昼食を終え、僕と滝森さんは勉強会を行うことになった。
科目は数学。範囲は高校一年から今までやってきた部分について。学校で扱っている問題集、及び滝森さんが自前で購入した参考書の問題を説明することになった。
学校で扱っている問題については僕の方でいくつか解いていたため、それを参考に説明を行う。そして、僕に教わったことを滝森さんが復習している間に考えている間に、彼女が持ってきた参考書の問題を解くことにした。
数学については、現在の時点で高校範囲は全てやり終えており、難関大学の過去問に手をつけ始めていた。それ故に、ある程度の問題についてはパッと見ただけで解く際の考え方は身についている。
高校数学はパターンが命だ。どれだけ、問題に触れ、考え方の幅を広げているかで解ける量が変わってくる。
「ようやく理解できた。はー、やっぱ新田くんはすごいね!」
参考書の問題を解いていると横にいた滝森さんが晴れやかな声を漏らす。僕と滝森さんはテーブルの一辺を各々が占めるように座っていた。教える際は互いが角っこに近寄り、見える形でお話をする。その際に、彼女から流れる甘い香りに意識を持ってかれそうになるのは、僕だけの秘密だ。
「お願いを聞いてもらってよかった。本当なら、毎日いて欲しいくらい」
僕は滝森さんの言葉に思わずドキッとする。先ほどの両親の在住状況を確認したことといい、好意を仄めかすような言い回しをされるとリアクションに困る。本人としては、ただ単に勉強を教えて欲しいだけだとはおもうが、期待せずにはいられない。
「普段はいつぐらいに勉強しているの?」
「うーんと、夜中だったり、朝方が多いかな。バイトや稽古、恵たちと遊んだりで日中は時間を使っちゃうから」
「確かにそれだと、僕が教えるのは難しいかもしれないね」
ビデオ通話でいけるかもしれないと思ったが、夜中や朝方となるとお互い変に気を遣ってしまうだろう。それよりかは、メッセージでやりとりをした方が良さそうだ。
「そうだっ!」
ふとアイデアが閃き、僕は思わず声を出した。滝森さんは突然の僕の声に眉を上げた。
「滝森さんはこれからの範囲に関してはまだ触れていない状態?」
「えーっと、そうだね。一度、自分で予習してみようと思ったけど、案外難しくて曖昧なままで終わっちゃってるかな。だから、今のうちに自分がやってきたところまでは完璧にしておこうと思って」
「そっか。ちょっと待っててね。もしかすると、役に立てるものがあるかもしれないから」
僕はテーブルから立ち上がってリビングを出た。滝森さんが不思議そうな表情をこちらに見せたが、僕は気にせず、廊下を歩いていった。
階段を上がり、自室に入るとベッドの枕横に置かれたタブレットを手に持った。先ほど歩いたルートを逆にたどりつつ、タブレットを操作する。再びリビングへ入ると、自分のいた席へと腰をかけた。
「滝森さんに一つ見せたいものがあるんだ。これ見て」
僕はタブレットの画面を滝森さんへと見せようとテーブルの端に体を移動させる。同じ様に滝森さんも自分の体を僕の方へと近づけた。
滝森さんに見やすい様にタブレットの画面を彼女側に向ける。
「都進のオンライン授業? これがどうかしたの?」
『都進』はオンライン塾の名前である。オンデマンド型の講義が主流であり、あらかじめ録画した講義を生徒用に配り、生徒たちはそれを見て勉強を行うのだ。
「都進もまた『信用スコア政策』の協力会社であるんだ。社会クラス6以上の高校生以下を対象に、本来ならば有料の講義を無料で見れる様にしてくれているんだ」
都進は『信用スコア政策』への協力として、社会クラスに応じて『有料講義の割引、ないし無料配布』を行っていた。都進の信用スコア政策の専用サイトにて、自分のマイナンバーを含む個人情報を入力し、アカウントを作成することでマイナンバーから得られる社会クラスに応じて動画を視聴することができる。社会クラス6では中学一年から高校三年で習う五科目についての基本講座を無料で受けることが可能となっている。ちなみに社会クラス7以上からは高校・大学の過去入試問題の講義を無料で受けられるようになっている。
「へー、すごい。あ、この講義聴きたいなー。これも聴きたい! 数学だけじゃなくて、他の科目のやつも聴いてみたいかも」
滝森さんは僕の持っているタブレットをスワイプしながら自分が聞きたい講義を探していた。非常に前のめりに僕が差し出したページを見てくれている。
「あ、ごめん! 勝手に触ちゃって」
不意に我に帰るとタブレットから指を外し、こちらを見た。好奇心に勝つことができず、無意識に触ってしまっていたみたいだ。
「全然に気にしていないよ」
「それで、このサイトを使って未習の範囲をやろうっていう感じかな? でも、一個あたりの講義が長くて、数が多そうだから今日中は難しそうだね」
「うん。だから、そのタブレットごと家に持っていってもらって、講義を受けてもらうっていう提案をしようと思ったんだ」
「えっ! でも、大丈夫かな。新田くんのアカウント借りて、講義受けるのってあまり良くない気がしていて……」
「そうかもしれないね。でも、営利的に利用しているわけではないからいいんじゃないかな。少し疾しい気持ちはあるけれど、都進だって多少なりとも疾しい気持ちで協力していると思う」
