お昼の昼食時間。僕は自分の席に座って、食事をとっていた。

 ヒカルにあげるための肉を先に弁当の蓋によけてから食事にありつく。

 もうヒカルはいない。頭ではわかっているが、心は納得していない。いまだにもしかすると帰ってきているかもという願望が僕を襲う。たとえ帰ったとしても、ヒカルの住処である段ボールも毛布も何もないのだが。

 教室はいつもと違い、閑散とした雰囲気に包まれていた。普段なら教室で食べる生徒が別の場所に行ったり、普段ならよく喋る生徒が内緒話をするように小さな声で話していた。

 僕はその様子を見ながらも、一人の女子生徒、滝森 静へと目をやる。生気を失ったように途方に暮れた表情をしている。いつもの可憐で優美な彼女はすっかりとそのイメージを消し去っていた。箸を持ち、弁当へと目を向けているが、先ほどから何一つ食べる動作を見せない。

 今日はずっとあんな調子だった。僕たちのクラスの授業を務める先生の多くは月日と出席番号を結びつけて指名する先生が多い。今日は滝森さんの出席番号と月日が結びつきやすい日だった。そのためよく当てられたのだが、いつもならハキハキ答える彼女が今日は「聞いていませんでした」の一点張りだった。それで再度質問され直しても今度は「わかりません」の一点張り。

 ただ、普段の滝森さんの様子を目の当たりにしている先生たちは、特に起こることはなく皆が皆、彼女を心配する声をあげていた。日頃の彼女の『偽りの信用』が露呈するような一日だっただろう。

 身体も精神も美しい人間など、そうそう現れるわけがないのだ。多くの場合、性格が多少なりとも汚れていても、身体の美しさと言うフィルターを通して見ることで美しいと錯覚してしまうだけなのであろう。滝森 静も例外ではない。

 そんな人間を今まで信用してしまっていた僕をとても情けなく思ってしまった。

 未だに一口もつける様子を見せない滝森さん。彼女に対し、目の前にいる鬼頭が彼女の肩を叩く。そこでハッとすると、滝森さんは弁当から鬼頭の方へと向く。

 何やら喋っている様子だが、聞き取りづらく内容はわからない。表情から察すると、鬼頭は彼女を気遣っている様子だった。滝森さんは鬼頭に対し、気を使わせてしまっていると思い、薄っすらと笑みをこぼす。だが、それがさらに鬼頭を心配させる種へとなっていた。

 滝森さん自身、それに気がついているのか気がついていないのかはわからない。おそらく後者だろう。今の彼女の意識はここにはない。だからこそ、僕は優越感に浸れるのだ。

「滝森さーん」

 様子を見ていると、ふと三人組の女子生徒が二人に話をかける。彼女たちの真ん中には羽田さんがおり、彼女が滝森さんの名前を呼んでいた。

 教室に沈黙が走る。それによって、彼女たちの会話は鮮明に僕の耳に響いた。

「今朝の黒板に貼られた紙の内容って本当なの?」

 羽田さんは直球の質問を彼女に投げかける。滝森さんは羽田さんの質問に対して、否定することもなく無言を貫いていた。

「何も言わないってことは肯定と捉えていいのかな? ははっ、これは傑作だね。まさかあの真面目で温厚で優しい滝森さんが、裏では貧相で淫乱でいじめられっ子だったなんて」

 羽田さんは自分が優位に立ったとでも言うように甲高い笑い声を飛ばす。後ろの二人もクスクスと笑みをこぼしていた。羽田さん含め彼女らは滝森さんに対して嫌悪感を覚えていた生徒たちなのだろう。嫌ってはいたが、聖人の滝森さんに対して為す術もなかった彼女たちだが、突如と振り込んだ滝森さんの悪評という強力な武器を手にして、すっかり天狗になっている様子だ。

「彩芽、落ち着きな」

「恵はこのこと知っていたの?」

「貧乏ってことは知ってたけど、それ以外は……」

 鬼頭は滝森さんの表情を見ながら、その後の言葉は口に出すことはなかった。

「まさか恵にも話してなかったんだ。それもそうか、こんなこと誰にも話せるわけないよね。でも、せめて親友の恵くらいには話してもよかったんじゃない? ああ、そうか。滝森さんは恵のこと信用してないんだ。恵も可哀想だね」

 羽田さんの言葉に鬼頭は何も言うことはなかった。ただ、鬼頭は滝森さんの様子を終始見ているだけ。

「ねえねえ、恵。あんたも滝森さんに色々と騙されてるんじゃない? 表ではいい子ぶっているけれど、裏ではどんなもんかわかったもんじゃないよ。元々いじめられっ子だったから、恵みたいなクラスの代表的存在と友達になって、自分を守ろうとしたんじゃないの? あんた利用されているみたいよ」

