剥いた。

 確かにナイフは突き刺さっていた。だが、それは彼女の脇腹ではなく、彼女の手の平だった。刃は綺麗に彼女の手を貫き、手の甲から刃先が見えている。

「なんで……」

 僕はその光景に唖然とする。彼女は僕がナイフを出すことを分かっていたかのように手を前にかざした。僕の言葉尻から推察したのか。でも……

「なんで……僕の腕を掴まなかったんだ」

 ナイフを出すことが分かっていたなら、僕の手首を掴み、ナイフを取っ払うこともできたはずだ。護身術を習っている彼女なら可能な技であろう。

 なのになぜ、彼女はわざわざ自分が大きな傷を負うような手で僕を食い止めたのか。

「これで許してもらえるかな。新田くんの心の傷に少しでも近づけたかな……」

 彼女はさらに手の力を入れ、僕の手を握る。そんなことをすれば、傷口が広がり、余計な痛みを伴うはずなのに。

 僕は滝森さんの行動になんだか怖くなり、ナイフの柄を話した。

 後ろへ下がろうとすると足を滑らせ、尻餅をついた。地面は濡れていないにも関わらず、足を滑らせるとはなんて無様なのだろう。

 滝森さんはもう一方の手で刺されたナイフを抜き去る。

「あああああーー!!」

 激痛が走ったのか彼女の口から悲鳴が漏れる。突き刺さったナイフを抜けば、血は一気に流れる。それは彼女も分かっているはずなのに。さっきから不可解な彼女の行動には狂気すら感じられた。

 ナイフを抜くと彼女はそれを川に向けて投げ捨てる。ナイフは宙を舞うと川に音を立てて入っていった。

「……お前は何をやっているんだ!! 決定的な証拠品を川に流すなんて。あれがあれば、お前は僕を殺人未遂で裁くことができるんだぞ!!」

「知ってる……だからこそ、捨てたんだよ……新田くんを裁くわけにはいかないから……」

「さっきから、何を言って……」

 僕はそこでハッとする。なぜ、そんなに僕を守ろうとするのか。もしかして、僕は大きな過ちを犯しているのではないか。

 滝森さんはゆっくりと僕へと近づく。ランニングを終えたばかりのように息を切らし、手から流れる血を地面に垂らしながら、一歩一歩ゆっくり着実に前へと進んだ。

 僕は彼女の様子をただ見守ることしかできなかった。やがて、彼女は僕の目の前までやってくる。

「なんで……そんなに傷ついているのに……笑みを浮かべているんだ」

 下を向いている彼女は頬を緩め、穏やかな目で僕を見ていた。僕が犯した罪を全て洗い流してくれるような笑みに、僕はすっかりと虜になり、彼女を見つめてしまった。

「だって……新田くんは悪くないから。悪いには全部、君に誤解を生ませてしまった私だから」

 滝森さんは傷ついていない綺麗な白色の手を僕へと差し伸べる。

「少しだけ付き合ってもらってもいい? 新田くんに見せたいものがあるの」

 先ほどまで悪魔だった彼女が嘘のように消えていく。僕は彼女の姿に見惚れ、自然と彼女の差し伸べられた手を握っていた。

 彼女は僕の手を見ると、今できる精一杯の笑みを僕に見せてくれた。