専用サイトに登録する際に、出身学校、志望校についての記載を求められた。
あくまで僕調べの話にはなるが、社会クラス6以上は偏差値70以上の学生がほとんどを占めているはずだ。これらの事項から、サイトに登録した生徒も自分たちの生徒だと豪語し、広告の宣伝などで『大学の合格人数』や『出身校が〇〇高校の生徒数』として扱われるのだろうと推測する。
利益に準ずる一企業であるが故に、こうした宣伝は避けては通れない。同業他社が蔓延る業界なのだから余計にだ。多少の疾しさは覚悟の故だろう。
ならば、こちらもある程度は疾しい行動をしても許されるのではないだろうか。
「でも、迷惑じゃないかな。社会クラス5の人間が勝手に無料の講義を見たりしちゃって。向こう側が損してしまうわけだし」
だが、滝森さんは躊躇っているようだ。彼女の正義が、優しさが故に悪行は許せないと思っているのだろう。ならば、もう少しだけ押してみよう。
「なら、社会クラス6という条件のもとでの前借りっていう名目なら? 滝森さん自身が社会クラス6になった際に『都進のサイト』にアカウント登録をする。そうすれば、都進側も文句は言わないだろうから。信用スコア『590点代』であれば信用度も高いだろうし」
条件が必ず達成されるかは定かではない。ただ、滝森さんのことだから制約があれば、信用スコア『600点代』を達成するに違いない。
滝森さんは僕の話を聴いて悩む素振りを見せる。先ほどまでの否定がなくなったのは好機と見ていいだろう。
「そうだね。前借りという体なら、やってもいい気がしてきた。少し悪い子だね、私。いや、私たちかな」
滝森さんはこちらに向けて悪戯じみた笑みを浮かべる。悪戯っぽく顔を横に向けて上目遣いで僕を見た。最近は普段は見せない表情・仕草を多くしてくれる。その度に僕は心が高揚する。
「でも、タブレットはどうしようか。アカウントだけもらって、私のスマホで見ることもできるから。わざわざ持っていく必要はないかなって。新田くんも使うでしょ?」
「うーん、スマホだったら板書の字とか見にくいんじゃない? 多少なりとも大画面で見た方が受けやすいと思う。滝森さんが迷惑になるのでなければ、僕は構わないけど」
僕は滝森さんへタブレットを差し出す。彼女は僕の言葉に首を横に振った。
「迷惑じゃないよ。むしろ有難いくらい。じゃあ、お言葉に甘えて貸してもらおうかな」
差し出したタブレットを受け取ると、両手で持って顔の横に添える。赤らんだ頬を隠すかのように照れ笑いを浮かべた。
「たくさん受けたい講義があるな。あ、これもいい!」
タブレットの画面を自分の方に向け、画面をスワイプする。無料で講義が受けられるのが大層嬉しいようで子供みたいに目を輝かせながら画面を眺めている。その様子を見て、僕も心底嬉しく思った。ちょっとしたアイデアだったが、気に入ってもらえて本当によかった。
「ねえ、新田くん」
滝森さんが不意に僕の名前を呼ぶ。顔は画面に向けたまま。しんみりとした優美な表情をしている。
「どうして、私にここまでしてくれるの?」
表情を保ったまま僕へと顔だけ向ける。穏やかな瞳には僕の姿が写っていた。逆に僕は彼女に見つめられた照れを隠すため顔を俯けた。
滝森さんに対して、なぜ自分はここまで尽くしているのか。
下心がないなんてことはもちろんない。好意を抱いてもらいたいと思ったのは確かだ。
ただそれよりも滝森さんは腐った学校生活における唯一の華だったからだ。いじめが始まり、不幸続きだった学校生活でただ一人優しく接してくれたのが彼女だった。だから、その存在を無くさないために僕にできる限りのことを尽くそうと思ったんだ。初めて滝森さんと遊びに行ったあの日、彼女の知らない一面が見れて、その思いはより一層強くなった。これらのことを踏まえて、言えることはただ一つ。
「僕にとって、滝森さんは大切で特別な存在だから」
俯いた顔をあげ、再び彼女と視線を合わせた後にゆっくりと口を動かした。滝森さんは僕が見上げるのを待っていたかのように視線を僕へと向けたままだった。
言い終わった後、滝森さんの瞳孔が大きくなっていくのがわかった。照った頬を見て、自分の言葉が恥ずかしくなり、視線を左下へと落としてしまった。
「ふっふっふ。そっか。こんな私でも、誰かの特別な存在になれていたんだね。ありがとう、そう思ってくれただけで嬉しい」
沈黙を破るように滝森さんは上品に笑う。僕は彼女の言葉に反応し、視線を元に戻した。
「『こんな』なんて。滝森さんは卑下な存在なんかじゃないよ」
「うんうん。私は卑下で、みんなから鬱陶しいと思われるような存在だったんだ。ほんの一年前まではね。少しだけ悲しい話になるけど、聞いてもらっていいかな?」
滝森さんはタブレットを机の上にそっと置くと、姿勢を立て直し、綺麗に正座する。これから彼女がする話をあぐらをかきながら聞いてはいけないと思い、彼女と同じく正座をする。
「まだクラスの誰にも話したことがないから、二人だけの秘密の話ね」
そう言うと、彼女は自分を落ち着けるように胸に手を当てて、深呼吸をした。その一連の動作だけで、これから聞かされる話が彼女にとって厳重な過去話であることが分かった。
滝森さんは、僕に視線を合わせることなく俯いた状態で、思い出すように話し始めた。