 羽田さんの口調はヒートアップする。彼女は加藤の件で滝森さんに恨みを抱いているはずだ。日頃の鬱憤を晴らす最大の機会を手に入れたならば、使わないわけはないだろう。

「そうだ! ねえ、恵。騙されてて腹立たなかった? ならさ、滝森さんいじめちゃおうよ」

『いじめる』と言う単語が出た際、滝森さんは明らかな動揺が見られた。どうやら、僕に話してくれたあの内容には嘘偽りはなかったようだ。

 鬼頭もまた、激しく動揺する彼女を目の当たりにして、目を大きくする。

「元々いじめられっ子だったんなら、その時の恐怖で色々と面白いものを見れそうだしね。今まで散々騙されてきた人達の鬱憤を私たちではらしちゃおうよ。こんな感じでさ!」

 そう言って、羽田さんは滝森さんの座る椅子の縁へと足を乗せると、その一点を足のうらで蹴りつける。脅しという形をとって、滝森さんの心の揺らぎを誘っている様子だ。

「どう! 滝森さん! 昔を思い出した!」

 羽田さんは狂ったような笑い声を浮かべながら、滝森さんの椅子を蹴る。その様子に他の生徒たちは食事するのを忘れ、完全に見入ってしまっていた。僕も例外ではない。

「それとも、昔はもっと酷い仕打ちを受けてたのかな! こんなふうにね!」

 羽田さんの足先は上へと向く。それは滝森さんの腕の部分に照準を合わせていた。彼女の物を蹴るだけでは飽き足らず、直に攻撃をしようと決意したようだ。これでは、本当にいじめに発展しかねない。だが、これでいいんだ。ヒカルを戒めた罰はしっかりと受けてもらう必要がある。

 僕はバレないように口を手で覆いながら薄っすら笑みをこぼした。僕と同じように羽田さんもまたあからさまな笑みをこぼす。

 そして、打撃の音が教室中に響き渡った。

 その後、椅子が転げ落ち、人が倒れる音が響き渡る。僕を含め、他の人たちは驚愕の眼差しを向けていた。倒れたのは、羽田さんの方だった。

 彼女は何が起こったか分からず、頬に手を当てていた。僕の位置からでは彼女の表情までは見えなかったが、彼女もまた自分に何が起きたか分からず戸惑いの表情を見せているのだろう。

「黙って聞いてりゃ、調子に乗りやがって」

 低音の声が微かに聞こえる。その声には明らかな怒りがこもっていた。

 その人物、鬼頭 恵は握りしめた拳を解くと軽蔑の眼差しを羽田さんへと向けた。

 羽田さんが滝森さんを蹴るより先に、鬼頭が羽田さんの頬に拳を一撃喰らわせたのだ。羽田さんは反動で倒れ、呆気に取られた様子で鬼頭の姿を凝視していた。

「恵……」

 滝森さんも何が起こったのか理解できなかったようだ。確実に自分は攻撃されるのだと現実を受け止めていたのだが、予想とは裏腹の事態に困惑している様子だ。

「何が一緒にいじめようだ。ふざけやがって! 親友をいじめることもいじめを看過することもできるわけねえだろうが、クソ野郎!」

 溢れ出る思いを抑えきれず、叫ぶように怒号をあげる鬼頭。彼女の言葉に滝森さんは思わず口を噤むと、手で口を覆った。

 鬼頭は羽田さん以外の生徒を強く睨みつける。彼女たちは萎縮すると後ろに一歩下がった。自分も羽田さんと同じことになるのを拒んだらしい。鬼頭は視線を羽田さんに向けると、今度は彼女の襟を掴み、体をあげる。

「おい! もう一回静を攻撃しようとしてみろ。そしたら、私がてめえの心みたいにその顔を醜くしてやるよ! ああ、もうすでに醜いか」

「ご、ごめんなさい……」

 羽田さんの恐怖に怯えた表情に鬼頭は鼻を鳴らすと襟から手を離す。羽田さんは脱力するように床に体を下ろすとしばらく放心状態になる。

「ねえ、静」

 怒号は鳴り止み、再び低い口調で滝森さんに呼びかける。滝森さんは声は出さず、ただ鬼頭の顔を見ていた。

「少しだけ二人きりになれない?」

 そう言って、滝森さんに手を差し出す。滝森さんは彼女の手を見ると、無言のまま彼女の手を取った。そして、二人して教室へと出ていく。

「すごかったな。あんな鬼頭初めてみた」

「怖すぎ、ワロタ」

 緊張感の高まっていた教室が緩和する。生徒たちは自分たちのみていた光景について友達と感想を言い合っていた。互いに気の抜けた柔らかい口調で話している。

 僕はいなくなった二人の様子が気になり、椅子から立ち上がると颯爽と走り出し、彼女たちの後についていくことにした。