「私は小中学校、一つ前の高校とずっといじめられてきた。自分で言うのはおかしなことだけど、正義感が強い子だったの。悪事を見つけ次第、誰彼構わず注意したり、先生に報告したりしていた。正義は勝つ。戦隊やアニメのヒーローのような存在に自分はなるのだと心に強く誓っていた。でも、正義っていうのは、『誰かを守る存在である』とともに『誰かを傷つける存在』でもあったのだと今は思う」
腿についた手は自分のズボンを握っていた。昔の自分に対して怒りを見せているのか、それとも昔の自分が肯定されなかったのを悔いているのかは分からない。
「私の言動に一部の生徒はよく思っていなかったの。それもクラスでも人気の高い人たちはね。不満が募るに募った結果、彼女たちは私に対して、ひどい仕打ちを行うようになった。机の上に落書き、私物は無くなるのは当たり前。体育の授業の合間に制服を破かれたり、下着を取られたりした。トイレにいるときに上からホースで水をかけられたりもしたな。他にも色々なことをされた」
「助けてくれる人はいなかったの? 他の生徒とか、先生とか、親とか」
どの口が言っているのかと思ったが、言わずにはいられなかった。
「他の生徒は自分が狙われる可能性があるからと私を遠ざけた。学校の先生は、大事にしたくないし、たとえ注意したとしても彼女たちが黙って引き下がるわけでもない。両親は共働きで、毎日忙しくて、私が起きて寝る時には家にいない。あるのはテーブルに置かれたお札だけ。だから誰にも頼ることはできなかった。でも、希望は潰えなかった。小学校4年から中学3年までの6年間。その期間を過ぎれば、いじめはなくなる。高校からは新しい環境でやり直せばいい。だから私はそれまでの間、耐え続けることにした」
滝森さんは今の僕と同じ考え方をしていた。違うのは、小学の頃に長期的な思考をしていたこと、6年間という長い期間耐え続けていたこと。たった二つの違いだが、僕とは雲泥の差だ。加藤たちとの関係が6年間続くと考えると、耐え切ることなど到底不可能だ。彼女のように強い心を持ち合わせてはいない。
「何とか6年間耐え続けて、無事に高校生活を送ることができた。でも、私はまたいじめに遭った。強い心だけ持ち得ていて、あとは何も変わっていなかったんだ。自分の正義は間違っていない。悪いのは全部あいつらだって、6年経っても考え方を全く変えようとしていなかった」
耐久力のある太くて真っ直ぐな一本の芯。何者にも曲げられない信念を持つ存在。皆が憧れているものではあるが、曲げられないというのは言い方を変えれば柔軟さがないということにもなる。
「流石に高校でのいじめには応えたな。いじめの内容ではなくて、自分の持っていた信念にね。小中とひどい目に遭い、高校でもひどい目に遭ったから、自分が間違っているのかなって思ってしまった。そして、気づいてしまった。彼女らには仲間がいて、私には誰一人味方がいなかった。私が小さい時に憧れていた存在はいつも近くに仲間がいた。対して、敵には仲間なんて全くいなかった。私は、私が思っていた道と全く反対方向の道を進んでいたんだ。自分は悪人。そう思った途端、怖くて何もかもから逃げたくなって、失踪することを決意した」
僕は手に汗を握った。あまりにも悲惨すぎる事実だった。今まで大きな憧れの存在だった彼女が、少しだけ小さく見える。半年という長い間、彼女は自分一人で常闇を抱えながらも笑顔を絶やすことなく暮らしていたのか。
「でもね、こう言うのは語弊があるかもしれないけど、失踪して良かったと今は思ってる。失踪して三日の時が過ぎ、私は橋の上で自殺を決意した」
「自殺……」
「うん。三日間の逃避行の末、どこに逃げてもダメなのだと落胆した。唯一の道は他の世界に行くこと、それだけだと思った。睡眠も食もまともに摂れておらず、鬱状態になってしまった結果の思考だったのかな。そして、死ぬ間際、私は一人の警察官と出会った。それが前に言っていた私にとっての『人生の先生』」
UFOキャッチャーでSUNSUNをとった時に言っていた『先生』のことだろう。
「警察の方に見つかり、私は酷く怯えた。あの生活にまた戻るのかと思うと、背筋がゾッとした。ただ、私の様子を見た先生は、自分の家に私を匿ってくれた。もちろん無断でね」
「す、すごいね。上官に怒られとかしなかったのかな」
「多分、すごい怒られていたと思う。でも、私には全く悟らせなかったな。ふふっ」
悲しい表情を見せていた滝森さんだったが、先生と呼ばれる人物の話をする際は笑顔が灯った。彼女の様子からわかる通り、僕が滝森さんに抱いている感情を滝森さんはその人に抱いているのだろう。
「無断で私を自分の家に保護してくれた。ただ、私は正義感から無断で匿ってもらうのはいけないと思い、先生に告げた。本心は真逆だったのに、過去の自分を手放したくなくて声をあげてしまった。けれど、それを見事に先生に暴いたの。その時、先生なんて言ったと思う?」
「うーん、自分の心に正直になれとか?」
「それも言われたかな。ただ私の心に乗っている言葉は『世間が悪行だと思うことでも、本人が救われれば、それは正義だ。逆も同じ。世間が善行だと思っていても、本人が救われなければ、それは悪義だ』だって。その言葉に私は度肝を抜かれた。きっと私は私をいじめていた人に後者の事をやってしまっていたのだ」
「でも、世間が善行だと思っているのなら、それが正しいって事じゃないのかな? 滝森さんは正しい言動をした。それに対しての報いが『いじめ』なんてことはおかしいはずだよ」
「そう思いたい。でも、だからこその『いじめ』でもあった。私にとっての善行で本人たちが苦しめられるのであれば、あとは力勝負になっちゃうの。そして正義は勝ったもののところへと行く」
「だったら、どうすればいいの?」
僕は今聞いている話が何だか他人事だとは思えなかった。この話は、ちょっとだけ昔の僕にも関与している話な気がした。
「選択肢は三つあると思う。一つは『力技で相手をねじ伏せること』。いじめへと発展する原因の一つがこれにあたる。もう一つは『逃げること』。私が正義だと思ってくれる人たちの元へ逃げることで解決できる。結局のところ多勢に無勢では、こちらが正しくあっても悪いものとされてしまう。そして最後の一つは『相手の考えを受け入れること』。たとえ私が正義だと思っていても、相手のことを否定する材料にはなりえない。だからこそ、相手の意見をしっかりと聞いて理解するよう試みる。今の私はできる限り『相手の考えを受け入れよう』と思っている。だからと言って、他の二つの手段を捨てるわけではないけどね。もし、人道を外れてしまうような悪行に出会った場合に備えて、『力技でねじ伏せること』も必要だから」
そう言って、滝森さんは右ストレートを飛ばす。素早いパンチによって、スッと空を切る音が部屋に響いた。僕は彼女の動作に思わず圧倒されてしまう。警察官になるためではなく、このためにも滝森さんは日々の稽古で体を鍛えているようだ。
「それでも、極力は『相手の考えを受け入れること』に注力したいと思っている。色んな人の考え方があって、今の平和が成り立っている。私の知恵や精神だけでは到底分かりえない意見も出てくると思う。それら一つ一つを精査して、私なりの正義を構築していきたいんだ。先生みたいに誰かの救いとなれる特別な存在になれることを信じて」
しみじみとしていた滝森さんの表情は、話し終えるとスッキリしたかのように晴れやかになっていた。僕はキラキラと光る彼女の瞳に魅了される。
「滝森さんはすごいね。自分がなりたい理想を持っていて、そのために日々頑張っている。本当に強い人だなって思う。僕なんか将来のことなんて全く考えられてないから」
それに僕は絶対に、加藤たちのことを受け入れようなんて考えにはならない。自分の体と心に大きな傷を負わせて、それでも許せるほどの度量を僕は持ちえていない。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい」
滝森さんは照れ笑いを浮かべる。長時間の正座で足が痺れたのか体勢を立て直すとテーブルから距離を取り、足を前に出す。そのまま膝を曲げ、足を折りたたむことで体操座りへと切り替えた。
「でもね、私はまだ強くない。言葉では何とも言えるけど、受け入れるほどの精神力は持ち合わせていないの。その証拠に、恵や燈ちゃんにこのことを話せていない。彼女たちの前で強い自分でいようとするあまり、過去にいじめられていたことを知られるのが、怖くてたまらないの。親友のはずなのに……」
滝森さんは足を包んだ手を自分の方へと力強く押し込み、身を縮こませる。足と体の間の隙間に顎を埋める。その様子から今の彼女の言葉の重みが感じられた。
僕は腿部分のズボンを手で握りしめる。親友にも打ち明けられないほどのことを滝森さんは僕に話してくれたのだ。それを聞いて、何もしないでいることを恥ずかしいと思わないのか。
「こんな大事なことを僕に話してくれてありがとう。滝森さんがどうして僕にこんなにも優しいのか少しわかった気がする」
僕は俯けた顔を真っ直ぐにし、しっかりとした目で彼女の顔を覗いた。
「だからさ、僕にも手伝わせて欲しい。滝森さんが諏訪さんや鬼頭に自分の気持ちを伝えられるのを」
視線を滝森さんから崩すことなく、照れることも一切しない。ただただ真剣な眼差しで彼女へと申し出た。
僕の勝手な想像かもしれないけれど、彼女が僕だけに話してくれたのだ。もしかすると、彼女なりの手助けを求めているのかもしれない。優しさゆえに、人に頼りづらい性格が現れているのだろう。ならば、僕から歩み寄らない訳にはいかない。彼女への奉仕は何度もしてきた。
滝森さんは僕の視線に合わせるように自分の視線を僕へと向ける。
風が一切吹くことのない、空気が止まったような閑散とした空間。まるで僕と彼女のたった二人の時間だけが動いているような錯覚に陥らせる。
滝森さんは瞳を震わせる。唇を湿らすように口噤むとゆっくりと息を吸う。
「新田くんには頼ってばかりだね。ごめんだけど、もう少しだけ頼らせてもらっていい?」
滝森さんは膝に頬をくっつけながらこちらを見る。目尻にはほんの少し涙が溜まっていた。親友に言うことができない自分を恥じての涙か、僕の言葉を受けての嬉しみの涙か、どのタイミングで出たのかはわからなかった。
こうして僕と滝森さんは彼女の秘密を親友に打ち明けるための共同戦線を開くことになった。ドギマギした二人の空間だったが、最終的にはしんみりとした優しさで包まれる結果となった。
科目は数学。範囲は高校一年から今までやってきた部分について。学校で扱っている問題集、及び滝森さんが自前で購入した参考書の問題を説明することになった。
学校で扱っている問題については僕の方でいくつか解いていたため、それを参考に説明を行う。そして、僕に教わったことを滝森さんが復習している間に考えている間に、彼女が持ってきた参考書の問題を解くことにした。
数学については、現在の時点で高校範囲は全てやり終えており、難関大学の過去問に手をつけ始めていた。それ故に、ある程度の問題についてはパッと見ただけで解く際の考え方は身についている。
高校数学はパターンが命だ。どれだけ、問題に触れ、考え方の幅を広げているかで解ける量が変わってくる。
「ようやく理解できた。はー、やっぱ新田くんはすごいね!」
参考書の問題を解いていると横にいた滝森さんが晴れやかな声を漏らす。僕と滝森さんはテーブルの一辺を各々が占めるように座っていた。教える際は互いが角っこに近寄り、見える形でお話をする。その際に、彼女から流れる甘い香りに意識を持ってかれそうになるのは、僕だけの秘密だ。
「お願いを聞いてもらってよかった。本当なら、毎日いて欲しいくらい」
僕は滝森さんの言葉に思わずドキッとする。先ほどの両親の在住状況を確認したことといい、好意を仄めかすような言い回しをされるとリアクションに困る。本人としては、ただ単に勉強を教えて欲しいだけだとはおもうが、期待せずにはいられない。
「普段はいつぐらいに勉強しているの?」
「うーんと、夜中だったり、朝方が多いかな。バイトや稽古、恵たちと遊んだりで日中は時間を使っちゃうから」
「確かにそれだと、僕が教えるのは難しいかもしれないね」
ビデオ通話でいけるかもしれないと思ったが、夜中や朝方となるとお互い変に気を遣ってしまうだろう。それよりかは、メッセージでやりとりをした方が良さそうだ。
「そうだっ!」
ふとアイデアが閃き、僕は思わず声を出した。滝森さんは突然の僕の声に眉を上げた。
「滝森さんはこれからの範囲に関してはまだ触れていない状態?」
「えーっと、そうだね。一度、自分で予習してみようと思ったけど、案外難しくて曖昧なままで終わっちゃってるかな。だから、今のうちに自分がやってきたところまでは完璧にしておこうと思って」
「そっか。ちょっと待っててね。もしかすると、役に立てるものがあるかもしれないから」
僕はテーブルから立ち上がってリビングを出た。滝森さんが不思議そうな表情をこちらに見せたが、僕は気にせず、廊下を歩いていった。
階段を上がり、自室に入るとベッドの枕横に置かれたタブレットを手に持った。先ほど歩いたルートを逆にたどりつつ、タブレットを操作する。再びリビングへ入ると、自分のいた席へと腰をかけた。
「滝森さんに一つ見せたいものがあるんだ。これ見て」
僕はタブレットの画面を滝森さんへと見せようとテーブルの端に体を移動させる。同じ様に滝森さんも自分の体を僕の方へと近づけた。
滝森さんに見やすい様にタブレットの画面を彼女側に向ける。
「都進のオンライン授業? これがどうかしたの?」
『都進』はオンライン塾の名前である。オンデマンド型の講義が主流であり、あらかじめ録画した講義を生徒用に配り、生徒たちはそれを見て勉強を行うのだ。
「都進もまた『信用スコア政策』の協力会社であるんだ。社会クラス6以上の高校生以下を対象に、本来ならば有料の講義を無料で見れる様にしてくれているんだ」
都進は『信用スコア政策』への協力として、社会クラスに応じて『有料講義の割引、ないし無料配布』を行っていた。都進の信用スコア政策の専用サイトにて、自分のマイナンバーを含む個人情報を入力し、アカウントを作成することでマイナンバーから得られる社会クラスに応じて動画を視聴することができる。社会クラス6では中学一年から高校三年で習う五科目についての基本講座を無料で受けることが可能となっている。ちなみに社会クラス7以上からは高校・大学の過去入試問題の講義を無料で受けられるようになっている。
「へー、すごい。あ、この講義聴きたいなー。これも聴きたい! 数学だけじゃなくて、他の科目のやつも聴いてみたいかも」
滝森さんは僕の持っているタブレットをスワイプしながら自分が聞きたい講義を探していた。非常に前のめりに僕が差し出したページを見てくれている。
「あ、ごめん! 勝手に触ちゃって」
不意に我に帰るとタブレットから指を外し、こちらを見た。好奇心に勝つことができず、無意識に触ってしまっていたみたいだ。
「全然に気にしていないよ」
「それで、このサイトを使って未習の範囲をやろうっていう感じかな? でも、一個あたりの講義が長くて、数が多そうだから今日中は難しそうだね」
「うん。だから、そのタブレットごと家に持っていってもらって、講義を受けてもらうっていう提案をしようと思ったんだ」
「えっ! でも、大丈夫かな。新田くんのアカウント借りて、講義受けるのってあまり良くない気がしていて……」
「そうかもしれないね。でも、営利的に利用しているわけではないからいいんじゃないかな。少し疾しい気持ちはあるけれど、都進だって多少なりとも疾しい気持ちで協力していると思う」
専用サイトに登録する際に、出身学校、志望校についての記載を求められた。
あくまで僕調べの話にはなるが、社会クラス6以上は偏差値70以上の学生がほとんどを占めているはずだ。これらの事項から、サイトに登録した生徒も自分たちの生徒だと豪語し、広告の宣伝などで『大学の合格人数』や『出身校が〇〇高校の生徒数』として扱われるのだろうと推測する。
利益に準ずる一企業であるが故に、こうした宣伝は避けては通れない。同業他社が蔓延る業界なのだから余計にだ。多少の疾しさは覚悟の故だろう。
ならば、こちらもある程度は疾しい行動をしても許されるのではないだろうか。
「でも、迷惑じゃないかな。社会クラス5の人間が勝手に無料の講義を見たりしちゃって。向こう側が損してしまうわけだし」
だが、滝森さんは躊躇っているようだ。彼女の正義が、優しさが故に悪行は許せないと思っているのだろう。ならば、もう少しだけ押してみよう。
「なら、社会クラス6という条件のもとでの前借りっていう名目なら? 滝森さん自身が社会クラス6になった際に『都進のサイト』にアカウント登録をする。そうすれば、都進側も文句は言わないだろうから。信用スコア『590点代』であれば信用度も高いだろうし」
条件が必ず達成されるかは定かではない。ただ、滝森さんのことだから制約があれば、信用スコア『600点代』を達成するに違いない。
滝森さんは僕の話を聴いて悩む素振りを見せる。先ほどまでの否定がなくなったのは好機と見ていいだろう。
「そうだね。前借りという体なら、やってもいい気がしてきた。少し悪い子だね、私。いや、私たちかな」
滝森さんはこちらに向けて悪戯じみた笑みを浮かべる。悪戯っぽく顔を横に向けて上目遣いで僕を見た。最近は普段は見せない表情・仕草を多くしてくれる。その度に僕は心が高揚する。
「でも、タブレットはどうしようか。アカウントだけもらって、私のスマホで見ることもできるから。わざわざ持っていく必要はないかなって。新田くんも使うでしょ?」
「うーん、スマホだったら板書の字とか見にくいんじゃない? 多少なりとも大画面で見た方が受けやすいと思う。滝森さんが迷惑になるのでなければ、僕は構わないけど」
僕は滝森さんへタブレットを差し出す。彼女は僕の言葉に首を横に振った。
「迷惑じゃないよ。むしろ有難いくらい。じゃあ、お言葉に甘えて貸してもらおうかな」
差し出したタブレットを受け取ると、両手で持って顔の横に添える。赤らんだ頬を隠すかのように照れ笑いを浮かべた。
「たくさん受けたい講義があるな。あ、これもいい!」
タブレットの画面を自分の方に向け、画面をスワイプする。無料で講義が受けられるのが大層嬉しいようで子供みたいに目を輝かせながら画面を眺めている。その様子を見て、僕も心底嬉しく思った。ちょっとしたアイデアだったが、気に入ってもらえて本当によかった。
「ねえ、新田くん」
滝森さんが不意に僕の名前を呼ぶ。顔は画面に向けたまま。しんみりとした優美な表情をしている。
「どうして、私にここまでしてくれるの?」
表情を保ったまま僕へと顔だけ向ける。穏やかな瞳には僕の姿が写っていた。逆に僕は彼女に見つめられた照れを隠すため顔を俯けた。
滝森さんに対して、なぜ自分はここまで尽くしているのか。
下心がないなんてことはもちろんない。好意を抱いてもらいたいと思ったのは確かだ。
ただそれよりも滝森さんは腐った学校生活における唯一の華だったからだ。いじめが始まり、不幸続きだった学校生活でただ一人優しく接してくれたのが彼女だった。だから、その存在を無くさないために僕にできる限りのことを尽くそうと思ったんだ。初めて滝森さんと遊びに行ったあの日、彼女の知らない一面が見れて、その思いはより一層強くなった。これらのことを踏まえて、言えることはただ一つ。
「僕にとって、滝森さんは大切で特別な存在だから」
俯いた顔をあげ、再び彼女と視線を合わせた後にゆっくりと口を動かした。滝森さんは僕が見上げるのを待っていたかのように視線を僕へと向けたままだった。
言い終わった後、滝森さんの瞳孔が大きくなっていくのがわかった。照った頬を見て、自分の言葉が恥ずかしくなり、視線を左下へと落としてしまった。
「ふっふっふ。そっか。こんな私でも、誰かの特別な存在になれていたんだね。ありがとう、そう思ってくれただけで嬉しい」
沈黙を破るように滝森さんは上品に笑う。僕は彼女の言葉に反応し、視線を元に戻した。
「『こんな』なんて。滝森さんは卑下な存在なんかじゃないよ」
「うんうん。私は卑下で、みんなから鬱陶しいと思われるような存在だったんだ。ほんの一年前まではね。少しだけ悲しい話になるけど、聞いてもらっていいかな?」
滝森さんはタブレットを机の上にそっと置くと、姿勢を立て直し、綺麗に正座する。これから彼女がする話をあぐらをかきながら聞いてはいけないと思い、彼女と同じく正座をする。
「まだクラスの誰にも話したことがないから、二人だけの秘密の話ね」
そう言うと、彼女は自分を落ち着けるように胸に手を当てて、深呼吸をした。その一連の動作だけで、これから聞かされる話が彼女にとって厳重な過去話であることが分かった。
滝森さんは、僕に視線を合わせることなく俯いた状態で、思い出すように話し始めた。
「私は小中学校、一つ前の高校とずっといじめられてきた。自分で言うのはおかしなことだけど、正義感が強い子だったの。悪事を見つけ次第、誰彼構わず注意したり、先生に報告したりしていた。正義は勝つ。戦隊やアニメのヒーローのような存在に自分はなるのだと心に強く誓っていた。でも、正義っていうのは、『誰かを守る存在である』とともに『誰かを傷つける存在』でもあったのだと今は思う」
腿についた手は自分のズボンを握っていた。昔の自分に対して怒りを見せているのか、それとも昔の自分が肯定されなかったのを悔いているのかは分からない。
「私の言動に一部の生徒はよく思っていなかったの。それもクラスでも人気の高い人たちはね。不満が募るに募った結果、彼女たちは私に対して、ひどい仕打ちを行うようになった。机の上に落書き、私物は無くなるのは当たり前。体育の授業の合間に制服を破かれたり、下着を取られたりした。トイレにいるときに上からホースで水をかけられたりもしたな。他にも色々なことをされた」
「助けてくれる人はいなかったの? 他の生徒とか、先生とか、親とか」
どの口が言っているのかと思ったが、言わずにはいられなかった。
「他の生徒は自分が狙われる可能性があるからと私を遠ざけた。学校の先生は、大事にしたくないし、たとえ注意したとしても彼女たちが黙って引き下がるわけでもない。両親は共働きで、毎日忙しくて、私が起きて寝る時には家にいない。あるのはテーブルに置かれたお札だけ。だから誰にも頼ることはできなかった。でも、希望は潰えなかった。小学校4年から中学3年までの6年間。その期間を過ぎれば、いじめはなくなる。高校からは新しい環境でやり直せばいい。だから私はそれまでの間、耐え続けることにした」
滝森さんは今の僕と同じ考え方をしていた。違うのは、小学の頃に長期的な思考をしていたこと、6年間という長い期間耐え続けていたこと。たった二つの違いだが、僕とは雲泥の差だ。加藤たちとの関係が6年間続くと考えると、耐え切ることなど到底不可能だ。彼女のように強い心を持ち合わせてはいない。
「何とか6年間耐え続けて、無事に高校生活を送ることができた。でも、私はまたいじめに遭った。強い心だけ持ち得ていて、あとは何も変わっていなかったんだ。自分の正義は間違っていない。悪いのは全部あいつらだって、6年経っても考え方を全く変えようとしていなかった」
耐久力のある太くて真っ直ぐな一本の芯。何者にも曲げられない信念を持つ存在。皆が憧れているものではあるが、曲げられないというのは言い方を変えれば柔軟さがないということにもなる。
「流石に高校でのいじめには応えたな。いじめの内容ではなくて、自分の持っていた信念にね。小中とひどい目に遭い、高校でもひどい目に遭ったから、自分が間違っているのかなって思ってしまった。そして、気づいてしまった。彼女らには仲間がいて、私には誰一人味方がいなかった。私が小さい時に憧れていた存在はいつも近くに仲間がいた。対して、敵には仲間なんて全くいなかった。私は、私が思っていた道と全く反対方向の道を進んでいたんだ。自分は悪人。そう思った途端、怖くて何もかもから逃げたくなって、失踪することを決意した」
僕は手に汗を握った。あまりにも悲惨すぎる事実だった。今まで大きな憧れの存在だった彼女が、少しだけ小さく見える。半年という長い間、彼女は自分一人で常闇を抱えながらも笑顔を絶やすことなく暮らしていたのか。
「でもね、こう言うのは語弊があるかもしれないけど、失踪して良かったと今は思ってる。失踪して三日の時が過ぎ、私は橋の上で自殺を決意した」
「自殺……」
「うん。三日間の逃避行の末、どこに逃げてもダメなのだと落胆した。唯一の道は他の世界に行くこと、それだけだと思った。睡眠も食もまともに摂れておらず、鬱状態になってしまった結果の思考だったのかな。そして、死ぬ間際、私は一人の警察官と出会った。それが前に言っていた私にとっての『人生の先生』」
UFOキャッチャーでSUNSUNをとった時に言っていた『先生』のことだろう。
「警察の方に見つかり、私は酷く怯えた。あの生活にまた戻るのかと思うと、背筋がゾッとした。ただ、私の様子を見た先生は、自分の家に私を匿ってくれた。もちろん無断でね」
「す、すごいね。上官に怒られとかしなかったのかな」
「多分、すごい怒られていたと思う。でも、私には全く悟らせなかったな。ふふっ」
悲しい表情を見せていた滝森さんだったが、先生と呼ばれる人物の話をする際は笑顔が灯った。彼女の様子からわかる通り、僕が滝森さんに抱いている感情を滝森さんはその人に抱いているのだろう。
「無断で私を自分の家に保護してくれた。ただ、私は正義感から無断で匿ってもらうのはいけないと思い、先生に告げた。本心は真逆だったのに、過去の自分を手放したくなくて声をあげてしまった。けれど、それを見事に先生に暴いたの。その時、先生なんて言ったと思う?」
「うーん、自分の心に正直になれとか?」
「それも言われたかな。ただ私の心に乗っている言葉は『世間が悪行だと思うことでも、本人が救われれば、それは正義だ。逆も同じ。世間が善行だと思っていても、本人が救われなければ、それは悪義だ』だって。その言葉に私は度肝を抜かれた。きっと私は私をいじめていた人に後者の事をやってしまっていたのだ」
「でも、世間が善行だと思っているのなら、それが正しいって事じゃないのかな? 滝森さんは正しい言動をした。それに対しての報いが『いじめ』なんてことはおかしいはずだよ」
「そう思いたい。でも、だからこその『いじめ』でもあった。私にとっての善行で本人たちが苦しめられるのであれば、あとは力勝負になっちゃうの。そして正義は勝ったもののところへと行く」
「だったら、どうすればいいの?」
僕は今聞いている話が何だか他人事だとは思えなかった。この話は、ちょっとだけ昔の僕にも関与している話な気がした。
「選択肢は三つあると思う。一つは『力技で相手をねじ伏せること』。いじめへと発展する原因の一つがこれにあたる。もう一つは『逃げること』。私が正義だと思ってくれる人たちの元へ逃げることで解決できる。結局のところ多勢に無勢では、こちらが正しくあっても悪いものとされてしまう。そして最後の一つは『相手の考えを受け入れること』。たとえ私が正義だと思っていても、相手のことを否定する材料にはなりえない。だからこそ、相手の意見をしっかりと聞いて理解するよう試みる。今の私はできる限り『相手の考えを受け入れよう』と思っている。だからと言って、他の二つの手段を捨てるわけではないけどね。もし、人道を外れてしまうような悪行に出会った場合に備えて、『力技でねじ伏せること』も必要だから」
そう言って、滝森さんは右ストレートを飛ばす。素早いパンチによって、スッと空を切る音が部屋に響いた。僕は彼女の動作に思わず圧倒されてしまう。警察官になるためではなく、このためにも滝森さんは日々の稽古で体を鍛えているようだ。
「それでも、極力は『相手の考えを受け入れること』に注力したいと思っている。色んな人の考え方があって、今の平和が成り立っている。私の知恵や精神だけでは到底分かりえない意見も出てくると思う。それら一つ一つを精査して、私なりの正義を構築していきたいんだ。先生みたいに誰かの救いとなれる特別な存在になれることを信じて」
しみじみとしていた滝森さんの表情は、話し終えるとスッキリしたかのように晴れやかになっていた。僕はキラキラと光る彼女の瞳に魅了される。
「滝森さんはすごいね。自分がなりたい理想を持っていて、そのために日々頑張っている。本当に強い人だなって思う。僕なんか将来のことなんて全く考えられてないから」
それに僕は絶対に、加藤たちのことを受け入れようなんて考えにはならない。自分の体と心に大きな傷を負わせて、それでも許せるほどの度量を僕は持ちえていない。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい」
滝森さんは照れ笑いを浮かべる。長時間の正座で足が痺れたのか体勢を立て直すとテーブルから距離を取り、足を前に出す。そのまま膝を曲げ、足を折りたたむことで体操座りへと切り替えた。
「でもね、私はまだ強くない。言葉では何とも言えるけど、受け入れるほどの精神力は持ち合わせていないの。その証拠に、恵や燈ちゃんにこのことを話せていない。彼女たちの前で強い自分でいようとするあまり、過去にいじめられていたことを知られるのが、怖くてたまらないの。親友のはずなのに……」
滝森さんは足を包んだ手を自分の方へと力強く押し込み、身を縮こませる。足と体の間の隙間に顎を埋める。その様子から今の彼女の言葉の重みが感じられた。
僕は腿部分のズボンを手で握りしめる。親友にも打ち明けられないほどのことを滝森さんは僕に話してくれたのだ。それを聞いて、何もしないでいることを恥ずかしいと思わないのか。
「こんな大事なことを僕に話してくれてありがとう。滝森さんがどうして僕にこんなにも優しいのか少しわかった気がする」
僕は俯けた顔を真っ直ぐにし、しっかりとした目で彼女の顔を覗いた。
「だからさ、僕にも手伝わせて欲しい。滝森さんが諏訪さんや鬼頭に自分の気持ちを伝えられるのを」
視線を滝森さんから崩すことなく、照れることも一切しない。ただただ真剣な眼差しで彼女へと申し出た。
僕の勝手な想像かもしれないけれど、彼女が僕だけに話してくれたのだ。もしかすると、彼女なりの手助けを求めているのかもしれない。優しさゆえに、人に頼りづらい性格が現れているのだろう。ならば、僕から歩み寄らない訳にはいかない。彼女への奉仕は何度もしてきた。
滝森さんは僕の視線に合わせるように自分の視線を僕へと向ける。
風が一切吹くことのない、空気が止まったような閑散とした空間。まるで僕と彼女のたった二人の時間だけが動いているような錯覚に陥らせる。
滝森さんは瞳を震わせる。唇を湿らすように口噤むとゆっくりと息を吸う。
「新田くんには頼ってばかりだね。ごめんだけど、もう少しだけ頼らせてもらっていい?」
滝森さんは膝に頬をくっつけながらこちらを見る。目尻にはほんの少し涙が溜まっていた。親友に言うことができない自分を恥じての涙か、僕の言葉を受けての嬉しみの涙か、どのタイミングで出たのかはわからなかった。
こうして僕と滝森さんは彼女の秘密を親友に打ち明けるための共同戦線を開くことになった。ドギマギした二人の空間だったが、最終的にはしんみりとした優しさで包まれる結果となった。



